2020年6月2日火曜日

このブログは、元々私と「市橋達也君の適正な裁判を支援する会」に支援金を送って下さった支援者の方々とのコミュニケーションの場として始めたものですが、裁判が無期懲役刑で結審してからは、支援金から弁護団に支払った残金を約30年後に仮出所の対象になった時に手渡せるように立ち上げた「市橋達也君の更生を支援する会」とのコミュニケーションの場として引き継いだものです。
30年後には私は年齢的に100才を超えますので多分生存できないでしょうから、私より年齢の若い支援者3人に支援金の残金を管理していただいています。代表の方は残念ながら昨年病没してしまいましたので、もう一人の方に代表を交代していただきました。代表からは年に1回、支援金残金を預けてある郵貯銀行のコピーが送ってきて、現状を確認させていただいています。今年の4月1日の現在高1,315,744円を示した通帳のコピーが届きました。
市橋達也君が仮出所になるまでまだまだ長い年数がかかりますので、いつか近いうちに支援者お二人(一人は関西、一人は東京在住)と私とでどこかでお会いして、もう一人どなたか支援者に加わってもらうことも含めて、今後の支援金残金の管理について相談をしてみたいと考えています。多くの支援者が市橋達也君のために送って下さった貴重なお金ですので、彼が60才を過ぎて仮出所できる時に、確実に彼の手に渡せるようにしたいと思っています。

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非常事態宣言は解除されましたが、千葉大学でも講義はオンラインで実施されているようですので、6月に入っても緑風会館の体育館部分は使用禁止の掲示で封鎖されたままです。
園芸学部構内には昔建設された防火用水兼用の水泳プールがあり、私が現職教授の時代は学生寮の学生や課外活動をしている学生たちに呼びかけて自主的に清掃・管理をして、夏の間は皆で水泳プールとして利用していました。
私が12年前に定年退職してからは、呼びかける人がいなくなり、水は蒸発して空っぽのままで防火用水としての機能も失われたままです。鍵をかけて子供が侵入して溺れ死ぬことがなければ園芸学部が責任を問われることはないでしょうが、国民の税金で建設した園芸学部の数少ないレクリエーション施設が、12年間も防火用水としても水泳プールとしても利用できない死んだ状態に放置されているということは、逆に園芸学部の管理責任が問われる問題のような気がしますが・・。福利厚生施設の場合は、利用を図ることがより重要な管理責任ですので。





二十世紀ナシの発祥の地の松戸市と隣接する市川市はナシの産地ですので、今日のウォーキング/ジョギングは和名ヶ谷、大橋、高塚新田、二十世紀が丘の方面に行ってみました。
高塚新田にある八幡神社の境内には昭和55年(1980年)に設置された創建300年のりっぱな記念碑が立っています。1980年の300年前は1680年で、江戸時代の延宝8年で徳川綱吉が第5代将軍に就いた年に相当します。当時のこの辺りはほとんど人家のないどんなにか山深い土地だっただろうと想像しながらお参りしました。
神社に隣接した梨園の角の空き地にグミの木があって、赤いグミの実がたくさんなっていました。私が小学校3年生の途中まで住んでいた宮崎県小林市ではあちこちにグミの木があって、よくグミの実を採って食べていたことを思い出しました。
梨園は周りを囲んであってなかなか中の様子が見えないようになっていますが、ちょっと空いていた隙間から覗いて見たら小さな実がなっていました。
時期になると道路際で枝豆を売っている直売所の向かい側の畑には、時期をずらして栽培している枝豆畑がありました。
カボチャも花の時期から幼果の時期になりつつありました。




 






あちこちで縁石と道路の間からアメリカオニアザミが自生していました。車が頻繁に通るこんな生育環境の悪いところにどうやって自生しているのか不思議な気がします。多分、タンポポなどと同じように花が咲き終わって綿毛ができて、綿毛が風に乗って移動し、地上に落下したところで発芽して生育するのでは想像します。本当に花が咲き終わって綿毛ができるかどうか、観察してみようと思います。