ちょっと前に日本の家族から公衆電話を使っての連絡がありました(自宅の電話とFAXはまだ故障中のため)。9月19日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は130,000円、延べ164名からの合計額は2,194,565円になりました。10万円もの大金のご支援をありがとうございました。
日本と私が現在滞在しているノースカロライナ州とは13時間の時差がありますので、日本の朝11時はこちらでは前日の夜10時になります。今日は用事があって、空手の弟子で弁護士のEverette Noland君の事務所に行きました。用事が済んだ後、近くのレストランで昼食を食べながら3時間くらい話をしました。ひとつ驚いたことは、彼のお父さん(故人)は高い階級の職業軍人で、第二次世界大戦(ドイツ)、朝鮮戦争、ベトナム戦争に参加して、その他にもいろいろなところに派遣されていたということです。
私はNoland 君はMartin Luther King 牧師の人種差別撤廃運動の行進に同行したと思い込んでいましたが、今日詳しく訊いてみたら私の早合点で違っていました。1960年にまだ南部のジョージア州の大学の学生だった時に、ケネディ対ニクソンの大統領選挙が行われた時に、首府のアトランタの選挙会場の前で20人くらいの白人(当時学生だった今の奥さんも含めて)だけのグループで黒人にも選挙権を与えよというピケ(プラカードを持って抗議行動)を張ったのだそうです。King 牧師もアトランタの出身ですが、その頃は無名で、Noland 君らの勇気ある行動に触発されてその後の活動を展開した可能性がありそうです。
アメリカ憲法ではずっと前から黒人にも選挙権は認められていましたが、北部でも南部でもいろいろな事情で実際には投票に参加できない状態だったそうです。南部の場合は、字が読めなければ選挙はできないという理由で、黒人には難しい憲法の条文を読ませて説明してみろというような試験を課して、実際上投票できないようにしていたとのことです。その他にも、レストランにしても、トイレにしても、水飲み場にしても、あらゆる場面で黒人差別が日常化していたので、それはおかしいとして立ち上がったのだそうですが、その当時は社会をあげて大騒ぎで、よそ者が扇動しにきたと批判され、袋叩きにされかねない危険な状態だったとのこと。奥さんが持っていたプラカードは近づいてきた白人男性にナイフでズタズタに切り裂かれ、そのナイフを足元の地面に突き刺して脅かしたそうですが、近くにいた警官は止めようともせずにただ見ているだけだったとのこと。当時まだ若い女子学生だった奥さんは、無抵抗主義を堅持し、プラカードは破られればまた作り直せばいいとして、がんばったのだそうです。私は昨年海岸の別荘で奥さんにお会いしましたが、芯の強そうな女性でした。長年小学校教師をしていましたが、今はその経験を生かして女子大学で教師になる勉強をしている学生たちに子供への教え方や児童心理などを指導しています。
Noland君はジョージア州の大学で4年を卒業し、その後ミシガン州立大学の法学部で3年勉強して法学士号を取得、司法試験(Bar Test)に合格後、職がなかったので、イギリスから独立して間もないアフリカのナイジェリアに行って2年間現地の裁判所に勤務したのだそうです。ナイジェリアはイスラム教徒の北部とキリスト教徒の南部に分かれていますが、その他にも多くの部族があって大変難しい国のようです。
本にすれば面白そうな彼の経験や話を聞いているうちに3時間はあっという間に経ってしまいました。
日本の若者は、正しいことは正しい、おかしいことはおかしい、と立ち上がって主張する勇気を持ったいるだろうかということがちょっと気になって、いろいろと想像を巡らせました。