2010年10月27日水曜日

昨夕は東京農業大学の帰りに千葉大学園芸学部に寄って、市橋君が専攻していた庭園デザイン学研究室のM教授に会って、お礼を申し上げるとともに、市橋君が在学していた当時の様子をさらに伺ってきました。私が指導していた生態制御化学という実験科学の分野と違って、庭園デザイン学では必修単位の卒業研究の成果を論文(研究)として提出する場合と作品(計画・設計)として提出する場合が認められていて、市橋君は論文の方を選んだので、すでに退職されたもう一人のO教授の指導を主に受けていたとのことでした。

函館に早めに到着しましたので、地図を片手に興味のあるところをいくつか歩いて回ってみました。予想と違って雪はありませんでしたが、寒くて手がかじかみました。函館港には、1988年(昭和63年)に廃止されるまで1908年(明治41年)から80年間青森と函館の間で人と物資を運んでいた青函連絡船の一つ摩周丸が記念館として展示されていました。確か1962年か1963年頃だった筈ですが、千葉大学空手部の夏合宿が北海道大学空手道場で行われた時に、私は青函連絡船に乗った記憶があります。吉永小百合が私達の世代の憧れだった時代で、仲間と一緒に甲板のデッキから景色を眺めて感傷的になったのを思い出しました。あれから時代が変わり、青函トンネルを列車が走るようになり、飛行機が移動の主流になりました。

函館山の裾にある函館北方民族資料館にも行きましたが、受付を通ってすぐの展示室1にある「アイヌ風俗12ケ月屏風」は江戸時代の和人(日本人)の絵師が描いたものを拡大複写したもののようですが、あまりにも不思議な感じがしたので、質問をしたら年配の学芸員が一つ一つの屏風に描かれている絵に含まれる意味を丁寧に説明してくれました。内地の日本人に興味を抱かせて屏風絵を買ってもらうために、例えば1月なのに裸足で(実際にはアイヌの人は皮で作った靴を履いていた)鳥居の前で日本人との交易で得た珍しいもの(オモチやタバコの葉や紋付など)を持って嬉しげに歩いているなど、ちょっと見ただけでは何故本来多神教のアイヌ人が日本の神の象徴の鳥居と一緒に描かれているのかわかりません。アイヌ(人間)という言葉自体も最近まで蔑称扱いで、ウタリ(仲間)という言葉が使われたとのことでした。ちょうど先月末に訪ねたアメリカのチェロキーインディアン保護地区で見たのと同じように、アイヌの人達は私達の先祖の日本人に酷い扱いを受け、悲惨な運命をたどったのでしょう。

今夜は五稜郭(ごりょうかく)の近くに宿を取りましたので、明日は朝早く起きて、研究会が始まる前に五稜郭の辺りを散歩するつもりです。