2012年8月31日金曜日

今日も一日中自宅で机に向かって中国北京での講演の準備をしました。主催者からのメールにプログラムが添付されてきましたが、私の講演は9月17日の午前中に予定されています。この頃は1時間半くらいの講演が多いので、英語で25分(質疑応答の時間を5分残すと実質20分)というと、かなり焦点を絞って無駄のない話をしなければなりません。一応、写真10枚を含めたスライド24枚ができましたが、これから与えられた時間内に収まるように、それぞれのスライドを見せながら何をどこまで話すか詰めていく必要があります。

明日からは9月です。すでにいろいろな予定が入っているので、結局スケジュールをこなす生活に追われて、中国から20日に帰国して、22日にアメリカ行きの飛行機に乗って離陸するまではのんびりできそうもありません。

2012年8月30日木曜日

昨日は東京農大の研究室に埼玉県庁の農林部農産物安全課から3名の方が来られ、9月3日にさいたま市で予定されている平成24年度第1回「農産物安全技術専門委員会」の事前打ち合わせをしました。今年から私が委員長になりましたから、座長として時間内に議事が終了できるように進行をしなければなりません。

今日は本当は新潟県胎内市で調査をしてきた薬剤のろ紙からの抽出など、分析の準備をしたかったのですが、これからのスケジュールを考えると、9月15日~20日に中国北京で開催される国際会議の講演の準備を先にしておかないと厳しくなりますので、そちらを優先しました。まだまだですが、手を付け始めたことで少し安心です。

このところほとんど運動ができていなくて、昨夜は寝ていて足が2~3回強烈に攣(つ)りました。いつものように体が運動を要求している証拠ですから、昼の時間に江戸川堤防を6Km 歩いたり走ったりしてきました。今日もまだ猛暑でしたが、お蔭で体調がよくなり、気分もすっきりしました。

2012年8月28日火曜日

池袋駅から東武東上線の電車に乗って、埼玉県の東松山駅に午後1時過ぎに到着し、迎えに来てくれた車で嵐山(らんざん)カントリー倶楽部に行きました。東京農業大学総合研究所グリーン研究会主催の夏期研究会で、「松くい虫防除で散布された薬剤の飛散と健康影響の実態」という演題で講演してきました。私はこの研究会では2006年4月5日にも、「松くい虫防除の薬剤散布に関する問題から見えてきたこと」という演題で講演していますので、今回は6年ぶり2回目でした。
研究会が夕方5時半頃終わってからもまだ明るかったので、プレーヤーが引き揚げた後のゴルフ場を少し散歩してみました。地名のとおり昔はこの辺り一帯が松林だったらしく、1962年(50年前)に建設されたこのゴルフ場は、大きなアカマツをあちこちに配置してあり、まるで絵に描いたような美しい景観でした。
東松山駅前にある箭弓(やきゅう)神社内にある紫雲閣というホテル(結婚式場)での懇親会後、他の参加者はそのまま宿泊して明日ゴルフをして解散をするというプログラムでしたが、私は明日の用事が入っていることもあって、家に帰ってきました。



2012年8月27日月曜日

朝6時前に自宅を出て新幹線で名古屋に行き、名古屋大学で開催されたInternational Seminar on the development of insecticide resistance and its management in the diamondback moth(コナガにおける殺虫剤抵抗性の発達とその管理に関する国際セミナー)に出席してきました。7人のスピーカーのほとんどは旧知の研究者たちですから、久し振りに懐かしい時を過ごしました。
Dr. John T. Andaloro はアメリカのDuPont 社の所属ですが、IRAC(Insecticide Action Committee)という殺虫剤抵抗性に関する活動委員会委員としても活動していて、害虫による殺虫剤抵抗性発達を農薬メーカー間で協力していかに克服するかという深刻な問題についてなかなか面白い提案をしていました。
皆は名古屋市内のホテルに宿泊していましたが、私は明日の予定があるので交流会(懇親会)のあと帰宅し、自宅についたのは夜の12時近くでした。


2012年8月25日土曜日

2006年9月に買ったプリンターの複合機(キャノンPIXUS MP830)が故障して使えなくなりました。マニュアルに従って診断してみましたが、サービスに出すことが必要ということがわかりました。故障はこれで最近2回目ですので、修理費のことを考えると廃棄して買い換えた方が得だという結論になりました。近所のコジマ電気に行ってみたら、機能が上位の最新機種がずっと安い値段で売っていて驚きました。
松林の航空写真などA4より大きい写真をスキャンしたいので、いろいろ迷ったのですが、A3までプリントやスキャンやファックスができる複合機(brother JUSTIO MFC-J6710CDW)を購入しました。以前は、学生や業者に頼んでパソコンや電話機と接続してドライバー・ソフトウェアをインストールしてもらっていたのですが、今回はマニュアルを読んで自分で設定しました。
「必要は発明の母」というのは大げさですが、頼める人が近くにいなくて自分でやってみれば、なんだこんな簡単なことだったのかということがわかりました。

早速、8月28日の講演(埼玉県嵐山CC)と9月4日の講演(東京大手町の全農ビル)で使う予定のスライドを配布資料としてプリントしました。次は9月13日の講演(石川県加賀市)と9月15日~20日の講演(中国北京)の準備です。中国での国際会議は英語ですから、英語のスライドを作らなければなりません。明日は日曜ですから、集中して時間が使える筈です。

一昨日お便りを下さった支援者の方にメールで返事を差し上げました。

2012年8月24日金曜日

今日も猛暑でしたが、心肺機能が低下しないようにと思って、東京農業大学の周りを6Km ゆっくり走ったり歩いたりしました。脱水症状にならないように、シャワーを浴びてスポーツドリンクをたくさん飲みました。

昨日のアメリカからの電話での誘惑に影響され、ノースカロライナ州に行く航空券をネットで予約しました。私は北京での国際会議から9月20日に帰国しますので、1日休んで、22日に成田を出発してワシントンDC経由でローリー/ダーラム空港に行き、10月15日に成田に帰ってきます。そうすると、10月19日に予定されている研究会まで3~4日頭を切りかえたり体調を整える時間がとれます。今年はこれでぎりぎり最大限ですが、それでも向こうで過ごせる時間が約3週間あるので、昔からの友人たちと旧交を温めてこれます。
Margieさんにその旨をメールで知らせたら、早速私が滞在予定のいつものモーテルを予約したり、到着日の歓迎パーティに誰と誰が集まれるか連絡をとったとのことでした。それから、今は遠方に住んでいる友人達が私に会いに来た時に私の部屋に泊まれるように、クイーンサイズベッドの他にソファーベッド(英語ではpull out sleeper sofaと言います)を用意させるとのことでした。

2012年8月23日木曜日

私は相変わらず時間に追われる、ゆとりのない生活をしていますが、今朝はノースカロライナ州の友人/空手の弟子のFrank君・JoAnnさん夫妻から電話があり、その後Margieさんからも電話がありました。皆が今年は私はいつ来る(帰省する)のかと訊くので、9月20日に中国北京から帰国したら10月中旬の農大での講義が始まる前の3週間くらい行けるかもしれないと言ってあったので、早く決心するようにとの誘惑の電話でした。アメリカの友人達が私の訪問を心待ちにしていてくれるのは嬉しいのですが、今はまだ日本での来週と再来週の予定をどう乗り切るかで頭の中は一杯です。

支援者から以下のお便りが届きましたので、紹介しておきます。よく、便りがないのは元気な証拠と言いますが、市橋君もまだ外部に手紙を書こうとしないのは、元気に服役しているということでしょう。
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暑い毎日ですが、本山先生もお元気でお過ごしのようで嬉しく思います。
先日、市橋君が拘置中に描いたスケッチは弁護士先生が市橋君に全て返されたと知って、残念に思いました。随分前のブログで、市橋君が拘置中に描いたスケッチがあることを知り、とても興味をもっていました。彼がリンゼイさんにプレゼントしたスケッチとそこに書かれてあった文字は、テレビの画面を通じて見ただけで、目を奪うような透明感のある「作品」だったからです。芸術的ともいえる、センスの良い1枚のスケッチを見て、私はこの事件に興味をもち、会ったこともない市橋君の支援者になった、と言っても過言ではないほどです。
だから私は彼への手紙にも、スケッチについて触れました。でも、出版本と同じように、売られたり、彼の想いとは違う方に一人歩きしてしまう恐れがあったから、本人に返却されたのかもしれませんね。あの裁判に関しては、本当にことごとく悪意にとられ、市橋君のマイナス材料、マイナス印象にとられる気がしました。
ところで、私が住むマンションの隣室は独身男性がすんでいるのですが、一週間ほど前、男女が喧嘩してる物音が聞こえました。女性が大声を出してベランダからわめきながら物を投げ、壁に色々当たる音が聞こえ、悲鳴のような声も聞こえてきて、何か事件に発展しそうな勢いだったので、主人に様子を見に行ってもらいました。しばらくして主人は驚いて帰ってきました。「細い女性だけど、女の人って怒るとすごい力だねえ。僕が手を抑えようとしてもはねのけられて、こっちが吹っ飛ばされる感じだったよ。もう部屋の中はグチャグチャで、男性は手が付けられない、ともうあきらめて座り込んでたよ。女性がわめいてる内容は、{今日はグッチを買いに銀座に行くって約束してたじゃない!何なよ!}ってブチ切れてた」と。
翌日、男性は菓子折りを持って謝りにいらっしゃいましたが、気まずそうにしていたので、こちらも何も聞きませんでした。そして昨日、引っ越しのトラックが来て、隣の荷物を運び出していました。もう何も挨拶にいらっしゃいませんでした。男性としてカッコ悪かったでしょうから、こちらも顔を合わせないようにしました。
私は、すぐに市橋君のことを思い出しました。「このままリンゼイさんに嫌われたままで帰したくない」思いや「周りに気づかれるような騒ぎにしたくない」思いで、彼はあせっていたと思います。「殺意」などほど遠い状況だったと今でも信じます。
彼は外部の人との連絡も取らず、服役生活をしているのですね。今は、彼の健康を祈るばかりです。

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2012年8月21日火曜日

支援者のお一人から、このところしばらくブログの記事の更新がないのでジョギングの最中に熱中症にでもなったのかと心配しました、とのお電話をいただきました。実は、来週の講演と9月の講演といくつか続きますので、その準備に追われていて時間的な余裕がなく、ジョギングも記事の更新もできませんでした。少しゆとりができたら、また再開します。
ご心配いただきありがとうございました。

2012年8月16日木曜日

支援者から市橋君が描いたスケッチについて問い合わせがありましたので、三宅弁護士に以下のメールを差し上げましたら、早速返事が届き、全て本人に返却したとのことでした。
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三宅貞信先生
市橋君の裁判が決着してからどんどん時間が経過していく気がしています。市橋君がどこの刑務所で受刑しているのかもわからないというのは不思議な感じがしますが、それも何かの意味があってそういう制度になっているのかと想像しています。
私のところには今でも時々何人かの支援者からメールが届きますが、その中のお一人から市橋君が千葉拘置所にいた時に描いたスケッチはどうなっているのでしょうという質問がありました。確か、宅下げされた衣類は菅野先生が保管し、本は山本先生が保管し、スケッチは三宅先生が保管されていると伺いました。もしまだ処分されずに保管されていましたら、拝見させていただくことは可能ですか。当時の市橋君の心の中をうかがい知る手がかりになるかもしれないと思いますので。

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本山先生
ご無沙汰しております。お尋ねのスケッチの件ですが,控訴審が終了する前に,弁護団から市橋君本人へ全て返却しています。
支援者の方がスケッチを見て心境を知りたいとのご要望には添えませんでしたが,本山
先生,支援者の皆さんが市橋君の更生を祈っている事は,きっと彼は理解していると思います。
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この頃は、運動をして体を動かして健康管理をすることは仕事のうちと思うようにしています。今日も夕方近くになってから、江戸川堤防を8Km 走ったり歩いたりしてきました。青空に白い雲が浮かんでいましたが、夏を思わせる入道雲ではなく、何となく秋を思わせるような雲だったので携帯電話のカメラで写真を撮りました。江戸川は国土交通省の所管ですが、取水設備が設置してあるところに、子供に危険を知らせる面白い河童(かっぱ)の看板がありました。

夜自宅で樹木医に送ってもらった松くい虫の発生消長のデータの解析をしていて、疲れたので気分転換にテレビ朝日の報道ステーションをつけてみたら、偶然、戦争末期に回天と呼ばれた一人乗り潜水艦に乗ってアメリカ軍の艦隊に体当たりして自爆した特攻隊員に関する番組をやっていました。終戦の1年前1944年頃、制空権も制海権も失った日本軍は最後の手段として、人間魚雷になる特攻隊員を募り、20代の若者106人が海に散ったとのことです。今考えれば狂気の沙汰ですが、当時の若者に選択の余地はなかったのでしょう。戦争は人間の理性を奪い、殺人の道具にしてしまいます。国全体が戦争状態の時には、個人にはそれを拒否する自由はなくなってしまいます。


2012年8月15日水曜日

今日は終戦記念日でしたので、夕方7:30 からNHKスペシャル「終戦・何故早く決められなかったのか?」と題した興味深いテレビ番組がありました。戦争は広島、長崎に原子爆弾が投下された後、67年前の今日1945年8月15日に終わりましたが、実はその数か月前から日ソ不可侵条約を破棄してソ連軍が参戦する情報が入っていて、戦争を終結させる(降伏する)ための会議が招集されていながら、結局当時の最高指導者たちが誰も責任を果たさなかったということのようでした。降伏が遅れたために、原子爆弾による犠牲者やソ連軍による日本人捕虜のシベリヤ抑留などにより何十万人もの命が失われてしまいました。

YAHOOニュースにも戦争に関連した記事がありました。<九大生態解剖事件>「戦争は人を狂わす」最後の目撃者語る http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120815-00000068-mai-soci は、B29というアメリカ軍の爆撃機が撃墜されて捕虜になった8人のアメリカ人兵士を大学医学部で生きたまま解剖実験を行って殺してしまったという事件を取り上げていました。
当時医学生として立ち会った福岡市の医師東野利夫さん(86才)の、<時代は移りゆくが、平和への思い、願いに変わりはない。「非戦を誓った憲法9条は必ず守ること。そして捕虜に対し学内の医師がメスを持ったという事実を正面から受け止め、母校の敷地に8人の慰霊碑を造ってほしい」>という言葉は、平和の尊さをあらためて訴えました。

江戸川堤防を今日は10Km 歩いたり走ったりしてきました。まだ暑くて汗をびっしょりかきましたが、雲を眺めながら風を肌で感じながらゆっくり走るのは快適でした。67年前の悲惨な状況にめぐり合わせた人々に比べて、私たちはどんなに恵まれた時代にめぐり合わせているか忘れてはいけないのだと思います。

2012年8月14日火曜日

終戦記念日を明日に控えて、テレビでも戦争に関する映画や番組がいくつかありました。日米の戦争開始になった昭和16年(1941年)12月の真珠湾攻撃を日米両側から描いた「トラ・トラ・トラ」という映画は1970年に上映され長蛇の列ができましたが、私がアメリカの大学院に留学したのは1969年ですから、留学して間もない時期にアメリカ人の友人/空手の弟子たちと見に行ったのを覚えています。私が勉強をしていた農薬毒性学プログラムの教授の一人は、第二次世界大戦中に日米で激戦のあった硫黄島に上陸した元海兵隊員のFrank E. Guthrie 先生でした。Guthrie(グスリー)先生は朝鮮戦争にも従軍したらしく、日本の米軍基地にいた時のオフィスに掲げてあった「グスリー中尉」と日本語で書かれた表札を私に見せてくれました。よく、自分は日本が北朝鮮軍に占領されるのを防いで君の命を守ったのだと冗談を言って、私に目をかけてくれました。その当時は私も27才で若かったので、研究室で夜勉強をしながらよくアメリカ人の友人たちと戦争の話をしました。そのお蔭で、お互いに、国によって自分たちに都合のよい一方的な見方しか教えられていないことを知ることができました。

夜10:00 から のNHKスペシャル「戦場の軍法会議」は見ごたえがありました。東京帝国大学法学部卒の馬塲(ばば)東作中佐がフィリッピンでの軍法会議で法務官として、食料を求めて部隊を離れた兵士を敵前逃亡の罪で死刑にした話を中心に、異常な環境に置かれた日本軍が異常な行動に追いやられた事実を、今は90才を越えた当時を知る関係者や遺族の証言をまじえて紹介していました。日本からの補給を絶たれて、武器弾薬も食料も欠乏した状況で、日本人兵士がフィリッピン人の村に食料強奪に向かったのでしょう。
以前、千葉大学の私の研究室にはフィリッピンから国費留学生が何人か来ていましたが、その中の一人のお母さんがフィリッピンから訪ねて来られた時に私は食事に招待されました。留学生も交えて和やかな雰囲気で食事をしていた時に、お母さんに、「日本人がこんなに親切でいい人だということを始めて知りました」と言われたことを忘れません。多分、戦争中にフィリッピンを占領していた日本軍兵士に村人が酷い目に遭わされて、日本人というのは武力に物を言わせて平気で悪いことをする冷血非道な人間という印象が植えつけられていたのでしょう。

TBSテレビの夜10:54 からのニュース23クロスの中で、日本に帰化した日本文学研究者のドナルド・キーンさん(90才)が、捕虜収容所で日本人捕虜と人間的な交流をし、今は100才になったその時に捕虜の一人だった日本人医師と再会して当時を振り返る映像もよい番組でした。国対国ではなく、個人対個人のレベルでは、どこの国の人とでも、人間どうしお互いに理解し合い、仲良くしていけるのだと思います。

気温が下がってきたのか、このところ何日か続けて走ったせいか、少し体調がよかったので今日は江戸川堤防を8Km 歩いたり走ったりしてきました。

2012年8月13日月曜日

松戸市内の農業資材・種苗店に昨日注文しておいた殺センチュウ剤が届いたという電話があったので、受け取りに行ってきました。この店が取引している農薬卸商は今週はお盆休みなので無理かなと思っていたのですが、出勤できる社員が出勤するということになっていたらしく、早速配達してくれたようです。公務員と違って、やっぱり個人企業は顧客のニーズにサービスして、少しでもビジネスをとろうと努力しているのでしょう。
松枯れと菌根菌の関係を一緒に研究してくれている大学院生の実験に使いますので、明日にでも手渡してあげるつもりです。

それ以外は、一日中自宅で机に向かって樹木医から送られてきたマツノマダラカミキリ成虫の発生消長のデータを解析して過ごしました。過去7年間のデータですが、5月下旬から羽化し始め、9月上旬に羽化終了するまで3ケ月間くらい発生します。その中、成虫の5~95%が発生する期間は約2ケ月ですが、林帯幅が広い松林や、樹高の高い松林に対して地上から薬液を散布するとどうしてもかけむらが生じますので、残効性の短い薬剤散布1回で防除するのは無理だということがわかります。

今日はお盆でしたので、我が家は仏教徒というわけではないのですが、普段は戸棚にしまってある両親のお位牌と写真を取り出して、小さな器に食事を供え、しばし在りし日の両親の面影を偲びました。

2012年8月12日日曜日

午前中に江戸川に行って、いつものように6Km を走ったり歩いたりしてきました。空にはあちこちで真っ白い入道雲がモクモクと立ち上ってきては、姿を変えていました。汗はビッショリかきましたが、快適でした。

午後の遅い時間に1ケ月振りに北柏のリハビリセンターに長期入院している千葉大学時代の元同僚教授/友人を見舞いに行きました。私の顔を見て目を見開いてはくれましたが、一言も言葉はしゃべってくれませんでした。東京農業大学の女子学生の就職で訪ねた栃木県足利市の(株)カザミの会社案内のパンフレットを見せながら、会社の様子や女子学生を採用してくれたことや今は専務取締役をしている千葉大学卒業生(元同僚教授/友人の研究室を専攻していた)の話をしました。女子学生を紹介したお礼に会社の商品の各種たれ(ドレッシング)の詰め合わせセットを送ってくれた時に添えられていた卒業生の手紙を読んであげたら、「〇〇先生と奥様にくれぐれもよろしくお伝え下さい。20数年前になりますが、研究室のゼミ旅行・2泊3日でちょうど今頃の時期、日光・那須方面へ出かけ、日光戦場ヶ原のハイキングに立ち寄った際、〇〇先生が奥様のピンクのリボンのついた麦わら帽子をおちゃめにかぶり、学生さんにからかわれていたことを楽しく思い出します。」のところで、急にウフフ・・・と声を出して吹き出していました。聞こえているのか聞こえていないのか無表情でわからなかったのに、急に反応があったので驚きました。表情で表現することはできなくても、ちゃんと聞こえていたのだと思って嬉しくなりました。昔元気だった頃の、奥様と仲睦まじかった頃のことを思い出させられて、気恥ずかしくなったのかもしれません。今日は奥様とは病院でお会いできませんでしたが、この話は後で奥様に電話でお知らせしようと思っています。

リハビリセンターのすぐ近くには、手賀沼につながっている大堀川が流れているので、帰りに少し湖畔の景色を見にドライブしてみました。手賀沼は昔は今の3倍くらいの面積があって水が澄んでいたのが、戦後の食糧難の時代に食糧増産の国策で埋め立てられ、その後沼につながっている川の流域の人口が増加して家庭の雑排水が流入するようになって、一時は日本一汚い沼として知られるようになっていました。今は「よみがえれ手賀沼」キャンペーンで、水が驚くほどきれいになり、水辺に公園やレクリエーション施設も設置されていました。8月19日には手賀沼トライアスロンが開催されるという掲示もありました。
周辺の水田は、すでに水を落とし、見事に出穂していましたので、今月末か来月初め頃には稲刈りが始まるかもしれません。こういう美しい自然の景色を見ると、心が洗われる気がします。入院している病院はすぐ近くなのに、元同僚教授/友人にもうこの景色を見せられないのが残念です。



2012年8月11日土曜日

昨日、支援者の一人と支援金の残金の処理方法や、「適正な裁判を支援する会」を閉じた後のブログをどうするかや、樹月カイン氏から届いたお手紙にどう対応すべきかなど、意見交換をしました。もう少し考えてから結論をだそうと思っています。

いつも松枯れの視察に一緒に行く樹木医から、房総半島の平砂浦(へいさうら)で伐倒された松くい虫被害木を過去7年間毎年3月頃に採集してきて茨城県下館(しもだて)市にあった研究所の網室に保管して毎日羽化脱出してきたマツノマダラカミキリ成虫の個体数を記録したデータが送ってきました。その年の気温のデータと合わせて分析すると、過去にさかのぼって野外での発生消長が推察できる筈です。そうすると、平砂浦での薬剤散布が本当に防除適期に行われたかどうかが判断できる筈です。今後の防除適期を決めるのにも有用な知見になりますので、データをどのように解析するか試行錯誤をしています。机に向かってこういう作業をしていると、胸がわくわくしてきます。

今日は千葉県は天気予報では降雨が予想されていました。土曜ということもあって、雨の前にと思って午前中に江戸川堤防に出かけ、いつものように6Km を走ったり歩いたりしてきました。途中ある農家の庭の夏みかんの木は花が実に変わっているのが目に留まり、若々しさを感じました。熟した黄金色の果実もいいですが、私はこういう未熟な緑色の果実を見るのも好きです。昨日とは違った場所で少し色合いが異なる芙蓉(ふよう)の花が満開で、近くには蝉(セミ)の抜け殻もありました。江戸川沿いの大乗院というお寺には巨大な松の樹が4本あったのが、昨年1本が松くい虫で枯れてしまいました。今年はどうかなと寄ってみたら、殺センチュウ剤のマツガードという薬剤を樹幹注入したことを示すラベルが貼ってありました。
途中、堤防を下りて流水路にかかる橋のひとつ小向(こむかい)橋にも寄って、看板の説明を読んで、しばし江戸川と流水路の水の流れを眺めて楽しんできました。人口50万人の都市に住んでいても、気をつけて見さえすれば、日常生活をしているすぐ近くにも楽しませてくれる景色はたくさんあります。黒い雨雲が空を覆い、ゴロゴロと雷の音がしましたが、結局この辺りではたいした雨は降りませんでした。





2012年8月10日金曜日

今日は東京農業大学の研究室に行きましたが、夏休みに入って学生の姿がめっきり少なくなりました。アルバイトをしたり、帰省したり、就職活動をしたりしているのでしょう。
来週の1週間は、お盆休みで、事務職員も含めて大学全体が休みに入るようです。

昨日江戸川に行った時、途中の坂川の岸辺で満開の芙蓉(ふよう)の花と、蝶を見つけました。よく見ると、身近にもいろいろな植物や動物や昆虫がいることに気がつきます。

2012年8月9日木曜日

午後遅く、いつものように景色を眺めながら江戸川堤防を6Km 走ったり歩いたりしてきました。何年か前に江戸川と並行に人工的に造成した流水路は 、今では岸辺の木々も大きく育ってすっかり自然の景観の一部になりました。江戸川では珍しく2人の若者がボート漕いでいました。見ていたら、葛飾橋と上流の上(かみ)葛飾橋の間の約2.5Km を上ったり下ったり、何回も往復してトレーニングをしていました。

夕食後、タオルを首に巻いてうちわを手に持って松戸宿(じゅく)献灯(けんとう)まつりを見に行ってみました。先日の花火大会の時ほどではありませんが、散歩をする家族連れで溢れていました。商店街のちょうちんが飾られた前辺りの坂川の上に設けたステージでは、若者のグループが体の芯に響くような和太鼓の演奏をし、多くの見物人が盛んに拍手をしていました。露店もたくさん出て、賑わっていました。坂川では上流から流された流し灯籠(とうろう)がろうそくの仄(ほの)かな灯(ひ)をともしながら流れてきて、ステージの前に設けた堰(せき)で留まっていました。

都会では普段だんだん住民どうしの絆(きずな)が希薄になってきましたが、こういうお祭りを通して少しでもコミュニティとしての意識を共有しようとしているのかもしれません。




2012年8月8日水曜日

講演の準備をしていますが、ヘリコプターでスミパインMC(有効成分は有機リン剤のフェニトロチオン)という薬剤の散布をしていた2007年までは見事に守られていた松林が、残効性の短いネオニコチノイド剤の地上散布1回に切り換えてからの松くい虫による松枯れ被害は急速に深刻化し、特に房総半島先端の平砂浦では何十年もかけて育成・保全してきた松林は昨年から今年にかけて文字通り壊滅状態になりました。きちんと防除できる方法はあるにもかかわらず、政治的な圧力で防除方法の選択を誤った結果です。

2007年1月に撮影した航空写真では濃い緑色の松林が存在していたのが、2012年4月に撮影した同じ場所の航空写真では、松林がなくなっていることがわかります。私が現地を訪れて今年7月に地上から撮影した写真では松林だったところが荒れ果てている様子がさらにはっきり認識できます。これから保安林としての松林を再生させるには、多分50年くらいのスパンでの計画を立てることが必要でしょう。
今月28日の講演では、こういうことも含めて話をするつもりです。
 http://www.rinya.maff.go.jp/j/tisan/tisan/con_2.html

       (写真はクリックすると拡大できます。)


 
江戸川堤防を6Km 走ったり歩いたりしてきましたが、昨日までと打って変わって涼しい風が吹いていて楽でした。暦の上では昨日が立秋だったとのことですので、走っていて気のせいかふっと秋の気配も感じられました。毎年そうですが、最初の秋の気配を感じると、昔20才前後の頃に読んだ堀 辰雄の「風立ちぬ」という小説を思い出します。


2012年8月7日火曜日

支援金の残金の管理方法に関する昨日のブログでの問いかけに対して、早速何人かの支援者からお便りが届きました。ありがとうございました。私一人で考えるのではなく、こうして皆様のご意見をいただけるのは大変助かります。
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支援金の残金の管理方法は、改めて考えてみますと、難しい問題ですね。
私も、個人名は伏せて一般的な問合せとして、銀行や郵便局で確認してみようと思っていました。東京地裁の中にある郵便局なら、状況を把握して相談にのって頂けるのでは、と考えていました。しかし、予定していた裁判傍聴に行く時間もなく、郵便局で確認も出来ませんでした。
何れかの方法で口座開設した上で、ご両親が応じて頂けるかが重要ですね。今までのご両親から市橋達也さんへの姿勢では、断られる可能性も有りますので心配です。ご両親が、ご協力して頂けなければ、本山先生と支援者のみで長期間の保管や市橋達也さんへの受け渡しは、かなり厳しいと思います。ご両親が本山先生の提案に応じて下さる事を願っています。

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毎日暑い日が続きますがお元気ですか?
支援金の件ですが、銀行は無理だと思います。ご両親はどのように思われていますか?ご両親に託すのが一番いいと思います。無期懲役といっても法律では10年経てば仮出所できます。10年とは思いませんが、30年とも限りません。
ご両親の思いを聞いて頂けたらと思います。先生も大変ですが、宜しくお願いします。
毎日市橋君が元気で過ごす事ができますようお祈りしています。暑い中先生もお身体に気をつけてください。

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昨日のブログを拝見しました。要するに一定期間お金の出し入れをすれば、口座を維持することが可能なのですね?ではそのような形を(極端な場合収支がなくても出し入れする形を)とった方がいいと思います。そのようなことでも、他の事でも私は何でも協力いたします。何なりと申し付けください。
口座についてはまず、市橋さんご本人の承諾がいると思いますがご本人と連絡がつかない今、ご両親、親族の方に管理をお願いするのはいかがでしょう?こういうことはやはり、身内の方に管理していただいた方がいい気がします。ご両親は口座を作ることについてどうお考えですか?私も支援者として、支援金が市橋さんに無事に届き、支えになることを心よりお祈りしています。それから、これは私1個人の考えですが、民事で訴えられるかどうかについてですが、被害者遺族は手記の印税を一銭も受け取らなかったくらいなので、市橋さんのための資金を集めていることを被害者側が知っても、慰謝料の要求・・・といったことにはならない気がします。

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本当に体調管理ができなくなりそうな暑さが続きますね。
ブログを拝見させて頂き、先生も少しお疲れのご様子・・・。心配です。くれぐれもご無理はなさらないようお願いします。
さて、市橋さんの支援金のお話ですが、私もずっと案じていました。なかなか難しい事なのでは、と日々考えておりましたが、専門的な知識もなく、上手く市橋さんのお手元に届くよう祈ることしか出来ない情けない私です。
どちらで服役生活を送られているのか判らないし、先はまだまだ長い為、私自身も生かされているか判断がつきません。やはりお若い山本弁護士のような第3者の方に間に入って頂いて何とか市橋さんが出所されるまで管理して頂いたらいかがでしょうか。 例えが悪いのですが、遺言書を預かるような形でお願い出来ないのでしょうか。もし市橋さんにお渡しできるならば、支援する会からの分与というか、そのような形は取れないのでしょうか。
今現在は、弁護士の方々も服役先が判らないかもしれませんが、今後、市橋さんが連絡をくださる可能性もありますし、もしそのような事がなければ、ご両親様に私達、支援者の想いがこもった支援金を何とか市橋さんにお届けしたい旨をお話して、服役中の場所だけでもお問い合わせして頂き、本山先生か弁護士の方に教えてくださるよう懇願してはダメでしょうか。。。
知識がない為、非礼な文章になっていましたら申し訳ありません。ぜひとも名案がいろんな方々から出ますように祈っております。
本山先生、いろいろと先生にばかり、ご負担がかかり申し訳ありません。これからも支援者として何が出来るのか考えつつ頑張りたいと思いますので宜しくお願い致します。

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今日は東京農業大学の研究室に行って、昼休みはいつものようにジョギングをしようと思っていたのですが、あんまり暑かったので、かえって体によくないと自分に言い訳をして止めました。

2012年8月6日月曜日

ゆうちょ銀行に寄って、支援金の残金を30年間預けて、市橋君が社会復帰する時に受け取れるようにする方法がないか相談してきました。事情を正直に話していろいろな可能性について訊いてみましたが、本人以外が市橋達也君の名義で口座を開設することは難しいとのことでした。「市橋達也君の更生を支援する会」の名義で口座を開設することはできても、一定の期間お金の出し入れの活動がなければ、口座を閉じるようにとの連絡がくることになるそうです。銀行にはまだどのような方法があるか確かめていませんが、同じような状況かもしれません。支援者の皆様の意思を最大限尊重したいと思っていますが、支援金の残金を無期懲役刑で受刑中の市橋君が30年後に仮釈放された時に生活資金として受け取れるように管理をするというのは、案外難しいということがわかりました。私以外の支援者は顔を表に出していませんので、私より年齢の若い支援者に託すということもできませんし。何かよい方法をご存知の方はお知らせ下さい。

4月末に走った横浜駅伝の時から、ずっと以前ほど元気がでないので、今日は思い切って病院に行って診てもらってきました。1月に受けた人間ドックでは異常なしでしたが、どうも下腹部にちょっと違和感があって走っても力がでないので5月には消化器系のエコー(超音波)検査と血液検査をしてもらっても異常なしでした。今日は泌尿器系のエコー検査と尿検査をしてもらいましたが、やはりどこも異常なしでした。
1月末にフルマラソンを走り終わってからトレーニングの目標がなくなって、10Kg 近く減量した体重も運動不足でリバウンドして半分くらい元に戻り、空手の稽古もほとんどしていないので体力もずいぶん低下している気がしています。睡眠不足が常態化して、すっきりする時があまりないことも精神的に元気がでない原因のひとつかもしれません。
心を入れ替えて、もう少し定期的に運動をしなければと思っています。

台風の影響の雨も夕方には止みましたので、江戸川堤防を6Km 走ったり歩いたりしてきました。

2012年8月5日日曜日

今日も猛暑日でしたが、私は一日中机に向かって、メールの返信をしたり講演の準備をしました。夕方になって少し気温が下がったので江戸川に出かけ、景色を見ながら8Km 歩いてきました。昨夜の花火大会の人混みが嘘のようでしたが、日曜の午後ということもあって、たくさんの走っている人や家族連れで散歩をしている人たちと行き交いました。人間は町の中に住んでいると、機会があれば外に出て体を動かしたり野外の空気を吸いたくなるのでしょう。ちょうど西の地平線に沈みかける太陽で、空が一部金色に輝いているのが見えました。
帰りはちょっと遠回りして坂川の方に行ってみたら、松戸宿坂川献灯まつり(8月9日~10日)の準備でちょうちんがたくさん飾られていて、川面にも映っていました。

昨日の新聞にはもう一つ、私には気になる記事「三木睦子(みきむつこ)さん死去」が載っていました。http://www.asahi.com/obituaries/update/0803/TKY201208030376.html死因は大腸腫瘍とのことですが、95才だったとのことですので、天寿を全うされたのでしょう。
三木さんと言えば、三木武夫(たけお)元首相夫人として知られていますが、私には平和憲法を守ろうと訴えた「9条の会」の発起人としての活動と、「朝鮮の子どもにタマゴとバナナを送る会」会長としての活動が強く印象に残っています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E7%9D%A6%E5%AD%90 
前の活動には私も署名をし、後の活動には私も寄付をしました。国の政治の犠牲になって苦しんでいる朝鮮の子供たちに少しでも栄養のあるものを食べさせたいという活動でしたが、バナナは輸送中に腐るといけないので結局リンゴに代えたのを記憶しています。途中で軍人たちに横取りされないように、同行者が子供たちの口に入るところまで見届けることまでしていました。私が尊敬していた、日本の良心を代表する人物の一人でした。


2012年8月4日土曜日

朝日新聞朝刊には、このところ「いじめられている君へ」と題したコラムが連載されていて、毎回違った人がメッセージを書いていますが、今日8月4日(土)は三浦雄一郎氏が担当でした。三浦氏は1932年生まれなので私よりちょうど10年上で、父敬三氏99才と長男雄大氏と親子3代でフランスのモンブラン氷河を滑降したことが記憶に残っている人です。http://www5.hokkaido-np.co.jp/kyouiku/kodomo/040508miura/index.php3  
70才、75才と2回も世界最高齢で世界の最高峰エベレストに登頂し、今度は80才で3回目の登頂を計画しておられるとのこと。私がすごいなあと思って憧れている人物の一人です。久し振りに新聞紙上に登場しましたので、興味を持って読みましたが、「人生をトータルで考えれば、・・・」と長期的な視点でものを見て目の前のことにくよくよするなというメッセージに頷(うなず)きました。

江戸川堤防に走りに行き、6Km 歩いたり走ったりしてきました。気温は高くても雲で陽射しが遮られ、そよ風も吹いていたので、ジョギング用のTシャツも短パンも汗でびっしりにはなりましたが、走るには快適でした。今日は松戸の花火大会なので、堤防の斜面はあちこちブルーシートで席取りがしてありました。

夕方7時頃からドーン・ドーンと花火の音がし始めたので、タオルを首に巻いてうちわを手に持って出かけてきました。妻にも一緒に行くかと誘ってみたのですが、まだ夕食の片付けが1時間くらいあるからと断られました。
堤防に向かう道は警察が車両止めにして、堤防の上も斜面もすごい人出で、立錐(りっすい)の余地もないくらいでした。途中で帰る人のあとの隙間に割り込んで、次から次へと打ち上げられる花火をしばらく眺めて写真を撮ってきました。見物しながらひときわ大きな派手な花火に歓声をあげて拍手をしたり、両親に手を引かれた浴衣(ゆかた)姿の小さな女の子や、車椅子のおばあちゃんを押してあげている家族など、家族への思いやりも含めて日本の夏の風物詩だなと感じました。次から次に打ち上げられてほんの一瞬美しい花を咲かせ、消えていく花火を眺めながら、人々は大震災のことや不景気な経済のことをしばし忘れているのでしょう。


2012年8月3日金曜日

東京農業大学は今日が前期の期末試験の最終日だったらしく、キャンパスは大勢の学生諸君で賑わっていました。試験が終わったのか、サッカーをしたり、野球をしたり、陸上の練習をしている学生達もいました。
私は桜丘アリーナ(体育館)で着替えて大学の周りを軽くジョギングしましたが、猛暑で熱中症になってはいけないと思って4Km で止めました。シャワーを浴びていたら少し気分が悪くなりそうでしたので、用心して早目に止めて良かったと思いました。

9月13日~14日は石川県加賀海岸で松林防除実践講座があり、私は13日に講演をすることになっていますが、主催者から宿泊はどうするかと問い合わせがありました。せっかくの機会ですから、一泊すれば懇親会にも出席できますし、14日早朝に京都経由で新幹線に乗れば、帰途名古屋で途中下車してお墓参りもできますので、そのように返事をしようと思っています。
翌15日からは環太平洋農薬科学会議で中国の北京に飛びます。

8月はあまり予定が入っていないので比較的のんびりできますが、9月に入るといろいろな行事に追われることになりそうです。

2012年8月2日木曜日

8月28日に埼玉県の嵐山カントリークラブで開催される東京農業大学グリーン研究会主催の研究会での講演の準備に一日費やしました。大体できましたが、もう少し内容とスライドの枚数を絞る必要があります。
長野県安曇野市での研修会の日程は調整していただくことができました。10月30日の東京農業大学での講義はそのまま実施して、31日に現地入りして一泊、11月1日に講演ということになりました。

2012年8月1日水曜日

東京農業大学の研究室から借りていた実験装置を車に積んで、返してきました。渋滞がなかったので、片道1時間半弱で比較的楽でした。東京都内を運転する時はいつも緊張しますが、この頃少し慣れてきたせいかもしれません。

今年4月に卒業して就職できなくて、大学に残って就職活動中だった東京農業大学の学生が、先日農薬の分析関係の会社の最終面接までいったと相談にきましたが、残念ながら私のところに来た日の午前中に不採用の通知が届いてしまったので何の応援もできませんでした。その後どうなったか気になったので、指導教員の学科長にメールで問い合わせてみたら、ある大きな会社の子会社に採用されて、8月1日(今日)から新入社員として勤務し始めていますとのことでした。この不景気で就職難の時代に巡り合わせた若い学生諸君にとっては、大学卒業後に就職できるかどうかは大問題の筈ですから、私が指導した学生ではありませんが、一人の若者の進路が決まったことに私もホッとしました。東京農業大学では、教職員が一緒になってよく学生の就職の応援をしているという印象を受けました。

長野県安曇野(あずみの)市でのある研修会での講演を10月に依頼されていましたが、東京農業大学での講義日程とちょうど重なってしまって困ったなと思っていました。どちらかの日程を変更できないか打診していましたら、幸い研修会の方の日程を変更してもらえることになりましたので、これで一安心です。

夕方遅く木立の上に満月が昇っているのがロマンチックに見えたので、愛用のデジタルカメラでうまく写るかどうかシャッターを押してみました。まだ背景の空が少し明るかったので、しばらくして真っ暗になってから再度撮影してみましたら、月の色は出ませんが、形が真ん丸なことは写っていました。

アメリカに帰った孫たちは8月末までは学校が休みなので、娘は毎日孫たちのエネルギーを発散させるためにあちこち連れて行ったり、遊ばせたり、大変だろうなと想像しています。その大変なことが、後から振り返ってみると幸せなことなのかもしれませんが。