10月28日に振り込まれた2名の方(お二人とも8回目)の支援金が届きました。これで現在高は54,000円、延べ182名からの合計額は2,325,565円になりました。息の長いご支援をありがとうございます。お一人からはメッセージが添え書きされていました。「寒い日々が続いていますが、本山先生をはじめ支援する会のスタッフの皆さま、おかわりございませんか? 8回目の送金です。以前TVで市橋さんの手紙が公開された際、TV関係者の方々の厳しい発言に世間の方々の考え方と自分の考え方の差がこんなにもあるのかと落胆しましたが、私の、市橋さんにもう一度人生をみつめ直しやりなおして欲しいという想いは変わらず、こんな私の存在も神さまは認めて下さると信じています。」
「市橋達也君の適正な裁判を支援する会」は、無償で弁護を引き受けてくれた弁護団の裁判活動の費用を支援することで、市橋君が適正な裁判を受けられるようにすることを目的としていますが、ほとんどの支援者は、市橋君が犯した罪に相当の罰を受けることはやむを得ないと考えつつも、できたら死刑ではなく、市橋君には罪を償った上で人生をやり直すチャンスを与えてほしいと願っているのでしょう。
支援金を送って下さる方の中には、匿名の方もおられますし、名前を公表してほしくないという方もおられますので、支援する会のスタッフは代表の私一人だけです。お手伝いをしてもよいと申し出て下さった方もおられましたが、支援者のプライバシーを守るために、顔を表に出した私一人でやっています。そのために、最近は振り込みがあっても礼状を出せない場合がほとんどで、お便りをいただいても返事を差し上げずに失礼していることをお許し下さい。ただし、本ブログでの報告だけは入金の度に欠かさずしていますので、振り込まれたお金が私のところに届いたかどうかをご確認下さい。
2010年10月30日土曜日
2010年10月29日金曜日
10月24日に振り込まれた方(4回目)と10月26日に振り込まれた2名の方の支援金が届いていました。これで支援金の現在高は43,000円、延べ180名からの合計額は2,314,565円になりました。ありがとうございました。
菅野弁護士から連絡があり、11月2日に弁護団会議を開いて、市橋君の指導教員の一人だったM教授と会って相談する日程の調整結果を11月4日に知らせていただけるということになりました。
支援者のお一人から、先日ニュースが伝えていた耳かき店員殺害事件の裁判を傍聴してきたとのメールをいただきました。亡くなった人を生きて返してほしいという被害者遺族の切々たる訴えに、多くの方々が胸を詰まらせて涙を流していたとのことでした。市橋君の公判でも、リンゼイさんのご両親の同様の訴えに、市橋君は自分の犯した罪がどれほど人を不幸にしたかをあらためて実感することになるのでしょう。
函館市湯の川温泉で開かれた農薬環境科学研究会は昼で終わって、エクスカーションとしてバスで道南地方農業の実態視察をして、今夕松戸に帰ってきました。七飯(ななえ)町は、プロシア人のR.ガルトネルという人が五稜郭を占領した榎本武揚(後に東京農業大学の創立者になった)と開墾条約を結んで明治2年に大規模な農場を開いて、リンゴを日本で初めて栽培した場所とのことでした。大沼国際セミナーハウスと城岱(しろたい)牧場を回って、函館空港に戻りました。大沼国定公園は紅葉が真っ盛りでした。城岱牧場は山の上の町営牧草地で、春から10月20日まで牛を預かって放牧するそうですが、ちょうど牛が下山した後でした。昨夜バスをチャーターして登った函館山から眺めた夜景は、さすが日本の3大夜景と自慢するだけのことはありました。津軽海峡を越えて、遠くに青森県側の灯りも見えました。
今回の研究会のテーマは、「土壌残留農薬の挙動と農作物及び周辺環境への影響」で、特別講演と7題の講演がありました。約100名の参加者が全国から集まり、熱心な討議が行われました。私は参加者の中で最長老に近い年齢だったからだと思いますが、情報交換会(懇親会)の中締めの挨拶を頼まれました。気持だけは現役のつもりでも、こういう挨拶を頼まれるようになったということは、私もそろそろ引退の時期が近づいたということなのでしょう。
菅野弁護士から連絡があり、11月2日に弁護団会議を開いて、市橋君の指導教員の一人だったM教授と会って相談する日程の調整結果を11月4日に知らせていただけるということになりました。
支援者のお一人から、先日ニュースが伝えていた耳かき店員殺害事件の裁判を傍聴してきたとのメールをいただきました。亡くなった人を生きて返してほしいという被害者遺族の切々たる訴えに、多くの方々が胸を詰まらせて涙を流していたとのことでした。市橋君の公判でも、リンゼイさんのご両親の同様の訴えに、市橋君は自分の犯した罪がどれほど人を不幸にしたかをあらためて実感することになるのでしょう。
函館市湯の川温泉で開かれた農薬環境科学研究会は昼で終わって、エクスカーションとしてバスで道南地方農業の実態視察をして、今夕松戸に帰ってきました。七飯(ななえ)町は、プロシア人のR.ガルトネルという人が五稜郭を占領した榎本武揚(後に東京農業大学の創立者になった)と開墾条約を結んで明治2年に大規模な農場を開いて、リンゴを日本で初めて栽培した場所とのことでした。大沼国際セミナーハウスと城岱(しろたい)牧場を回って、函館空港に戻りました。大沼国定公園は紅葉が真っ盛りでした。城岱牧場は山の上の町営牧草地で、春から10月20日まで牛を預かって放牧するそうですが、ちょうど牛が下山した後でした。昨夜バスをチャーターして登った函館山から眺めた夜景は、さすが日本の3大夜景と自慢するだけのことはありました。津軽海峡を越えて、遠くに青森県側の灯りも見えました。
今回の研究会のテーマは、「土壌残留農薬の挙動と農作物及び周辺環境への影響」で、特別講演と7題の講演がありました。約100名の参加者が全国から集まり、熱心な討議が行われました。私は参加者の中で最長老に近い年齢だったからだと思いますが、情報交換会(懇親会)の中締めの挨拶を頼まれました。気持だけは現役のつもりでも、こういう挨拶を頼まれるようになったということは、私もそろそろ引退の時期が近づいたということなのでしょう。
2010年10月27日水曜日
昨夕は東京農業大学の帰りに千葉大学園芸学部に寄って、市橋君が専攻していた庭園デザイン学研究室のM教授に会って、お礼を申し上げるとともに、市橋君が在学していた当時の様子をさらに伺ってきました。私が指導していた生態制御化学という実験科学の分野と違って、庭園デザイン学では必修単位の卒業研究の成果を論文(研究)として提出する場合と作品(計画・設計)として提出する場合が認められていて、市橋君は論文の方を選んだので、すでに退職されたもう一人のO教授の指導を主に受けていたとのことでした。
函館に早めに到着しましたので、地図を片手に興味のあるところをいくつか歩いて回ってみました。予想と違って雪はありませんでしたが、寒くて手がかじかみました。函館港には、1988年(昭和63年)に廃止されるまで1908年(明治41年)から80年間青森と函館の間で人と物資を運んでいた青函連絡船の一つ摩周丸が記念館として展示されていました。確か1962年か1963年頃だった筈ですが、千葉大学空手部の夏合宿が北海道大学空手道場で行われた時に、私は青函連絡船に乗った記憶があります。吉永小百合が私達の世代の憧れだった時代で、仲間と一緒に甲板のデッキから景色を眺めて感傷的になったのを思い出しました。あれから時代が変わり、青函トンネルを列車が走るようになり、飛行機が移動の主流になりました。
函館山の裾にある函館北方民族資料館にも行きましたが、受付を通ってすぐの展示室1にある「アイヌ風俗12ケ月屏風」は江戸時代の和人(日本人)の絵師が描いたものを拡大複写したもののようですが、あまりにも不思議な感じがしたので、質問をしたら年配の学芸員が一つ一つの屏風に描かれている絵に含まれる意味を丁寧に説明してくれました。内地の日本人に興味を抱かせて屏風絵を買ってもらうために、例えば1月なのに裸足で(実際にはアイヌの人は皮で作った靴を履いていた)鳥居の前で日本人との交易で得た珍しいもの(オモチやタバコの葉や紋付など)を持って嬉しげに歩いているなど、ちょっと見ただけでは何故本来多神教のアイヌ人が日本の神の象徴の鳥居と一緒に描かれているのかわかりません。アイヌ(人間)という言葉自体も最近まで蔑称扱いで、ウタリ(仲間)という言葉が使われたとのことでした。ちょうど先月末に訪ねたアメリカのチェロキーインディアン保護地区で見たのと同じように、アイヌの人達は私達の先祖の日本人に酷い扱いを受け、悲惨な運命をたどったのでしょう。
今夜は五稜郭(ごりょうかく)の近くに宿を取りましたので、明日は朝早く起きて、研究会が始まる前に五稜郭の辺りを散歩するつもりです。
函館に早めに到着しましたので、地図を片手に興味のあるところをいくつか歩いて回ってみました。予想と違って雪はありませんでしたが、寒くて手がかじかみました。函館港には、1988年(昭和63年)に廃止されるまで1908年(明治41年)から80年間青森と函館の間で人と物資を運んでいた青函連絡船の一つ摩周丸が記念館として展示されていました。確か1962年か1963年頃だった筈ですが、千葉大学空手部の夏合宿が北海道大学空手道場で行われた時に、私は青函連絡船に乗った記憶があります。吉永小百合が私達の世代の憧れだった時代で、仲間と一緒に甲板のデッキから景色を眺めて感傷的になったのを思い出しました。あれから時代が変わり、青函トンネルを列車が走るようになり、飛行機が移動の主流になりました。
函館山の裾にある函館北方民族資料館にも行きましたが、受付を通ってすぐの展示室1にある「アイヌ風俗12ケ月屏風」は江戸時代の和人(日本人)の絵師が描いたものを拡大複写したもののようですが、あまりにも不思議な感じがしたので、質問をしたら年配の学芸員が一つ一つの屏風に描かれている絵に含まれる意味を丁寧に説明してくれました。内地の日本人に興味を抱かせて屏風絵を買ってもらうために、例えば1月なのに裸足で(実際にはアイヌの人は皮で作った靴を履いていた)鳥居の前で日本人との交易で得た珍しいもの(オモチやタバコの葉や紋付など)を持って嬉しげに歩いているなど、ちょっと見ただけでは何故本来多神教のアイヌ人が日本の神の象徴の鳥居と一緒に描かれているのかわかりません。アイヌ(人間)という言葉自体も最近まで蔑称扱いで、ウタリ(仲間)という言葉が使われたとのことでした。ちょうど先月末に訪ねたアメリカのチェロキーインディアン保護地区で見たのと同じように、アイヌの人達は私達の先祖の日本人に酷い扱いを受け、悲惨な運命をたどったのでしょう。
今夜は五稜郭(ごりょうかく)の近くに宿を取りましたので、明日は朝早く起きて、研究会が始まる前に五稜郭の辺りを散歩するつもりです。
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