11月25日に振り込まれた2名の方(1名は9回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は101,000円、延べ190人からの合計額は2,377,565円になりました。ありがとうございました。お一人からは、「市橋達也さんが適正な裁判を受けられるよう祈っております。本山先生もお身体ご自愛下さい。」というメッセージも書かれていました。9回目の方は、毎月定期的に支援金を振り込んで下さっています。弁護団も毎月弁護団会議を開いて相談し、市橋君のためにベストの弁護活動を続けてくれていますので、このように支援者が関心を持ち続けて下さることは、大変ありがたいことです。
11月26日には、初めての方からメールで支援金を振り込んだとのメッセージが届きました。ありがとうございました。支援金は来週には届く筈です。
昨日の三重県津市での講演「防除の必要性と農薬の安全性について」は、一般消費者対象ではなく、三重県で実際に農薬の流通を担っている方々が主対象でしたが、食料の確保に農薬が果たしている重要な役割と、メディアの報道と違って安全性も十分確保されているという事実を再認識し、農薬の流通という仕事に従事していることに自信と誇りを持っていただけたと思います。
今朝は津からの帰途名古屋駅に途中下車し、10月にノースカロライナ州で会った昔の空手の弟子のJohn Burgess君のお母さんの出身地を探しました。当時名古屋にあったアメリカ領事館が1952年に発行した出生証明書のタイプの字はかすれていて(何回も複写もされていたので)判別困難でしたが、英語で書かれたお母さんの住所と出生証明書を書いた産婦人科医の名前と住所を日本語に訳して、昭和区役所を訪ねました。本来は区役所は土曜日は休業日ですが、ラッキーなことに、ちょうど名古屋市長と市議会の対立で市議会解散に署名した市民が署名の多くが無効と判定されたことに納得せず、署名簿の閲覧に押し掛けてきていましたので、総務課だけは開いていました。町名が両方の場所とも出生証明書に書いてあったのとは全く変わっていましたが、住居表示係の親切な職員が新旧住所対照簿で新しい町名と番地を探してくれ、地図のコピーをとってくれ、行き方まで教えてくれました。地下鉄に乗って近くの駅まで行って、地図を見ながら歩いて、両方とも見つけることができました。60年近く経っているのでお母さんが住んでいた場所の建物は全部変わって住んでいる人たちも変わっていましたが、お母さんが生前にJohn君に言った(目印)通りの場所にありました。すぐ近くの産婦人科医院も見つかり、偶然話しかけた隣の家の年輩の男性から出生証明書を書いた医師(10年くらい前に逝去)のことも聞くことができました。早速John君にメールでこのことを知らせようと思っています。次回名古屋に行く機会(多分12月か1月)に再度区役所を訪ね、今度は戸籍課でお母さんの兄弟姉妹の移転先を見つけ、John君の従兄弟・従姉妹が見つかるか調べてみるつもりです。
お母さんは終戦後間もない時期に進駐軍の空軍兵士と結婚したために勘当同然になって、John君が2歳の時にアメリカに行ったきり2度と郷里を訪ねることも家族と会うこともできずに亡くなってしまいました。お母さんは1928年(昭和3年)生まれですから、John君が生まれた1951年(昭和26年)には23歳くらいだった筈です。当時その年代だった日本人女性は、日本人男性の多くが戦争で死亡したので、結婚難だったと聞いたことがあります。娘がちょっと前まで戦争をしていた敵国の兵士と結婚することは、家族には許されないことだったのでしょうが、私はJohn君のお母さんを批判しようとは全く思いません。人それぞれの理由があったのでしょう。私はアメリカ滞在の10年間に同じような境遇の日本人女性を何人か見てきましたが、アメリカ人の夫と普通の家族と同じように幸せな生活をしていました。誰でも、幸せな生活を求める権利がある筈です。John君もすでに59歳で、自分のルーツの半分が全くわからないのでは、何となく心の中に納得できない部分があるのではと想像しますので、できるだけ調べてあげようと思っています。