2024年9月7日土曜日
先日拙文の「アメリカ紀行」が掲載された「鳩のたより」第77号を送っていただいた礼状を打ちましたら、礼状をそのまま「鳩のたより」の次号に「アメリカ紀行ーその2」として掲載したいとの返信が届きましたので、もし本当にそうなった場合にはということで若干加筆した原稿を送り直しました。多分前回の場合と同じように写真も2枚ぐらいほしいと言われるかもしれませんので、パソコンに保存してある古い写真の中から6枚を選んで候補写真として添付しました。
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アメリカ紀行-その2 本山直樹(千葉大学名誉教授 2024.8.31)
「鳩のたより」第77号が届きました。ありがとうございました。拙文がお役に立てたかどうかわかりませんが、字数内で今年の古巣訪問について紹介させていただきました。
私がノースカロライナ州立大学(NCSU)に27才で留学した1969年当時は、1ドルが360円の固定為替レートで外貨持ち出しにも制限があり、日米間の経済的格差が大きかった時代でした。アメリカ国内でも人種差別が法的には禁止されても、実際には社会に根強く存続している時代でした。大学での研究以外に空手の指導をしたお陰で、クリスマスには白人の家庭に招かれたり、黒人の家庭に招かれたり、アメリカ人とアメリカの社会を学ぶいい機会になりました。いろいろな思い出がありますが、面白かったことの一つは、魚釣りに行く途中で餌のミミズを買いに立ち寄った田舎のコンビニの前にたむろしてビールを飲んでいた白人に(当時はアメリカ南部の田舎でアジア人を見るのは珍しかったらしく)話しかけられ、私が日本人だと知って、「俺が海軍兵士として原子力空母に乗って横須賀港に寄港した時は痛快だった」と言われました。何故だと訊いたら、大勢の日本人が岸壁でデモをしていて「ヤンキー・ゴーホーム」と叫んでいたからだと答えました。アメリカ社会では南北戦争のしこりがまだ潜在的に残っていて、南部のアメリカ人の別称はRebel(レベル)というのに対して北部のアメリカ人の別称はYankee(ヤンキー)といいますので、日本人のデモ隊が原子力空母の寄港自体に反対していたのを、北部のアメリカ人は帰れと叫んでいたと誤解したようでした。もう一つ私の記憶に鮮明に残っている経験があります。空手の弟子の一人だった白人のジム君は私と同年代でしたが、グリーンベレー(米国陸軍特殊部隊)を除隊後NCSUの植物病理学科で研究助手をしながらPh.D取得を目指していました。コーヒーブレイク(休憩)に彼の研究室を訪ねて、陸軍を除隊して実験助手をしていた年配の黒人を含めて3人でよく雑談をしました。終戦直後日本に進駐した米軍兵士は電車に乗る時は周りの日本人から襲われる不安から拳銃を抜いて握って乗っていたと話したら、ジム君は信じられないという顔をしましたが、黒人の実験助手が実は自分も進駐軍の一員として日本に駐留していた時にそうしていたと証言してくれたことです。当時のアメリカの大学には世界中から留学生(私のいた農薬毒性学の研究グループだけでもイギリス、ニュージーランド、カナダ、オランダ、エストニア、ユーゴスラビア、エジプト、リビア、イスラエル、トルコ、ギリシャ、ブラジル、インド、タイワン、韓国、中国、等)が来ていましたので、彼らと親しく接することができたのも貴重な経験だったと思っています。
私は昭和17年に朝鮮の平壌で生れて、終戦の時に3才で引き揚げてきてすでに82才の老人になりましたが、学生時代(大学空手部の主将でした)から始めた空手は健康管理の習慣として今でも続けています。週に2~3回は空手衣に着替えて基本の稽古と軽い筋力トレーニングを約1時間してから、運動着に着替えて江戸川堤防や矢切の農耕地などを2~3時間ウォーキングをしています。お陰様で身体的にはどこも悪いところがなく、薬も全く飲んでいません。願わくば、週2回スポーツジムに通っている妻と一緒にあと10年ぐらいは今の健康を維持したいと思っています。
長野県の実家を手放すことになって喪失感を覚えられたとのこと、東京や大阪のような都会に人口が集中して田舎が寂れていくのは、日本の政治の結果で、私も残念に思っています。私の家内は山梨県の田舎の農家の出身で、昔は山梨県北巨摩郡津金村と言っていたのが、今は山梨県北斗市須玉町上津金と変わりました。実家の裏の峠を越えればすぐ長野県清里で、目の前に八ヶ岳連峰が見えるド田舎です。昔は小学校も中学校もあって、村祭りもあったのが、今は人口減少で小学校も中学校も廃校になり、村祭りもなくなり、無人家屋や廃屋ばかりになって、村は消滅寸前です。アメリカでも同様な現象はありますが、州が独立していて自治が認められていますので、日本ほどではありません。日本も東京と大阪の2極集中ではなく、地方分散でバランスよく発展していけるようになればいいなと考えています。長くなりましたが、「鳩のたより」をご恵送いただきましたお礼まで。
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