2010年12月31日金曜日

12月27日に振り込まれた方(3回目)の支援金が今日届きました。これで支援金の現在高は45,000円、延べ209人からの合計額は2,542,565円になりました。ありがとうございました。

今年の2月20日に私のWebsite http://sites.google.com/site/naokimotoyama の記事NO.14として緊急支援要請文を掲載して以来、今までに延べ209名の方が支援金を振り込んで下さり、合計額は250万円を超えました。入金記録簿を調べてみましたら、支援者の実数は114名ですから、95名の方々は繰り返し(2回~10回)振り込んで下さったということになります。いただいたメッセージ等から、ほとんどの方は市橋君とは直接的には何の関係もない方々と想像されます。千葉大学を卒業してからとんでもない間違いを犯して窮地に追い込まれた元学生に対して、支援者の方々はまるでご自分の家族や関係者のように痛みを共感して下さり、温かい手を差し伸べて下さり、本当にありがとうございました。お陰さまで弁護団に裁判活動・弁護活動に必要な資金の一部を提供できましたので、元学生に適正な裁判を受けさせることができるようになりました。

今日は大晦日です。刑務所の中でも年越しそばがふるまわれるのでしょうか。逃走中に、生きるために働くというのはどういうことかを初めて経験した(弁護団にそう語ったそうです)市橋君ですが、これから長い年月をかけて罪の償いをしなければなりません。元教師としては、接見が許されるなら、悪いことをした元学生を刑務所から引きずり出してぶん殴ってやりたい気持です。すでに起こってしまったことを取り消すことはできませんが、これから刑務所の中で許される範囲の中で、市橋君が親からいただいた命を大切に、できる限りしっかり生きて命を全うしてほしいと思います。

2010年12月30日木曜日

12月28日に振り込まれた2名の方(10回目と2回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は25,000円、延べ208人からの合計額は2,522,565円になりました。メッセージもいただきました。「来年は市橋さんの裁判があるということで、私は自分自身の意思を再確認しています。私は市橋さんに更生し、もう一度御自分の人生を考え、やり直して頂きたいです。どれほどの時間があるのか判りませんが、市橋さんらしく生きてほしい。色んな考えがあるでしょうが、私は市橋さんをずっと見守り続けたいですし、少しでも更生のお役に立てれば・・・と思います」「ニュース報道があってからあっという間に冬が来てしまいました。(市橋君が)生きていて良かったと心から思いました。暑い夏、寒く辛い冬、幾度も超えて生きるのも市橋さんの人生。頑張って生きてください。自分の息子と重ね合わせて願ってます。」
ありがとうございました。もし市橋君のご両親がメッセージをご覧になれば、人の心の優しさに涙を流して感謝されるのではないでしょうか。

今日郵貯銀行から届いた振替受払通知票を見ますと、現在高は25,000円ではなく45,000円になっていますので、多分、12月27日に振り込まれた方がおられてその払込取扱票が遅れているのだと思います。12月28日の分と前後して明日には届くでしょう。

今日木曜は週間文春の発売日だということを思い出して、12月30日・1月6日新年特大号を買ってきました。先日取材に来た市橋君の記事が出ているかと思って目次を探してみましたら、載っていました。週間女性の場合と同じで、今までの経過が短く紹介されているだけでした。週刊誌というのは、元々娯楽や芸能人のゴシップ記事が中心で、スポーツ新聞などと同じように朝駅で買って、通勤電車の中で読んで、夕方駅で捨てていくという性質のものかもしれませんが、もう少し深く掘り下げた記事にすれば(例えば、有識者や、市橋君と同世代の若者、などの座談会形式にして、何故事件は起きたのか、社会的な背景があるのか、裁判員は何に注目して判断をすべきか、事件の再発を防ぐには何が必要か、外国人英語教師の生活の実態、などを議論させるなど)、ジャーナリズムとして価値が高まるのにと思ってしまいます。

2010年12月29日水曜日

千葉大学走友会の練習会は、稲毛の海浜公園から幕張のマリンスタジアムまでの往復約10kmを17人で走りました。一番遅い私が一番早くスタートし、今年の記録が一番早い人は私よりも21分遅れてスタートしました。同じやり方で、私は一昨年は1位、昨年は2位になったのですが、今年は練習不足で5位でした。1位は本部事務局の経理課勤務のママさんランナーのO女史、2位は外科医師のS先生でした。寒風の中でしたが、所々海が見えるコースを全力で走って、気分は爽快でした。
忘年会は駅前の飲み屋さんで、勤務している学部も職種も年令(25才から75才まで)も違うメンバーとOBが、楽しいひとときを過ごしました。年末の忙しい時期ですので、練習会にも忘年会にも参加できなかった人もたくさんいました。
走ることのいいことは、自分に都合のいい場所で都合のいい時間にマイペースで練習できること、健康管理によいこと、走った後のビールの美味しいこと。それに、利害関係のない仲間がたくさんできてワイワイガヤガヤ楽しいこと、でしょうか。

私は、来年3月中・下旬に開催される学会大会の講演要旨の締め切りが1月初めですので、間に合うようにこれから大急ぎで準備をしなければなりません。

2010年12月27日月曜日

12月24日に振り込まれた方(2回目)の支援金が届きました。支援金の現在高は5,000円、延べ206人からの合計額は2,502,565円になり、ついに250万円を超えました。ありがとうございました。クリスマスに因んで、温かいメッセージが添えられていました。「本日はクリスマスイブです。市橋達也さんはきっと、聖書を片手に内観し、祈りを捧げていることと思います。自分の中の傲慢を反省し、全てのことを受け入れることができたならば、市橋達也さんの人生は変わる筈です。そして、生きて下さい。生き抜いて下さい。人生にムダはありません。応援しています。」
クリスマスという節目に、刑務所の中にいる市橋君に思いをはせ、生きる希望を失わないように励まして下さる方がおられるということは、大変ありがたいことです。

今日は東京農大に行きましたら、昼休みに百周年記念講堂と呼ばれる大きな建物の前の広場で、箱根駅伝に出場する駅伝部の壮行会が行われていました。寒空の下に大勢の駅伝部員(40~50人?)が30分くらい直立し、応援団とチアリーダーがブラスバンドの演奏と大太鼓の響きに合わせて、一糸乱れぬ見事な動きでエールを贈っていました。若干、戦地に派遣される軍隊の出陣式みたいな雰囲気でしたが、昨年のチームが健闘して勝ち取ったシード権とこのような激励を受けて、選手たちは大学全体の名誉を担った代表であるという自覚を高め、全力で走ってくれることでしょう。私も思わず立ち止まって、がんばれよの拍手を送りました。毎年、お正月2日と3日にかけて行われる箱根駅伝にはいろいろなドラマが起こりますが、必死に走る若者たちの姿に釘づけになります。、

2010年12月26日日曜日

この2~3日 n3motoya@gmail.com のメールサーバーが何らかの原因でダウンしているらしく、メールの送受信ができない状態になっています。メールが戻ってしまった方は、私の個人的なメールアドレスの方に転送して下さい。これから私にメールを送信される方も、従来のサーバーが回復するまで、私の個人的なアドレスの方に送信していただければ届きます。多分、明日には回復するのではないかと想像します。(先ほど夕方7時頃チェックしてみたら、すでに回復していました)

一昨日、菅野弁護士にお会いした時に、週刊文春の記者に聞いた息子さんも人権派弁護士として活躍しておられるという話を確かめてみましたら、やはりその通りだとのことでした。現在、非常に難しい事件の加害者の弁護を担当しておられるとのこと。弁護士というのは、被害者の弁護を担当したり、加害者の弁護を担当したりしなければならず、難しい職業だなと思いました。菅野弁護士は、弁護士という職業には「心・技・体」の三位一体が要求されるとおっしゃっていました。裁判に必要な知識や技術が「技」で、証拠を集めたり裁判で戦うのに必要な体力が「体」で、それにも増して人間としての「心」が必要とのこと。武道の世界と全く一緒だなと感じました。

29日(水)は千葉大学走友会の年末恒例の練習会と忘年会です。稲毛の海浜公園から幕張のマリンスタジアムまでの東京湾沿いの往復を走り、今年参加した駅伝やマラソンの記録によってハンディキャップをつけて、遅い順に時差スタートをして競争します。このところは私がいつも全会員の中で一番遅い記録の持ち主ですので、一番早くスタートします。今年もメタボ気味の体調を解消できませんでしたので、到着順位よりも完走することを目標にせざるを得ませんが、忘年会だけ出席する人たちよりもいいかなと自分を慰めています。それでも一応、昨日は8km、今日は10km江戸川堤防をゆっくり走って準備をしました。

2010年12月25日土曜日

12月21日に振り込まれた方(10回目)と22日に振り込まれた方(6回目)の支援金が届きました。これで現在高は221,000円、延べ205人からの合計額は2,497,565円になりました。ありがとうございました。昨日報告しましたように、24日に全額を払出して菅野弁護士に届けましたので、現在の現在高は0円です。公判前整理手続は3月下旬まで続きますし、6月下旬からと予想される公判でも、弁護団は日本の検察だけでなく、被害者遺族とその利益を代表するイギリス人弁護士に対して、市橋君の弁護活動をしていくことになりますので、これからも引続きご支援をお願い致します。

2010年7月9日にNHKホールで行われた吉永小百合「平和への絆コンサート-原爆詩の朗読と音楽の仲間たち-」がテレビで何回か再放送され、私は観る度に胸が締め付けられ涙が溢れました。幸い12月19日にもNHK BS2で15:00-16:30に再放送されましたので、知人に録画したDVDが入手できないか頼んでおきましたら、昨日届きました。吉永小百合の朗読を聞くと、人間の命と家族の大切さが心に沁みわたってきて、戦争によってそれが奪われた人々の悲しみを思うと、自然に涙が溢れ、二度と戦争をしてはいけないという強い思いが込み上げてきます。これは人類の宝ですので、世界中の人に観てほしいと思います。いつかNHKに問い合わせて、英語版ができていないようでしたら、私の娘(昔、職業として映像翻訳をしていたことがありますので)か誰かに英語の字幕をつけてもらえないか相談してみたいと思っています。

2010年12月24日金曜日

今日は菅野弁護士の事務所に伺う前に郵貯銀行に寄ってみたら、前回報告した後にさらに支援金が振り込まれていて(私のところにはまだ振替受払通知票は届いていません)、全額の219,000円を払出しました。それに現金を手渡された2,000円を合わせて、221,000円をお届けしました。これで、今までに支援金総額2,497,565円をお届けしたことになります。いつものように菅野弁護士からの領収証を添付しますので、ご確認下さい。

公判前整理手続の日程については、12月は6日と8日に行われ、1月は11日と31日、2月は14日と25日、3月は8日と16日が予定されていて、最終回は遅くても3月16日と裁判官に指示されているので、公判は2ケ月後の5月下旬になる筈ですが、実際はさらに遅れて6月下旬になる予定だそうです。それは、公判にはリンゼイさんのお父様が被害者遺族として正式に参加の申し出をし、それに指定弁護士(現在遺族の代理人をしているイギリス人弁護士)も参加するのに、6月下旬にならないと来日する日程の都合がつかないという事情によるようです。この指定弁護士は、日本の弁護士資格とイギリスの弁護士資格の両方を持っている方で、当然日本語も堪能なようです。公判の時期は、1月31日の公判前整理手続までに決定(予約)されるそうです。

今の裁判制度では、被害者(被害者遺族)求刑が認められているとのことですので、実際の公判では、リンゼイさんのお父様から検事の求刑よりもさらに厳しい極刑の求刑がされる可能性が予想されるようです。今回の事件では、正式裁判員6名の他に、万が一正式裁判員に何かがあった時のために補充裁判員3名も選ばれるそうです。裁判は、午前10時から12時まで2時間、午後1時から5時まで4時間、途中休憩をはさむと実質1日5時間が上限ですから、それに通訳の時間も考慮すると、最低でも2週間はかかるだろうとのことです。

市橋君は、毎日定時に放送されるラジオのニュースは聞けますが、今は新聞は購読していない(購読する権利は認められているが)とのことです。刑務所内の売店で購入可能な週刊誌・マンガのような雑誌と食べもの(衣服は駄目)については、注文書に書いて刑務所職員に渡せば、4~5日後に届くという仕組みですが、外部からの差し入れは、手紙類と同様に認められていないとのことです。従って、今まで個人的に直接刑務所に送ったり差し入れされたものは(お金を除いて)本人には届いていませんし、弁護士宛に差し入れてほしいと送られてきた手紙類もそのまま保管されていて、本人には届いていません。従って、私に送られてきた市橋君宛の手紙やカードも本人に届けることはできませんので、ご了承下さい。

弁護団は週に1回は1時間~1時間半くらい接見を続けていますので、必要なものは市橋君がその時に弁護団に要望すれば、支援金で購入して差し入れされますので、寒さ対策も含めて不自由はしていないそうです。刑務がない未決囚が狭い独房の中でどうやって一日を過ごしているのかわかりませんが、市橋君は聖書を読んだり、積極的に運動をしたりして、健康状態は普通のようです。公判前整理手続には必ず毎回参加しているそうですので、検察側と弁護団がどういう主張のやりとりをしているかについては、把握しているようです。刑務所の食事は、麦が5%(?)くらい混ざったお米のご飯とおかずが中心のようですが、市橋君は元々パンやスパゲッティが好きで米飯は食べないということのようですが、それではカロリーが不足するので、多分ご飯の代わりにパンを購入して食べているのかもしれません。

報道によっては、市橋君の年齢を32才とした記事もありましたが、昭和54年5月5日生まれですから、正確には現在31才の筈です。

2010年12月22日水曜日

先日市橋君の件で取材を受けた週刊文春の記事は、記者に問い合わせてみたら来週の木曜12月30日に発売される号に掲載されるとのことです。

名古屋市昭和区役所の市民課戸籍係りから今朝電話がありました。John君の出生証明書に記載されていたお母さんの当時の住所に相当する所には、該当する戸籍の記録は見つからないとのことでした。私が訪ねた場所には、生前のお母さんからJohn君が聞いていた通り、ある宗教団体の教会が家のすぐ前にありましたので、場所に間違いはない筈です。早速アメリカに電話をして、その他に何か手掛かりになるようなことを聞いていないか思い出してもらったら、当時John君のお母さんの家は兄弟・姉妹が7~8人の大家族で、contractor(建築や土木工事などの請負業)をやっていて、従業員の給料支払い(payroll)などの事務的なことを娘時代のお母さんが担当していた、という新しい手掛かりがわかりました。お母さんのお父さんは魚釣りが趣味だったと聞いたことがあるというのも新しい手掛かりです。第二次世界大戦が終わった1945年から間もない1950年頃のことですが、近所に年輩の方が住んでいれば当時のことを覚えている人がいるかもしれませんので、今度名古屋に行く時に近くの住宅を何軒か訪ねてみようと思います。

2010年12月20日月曜日

12月17日に振り込まれた3名の方(3回目、10回目、8回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は210,000円、延べ203人からの合計額は2,486,565円になりました。ありがとうございました。各々の方からのメッセージも書かれていました。「本山先生・弁護士のみなさんには頭が下がります。市橋君に気持が伝わる事を願っております。」「寒くなりました。市橋君、体に気をつけて強い心でがんばって下さい。いつでも応援しています。本山先生も御身大切になさって下さい。」「市橋さんへ、You are not alone. 応援しています。」

菅野弁護士から連絡があり、その後振り込まれた支援金を12月24日にお届けすることになりました。公判前整理手続の様子や、市橋君の様子や、皆さまから寄せられた質問などについても伺ってくるつもりです。

先日取材に来た週刊文春は、今日駅の売店で訊いてみたら、毎週木曜日に発売されるとのことでした。

母親が日本人で父親がアメリカ人のJohn君から、亡くなったお母さんの戸籍から親戚が存在するかどうかを調べてほしいという依頼ならびに了承の手紙が届きました。早速日本語に訳して、以前渡されたアメリカ領事館発行のJohn君の出生証明書のコピーとその日本語訳と一緒にして、1953年に渡米する前にお母さんの本籍があった名古屋の昭和区役所に送りました。個人情報でしょうから、区役所がどういう対応をするか・・。

2010年12月17日金曜日

今日は予想外の方から手渡しの支援金がありました。これで支援金の現在高は193,000円、延べ200人からの合計額は2,469,565円になりました。支援活動に対するご理解とご協力をありがとうございました。

週刊文春の特集記事用の取材は予定通り行われました。市橋達也君の適正な裁判を支援する会を立ち上げた理由や、どういう方が支援者かということや、支援金が役に立って検察側の死亡推定時刻の変更に貢献したことや、弁護団から聞いている市橋君の最近の様子など、私の知ってることと、私の考えていることをお話しました。特集記事がいつ掲載される予定かは確認するのを忘れてしまいましたが、他の重大事件・事故と一緒の特集記事ですから、多分要点だけ簡略に報告する小さな記事になるのではと思います。

TBSテレビが、BS放送用に松枯れ問題について取りあげたいということで、私が協力して現地取材をする計画について現在相談が進行中です。松くい虫を防除するヘリコプターによる薬剤散布が中止に追い込まれたために、松林がどれだけ悲惨な状況になっているかをきちんと報道して、国民に実態を理解してもらうことは重要ですので、私もできるだけ協力を惜しまないつもりです。

2010年12月16日木曜日

12月14日に振り込まれた2名の方(8回目と5回目)の支援金が届きました。8回目の方からのメール通知には「・・市橋君も風邪ひいてませんように・・」というメッセージが書いてありました。これで支援金の現在高は191,000円、延べ199人からの合計額は2,467,565円になりました。どなたでも、年末年始はいつもより支出が多い筈なのに、市橋君が適正な裁判を受けられるように、何回も支援金を送り続けて下さってありがとうございます。

明日は、週刊文春が「重大事件・事故を振り返る」という年末特集企画記事用に、市橋君の近況について取材に来ることになっています。

2010年12月14日火曜日

ある支援者が、大石 圭という作家自身のブログで、市橋君のことに言及していると知らせてくれました。
http://www.ooishikei.jp/diary/diary_67.shtml
市橋君がいた寮にあったのは、文庫本の「殺人勤務医」のカバーだけだったとのこと。また、市橋君が逮捕された時に道尾秀介著の「向日葵の咲かない夏」というミステリー小説を持っていたとのこと。
こういった小説を読んでいた市橋君を、マスコミは異常性癖の持ち主であるかのように報道していたが、大石 圭も道尾秀介もベストセラー作家で、これらの作品は気軽に読めるライトノベルなので、特に事件とは関係がないのでは、というのがこの支援者のお考えだったようです。

イギリスのメディアが市橋君が暴力的な内容の漫画を愛読していたと報道していたことに関しても、http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/news/article23530.ece
に載っていると知らせてくれました。
両方の情報とも私の知らないことでした。ありがとうございました。

今日はまた、別の支援者から5回目の支援金を振り込んだというメールが届きました。「裁判員裁判でも、かなり厳しい刑が下りている状況の中、
あれだけの注目を浴びた事件ですから、どうなるか・・・ 本当に正当な裁判が行なわれることを願っております。」「これで今年の送金は最後になるかと思います。どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。市橋さんも、隔離された中ではありますが、心安らかな年を迎えられますように。」というメッセージもいただきました。ありがとうございます。

先日、「週刊女性」の編集部員から取材を受けましたので、今日発売(1月1日号)の「週刊女性」を駅の売店で買ってきて、どういう記事になっているか開いてみました。「2010年のニッポン その後、どうなった? 終わらないあの騒動、あの事件の今」という特集で取り上げたいくつかの事件の中の一つですから、事件を掘り下げるだけのスペースはありませんが、市橋君について従来の多くのメディアのように偏見と推測に基づいた悪意のある書き方はされていないと感じました。

記事の見出し「恩師が明かす市橋達也被告(32)の今」から、彼がすでに30才を越えたことに気付かされます。大学を卒業してから2年、事件から約3年逃亡生活、身柄を拘束されてから1年ですから、千葉大学を卒業してからすでに約6年という歳月が経ったことになります。どういう判決になるのかはわかりませんが、有期刑の上限は30年ということのようですから、これからさらに相当の長年月を刑務所の中で暮らすことになるのでしょう。その間にも、市橋君の心が腐らずに、罪を償いながらできる範囲で自分自身の成長をし続け、社会にも何らかの貢献ができるように、皆で応援をしてあげられればと思います。

2010年12月13日月曜日

12月10日に振り込まれた方(2回目)と11日に振り込まれた方(匿名希望、3回目)の支援金が届きました。「体には十分気をつけて、市橋君の更生できる日を願っております。2回目ですが、今後も支援していきたいと思っております。」とのメッセージもいただきました。ありがとうございました。これで支援金の現在高は171,000円、延べ197人からの合計額は2,447,565円になりました。

市橋君が千葉大学を卒業する時に、市川の辺りに住むのだったら松戸に近いのだから時間がある時は道場に来て一緒に稽古をしようと誘ったら、「はい」と答えたにもかかわらず、事件を起こすまでの2年間全く交流がなかったので、彼がその後どういう生活をしていたのか私は知りません。私の研究室を専攻して卒業・修了していった学生の中にも、30年経った今でも連絡をくれる者もいれば、卒業後は一度も連絡をくれない者もいます。しかし、普通の学生だった市橋君が、すぐ見つかることはわかっていながら、何故リンゼイさんを自宅で強姦し、自宅に監禁し、亡くなった後は遺体を自宅に隠すような理性では考えられない馬鹿なことをしたのか、理解するのは困難です。しかしこういう事が起こったのは事実なので、市橋君には何か理由があったのでしょう。

支援者のお一人から、大石 圭という作家の小説に、美女監禁サディズム、監禁致死、裸にして縛って暴力、美女を檻に入れる、ロープで拘束・・、といった内容の作品があるというお知らせをいただきました。社会から隔離されて一人で生活する若者が、インターネットカフェに入り浸ったり、小説を読み耽ったりしているうちに、その中で描かれるバーチャルな世界と現実との区別が付かなくなって、理性では考えられない犯罪を犯すようなことがあるのかどうか。私は社会学者でも、犯罪心理学者でも、精神科医でもありませんが、一度目を通しておきたいと思って、早速ネットで検索して大石 圭という作家の小説の中から一冊「奴隷契約」を選んで注文しました。

2010年12月11日土曜日

昨日は東京農業大学のグリーンアカデミーホールという施設で、総合研究所研究会農薬部会の第80回セミナーが開催され、2題の講演がありました。元三共株式会社農業科学研究所長の城島輝臣博士の「第12回国際農薬化学会議に参加して」と、日本獣医生命科学大学名誉教授の鈴木勝士先生の「農薬のリスクアセスメントをめぐる最近の話題」

鈴木先生は内閣府食品安全委員会農薬専門委員会座長を3期も務めて最近退任された方で、200以上の農薬の一日摂取許容量(ADI=Acceptable Daily Intake)の設定に携わった方です。農薬のリスクアセスメントの法的根拠、理念、方法論、係争・懸案事項など、長年直接携わった人でなければできない素晴らしい講義をされました。

いずれも大変興味深い内容で、本当は大学の講義と同じように15回くらいシリーズでやっていただきたいと思ったくらいですが、私自身も過去に関わったことがある問題で特に興味深い話題がいくつかありました。一つは、先生がダイオキシンパラドックスと表現した問題。ダイオキシンは地球上で人類に対する最強の毒と思われ、学校でのゴミ焼却も禁止され、我国の風物詩だった落葉での焼き芋もできなくなりましたが、実はそれは間違いだということ。

本ブログの12月4日の記事で言及しました日米科学協力事業セミナーの後、私はアメリカの疫学者Dr. David F. Goldsmithが再来日した機会に、日本の疫学者(当時、国立がんセンター研究所がん情報部長)Y博士もお呼びして、千葉大学で”農薬の発がん性および内分泌かく乱(環境ホルモン)活性に関する疫学的リスク評価”という公開ワークショップ(1998年)を企画・実施しました。その時にY博士が送ってこられた演題「弱いポテンシーの発がん物質を疫学的にどう評価するか:ダイオキシンを例として」を見てびっくりしました。ダイオキシンの発がんリスクは、一般国民の思い込みと違って、タバコを1日1本吸う人が15年後に肺がんになるリスクと同程度に低いということ。ベトナム戦争当時ジャングルを枯らすために散布された除草剤に含まれていたダイオキシンでベトちゃん・ドクちゃんに代表される奇形児が生まれたというのも間違いで、実はこの地方の風土病だったということ。ある国の工場で多くの人が高濃度のダイオキシンに被曝する事故があった場合も、その後の調査で発がん率の異常増加はみとめられていないということ。当時の私にはショックだったのを記憶しています。

昨日の講演会で別の専門家から偶然同じ話とその科学的根拠をお聞きして、納得すると同時に、メディアや一部の学者やジャーナリストや、それに動かされる政府に、私たちがいかに簡単に間違ったことを信じ込まされるかということを再認識しました。当時厚生省所管の国立がんセンター研究所の専門家でありながら、何故ダイオキシン騒動は間違いだと国民に発言しないのかという私の質問に対して、Y博士は「嵐が吹いている時は誰も聴く耳をもっていないので、何を言っても無駄だ」と答えられました。

ダイオキシンは危ないと騒ぐことで、視聴率を稼いだり、研究費を獲得したり、財務省から予算を配分されたり、ビジネスが繁盛したり、社会正義をしていると思い込んで自己満足したりする人がいることも、間違った認識がいつまでも是正されない理由のひとつでしょう。、そのために、国民の税金から無駄な予算が支出され続けるとしたら、それは国民の利益を損なっている反社会的行為ではないでしょうか。農薬についても、本当は安全性に問題はないのに、危険だ危険だと虚偽の宣伝をして自己利益(お金儲けや、自分たちの活動の正当化など)に結び付けている人たちが多数いるのも、似たような状況だなと思いました。

2010年12月8日水曜日

12月6日に振り込まれた方(9回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は136,000円、延べ195人からの合計額は2,412,565円になりました。メッセージもいただきました。「心配な事は計り知れないほどありますが、市橋君がとにかく強い心と健康でいれますよう、心より祈り、毎日手を合わせております。」 ありがとうございました。

今日は「週刊女性」のK編集部員(若い女性)が市橋君の件に関する取材で東京農業大学の私の研究室に来られました。来週12月14日火曜日発売号に掲載予定の「あの事件は今」という年末特集記事の中で、「市橋被告の現在おかれている状況」をとりあげたいとのことでした。テープレコーダーを回しながら、30分くらいという予定でしたが、私がたくさん話しましたので、気がついたら2時間半くらい経っていました。今は、メディアは猫も杓子も歌舞伎俳優の市川海老蔵暴行事件一色の中、週刊誌というのは発売日直前(ホットな話題を伝えるため)に取材して記事を作っていかなければならないので、大変だなあと思いました。

そもそも私が何故顔を表に出して支援する会を立ち上げたかをお話しました。今までに支援活動を批判するメールが届いたり、農大学長に抗議文を送りつけてきた人がいたり、支援者の顔をして支援金を振り込んで支援活動の様子を探ろうとしている反支援者らしき人がいることや、いろいろ嫌がらせもあることをお知らせしました。市橋君は、拘留されてから絶食死を目指した時期や、千葉刑務所に移されてからは自殺の可能性があるという扱いから普通の未決囚と同じ扱いを要望した時期や、差し入れされたお金で刑務所内の売店で甘いものを買って食べ過ぎて(ストレス発散?)メタボになりかかった時期や、今は普通の未決囚扱いになって精神的にも落ち着いて、運動も積極的に行っているらしいことなど、弁護団から聞いたことをお話しました。私たちの支援活動は弁護団を通して市橋君にも伝わっていることもお話しました。

先日取材に来られたイギリスの新聞の東京支局長の時もそうでしたが、メディア関係者も、確実な情報がない中で、ネット上で交わされている信頼性が確認できない憶測や悪意に基づいた流言飛語に惑わされる可能性があると感じました。今日の取材の結果どういう記事になるかわかりませんが、帰り際に、「自分も本山先生のような教師の学生だったら良かった」と言って下さったので、等身大の正直な市橋像を伝えるような記事になることを期待します。

私自身も12月はスケジュールがかなり一杯ですが、菅野弁護士に、その後振り込まれた支援金をお届けする日程調整をお願いしました。

2010年12月4日土曜日

今日は神田の学士会館で名古屋大学農学部同窓会関東支部総会ならびに講演会があり、私も参加しました。昭和32年(1957年)卒から平成16年(2004年)卒までですから、47年の年齢差のある同窓生が楽しいひと時を過ごしました。講演の部は、JAXA(宇宙航空研究開発機構)未踏技術研究センターの小口美津夫氏による「宇宙で生きる~人工的な地球の創造~」という演題の講演があり、スライドに動画(宇宙飛行士がどうやって歯を磨いたり頭を洗ったりするかとか、無重量状態で魚が突然キリキリ舞いする様子とか)も挿入して、あまりにも興味深いお話に最初から最後まで惹きこまれました。宇宙船での長期生活用に開発された様々な技術、例えば物質の再利用、水の浄化、植物工場による食料生産など、地球上の問題を克服するのにも活用できるということを再認識しました。

数日前に大阪大学で物理学を教えておられるK教授から、私たちが10年以上前に取り組んでいた農薬と発がん性に関する研究についての問い合わせのメールが届きました。科学を装いつつ実は科学的根拠のないさまざまな問題を「ニセ科学」として検討しておられるとのことです。私たちは、1960年代に使われていた水田除草剤が、新潟県における胆のう癌による死亡率が全国一高いことと関係があると示唆した疫学的な研究を再検証し、仮説を否定しました。この問題については、日米の癌の疫学の専門家その他を招聘した日米科学協力事業セミナーでも検討しましたので、その時のプロシーディングズ
"Pesticides and the Future: Minimizing Chronic Exposure of Humans and the Environment" eds. Ronald J. Kuhr and Naoki Motoyama, IOS Press, Amsterdam, 1998
を一冊お送りしました。

疫学的研究の仮説は否定されたにもかかわらず、当時アエラという週刊誌に大きく報道されたこともあって、この事例が今でも農薬による発がん性の事例として引用され続けているのは残念なことです。間違いがわかっても、報道を訂正しない一部のメディアやジャーナリストの無責任な体質にも責任があると思います。

2010年12月2日木曜日

アメリカ訪問中の10月4日に、ノースカロライナ州ローリー市の病院に入院していた友人のFrank Peoples君の奥さんのJoAnnさんをお見舞いに行って、いつかまた会おうとお別れの挨拶をしてきましたが、今日は私の携帯に突然の電話があってびっくりしました。退院して、理学療法士の指導を受けて自宅で歩行訓練などのリハビリをしているとのこと。Frank君も電話に出てくれて、お互いに元気でやっていることを確かめ合いました。久し振りに友人の声が聞けたので、今日は一日いい気分でした。

先日、三重県からの帰りに名古屋に途中下車して、1951年(昭和26年)に空軍兵士だったアメリカ人の父親と日本人の母親との間に生まれたJohn君(59歳)の出生証明書を頼りに、当時お母さんの住んでいたところと産婦人科医院を見つけることができましたが、それを知らせたら、John君と奥さんのMaureenさんから感謝のメールが届きました。今度は、John君からの戸籍調査依頼状が届いたら、次回名古屋に行く時に、それを区役所に持参してお母さん(故人)の兄弟・姉妹の移転先や従兄弟・従姉妹の有無を調べてあげるつもりです。届いたメールによると、John君のお父さんとお母さんが名古屋で出合ったのは17才の時ではなく(それでは計算が合わない)、21~22才頃だった筈とのことでした。お母さんが亡くなる前に、日本でのご家族の消息を探してあげられればよかったのにと思ってしまいます。

昼休みに道場で学生と空手の稽古をした後、車を運転して千葉県山武市にある千葉県森林研究所を訪ねました。先月、松林防除実践講座での私の講演を聴いた県の研究者(千葉大学園芸学部の古い卒業生)が、来年は千葉県の松林を対象に一緒に研究ができないかと提案してきましたので、その相談をしてきました。千葉県は昭和54年(1979年)にあった松林面積35,856haに比べると平成21年(2009年)の残存松林の面積は3,353haですから、30年間で松林の90%以上が消滅しています。わずかに海岸に残っている松林だけは、これも松枯れで酷い状態ですが、防風林・砂防林としての機能を果たしていますので、地域住民の生存環境を保全するためにこれだけは何とか死守したいという考えです。私は、最後の博士研究員がいなくなる来年の4月以降は、大学卒業以来45年間続けてきた研究生活から引退する潮時かなと考えていましたが、場合によってはもう少し続けることになるかもしれません。

2010年12月1日水曜日

11月29日に振り込まれた2名の方(2回目?と9回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は131,000円、延べ194人からの合計額は2,407,565円になりました。ありがとうございました。公判前整理手続が来年3月まで続くことになり、弁護団も5月以降と予想される公判まで長期間の裁判活動をすることになりますので、それを支援する支援金が引続き振り込まれることは大変ありがたいことです。

払込取扱票にはメッセージが手書きされていました。「市橋君にもおじいちゃんがいる(注)と聞きました。そのおじいちゃんのためにもがんばって下さい。一日も早く岐阜へ帰れるよう祈っております。私も男の子のおばあちゃんです。」「・・・イチョウやもみじも美しく紅葉し、そろそろ落葉で地面は彩り鮮やかな絨毯をひいているようです。市橋さんにも見せてあげたいです。独房の中、寒くないか、淋しくないか、風邪ひいてないか、色々心配です。早く、たくさんの方々の支援する気持が市橋さんに伝わればいいな! と思います。そして適正な裁判と判決を心から願い祈ります。」 
(注)私は市橋君のご家族の構成については把握していません。

昨日のブログで、裁判官がさらに整理手続を続けるように指示したことを報告しましたが、それに対して何人かの支援者からメールでコメントが届きました。検察側が主張している「殺人」の意思が本当にあったかどうかを厳密に検証してもらえるという意味では非常に良かったと思う半面、被害者の遺族(リンゼイさんのご家族)にとってはつらい日々がさらに続くのは気の毒だという配慮をされる方もいました。

私たちは、市橋君が社会から袋叩き(リンチ)にされないように、適正な裁判を受けられるように支援活動をしていますが、亡くなったリンゼイさんとそのご家族の無念さも決して忘れてはいけないと思います。

2010年11月30日火曜日

今日は第8回の公判前整理手続の後、菅野 泰弁護士、山本宏行弁護士、三宅貞信弁護士が千葉大学園芸学部のある松戸キャンパスに来られ、市橋君が卒業論文の研究で専攻していた庭園デザイン学研究室の指導教員のお一人だったM教授と情報交換をしました。市橋君が1年生の時に提出した庭園デザインの設計図が、同期の学年のトップ8名の優秀作品に選ばれたこと(冊子に作品の写真が残っている)や、早くからデザインに熱意を持っていたことなど、私の知らなかったことも多々ありました。

その後、学内の生協の食堂に寄って、長年学生達に食事を作っていて、親元を離れて生活している下宿生達にお母さんのように慕われている生協職員のIさんの入れたコーヒーを飲みながら、当時の市橋君の印象などを聞きました。市橋君はいつも食堂が混んでいる時間が過ぎてから昼食を食べに来ていたので、よく話を交わしたけど、事件が報じられた時はあんないい子が何故と信じられなかったとのことでした。

今日の公判前整理手続では、結局12月の残り2回だけでは整理がし切れないという裁判官の判断で、3月まで整理手続を続けるように予定が組み直されたようです。ということは、公判が開かれるのはそれから約2ケ月後ですから、早くても5月20日頃以降ということになるようです。どんどん当初の見通しよりも延びてきたのには、主として検察側の主張が根拠が弱い(つまり、検察側は先に筋書きを構築したけれでも、その筋書きが正しいことの証明に苦労をしている)ということにあるのかなという印象を受けました。

検察側は、昨年12月2日に市橋君を「死体遺棄」容疑で起訴し、12月25日にはそれプラス「強姦致死」「殺人」容疑で起訴をしましたが、2回目の起訴前日の12月24日の取り調べで市橋君が事件の全容を自ら証言し検察側はその調書をとったにも拘わらず、検察側が構築した筋書きと異なるということから、それを信用できないとして証拠として提出していないことに無理があるようです。市橋君の証言に基づいた弁護側の「傷害致死」に相当との主張に対して、検察側の主張する「殺人」を裏付ける証明ができないということが問題のようです。

なお、支援者が心配しておられた暖房については、千葉刑務所は一応暖房はあるが非常に寒い状態(設定温度が低い?)とのことでした。支援者のお一人は、2週間ぐらい前に千葉刑務所で行われた矯正展に参加し、刑務官の案内と説明で塀の中の施設などを見学してきたとのことです。刑が確定後、市橋君がどういう生活をすることになるのかある程度想像ができたとのことです。

2010年11月29日月曜日

11月26日に振り込まれた2名の方(1名は5回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は116,000円、延べ192人からの合計額は2,392,565円になりました。ありがとうございました。初めて振り込まれた方からは、次のメッセージが添え書きされていました。[初めて支援させて頂きます。先日まで体調を崩していたので少し振り込みが遅くなりました。入院していて思った事があって、人は心や体が弱っている時にかけてもらった何気ない一言やちょっとした気づかいがどんなにありがたいことか、という事です。何の面識もない私のメッセージが市橋さんの心にひびいてくれるかわかりませんが、もし可能なら「ストレスのたまる毎日でしょうが、心折れる事のないように市橋さんにとって最良の判決が出るように祈っています」とお伝え下さい。本山先生もお体には気を付けて、これからも無理なさらぬように頑張って下さい。応援しています。]

私も本当にその通りだと思います。人間は、苦しい時ほど、困っている時ほど、声をかけてもらったり、助けの手を差し伸べてもらったりすると、どんなにかありがたいと感じるものだと思います。弁護団が接見する時に、皆さまからの励ましのメッセージを市橋君に伝えていただけるように、あらためてお願いするつもりです。

2010年11月28日日曜日

今年の講演や講義の予定は全部終わりましたので、久し振りにカメラを持って園芸学部キャンパスと江戸川の堤防を散歩しました。市橋君が専攻した庭園デザイン学研究室が入っているA研究棟右の桜の老木は、春には満開の花を咲かせていましたが、晩秋の今は紅葉の時期を過ぎてすでに落葉していました。A研究棟左にはヒマラヤシーダーと呼ばれる巨木が何本かありますが、その下には昔ここを訪れたことがある与謝野晶子の句碑が、市橋君の卒業後に建てられました。斉藤一雄初代教授が設計した図書館(園芸学部分館)裏の小庭園は、春には春の、秋には秋の風情があります。

江戸川の堤防を歩くと、春や夏とはまた違った景色が目に入ります。今の状態の市橋君は外の景色の移り変わりを見ることはできませんが、在学中はきっとこういう景色を見慣れていた筈です。不可能なことですが、彼にも見させてやりたいと思いました。最初の公判が開かれるまで弁護士以外の接見はできませんので、外界と隔離された人間は誰でも、特に3年近く人目を避けて逃走していた人間にとっては、どれほど孤独感で寂しい思いをするのだろうかと想像してしまいます。しかし、直接伝えることはできませんが、市橋君には、ご家族以外にも、多くの支援者が心配をして温かい目で見守っていることを知ってほしいと思います。

2010年11月27日土曜日

11月25日に振り込まれた2名の方(1名は9回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は101,000円、延べ190人からの合計額は2,377,565円になりました。ありがとうございました。お一人からは、「市橋達也さんが適正な裁判を受けられるよう祈っております。本山先生もお身体ご自愛下さい。」というメッセージも書かれていました。9回目の方は、毎月定期的に支援金を振り込んで下さっています。弁護団も毎月弁護団会議を開いて相談し、市橋君のためにベストの弁護活動を続けてくれていますので、このように支援者が関心を持ち続けて下さることは、大変ありがたいことです。

11月26日には、初めての方からメールで支援金を振り込んだとのメッセージが届きました。ありがとうございました。支援金は来週には届く筈です。

昨日の三重県津市での講演「防除の必要性と農薬の安全性について」は、一般消費者対象ではなく、三重県で実際に農薬の流通を担っている方々が主対象でしたが、食料の確保に農薬が果たしている重要な役割と、メディアの報道と違って安全性も十分確保されているという事実を再認識し、農薬の流通という仕事に従事していることに自信と誇りを持っていただけたと思います。

今朝は津からの帰途名古屋駅に途中下車し、10月にノースカロライナ州で会った昔の空手の弟子のJohn Burgess君のお母さんの出身地を探しました。当時名古屋にあったアメリカ領事館が1952年に発行した出生証明書のタイプの字はかすれていて(何回も複写もされていたので)判別困難でしたが、英語で書かれたお母さんの住所と出生証明書を書いた産婦人科医の名前と住所を日本語に訳して、昭和区役所を訪ねました。本来は区役所は土曜日は休業日ですが、ラッキーなことに、ちょうど名古屋市長と市議会の対立で市議会解散に署名した市民が署名の多くが無効と判定されたことに納得せず、署名簿の閲覧に押し掛けてきていましたので、総務課だけは開いていました。町名が両方の場所とも出生証明書に書いてあったのとは全く変わっていましたが、住居表示係の親切な職員が新旧住所対照簿で新しい町名と番地を探してくれ、地図のコピーをとってくれ、行き方まで教えてくれました。地下鉄に乗って近くの駅まで行って、地図を見ながら歩いて、両方とも見つけることができました。60年近く経っているのでお母さんが住んでいた場所の建物は全部変わって住んでいる人たちも変わっていましたが、お母さんが生前にJohn君に言った(目印)通りの場所にありました。すぐ近くの産婦人科医院も見つかり、偶然話しかけた隣の家の年輩の男性から出生証明書を書いた医師(10年くらい前に逝去)のことも聞くことができました。早速John君にメールでこのことを知らせようと思っています。次回名古屋に行く機会(多分12月か1月)に再度区役所を訪ね、今度は戸籍課でお母さんの兄弟姉妹の移転先を見つけ、John君の従兄弟・従姉妹が見つかるか調べてみるつもりです。

お母さんは終戦後間もない時期に進駐軍の空軍兵士と結婚したために勘当同然になって、John君が2歳の時にアメリカに行ったきり2度と郷里を訪ねることも家族と会うこともできずに亡くなってしまいました。お母さんは1928年(昭和3年)生まれですから、John君が生まれた1951年(昭和26年)には23歳くらいだった筈です。当時その年代だった日本人女性は、日本人男性の多くが戦争で死亡したので、結婚難だったと聞いたことがあります。娘がちょっと前まで戦争をしていた敵国の兵士と結婚することは、家族には許されないことだったのでしょうが、私はJohn君のお母さんを批判しようとは全く思いません。人それぞれの理由があったのでしょう。私はアメリカ滞在の10年間に同じような境遇の日本人女性を何人か見てきましたが、アメリカ人の夫と普通の家族と同じように幸せな生活をしていました。誰でも、幸せな生活を求める権利がある筈です。John君もすでに59歳で、自分のルーツの半分が全くわからないのでは、何となく心の中に納得できない部分があるのではと想像しますので、できるだけ調べてあげようと思っています。

2010年11月24日水曜日

22日に出発して、滋賀県彦根市で開催された日本環境動物昆虫学会年次大会に参加し、今夕帰宅しました。往きも帰りも新幹線が岐阜県羽島駅を通過する時は、市橋君の郷里の町を想像し、彼がそこを訪ねられるのは何年先になるのだろうと考えました。

11月20日に振り込まれた方(7回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は90,000円、延べ188人からの合計額は2,366,565円になりました。ありがとうございました。この方の払込取扱票には、前回紹介しましたイギリスの新聞の東京支局長と私とのやりとりの記事が気になったのかもしれませんが、次のメッセージが書かれていました。「リンゼイさんに声をかけていなくても別の女性が犠牲になっていたかもしれない、と無差別殺人鬼扱いをしている人がいますが、その考えは間違っています。素姓のわからない男性の家に自らの意思で行く女性は、生まれ育った国にずっといてもトラブルに巻き込まれていたのではと思います。公平な裁判が行われ、市橋さんが更生して社会復帰出来るよう心から願っています。」 同じように感じている支援者は、多分他にもたくさんおられるのではないでしょうか。

私のところには反対に、性的犯罪の犠牲者に対して、責任の一端があったかもしれないと言うことは、犠牲者をさらに傷つけることになるので絶対に言ってはいけないことだ、というメールも届いています。確かに日本の社会では、男性から見れば、これではまるで襲って下さいと誘惑しているとしか思えないような格好の若い女性を見かけることも事実ですが、市橋君とリンゼイさんの間に英語の個人レッスン以外の何かがあったのかどうかは、第3者にはわからないのですから、想像に基づいてリンゼイさんを責めることはするべきではないと思います。同様に、市橋君を無差別殺人鬼のような言い方をするのも、憎しみの裏返しで、理性的ではないと思います。

私が日本環境動物昆虫学会の年次大会に参加するのは初めてでしたが、特に、23日に企画されていた「琵琶湖を取り巻く人の暮らしと生物多様性」という市民公開セミナーに惹かれて足を運びました。龍谷大学の遊磨(ゆうま)正秀教授の特別講演「滋賀の生物多様性と地域文化のかかわり」と題した特別講演に続いて、滋賀県立大学浦部美佐子准教授の「琵琶湖の貝の今昔~特異な多様性の進化と現代問題~」、京都大学の向井康夫博士研究員の「田んぼの水生昆虫の多様性」、滋賀県立琵琶湖博物館の牧野厚史専門学芸員の「琵琶湖岸のくらしと生物多様性」という講演がありました。その後、多賀町立博物館の金尾滋史(かなおしげふみ)学芸員と滋賀県立琵琶湖博物館の八尋(やひろ)克郎専門学芸員も加わって、名古屋大学大学院夏原由博教授の司会によるパネルディスカッションもありました。

いずれも想像以上のすばらしい内容でしたが、向井博士の、琵琶湖周辺の田んぼで大型水生動物群について詳細な調査をした結果、多様性と有機(農薬も化学肥料も使わない)農法、減農薬農法、慣行(農薬を使う)農法との間には関係がなく、多様性はむしろ地域性や生息環境(一時的な乾田化など)が主要因として関わっているという指摘は、千葉大学時代の私たちの長年の調査結果と一致していました。過去の古い農薬が使われていた時代の記憶から、メディアを含めて多くの一般の人々は今でも農薬は生態系に悪影響を及ぼすと思い込んでいますが、現在の進歩した農薬は生態系に悪影響を及ぼしていないという実態が科学的な調査で明らかにされつつあります。

牧野専門学芸員は元々経済学部卒の博士(社会学)ですが、イエ(家)-ムラ(集落・居住地域)-ノラ(田畑)-ヤマ[葦原(よしはら)のような共同利用地]、という空間配置との関係で、湖岸地域が里山的な性格で、葦原(水質浄化機能を果たし、屋根やすだれの材料)をコモンズ(集落の共有財産)として共同管理・共同利用をしてきたことが地域の環境を保全してきたという指摘は、大変説得力がありました。

一般講演やポスター発表にも興味深い研究があり、何人かの研究者と名刺交換をしてきましたので、これから交流していけるのが楽しみです。

せっかく窓から琵琶湖が真正面に見えて、彦根城も遠くに見える景色のよいホテルに宿泊していましたが、明後日の三重県での講演の準備がまだできていないので観光をせずに真っすぐ帰ってきました。

2010年11月19日金曜日

11月16日に振り込まれた5回目の方ともう一人の方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は87,000円、延べ187人からの合計額は2,363,565円になりました。ありがとうございました。お一人からはメッセージも手書きされていました。「私は82才です。市橋君と同じ年の孫がいます。ただ普通の生活をしていた青年が、リンゼイさんが来たために人生が狂ってしまいました。・・・・、気の毒でなりません。少しでも軽い刑を願います。」

市橋君の人生が狂ってしまったのは事実ですが、何故そういうことになってしまったのか、いろいろな想像は可能ですが、第3者には事件の真相はいまだに不明のままではないでしょうか。裁判でどこまで真相が明らかにされるかわかりませんが、強姦が行われたということと(市橋君自身がそれを認めているようですので)リンゼイさんが亡くなったということは事実ですから、市橋君がその責任を問われるのは当然ではないでしょうか。元教師として、私も元学生の市橋君に更生の機会が与えられることを強く願っていますが、人生の夢が途中で絶たれたリンゼイさんとそのご家族の無念を思えば、真相が明らかにされて正当な判決が下されるべきだと思います。

イギリスの新聞 The Independent の東京支局長 Dr. David McNeill は、約束通り正確に午後1時に来られ、テープレコーダーで録音しながら30分くらいの予定で取材を始めましたが、手短に答えて下さいと言われたのを私が誤解のないように英語で長々と話しましたので、結局1時間半くらいかかってしまいました。McNeill 博士は日本滞在約10年で上智大学で講義もしておられるとのことで、日本語の会話・読み書きも堪能な方でした。昔松濤館流の空手を修行していたが、兎飛びをやらされて膝を痛めたので、今は私と同じように時々ジョギングをやっているとのことでした。

支援をする会の設立の趣旨や、どういう方が支援者かということや、支援金の最低額と最高額や、千葉大学時代の市橋君の様子などを先ず訊ねられました。私が驚いたことは、正確な情報がないからでしょうが、ネット上でやりとりされている情報が真偽の確認がされないまま、あたかも事実であるかのように報道され、イギリス国民にも伝わっているという印象を受けたことです。

例えば、リンゼイさんは市橋君のマンション(イギリス英語ではアパートメントと言います)の個室に巧妙に騙されて誘い入れられた、と信じていました。タクシーの運転手を数分待っててくれと言って待たせたことでリンゼイさんを信用させた、というのが理由のようでした。私は、その日の朝1回英語のレッスンをしただけの関係の独身男性の個室に二人だけで入ること自体が大人の女性としての配慮に欠けるし(たいがいの若い男性は、女性は自分に好意があると誤解してしまうので)、何故マンションの1階なり部屋のドアの外で待っていて授業料を受け取ろうとしなかったのか、ということを指摘しておきました。また、英語のレッスンの日程調整はメールのやりとりでしたと言われていますので、二人の間に好意の感情があったかどうかも、警察が市橋君の部屋から押収したパソコンに残っている通信記録などからいずれ明らかになるでしょうが、それまでは何が真相かわからないので私は責任のあるコメントはできないと伝えました。

市橋君は空手の黒帯(有段者)だったという流言についても、大学以前にバスケットや陸上をしてきたので運動神経は抜群(英語ではFitと言います)だったけど、空手の実力は千葉大学園芸学部の空手同好会で私の指導の下に週に1回か2回昼休み1時間弱だけの練習を1年以内しかしていないので、白帯(初心者)レベルだったと訂正しておきました。市橋君は過去にも女性を何回も襲ったことがあるという流言についても、何を根拠にそんなことが言えるのか、少なくとも私の知っている大学時代の市橋君はそんな人間ではなかったと伝えました。

もうひとつ驚いたのは、どこかのクラブかキャバクラで働いている白人女性のホステスに取材した情報で、市橋君が白人女性に対して異常な憧れ(コンプレックスの逆)を持っていたのではないかというRacism(人種差別的要素)が根底にあったとイギリス国民に伝えられているということでした。そんな情報がどこまで信用できるのか疑問ですが、少なくとも私が知っている学生時代の市橋君にはそんなことはなかったと伝えました。また、それでは何故相手がリンゼイさんだったのかという質問には、市橋君にとってリンゼイさんという女性が美しくてFriendly(親切)で魅力的だったからではないですかという私の想像を伝えました。

ネット上で流れているらしいこんな誤った情報がイギリスに伝えられて、イギリス国民やリンゼイさんのご両親の怒りを増幅しているのだとしたら、残念なことです。市橋君がリンゼイさんのご両親宛に書いた謝罪の手紙が、ご両親の代理人に受け取りを拒絶されてから、市橋君と弁護団の了解を得てイギリスの新聞に公表され、日英両国のメディアに裁判を有利にする手段と批判されたことも、そうではなく市橋君が本当にご両親に謝罪の気持を伝えたかった筈だという私の感想を伝えました。

6人の弁護団の中で3人はベテランで3人は新人だという話の中で、私が最初に法律事務所をお訪ねして菅野弁護士とお会いした時に同席していた山本宏行弁護士は、ベテラン弁護士の一人で、市橋君が身柄を拘束された当初絶食して死のうと考えていたのを説得して止めさせた方です。山本弁護士が何故市橋君がこういう馬鹿なことをして人生を棒に振ってしまったのか解明したいと思っているということに関して、市橋君と同年代の息子を持っているから同情しているからかと訊かれました。そうではなく、市橋君のようなごく普通の前途有望だった青年が何故こんなことをしたのか解明して、日本中に大勢いる青年たちが将来同じような間違いを犯すことを防ぎたいからだと、山本弁護士の真意を伝えました。

私が市橋君のご両親から以前いただいたお手紙の内容に話が及んだ時に、それを見せてくれないかと言われましたが、それは私宛の個人的な親書で、社会に公表することは想定されていない筈ですので、とお断りしました。ただし、何か書いてあったか大意だけは説明しました。

いずれ判決が出た時点で、娘を失ったリンゼイさんのご両親と息子を失ったのと同然の市橋君のご両親が会って、お互いに不幸を乗り越えるために助け合える関係になってほしいし、私がリンゼイさんのご両親が来日した時の弁護団や市橋君との対話の通訳をしてもよいと思っていることを伝えました。支局長はリンゼイさんのご両親に取材したことがあるそうですが、私には先ず冷静な判断のできるお母さんのJulia(?)さんから先に会った方がよいとアドバイスをしてくれました。

現在はリンゼイさんのご両親も取材は受け付けないし、菅野弁護士の方もメディアの取材を受け付けないということのようですし、市橋君のご両親も取材を受け付けない筈ですので、今の段階でイギリスの新聞にどういう記事が書けるのかわかりませんが、少なくともイギリス国民に誤解を与えるような真偽が確認されないネット上の流言飛語を流すのだけは改めてほしいと思いました。

2010年11月18日木曜日

イギリスの「インデペンデント」という新聞の東京支局長のDr. David McNeillという人から、市橋君の件で取材の申し込みがありました。明日、東京農業大学の研究室でお会いすることになりました。リンゼイさんのご両親には受け入れてもらえないかもしれませんが、イギリス国民に市橋君が深く反省し,後悔していることを少しでも伝えることができればと思っています。

2010年11月16日火曜日

支援者から今日は7回目の公判前整理手続が行われた筈だが、というメールをいただきました。注目を集めていたマージャン店経営者ら2人が残酷な方法で殺害された事件の公判で、死刑の判決が出たということのようですので、気になったのでしょう。私はまだ東京農大の研究室にいますが、菅野弁護士にお電話して、差し支えのない範囲で(公判前整理手続の内容は本来公表されない?)様子を伺いました。

検察側の主張の整理が行われ、それをさらに明確にするための弁護側の質問などが行われたようです。市橋君の有罪を証明するのは検察側の責任の筈ですが、死亡推定時刻が翌日の夜までにと伸びたことで、それでは朝10時過ぎに二人でマンションに入った直後に強姦した(これについては検察側と弁護側の主張に不一致はない)後、死亡するまでの間リンゼイさんと市橋君は何をしていたのかという点について、検察側は市橋君の証言は信用できないが、何をしていたのか説明はできないということになったようです。一方、裁判官から弁護側にも26日までに対応しなければならない宿題が出されたとのことです。

今日の公判前整理手続きには市橋君も出席したそうです。第8回目は11月30日に予定されていて、12月にも2回予定されているとのことです。

2010年11月14日日曜日

11月10日に振り込まれた2名(7回目と8回目)の方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は79,000円、延べ185名からの合計額は2,350,565円になりました。7回目の方からは、「寒くなりましたが風邪などおひきになっていらっしゃらないでしょうか?市橋君のいるところは暖房ないのでしょうか?」「死刑は免れてほんとによかったですが、無期懲役も長すぎます。市橋君に人生もういちどやりなおせるように1日も早く刑が確定して市橋君が社会復帰されるのを祈っています。リンゼイさんのご家族には許されることではないかもしれませんがどうか時間がつらい日々を少しでも癒されますようにと心から願わずにはいられません。」というメッセージをいただきました。8回目の方からは、「一年が経ちました。よくがんばりましたね。一日も早く故郷へ帰れるよう毎日祈っております。メディアが市橋君を悪くし過ぎているように思います。11/4の先生のブログで、刑の年数を見て失望しました。少しでも軽くなるように願います。」というメッセージをいただきました。本当に息の長いご支援と、温かい思いやりのあるお言葉をありがとうございました。

多くの支援者の方は、市橋君が犯した罪に相当の罰を受けるのは当然でも、できることなら有期刑になって、更生のチャンスを与えてほしいと願っておられる筈です。検察側が公判前整理手続の中でリンゼイさんの死亡推定時刻を変更したことで、死刑が求刑される可能性は小さくなったものの、公判では無期懲役か30年以下の有期刑かが争点になる可能性があるという厳しい現実に戸惑っておられるのでしょう。ある支援者は、無期懲役でも20年~30年で仮釈放のチャンスがあって50代で出所して人生をやり直せるかもしれないと期待しておられたようですが、ご自分で調べた結果、実際は無期の場合は仮釈放される場合は稀で、刑務所の中で死を迎えることになるということを知ってショックを受けておられました。法律の知識のない私には何が無期と有期をわけるのかはわかりませんが、一番大事なことは、市橋君自身が自分のしたことがどれだけリンゼイさんとそのご家族にとって残酷で、不幸をもたらしたかを自覚し心の底から反省と謝罪をすることではないでしょうか。
多くの支援者は、市橋君とは個人的には何の接点もないにも関わらず、そういうお気持ちで支援をして下さっているのだと思います。

11月9日の福島県いわき市勿来(なこそ)と、11日の千葉県君津市での講演は無事終わり、両方とも参加者との交流を通して私も大変勉強になりました。次は26日に三重県津市での講演がありますので、そろそろ準備を始めなければなりません。      

2010年11月8日月曜日

日本学術会議講堂で開催された公開シンポジウム「稲作と植物保護を展望する」を聴講してきました。5題の話題提供と1題の特別講演がありました。

東京大学の田付貞洋名誉教授はイネ害虫特にニカメイチュウの問題について、神戸大学の土佐幸雄教授はイネいもち病問題について、茨城大学の佐合隆一教授は水田雑草の問題について、近畿大学の松田一彦教授は殺虫剤の受容体における選択性の分子基盤について、理化学研究所の仲下英雄博士は誘導抵抗性による病害防除の問題について講演し、筑波大学の鎌田 博教授は植物保護とGMO(遺伝子組換え作物)について特別講演をしました。

いずれも各々の分野で長年研究に従事されている第1人者の講演でしたので、大変勉強になりました。鎌田教授の講演の中で、アフラトキシンに代表されるカビ毒は安全な食の生産の重要問題であることの指摘に続いて、トウモロコシでは害虫(アワノメイガ)の食害で発生するカビ毒の発生頻度・汚染濃度は有機・無農薬栽培>農薬を使った通常栽培>害虫抵抗性GMO(殺虫活性のあるBtたんぱく質発現)の順に高いという情報は、よく有機農業を推進している人たちが主張しているように、虫が食っている農産物は安全という宣伝は間違いだということを再認識させました。

防除をしなければ、病害虫・雑草による被害(減収率)は40%にも上り、それは世界人口24億人分の食料が失われることに相当するという指摘も、植物保護の重要性を再認識させました。

2010年11月7日日曜日

暦上は立冬だそうですが、秋晴れで爽やかな日和でしたので、散歩がてらに千葉大学園芸学部祭(戸定祭)を覗いてみました。例年通り模擬店や農産物の販売は活気を呈し、市民が大勢訪れていました。研究室の展示発表では、果樹研究室の柑橘展は日本全国からいろいろな柑橘類を集めて展示し、解説も力が入っていました。年によってテーマを変えて、輸入果物や柿や異なる果物を展示しています。市橋君が所属していた緑地環境学科関係では、戸定ケ丘キャンパスのデザインコンペの作品が合同講義室に展示されていて、制作者によって全く異なるイメージのキャンパス像ができていておもしろいなと思いました。

松戸市の緑の回廊として園芸学部とつながっている、隣接の戸定邸と戸定歴史博物館にも寄ってみました。大政奉還後の旧水戸藩主徳川昭武(徳川慶喜の弟)の別邸がきちんと保存されていて、無料のガイドが親切に説明をしてくれました。私は江戸時代に水戸と江戸を参勤交代で行き来する時に使った別邸と誤解していましたが、実際には明治になってから建てられたもので、よく徳川慶喜も訪れていたとのことでした。和風の建物も庭も資料が展示されている博物館も見ごたえがありました。

私は今週火曜には福島県勿来(なこそ)で、木曜には千葉県君津で講演があります。いつもは、間に合わなくて移動の新幹線の中や飛行機の中で構想を練ることもあるのですが、今回は比較的早く準備ができたので余裕です。

2010年11月4日木曜日

菅野弁護士から連絡があり、市橋君が卒業論文の研究で専攻した研究室のM教授とお会いする日程が決まったとのことでした。弁護団が3~4人で松戸の研究室を訪問予定ですが、私も当日は都合がつきますので同席させていただく予定です。先日報告しましたように、検察側がリンゼイさんの死亡推定時刻を変更することに同意したことで、死刑を求刑する可能性は小さくなったようですが、裁判では無期懲役(30年以上)が相当か、有期刑(上限30年)が相当かで審議が行われることになるのでしょうか。

東京農業大学世田谷キャンパスでは、10月28日から収獲祭(大学祭)が開催され、11月1日は厚木キャンパスの学生も参加した体育祭の予定でしたが、荒天のため順延になり、一昨日11月2日に行われました。グランドでは、学科対抗の応援合戦で、普段から練習をしてきた演舞を披露していました。チアリーディング部のスタイルのいい女子学生のまるで組み体操のようなピチピチした演技も見事でした。各々工夫を凝らした衣装や化粧で、若者たちがエネルギーを思い切り発散するのを見ながら感激しました。50年近く前に同じようなことをしていた自分の姿と重ね合わせ、こういう経済や生産とは縁のない無駄なことに熱中できることこそが若者の特権だなと思いました。若者はこういう経験を通して、友情が育まれ、仲間との連帯感が生まれ、共に成長していくのでしょう。
夕方暗くなりかかった中で、実行委員会(?)の学生諸君がてきぱきと後片付けをしているのも印象に残りました。教室の中の勉強とは違いますが、自主的なこういう活動を通して若者の責任感やリーダーシップが培われるのでしょう。

千葉大学園芸学部では、今年は明日11月5日が体育祭で、6日~7日が戸定(とじょう)祭(学部祭)のようです。研究室の展示発表や模擬店に加えて、野菜や花や果物のような農場生産物の販売もあるので、毎年市民が大勢足を運んでくれて好評です。

2010年11月1日月曜日

10月29日に振り込まれた方からの支援金が届きました。これで支援金の現在高は59,000円、延べ183名からの合計額は2,330,565円になりました。ありがとうございました。この方の払込取扱票には次のような心温まるメッセージが添え書きされていました。「年金生活ですので少しですが、足しにして下さい。リンゼイさんも大人で、わかっていて市橋君の部屋へ行ったはずです。イギリスのご両親も少しでも市橋君を許してあげてほしいと願っております。私には、男の子の孫がおります。」

何故リンゼイさんが一度英語のレッスンをしただけの独身男性の個室に二人だけで入ったのかということは、私たちの世代の人間にとってはいろいろな憶測が可能ですが、リンゼイさんはすでに亡くなっていますので真実を確かめることはできません。市橋君自身は、リンゼイさんにも非があったかもしれないというようなことは決して口にせず、弁護団との話し合いの中では自分が悪いとだけ言っているようです。加害者の側から許しを乞うことはできませんが、私も願わくばリンゼイさんのご両親が悲しみと憎しみを越えて、市橋君に生きて罪を償う機会を与えてほしいと祈っています。

注目していた耳かき店員とその祖母の殺人事件は今日判決が言い渡され、無期懲役だったと報道されました。遺族は検察に上訴を望んでいるとのことですのでまだわかりませんが、この事件の被告人に生きて罪を償う機会が与えられたことに何故かホッとしました。

2010年10月30日土曜日

10月28日に振り込まれた2名の方(お二人とも8回目)の支援金が届きました。これで現在高は54,000円、延べ182名からの合計額は2,325,565円になりました。息の長いご支援をありがとうございます。お一人からはメッセージが添え書きされていました。「寒い日々が続いていますが、本山先生をはじめ支援する会のスタッフの皆さま、おかわりございませんか? 8回目の送金です。以前TVで市橋さんの手紙が公開された際、TV関係者の方々の厳しい発言に世間の方々の考え方と自分の考え方の差がこんなにもあるのかと落胆しましたが、私の、市橋さんにもう一度人生をみつめ直しやりなおして欲しいという想いは変わらず、こんな私の存在も神さまは認めて下さると信じています。」

「市橋達也君の適正な裁判を支援する会」は、無償で弁護を引き受けてくれた弁護団の裁判活動の費用を支援することで、市橋君が適正な裁判を受けられるようにすることを目的としていますが、ほとんどの支援者は、市橋君が犯した罪に相当の罰を受けることはやむを得ないと考えつつも、できたら死刑ではなく、市橋君には罪を償った上で人生をやり直すチャンスを与えてほしいと願っているのでしょう。

支援金を送って下さる方の中には、匿名の方もおられますし、名前を公表してほしくないという方もおられますので、支援する会のスタッフは代表の私一人だけです。お手伝いをしてもよいと申し出て下さった方もおられましたが、支援者のプライバシーを守るために、顔を表に出した私一人でやっています。そのために、最近は振り込みがあっても礼状を出せない場合がほとんどで、お便りをいただいても返事を差し上げずに失礼していることをお許し下さい。ただし、本ブログでの報告だけは入金の度に欠かさずしていますので、振り込まれたお金が私のところに届いたかどうかをご確認下さい。

2010年10月29日金曜日

10月24日に振り込まれた方(4回目)と10月26日に振り込まれた2名の方の支援金が届いていました。これで支援金の現在高は43,000円、延べ180名からの合計額は2,314,565円になりました。ありがとうございました。
菅野弁護士から連絡があり、11月2日に弁護団会議を開いて、市橋君の指導教員の一人だったM教授と会って相談する日程の調整結果を11月4日に知らせていただけるということになりました。

支援者のお一人から、先日ニュースが伝えていた耳かき店員殺害事件の裁判を傍聴してきたとのメールをいただきました。亡くなった人を生きて返してほしいという被害者遺族の切々たる訴えに、多くの方々が胸を詰まらせて涙を流していたとのことでした。市橋君の公判でも、リンゼイさんのご両親の同様の訴えに、市橋君は自分の犯した罪がどれほど人を不幸にしたかをあらためて実感することになるのでしょう。

函館市湯の川温泉で開かれた農薬環境科学研究会は昼で終わって、エクスカーションとしてバスで道南地方農業の実態視察をして、今夕松戸に帰ってきました。七飯(ななえ)町は、プロシア人のR.ガルトネルという人が五稜郭を占領した榎本武揚(後に東京農業大学の創立者になった)と開墾条約を結んで明治2年に大規模な農場を開いて、リンゴを日本で初めて栽培した場所とのことでした。大沼国際セミナーハウスと城岱(しろたい)牧場を回って、函館空港に戻りました。大沼国定公園は紅葉が真っ盛りでした。城岱牧場は山の上の町営牧草地で、春から10月20日まで牛を預かって放牧するそうですが、ちょうど牛が下山した後でした。昨夜バスをチャーターして登った函館山から眺めた夜景は、さすが日本の3大夜景と自慢するだけのことはありました。津軽海峡を越えて、遠くに青森県側の灯りも見えました。

今回の研究会のテーマは、「土壌残留農薬の挙動と農作物及び周辺環境への影響」で、特別講演と7題の講演がありました。約100名の参加者が全国から集まり、熱心な討議が行われました。私は参加者の中で最長老に近い年齢だったからだと思いますが、情報交換会(懇親会)の中締めの挨拶を頼まれました。気持だけは現役のつもりでも、こういう挨拶を頼まれるようになったということは、私もそろそろ引退の時期が近づいたということなのでしょう。

2010年10月27日水曜日

昨夕は東京農業大学の帰りに千葉大学園芸学部に寄って、市橋君が専攻していた庭園デザイン学研究室のM教授に会って、お礼を申し上げるとともに、市橋君が在学していた当時の様子をさらに伺ってきました。私が指導していた生態制御化学という実験科学の分野と違って、庭園デザイン学では必修単位の卒業研究の成果を論文(研究)として提出する場合と作品(計画・設計)として提出する場合が認められていて、市橋君は論文の方を選んだので、すでに退職されたもう一人のO教授の指導を主に受けていたとのことでした。

函館に早めに到着しましたので、地図を片手に興味のあるところをいくつか歩いて回ってみました。予想と違って雪はありませんでしたが、寒くて手がかじかみました。函館港には、1988年(昭和63年)に廃止されるまで1908年(明治41年)から80年間青森と函館の間で人と物資を運んでいた青函連絡船の一つ摩周丸が記念館として展示されていました。確か1962年か1963年頃だった筈ですが、千葉大学空手部の夏合宿が北海道大学空手道場で行われた時に、私は青函連絡船に乗った記憶があります。吉永小百合が私達の世代の憧れだった時代で、仲間と一緒に甲板のデッキから景色を眺めて感傷的になったのを思い出しました。あれから時代が変わり、青函トンネルを列車が走るようになり、飛行機が移動の主流になりました。

函館山の裾にある函館北方民族資料館にも行きましたが、受付を通ってすぐの展示室1にある「アイヌ風俗12ケ月屏風」は江戸時代の和人(日本人)の絵師が描いたものを拡大複写したもののようですが、あまりにも不思議な感じがしたので、質問をしたら年配の学芸員が一つ一つの屏風に描かれている絵に含まれる意味を丁寧に説明してくれました。内地の日本人に興味を抱かせて屏風絵を買ってもらうために、例えば1月なのに裸足で(実際にはアイヌの人は皮で作った靴を履いていた)鳥居の前で日本人との交易で得た珍しいもの(オモチやタバコの葉や紋付など)を持って嬉しげに歩いているなど、ちょっと見ただけでは何故本来多神教のアイヌ人が日本の神の象徴の鳥居と一緒に描かれているのかわかりません。アイヌ(人間)という言葉自体も最近まで蔑称扱いで、ウタリ(仲間)という言葉が使われたとのことでした。ちょうど先月末に訪ねたアメリカのチェロキーインディアン保護地区で見たのと同じように、アイヌの人達は私達の先祖の日本人に酷い扱いを受け、悲惨な運命をたどったのでしょう。

今夜は五稜郭(ごりょうかく)の近くに宿を取りましたので、明日は朝早く起きて、研究会が始まる前に五稜郭の辺りを散歩するつもりです。


2010年10月26日火曜日

今日も初めての方からメールが届きました。「本日、市橋さんの適正な裁判を支援する会宛に振込みました。少ないですが、適正な裁判の為にお役だてください。被害者のご家族に市橋さんの謝罪の気持ちが届きますように」というメッセージをいただきました。ありがとうございます。

ニュースでは、耳かき店員とその祖母を刺殺した被告に対して、検察が裁判員制度で初の死刑求刑をしたと報道しています。被告は反省し謝罪したものの、遺族感情は厳しく、極刑を求めているとのこと。判決は11月1日に言い渡されるようですが、裁判員らがどう判断するか・・・。

私は、今週28日~29日に函館で開催される日本農薬学会の農薬環境科学研究会に参加するために、明日早朝に出発します。幹事会出席で早めに到着するので、函館山に登ったり五稜郭の辺りをジョギングできたらと思っていましたが、気象情報では現地は雪とのことですので、残念ながら無理なようです。

2010年10月25日月曜日

10月21日(2回目)と22日に振り込まれた方の支援金が届きました。前回までに振り込まれた支援金は全額菅野弁護士にお渡ししましたので、支援金の現在高は13,000円、延べ177名からの合計額は2,284,565円になりました。ありがとうございました。

2010年10月22日金曜日

昨日の夕方松戸に帰ってきました。初めての方から支援金を振り込んだとのメールが届いていました。ブログを欠かさず読んで下さっているとのことありがとうございます。今まで躊躇していたけど、支援金によって検死報告書の再鑑定も可能になり、結果として検察側が死亡推定時刻について主張を変えざるを得なくなったということから、支援金は適正な裁判を可能にすることを認識されたとのことでした。支援金は振り込まれてから届くまでに2日かかりますので、月曜には届くでしょう。

岡山県での松枯れと松茸の視察旅行はわずか一泊二日でしたが、大変有意義でした。ヘリコプターで松くい虫防除の薬剤散布をしている山は元気な松が再生して松茸も発生し、薬剤散布をしていないところは、元々この地方の自然植生で純粋な松林だった山の松が松くい虫の被害で枯損して全滅し、他の雑木に置き換わっているということをこの目で確認し、写真や映像も撮ってくることができました。松かさがはじけて出てくるアカマツの種子は小粒で羽がついているので、風で分散するそうです。高梁(たかはし)市の山のように隆起してそれほど時間が立っていない山の土地は痩せているので、痩せた土地でも育つ松が自然に優先種だったようです。

谷底に位置する川沿いの道からは見えない両側の山の頂上には昔からの集落が存在し、野生動物と戦いながら農業をしていました。終戦で朝鮮から引き揚げてきた私の父(その後ブラジルに移住)が、宮崎県須木(すき)村の山を開墾してサツマイモを作っていた時に猪との戦いだったのを思い出しました。岡山県高梁市上布賀(ふか)の人々は、今でも猪、鹿、ハクビシン、ヌートリアと戦いながら米や野菜や果物の生産をしていました。

なお案内してくれた知人によると、軍国主義時代の中学の教科書に「キクチコヘイハテキノタマニアタリマシタガ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」と書かれた日露戦争の英雄「木口子平」は、途中、成羽(なりわ)川沿いの山の中腹に4~5軒の屋根が見えた集落の出身だったそうです。こんな小さな山村の出身の若者が戦場に送られ戦死したことは、戦争がいかに馬鹿げたことかを思い起こさせます。

2010年10月21日木曜日

今日は知人の高校時代の先輩で、農業高校の教員を定年退職後吉備(きび)中央町議会議員をしているN氏の松山に入山し、松茸の生えているところを見せてもらい収獲もさせてもらいました。

N氏の口利きで吉備中央町の農林課長を訪問し、町が松くい虫防除のために4地区の松林(計341ha)で有人ヘリコプターによる薬剤散布を続けて松を守ってきたことの説明を受けました。車で回ってみたら、昨日見たほとんどが枯死した松林と違い、林道沿いの松も斜面の松も青々と元気よく見えました。単に松茸生産のためだけでなく、アカマツは町の樹でもあるので、町の誇りとしてこのアカマツ林を守っていきたいとのことでした。

2日間にわたって知人の車で山の中を走り回りましたが、岡山県がこんなに山だらけだとは知りませんでした。地面が隆起して間もないことを示す急峻な岩壁や、美しい山の景色と不釣り合いな、上流の新成羽(なりわ)川ダムの浚渫工事が行われていて清流(成羽川)に何ケ月も汚濁水が流され続けているためにアユもそれを餌とする川鵜もいなくなった現実(電力会社による環境汚染問題)や、山の上の集落に住む人達の厳しい生活の様子など、勉強になりました。

2010年10月20日水曜日

今朝6時頃松戸を出発して新幹線で岡山県に来ました。知人の車で高梁(たかはし)市の山村を廻り、松くい虫防除の薬剤散布を中止したために松が全滅に近いくらい枯死している悲惨な様子を視察しました。将来松枯れ問題に関するテレビ番組を作るときに使えるように、写真(静止画)と映像(動画)をたくさん撮りました。

知人の生家は標高450mくらいの山の頂上の集落にあり、平家の落人が隠れ住んだところとのことですが、ブドウ(ピオーネと呼ばれる紫色の大粒種)や野菜や稲を作って生活しています。明日は松茸を守るために薬剤散布を続けているので松枯れがほとん見られないという山を視察する予定です。夏の高温・乾燥で今年は松茸が不作と言われていたのが、ここにきて降雨があったので発生してきたという山に入って現場を見せてもらうとともに、山主さんから話も聞く予定です。新幹線の岡山駅の売店には、岡山産松茸が5ケ入って10,000円という箱が並んでいました。

知人の生家の辺りは周囲が山ばかりなので、集落の周囲は野生動物の侵入を防ぐために電気柵を張り巡らせてあるそうですが、それでも猪と鹿とハクビシンとヌートリア(昔、毛皮目的に輸入され、その後野生化した巨大ネズミ)と害虫との戦いだそうです。

今夜は総社(そうじゃ)市のサントピア岡山総社という元厚生年金保養施設(民間に売却された)に泊まって、明日の夜には松戸に帰ります。

2010年10月18日月曜日

10月15日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は207,000円、延べ175名からの合計額は2,271,565円になりました。ありがとうございました。

今日は菅野弁護士の事務所を訪ねて、その後の支援金207,000円をお渡ししてきました。今日は第6回の公判前整理手続が行われましたが、検察側が強姦致死・殺人の根拠としていたリンゼイさんの死亡推定時刻を、事件の起こった3月25日午前10時ちょっと過ぎというのを取り下げて、26日夜までに死亡と変更したとのことです。これは、市橋君の証言ならびに弁護団の主張と一致します。

英語のレッスンを受けたのは3月25日朝で、その後リンゼイさんと同居していた2人の女性からリンゼイさんが行方不明だからと捜索願が出され、26日夜には警察が市橋君のマンションを訪ね、市橋君には逃げられたけれどもリンゼイさんの遺体を発見しました。警察はマニュアル通り遺体を検分して、死亡時刻の推定に重要な直腸温度(19.6℃)を測定記録し、その後遺体を冷蔵庫に保管してしまったので、28日に千葉大学医学部法医学教室の岩瀬博太郎教授によって遺体解剖が行われた時には死亡時刻を推定することは不可能な状態でした。そこで、死後2日以内というような幅のある推定になったようです。検察側は、強姦致死・殺人が行われたとする自分たちの見立てに不都合な警察による直腸温度の測定記録を出さなかった(隠した?)のを、弁護側の証拠開示要求で開示せざるを得なくなり、さらに弁護側が検死報告書を別の大学の法医学教室の教授に再鑑定してもらった(私たちが提供した支援金が使われた)結果などに対して、死亡推定時刻を変更せざるを得なくなったようです。

これで、強姦してすぐ殺したという検察側の主張した見立ては崩れたわけですが、殺人という起訴罪状を取り下げるかどうか(従来の例では取り下げない場合が多い)は、11月16日に予定されている第7回公判前整理手続で明らかにされるのかもしれません。

折しも、郵便不正事件で、大阪地検特捜部の主任検事(元)が証拠隠滅罪で起訴され、フロッピーディスク内の文書の更新日時を自分たちの見立てに都合のよいように改ざんしたことを上司も承認したと報道されています。私は今まで検察は事実だけを明らかにするところとばかり思っていましたが、最近続々と明らかになる冤罪事件の例をみると、検察という組織に構造的・体質的な問題があるのかと信じられない思いです。

菅野弁護士から、これまでの裁判活動の収支報告を文書でいただきました。これまでに約50万円が実費として支出されています。適正な裁判が行われるために、私たちが提供した支援金が大変役に立っています。来年3月~4月と予想される公判まで、弁護団にはこれからも多くの時間を使ってがんばっていただかなければなりませんので、引続きご支援をよろしくお願い致します。

なお、市橋君は自殺の恐れがあるということから収容されていた病舎から、未決囚が収容される普通の独居房に移されたそうです。外部との手紙のやりとりや接見ができないのは今まで通りですが、私物を手元に置くことや、決められた時間に運動をすることなどは認められるようになったそうです。

2010年10月16日土曜日

市橋君が千葉大学園芸学部で卒業論文の研究で専攻した研究室の教授が先月卒業生にメールで市橋君の現状とこのブロクについて紹介して下さったということで、昨日同じ研究室を専攻していた元学生から支援金を振り込んだという連絡がメールで届きました。支援金は来週の月曜には届くでしょう。「今まで市橋君のことを気にかけていたけれど、何もできずにおりました。わずかばかりですが、今私ができることとして、市橋君を支援していけたらと思っております」というメッセージがメールには書かれていました。同じ研究室の元専攻生として2人目です。昔の仲間からの支援ですから、市橋君が知ったら皆が彼を支えようとしていることがわかり、励まされる筈です。

今日の東京での農業高校の教員を対象にした農薬セミナーは、約2時間の私の話を全員熱心に聴いてくれました。私の研究室を専攻した元学生の中にも、現在東京都の農業高校の教師をしている人がいますが、今日は参加していませんでした。終わってから、立食スタイルの簡単な懇親会をしました。その席でもいろいろ質問が出たりして、先生方の熱意が垣間見えました。私の講義を聴いて農薬に関する誤解が解けて見方がガラッと変わったと言ってくれた人も何人かいました。

先週の土曜に帰国してから1週間が経ちましたが、待っていた仕事を一応こなしましたので、明日の日曜はゆっくりできます。

2010年10月15日金曜日

10月13日に振り込まれた2名の方(3回目と6回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は187,000円、延べ174名からの合計額は2,251,565円になりました。「市橋さんへ、今回で3回目です。又1,000円のみでごめんなさい。相変わらず病気で働けません。今後もできる限り協力します。がんばって!!」「涼しくなったので拘置所の中少しは過ごしやすくなったでしょうか。市橋さんが死刑や無期にならないように毎日祈っています。応援しています」というメッセージが添えられていました。ご自分の生活が厳しい中で送って下さる1,000円は大金です。市橋君がこれらの支援者のお気持ちを知ったら、きっと励まされ、しっかり生きて罪の償いをしなければいけないと思う筈です。ありがとうございました。

今日は東京で(財)残留農薬研究所主催の第11回IETセミナーがあり、私も出席しました。「土壌中残留農薬等の後作物への移行性の解明に向けて」というテーマの下に、4題の講演がありました。神戸大学の乾 秀之講師は、「残留性有機汚染物質の植物による吸収及び蓄積機構の解明」について、これぞ大学の基礎研究といえるようなすばらしい研究成果を発表しました。(社)日本植物防疫協会理事の藤田俊一氏は、「土壌中残留農薬の後作物移行に関する実態」について、多数の農薬と多数の作物の組み合わせで、前作物に使った農薬が後作物にどれだけ移行するか、それにはどういういう要因が関わっているかについて膨大な試験データを紹介しました。(財)残留農薬研究所の林 靖氏は、今でも場所によっては土壌中に残っている有機塩素系殺虫剤ヘプタクロールがどのような機構で作物に移行するかについて、飯島和昭氏は後作物移行性試験に関する世界的動向について解説しました。
いずれも安全な農作物を生産する上で重要な問題で、特に日本植物防疫協会と残留農薬研究所の研究は、大学や国の研究機関では対応できない課題を扱っており、両方とも農水省の外郭団体ではありますが、余人をもって代え難い役割を十二分に果たしているという印象を受けました。

2010年10月14日木曜日

10月12日に振り込まれた方(6回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は181,000円、延べ172名からの合計額は2,235,565円になりました。ありがとうございました。いろいろなご事情がおありの中で、市橋君に適正な裁判を受けさせるために何回もご支援下さり本当にありがとうございます。

先日取材に来られた日本テレビの番組DONのディレクターから午後1時頃電話があり、本日12時15分くらいから放送予定だった葉もの野菜の収獲後の光合成や農薬問題に関する番組は、チリの炭鉱労働者救出の特別番組が入ったので延期になったとのことでした。

明後日16日に東京で予定している農業高校教職員対象のセミナー「農薬の役割と安全性の最新情報」の資料の準備が出来たので、今日宅ファイル便で発送しました。農薬の安全性はどのように確保されているかに加えて、無農薬栽培は必ずしも安全とは限らないという話をするつもりです。千葉大学園芸学部ではいろいろな研究が行われていますが、病害虫を無防除で栽培しているダイズ畑があるので見に行ってみましたら、害虫(主にハスモンヨトウ)が大発生して激甚被害で、収獲はほとんどゼロに近い状態だったので写真を撮ってきました。これほど酷い被害も珍しいですが、農薬がいかに作物生産に貢献しているかがわかります。


2010年10月13日水曜日

東京農大の研究室にTBSテレビの報道局Nスタのディレクターの一人が取材に来られ、「家庭菜園ブームの裏側で見たものとは!」(仮題)というのが切り口の番組でしたので、カメラが回る中で、家庭菜園といえども、病害虫が発生して手に負えない時は、インターネットで流通したりホームセンターに並んでいる怪しげな資材(いわゆる植物抽出液や自然農薬の類)に惑わされずに、農薬はちゃんと登録のあるものを選んで適正に使うことが必要という指摘をしておきました。その後、車で松戸に移動し、千葉大学園芸学部の研究圃場や共同研究をしている研究室の実験室風景の映像を撮っていきました。ずい分長い時間カメラは回っていましたが、実際に放送される時は編集され、ストーリーに会う場面を切り取った短いワンシーンになるのが普通です。来週19日(火)の18時15分頃からの特集コーナーで放送予定だそうですが、どういう編集がされるか興味があります。

このディレクターは、何年か前に市橋君が逃走している最中に、私が当時のTBSの取材に応じて、テレビで自主的に出頭するように呼びかけた(そのために当時の学部長に呼び出され、取材禁止に違反したので懲罰委員会にかけるぞと脅かされましたが)のを覚えておられました。

今週の土曜16日と来週の土曜23日には東京で農業高校の教師を対象にした農薬に関するセミナーが予定されていますので、私が担当する約2時間の講義の準備に今からとりかかり、明日中には資料を送付しなければなりません。

2010年10月12日火曜日

支援者のお一人からネットで支援金を振り込んだというメールの連絡が届きました。また、菅野弁護士からも連絡があり、支援金をお届けするのは10月18日ということになりました。第6回目の公判前整理手続が予定されている日ですので、市橋君のその後の様子なども伺ってきます。

ニュースでは、郵便不正事件の証拠を改ざんしたとして逮捕された大阪地検特捜部の元主任検事が、証拠隠滅罪で起訴されたという話題が賑わしています。検察官というのは、無実の人を有罪にするために都合の悪い証拠を改ざんするようなことがあるのか? 難しい司法試験に合格して検察官になっている筈なのに、何故そんな馬鹿なことをするのか(人を有罪にすることが自分の功績として評価されるのか?)、信じられない思いです。市橋君の事件を担当している検察官は、まさか事実を曲げてでも自分たちの描いた事件の構図を無理に通そうというようなことはないと信じますが。

今日の午後の千葉大学園芸学部・公民館連携市民大学講座「食に関する誤解を解く~知っておきたい食の現実」には、70名くらいの申込者から32名が選ばれて出席していました。私は「農薬と食品安全」を担当しましたが、その他に、「輸入食品の安全性」や「食品添加物と食品安全」や「GMOと食品安全」や、「市内植物工場見学」なども組まれています。

私は松戸市文化ホールでの2時間の講演が済んだらすぐ東京農大の研究室に行き、日本テレビが昼11:55~13:55に放送しているDONという番組の取材を受けました。野菜の残留農薬の安全性に関する質問をされましたが、明後日14日(木)の12時15分頃に放送予定と言っていました。以前はテレビで農薬のことを取り上げるのはタブーだったようですが、再近は変化が見られるとのことでした。明日の午後はTBSテレビが夕方16:53~19:00に放送しているNスタという番組が、やはり農薬問題について取材に来ることになっています。こちらの方は19日(火)の特集コーナーで18時15分頃から放送予定だそうです。あらかじめ質問事項が届いていますので、どう答えるか今から少し考えておこうと思っています。

2010年10月11日月曜日

アメリカ滞在中に、市橋君の事件について、Western People(西洋人)の感覚では市橋君のしたことは言語道断で、特に自分の娘が被害者だったらと想像したら情状酌量の余地は全くないと言われました。リンゼイさんのご両親も恐らく同じ心境で極刑以外には考えられないと主張しておられるのでしょう。故W.C. Dauterman先生の奥様だけは、私は元学生の市橋君に適正な裁判(Fair Trial)を受けさせたいので支援する会を立ち上げて募金活動をしているのだと申し上げたら、どんな人間でも適正な裁判を受ける権利があるので、私のしていることは正しいと言って支持して下さいました。
今日はメールで菅野弁護士にその後振り込まれた支援金をお届けする日程調整をお願いしました。

一昨日に帰国して、幸か不幸か予定していた松茸収獲の映像撮影の出張がなくなったので(今年も全く不作で発生してこないとのこと)、昨日と今日は明日行われる千葉大学・公民館連携講座「食に関する誤解を解く」の講演の準備ができました。やっとパワーポイントのスライドを宅ファイル便で送りましたので、夕方道場で筋力トレーニングをした後、江戸川の堤防に走りに行きました。多くの人が散歩をしたり、ジョギングをしたり、自転車に乗ったりしていました。私は往復8Kmを景色を眺めながら、ところどころ歩いたりしてゆっくり走りました。ノースカロライナ州の湖と樹木しか見えない森の中のジョギングコースと違って、堤防の上からは常にビルや人家が目に入りますが、北東の方角には家々の間に筑波山の山影がぽっかり見え、関東平野の西の地平線には夕日が沈んでいくのが見えました。
これからまた、スケジュールに追われるような日本での生活が始まります。

2010年10月9日土曜日

先ほど松戸の自宅に到着しました。その後、10月4日に振り込まれた方(7回目)、10月6日に振り込まれた2名の方(7回目と2回目)の支援金が届いていました。これで現在高は171,000円、延べ171人からの合計額は2,235,565円になりました。「・・支援者の方々のメッセージを読むと涙がでます。嬉しくなります。本山先生、証言してくれるお友達・弁護士の方々・支援者の方々に感謝して、ご両親のためにも気持を強く持ってがんばって下さい。いつでも応援しています」、「少しばかりですが2回目の支援金を送ります。本日の新聞で市橋君の手紙の件を読みました。心より市橋君の更生を願っております。支援する大勢の人達の声が市橋君に届くことを願っております」というメッセージも添えられていました。その他に、手紙のことが公表されて以来、メールで何人もの方からメッセージも届いています。
明日にでも、集まった支援金を菅野弁護士にお届けする日程調整をお願いしようと思っています。

昨日の朝(現地時間)、娘の車で空港に行く途中でSanta Monicaの子供たちの学校(Mckinley School)に再度寄りました。朝8時15分に到着すると、大勢の子供たちが運動場で元気よく走り回っていました。白人、黒人、アジア系、ヒスパニック(メキシコ人など)系、それぞれのハーフ、の子供たちが分け隔てなく本当に仲良く遊んでいました。車で送ってきた親たちも自分の子供と英語で話したり、スペイン後で話したり、中国語で話したり、日本語(私の娘)で話したり、カリフォルニアという土地柄なのかもしれませんが、まるで世界の縮図を見ているようでした。8時半になったら、それぞれのクラスの先生が担任の子供たちを整列させて教室に引率していきました。

ロスアンゼルス空港で、Scientific American という雑誌の表紙の "Human Evolution Is Not Over" (人類の進化は終わっていない)という記事の見出しが目にとまったので、一冊買って飛行機の中で読んでみました。人類(私たちの祖先のホモサピエンス)が約6万年前にアフリカ東部から世界中に移動分散し、どのように進化して現在の姿になったかを遺伝子の解析から推察した記事でした。昔は長い時間をかけて移動したので、定着した場所毎に隔離が起こり、それぞれの地域の気候や環境に適応するために、黒人や、白人や、モンゴロイド人や、ポリネシア人などの人種ができたのでしょう。
Jonathan K. Pritchard: How we are evolving, Scientific American  p.40-47, October 2010.

サンタモニカの小学校で見た光景を思い出し、もしかしたら現在はそれと逆のプロセスが起こっているのかもしれないという気がしました。原始時代と異なり、交通手段が発達し、遺伝子の突然変異以外にも環境に適応するいろいろな方法(衣服や住居など)を得た現在では、再移動が簡単になり、人種の融合が起こって、再びひとつの人類に戻りつつあるのかもしれないという気がしました。
そう考えると、国と国の戦争や、民族と民族のいがみ合いは馬鹿げたことに思えてきます。

2010年10月7日木曜日

オレゴン州のRoseburg を朝5時半に出発して空港に向かい、Eugene-San Francisco-Los Angeles という経路でカリフォルニア州に来ました。娘が空港で待っていてくれて、Santa Monica に来ました。子供3人が小学校や幼稚園に行っているので、迎えに行くついでに学校や教室の中も覗いてみました。20人くらいの生徒数に先生が一人とアシスタントが一人という恵まれた環境でした。白人や黒人やアジア人やヒスパニック系の子供たちが皆一緒に勉強したり遊んだりしていました。

建物もラテン系の造りのものがたくさんあり、街路樹も高温の半乾燥地帯のような樹種が目だって、オレゴン州の景色やアメリカの東部海岸とは印象が全く異なります。義理の息子が庭のグリルで焼いてくれたステーキの夕食を食べました。孫たちは、8月に日本に来ていた時は日本語で話していたのに、すっかり英語で話すようになっていました。

明日は娘が子供たちを学校に送っていく車に同乗して、Los Angeles 空港に送ってもらって日本に帰国します。時差の関係で日本到着は9日になりますが、翌日からは早速仕事が待っていますので、これでバケーションは終わりです。

2010年10月6日水曜日

昨日は飛行機をRaleigh-Washington DC-San Francisco-Eugene と乗り継いで、夕方オレゴン州のEugene 空港に到着しました。故Dauterman 先生の奥様の住んでいるRoseburg というところは、空港から100Km くらい離れた人口22,000人の小さな田舎の町です。奥様と長男のWalter Jr  君が迎えに来てくれていて、途中小高い丘の上にあるKing Estate Winery というレストランに寄って夕食をしました。全面積1100エーカーという広大な農場の約半分(470エーカー=約190ha)がぶどう畑で、日本のように水平の棚ではなく、管理作業がし易いように垂直の垣根型に仕立てたぶどう畑が見渡す限り広がっていました。ここで収穫したぶどうから作ったぶどう酒をアメリカ全土だけでなく、外国にも輸出しているとのことでした。寒くて手がかじかむくらいだったので、暖炉の赤い火が燃えているしゃれた部屋でワインを飲みながら食事をして外に出て、空を見上げたら満天の星空で、まるで星が降ってくるという表現がピッタリのような無数の星が輝いていました。こういう自然の雄大さに接すると、人間と人間のつながりの暖かさがよりありがたく感じられます。

夜遅く奥様の家に到着して、ベッドで寝ていたら夜中に日本のテレビ朝日と日本テレビから携帯に計4回電話がありました。市橋君がリンゼイさんのご両親宛に書いた手紙が弁護団から公表されたことに関する電話取材でした。私自身は、リンゼイさんのご両親の代理人から受け取りを拒否されたことは知っていましたが、手紙の内容を見ていないのでちょっと戸惑いましたが、日本テレビの方が一部読んでくれたので何が書かれていたのかが正確にわかりました。その後、支援者の方々からも連絡が届きました。イギリスの新聞The Times 社の東京支局長が取材に来た時に、イギリスの新聞に手紙の内容が掲載されれば、リンゼイさんのご両親にも見てもらえる可能性があるので、代理人には受け取りを拒否されたけれども、市橋君の反省と謝罪の気持を間接的にご両親に伝えられるのではないか、という話になりました。その結果、弁護団が手紙をThe Times社の東京支局長に見せ、それがイギリスの新聞に掲載され、それが日本のメディアにも伝わり、弁護団が公表するに至ったというのが経緯です。

手紙の内容は、まさに市橋君が自分が犯した罪の重大性を認め、心から反省し、リンゼイさんのご両親に精一杯の言葉で謝罪を伝えようとしています。ご両親にすなおに気持を受け取ってもらえなかったのは残念ですが、元教師としては、やはり私の知っている市橋君らしく、よくそういう気持になってくれたと嬉しく思いました。命のある限りこの十字架を背負い続けなければならない、ということを市橋君自身がしっかり自覚していることが読み取れますので、生きることが許されるなら更生の可能性は十分あると感じました。

今朝はこちらは秋晴れの最高の天候でしたが、Walter Jr が運転する車に乗って奥様と私と3人で138号という山道を登って、山の頂上にあるCrater Lake という国立公園に指定されている湖に行きました。7千年くらい前の火山の噴火でできた噴火口に水が貯まってできた湖ですが、透明度が世界で1、2位という真っ青な水の色をしていました。噴火口の褐色の斜面と真っ青な水の色のコントラストが何とも言えず美しく、神秘的でした。すそ野の方には火山灰が何mも堆積しているらしく、いまだに木が生えない砂漠のような大地が広がっていて異様な景色でした。

夕方Roseburg の町に戻ってきて、故Dauterman 先生の次男John 君の家でご馳走になりました。John 君はノースカロライナ州にある名門のDuke University の医学部卒の医師で、近くの病院で病理科の専門医として勤務しています。今は専業主婦をしている美人の奥さんと3人の息子(9才、7才、2才)と暮らしています。息子たちが昆虫採集に夢中だというので、千葉大の応用昆虫学研究室専攻の学生に作ってもらった日本の昆虫の標本をお土産にあげたら、大喜びしていました。
明日は朝5時半に家を出発して、Eugene-San Francisco-Los Angeles と乗り継いで、カリフォルニア州のSanta Monica に住んでいる娘のところに向かいます。

2010年10月4日月曜日

いろいろなところから届いたメールに返信をした後、Lake Johnson に行って最後のジョギングをしました。それから、先日チェロキー保護地区からの帰り道で、高速道路の両側の松林の一部にかなりまとまって松が枯れているところがあったので、写真を撮りに道路を1時間くらい逆方向に走ってみました。日本の松枯れの原因のマツノザイセンチュウは元々アメリカから松の材木と一緒に入ってきたと言われ、アメリカの松はこのセンチュウに抵抗性だから枯れないと言われているのに、枯れた松があるのは珍しいと思ったからです。残念ながら、かなり遠くだったらしく、まとまって枯れている所までは行けませんでしたが、何本か個別に枯れている松は見つかったので写真を撮りました。

友人のBill Oakley 君とMargie Reinitz さんと3人で魚料理のレストランに行って、私はBroiled Scallop (焼き貝柱)を食べました。ヒラメをはじめ何種類かの魚(淡水魚の養殖ナマズも)があり、こちらではたいていFry(揚げる)か、Broil(焼く)か、Steam(蒸す)かして食べます。魚が、フライドポテト、Hush puppy(ハッシュパピー)と呼ばれるトモロコシ粉の揚げた菓子、コールスローと呼ばれるサラダの一種と一緒に出てきました。

Barns & Noble という本と音楽の専門店に寄って、友人がオンラインで注文しておいてくれたJohn Denver のヒットソングを収録したDVDを受け取り、ついでに最近テレビでカーター元大統領が宣伝していたWhite House Diary という本を買ってきました。DVDは、先日Blue Ridge Parkway をドライブした時に、John Denver の"Take Me Home, Country Roads" の歌と同じような気分になって、あらためて聴いてみたくなったからです。

それから、友人のFrank Peoples 君の奥さんが入院しているBlue Ridge Health Care Center に寄って、明日出発するからと言ってお別れをしてきました。今日は2回リハビリの訓練をしたそうですが、今度会う時までには歩けるようになって、一緒に散歩をしたり映画を観に行こうと約束してきました。今度はいつ会えるかわからないので、Hug をして、頬ずりをして、腕や肩をたくさんさすってスキンシップをして、See you sometime ! (いつかまた会おう)と言って別れました。

今、こちらの時間で夜中の11時半を過ぎていますが、洗濯室で最後の汚れ物の洗濯をしています。それが済んだら、スーツケースに荷物を詰め込んで、後は明日の朝6時半頃見送りに来てくれる友人と一緒にモーテルを出発し、途中でレンタカーを返して空港に向かいます。レンタカーの走行距離計は約2千マイル(3,200Km)を示していますので、アメリカがいかに広いかがわかります。オレゴン州にいる故W.C. Dauterman 先生の奥様と二人の息子さん(一人は弁護士、もう一人は医師)に会いに行き、奥様のご自宅に2泊させていただく予定です。

2010年10月3日日曜日

午前中に昔の空手の弟子のJohn and Maureen Burgess 夫妻を訪ねて、時間の経つのも忘れて2時間以上も旧交を温めてきました。夫婦とも59才で、ある時期に私の道場に通って空手の稽古をしていました。今は夫のJohn 君が前立腺がんの抗がん剤治療を受けていて、頭髪が一本もなく、痩せこけて見えましたが、強い精神力で今でも毎日稽古をして空手の型の試合に出ていると言っていました。奥さんのMaureen さんは素敵な女性で、州政府の環境関係の部署に勤務して生活を支えています。John 君はお母さん(井上みやこ、1928年9月22日生まれ)が日本人でお父さんはアメリカ人のハーフです。終戦後間もない時期に名古屋出身の当時17才だったお母さんとやはり17才でアメリカ軍兵士だったお父さんが恋愛、親(井上そういち・あさ)の反対を押し切って結婚し、John 君は1951年に生まれたとのこと。ちょっと前までは敵国だったアメリカ軍の兵士と結婚した娘は親(というよりも祖父)に勘当されたも同然で、John 君が2才の時にアメリカに帰還して以来、両親(すでに亡くなった)とも結局その後一度も日本を訪ねることはできなかったようです。今は外国人との間に生まれた子供はハーフと呼ばれますが、当時は「合いの子」と呼ばれて社会から冷たい目で見られていました。アメリカ領事館が発行した英語の出生証明書のコピーをもらいましたが、名古屋の住所が英語で書いてありますので、帰国したら探してみようと思っています。お母さんには兄弟姉妹が何人かいたとのことなので、もしかした従兄弟が見つかるかもしれません。

午後にはWashington D.C. のEPA(Environmental Protection Agency)勤務の友人Dr. P.V. Shah (インド出身)がモーテルに訪ねてきてくれました。明日からRTP (Research Triangle Park ) のEPA で2日間にわたって開かれる会議に出席するついでに寄ってくれました。Shah 博士とはノースカロライナ州立大学時代に机を並べていた研究者仲間ですが、今は農薬の毒性評価をするBranch Head をしています。EPA が約10年かけて作り上げた内分泌かく乱活性(いわゆる環境ホルモン活性)の試験方法について、CLA (Crop Life of Amarica) という農薬会社の協会との間で質疑応答の協議をする会議だそうです。
http://www.epa.gov/endo/
今から2年以内にEPA が要求している試験を実施してデータを出さなければ、リストアップされている農薬の有効成分や製剤に含まれるその他の成分は登録が取り消されるので、農薬会社の方も真剣です。一つの農薬についてだけでも要求されている試験をするのに何十億円もの費用がかかります。アメリカの良いところは、行政が決めた規則を一方的に押し付けるのではなく、企業との間で徹底的に協議をして、新たな試験をする必要がないという科学的な根拠を提出してそれが妥当と判断されれば、試験が免除されることもあり得るということです。つまり、全員問答無用で必要のない試験をさせるような無駄なことはしないということです。

夕方には、Shah 博士と、昔千葉大学園芸学部の古在豊樹教授の研究室に滞在していたことのあるインド出身のDr. Subhas Mohapatra (10年前にノースカロライナ州立大学を早期退職し、今は3.5エーカー(4千3百坪=1.42ヘクタール)の研究農場で土を使わない農業の実証研究をしている)と3人で、インド料理店に行きました。スパイスがたっぷり効いたマトン肉のカレーをライスと混ぜたり、ナン(パン)に付けたりして食べました。スパイスが効いて顔がほてりましたが、インドの人達はこんなにおいしいものを食べているのかと思いました。
Mohapatra博士の言う「土なし農業(Soil-less Agriculture) 」というのは、日本で言う水耕栽培とは違って、プラスチックシートの上に砂の層を作り、その上に枯れ枝や枯葉をチップにしたもの(無料で入手できる産業廃棄物)を重ね、栄養液をドリップ潅水するという栽培方法です。しばらくすると、ミミズが入ってきてチップを堆肥化するとのこと。背が低い野菜や花だけでなく、根が水平に広く張るので高さ3mくらいの木でも自らを支えられるという方法です。毎年インドに3ケ月くらい出かけてこの農法を指導・普及しているそうですが、土なしで食料生産ができるので、途上国の飢餓問題解決に貢献するのだと、熱っぽく語っていました。

2010年10月2日土曜日

Raleigh の辺りも急に秋らしくなり、Lake Johnson の周りをジョギングした後は長袖のシャツを着て、恩師の故W.C. Dauterman 教授のお墓参りに行ってきました。郊外の景色の良い丘の上に墓地はあり、色あせた古いお花(造花)を新しいお花と取り替えてきました。今までは1995年に63才で亡くなってからほとんど毎年来ていますが、これからはいつまで続けられるかはわかりません。

それから、入院している友人のFrank Peoples 君の奥さんのお見舞いに行きました。Rex Hospital からBlue Ridge Health Care Center (A Nursing and Rehabilitation Center) に移され、歩行練習その他のリハビリテーションの訓練を受けていました。日本でも千葉大学時代の同僚教授だったN君がリハビリセンターに入院していましたが、見舞いに行ってみたらリハビリは形だけで、人手不足のせいか実際にはほとんど歩行訓練もしてくれていませんでした。こちらもリハビリと高齢者の長期療養兼用の同様の施設ですが、リハビリ室を覗いてみたら日本と違ってまるで体育施設かと思われるほどいろいろな道具がそろっていました。友人の奥さんは今日は2時間半くらいいろいろな運動をし、補助具に掴まりながら40フィート(10m)歩いたと言っていました。アメリカの方が医療や介護はずい分進んでいるという印象を受けました。廊下の壁に看護士や介護士を対象の標語が貼ってありましたが、その中の一つは、「Never say "it is not my job" (それは自分の仕事ではないと決して言うな)」でした。

昼食後、友人達と入場料1ドル50セントの名画劇場に行き、SALT という女性スパイの映画を観ました。先日Karate Kid という映画を観たのと同じ劇場ですが、今日はよく注意をして見たら定員130名くらいの小さな劇場が13もありました。テレビやインターネットやDVDなどと競争して映画館が生き残る一つの方法として、多様な観客のために多様な映画を安い入場料で提供しているのでしょう。

映画の後は、Raleigh 近辺に在住のアメリカ人の友人達8人が近くのレストランに集まってくれ、私の送別の意味も込めて食事をしながらおしゃべりしました。

2010年10月1日金曜日

昨夜は、ノースカロライナの海岸のOuter Bankと呼ばれる細長い島(ライト兄弟が始めて飛行機を飛ばした場所がある)で数日間バケーションをとるためにサウスカロライナのGaffneyからドライブしてきたTate夫妻が、途中に位置する私のモーテルに寄ってくれて、私の部屋に一泊していきました。先日のお返しに夫妻に私のベッドを提供し、私はソファーで寝ました。間仕切りもないのでプライバシーはありませんが、家族と同じようにお互いのいびきを聞きながら一つの部屋で寝ました。日本ではお客さんの夫婦と同じ部屋で寝るというようなことは、ほとんどなくなったのではないでしょうか。

奥さんのLindaさんはアイスボックスにチッキンやスープを入れて持ってきてくれ、私の部屋の台所で料理をして食べさせてくれました。残りは私の明日のランチにと冷蔵庫に入れて置いていってくれました。今は毎日刑務所に出かけて先生をしているというので、様子を訊いてみました。軽犯罪者はAキャンプ、凶悪犯罪者はBキャンプと分かれて収容されていて、ほとんどが中学(9年課程)卒か高校中退なので、囚人の中で大学卒の人が高校に相当する教科書を使って教えるのを監督指導するのが彼女の仕事だそうです。そうやって刑務所の中で高校卒と同等の資格を取らせて、出所後に就職がし易くするのが目的だそうです。

Aキャンプの囚人は、毎日(月~金)普通の服装で外に出て働いて(鶏肉処理工場など)、稼いだお金の中から刑務所の家賃や食事代などを払い、被害者に払う弁済金(?)を差し引かれ、僅かですが残りが自分の収入になるのだそうです。Bキャンプの囚人は、刑務所内の仕事か外の道路工事などの仕事をする時は囚人服のままで、銃を持った監視がつくそうです。この人達には給料はないので、刑務所の家賃や食事代は国民の税金で賄われるのだそうです。AキャンプもBキャンプも一部屋に3~4人収容され、軍隊のような薄いマットレスの簡易ベッドに寝て、各部屋にテレビも新聞もラジオも持ち込めるそうです。家族や友人との面会は土日で、テーブルを囲んで和やかに行われるそうです。

Tate夫妻が出立した後、ノースカロライナ州立大学のErnest Hodgson教授、Mike Roe教授、Ron Kua元教授とレストランでランチを一緒に食べました。昔、農薬に関する日米科学協力事業セミナーを一緒に企画実施した時の仲間です。Hodgson教授は78才という年齢にもかかわらず、今でも毎日(週7日)精力的に仕事をされておられるとのこと、頭が下がります。最近、Foundation of Toxicology and Agromedicineという非営利目的の法人を設立されたとのことでした。アメリカでは年齢による強制的な定年は憲法違反で、年齢にかかわりなく能力や意欲が衰えた時に退職し、能力や意欲を保持している教授は何歳まででも働けるという制度です。それでも当初心配されたような若い人の就職の機会が少なくなるというようなこともなく、ちゃんと新陳代謝も行われて人事構成のバランスがとれているとのことです。

夕方にはいつものようにLake Johnsonの周りを1周(約5Km)ジョギングし、その後アメリカ人の友人達とおすし屋さんで握りずしを食べました。

2010年9月30日木曜日

9月28日に振り込んで下さった方(7回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は146,000円、延べ167名からの合計額は2,210,565円になりました。「・・孤独が市橋さんの心を弱らせていないか案じられます。強い精神で今後の日々をすごして頂きたいです」というメッセージも添えられていました。ありがとうございました。

ちょっと前に一泊旅行から帰ってきました。車の距離計を見たら往復でちょうど700マイルですから、約1,120Km走ったことになります。
昨日モーテルを出発する時は、海岸近くをハリケーンが通過したので先日訪ねたWilmington の町は道路が水浸しになったとテレビのニュースが伝えていました。。西に向かって高速道路を走っている時は激しい雨にあいましたが、6時間くらいかかってAshevilleという町の西端に位置するチェロキーインディアン保護地区(Cherokee Indian Reservation)に着いた時は小降りに変わっていました。1969年に初めてこの地を訪ねた時に比べて、モーテルやみやげ物店が大幅に増え、大きなホテルにカシノ(ギャンブルをする所)も併設されて、観光地化されていました。それでも、上高地の梓川に似た清流に面した小さなモーテルの2階のバルコニーのロッキングチェアーを揺すりながら、清流の音と雨の音を聞きながらワインをすすると、自然と一体になったような気分になりました。

今朝は川沿いに散歩をしたり、チェロキーインディアン博物館を見たりしてから、アパラチア山脈の尾根筋を走るBlue Ridge Parkwayを2時間ほどゆっくり(曲がりくねった山道なのでゆっくりしか走れない)ドライブし、山を降りてAshevilleの町に出てから高速道路を4時間くらい走ってRaleighに帰ってきました。山の中は、霧が深くて先がほとんど見えないところがあったり、紅葉が始まっているところや、遠くの山々が見渡せるOverlook(眺望地点)があったりして、素晴らしい景色を堪能しました。

チェロキーインディアンは、白人が到着するまではこの辺り一帯に分布して、独自の文化をもって栄えていたのに、土地を奪われ、虐げられ、言葉も失われ、北海道のアイヌと同じような境遇にあります。それでも今ではアメリカ国民として、第二次世界大戦にも朝鮮戦争にもベトナム戦争にも参加し、戦死者の名前を刻んだ記念碑が公園の中に建立されていました。

2010年9月29日水曜日

日本の家族との連絡がやっととれるようになり、モーテルにFAXが4通届きました。
9月18日に匿名のFAXでメッセージがありました。「市橋さんへ 大変だと思いますが応援していますのでがんばって下さい。真実を全て話して、そして罪を償って、また新たな人生を歩んで下さい」

9月22日に振り込まれた方(3回目)の支援金が届き、現在高は133,000円、延べ165名からの合計額は2,197,565円になりました。ありがとうございました。

9月24日に振り込まれた方(4回目)の支援金が届き、現在高は136,000円、延べ166名からの合計額は2,200,565円になりました。ありがとうございました。温かいメッセージもありました。「23日の記事を読みました。証言をしてくれる方が現れたとのこと、私も自分のことのように嬉しかったです。この方も名乗り出るのにすごい覚悟と勇気がいったと思います。罪を犯してしまっても???皆さんから心配や支援をしてもらえるなんて幸せものだと思います。だからこそ心から反省し、罪を償ってほしいです。わずかな金額ですが送ります」 

昨日はNIEHS(国立環境健康研究所)のBuck Grissom博士を訪ねて、ネオニコチノイド剤という殺虫剤のグループとミツバチの関係についてと、ニームオイルについて有意義な情報交換をしてきました。Buck Grissom博士は、1982年~1983年に恩師の故W.C. Dauterman教授が1年間研究休暇で海外出張し、私が代わりに客員教授として研究室の指導をしていた時に、私のグループミーティング(ゼミ)に他の研究室から博士研究員として参加していた人です。

今日は今から、ノースカロライナ州の西端に位置するアパラチア山脈の尾根を走るBlue Ridge Parkwayという道でチェロキーインディアンの保護地区に出かけます。遠いので、途中一泊する予定です。40年くらい前に家族と全員で秋に旅行した時は、山も谷も鮮やかな紅葉の連続で、息を呑むような美しい景色だったのを覚えています。時期がちょっと早いので紅葉は無理かもしれませんが、久し振りにノースカロライナの山の中をドライブするのは楽しみです。

明日の夕方には先日訪ねたサウスカロライナ州のTate夫妻が旅行の途中で私のモーテルに寄る計画ですので、それに間に合うように帰ってくる予定です。先日のお返しに、Tate夫妻に私のベッドを提供し、私はソファーで寝るつもりです。

2010年9月28日火曜日

市橋君と千葉大学で同じ研究室を専攻し、空手部活動も一緒に参加していた元学生が、10月初めに菅野弁護士事務所を訪ねて学生時代の市橋君の様子など証言してくれることになりました。

日本と同じでこちらも今年の夏は猛暑続きで旱魃に近い状態だったようですが、一昨日大雨が降ってから急に秋らしい気候になりました。昨日は雨の晴れ間にモーテルから車で15分くらいのところにあるLake Johnsonという湖の周りの小道(Trail)をジョギングしました。一周約5Kmの森の中の小道ですが、上り坂や下り坂もあり、多くの人が散歩をしたりジョギングをしたりしています。私は時間が十分あって体調もいい時は車でこの湖に行ってジョギングし、時間があまりない時はモーテルから走って行けるところにあるRegency Parkの池(一周約1Km)の周りの遊歩道をジョギングします。ここでもよく散歩をしたりジョギングをしている人に出会いますが、いろいろな野鳥やリスや野生生物が見られますし、Amphitheaterと呼ばれる野外劇場が隣接してあって、コンサートなどのイベントも開催されています。

その後、車でショッピングセンターの中にあるRadio Shackという電気店に行ってカメラとパソコンをつなぐUSBケーブルを買ってきてブログに写真が取り込めるようにしました。

その足でノースカロライナ州立大学のMike Roe教授の研究室を訪ねました。私の恩師のDauterman教授が亡くなってからは、私がこちらにきて研究をする時はたいていこの研究室に滞在します。千葉大学の私の研究室の卒業生の岩佐孝男君は、以前会社からこの研究室に1年間留学してネオニコチノイド剤と呼ばれる殺虫剤の作用機構についてすばらしい研究成果を挙げました。その時の業績の一部はCrop Protectionというイギリスの学術誌に掲載され、世界中から注目され高い評価を受けました。
Iwasa et al (2004) Mechanism for the differential toxicity of neonicotinoid insecticides in the honey bee, Apis mellifera. Crop Protection 23: 371-378.

その後ヨーロッパからRoe教授のところにこの論文に関する質問というか、文句がたくさん届いているとのことでした。最初のうちはひとつひとつ丁寧に回答していたけど、途中から答えるのを止めたとのこと。日本でもそうですが、多くの反農薬活動家の人達は農薬に反対することを生きがいにしていて、どんなに科学的に説明しても宗教と同じで自分の信じていること以外は受け付けないという傾向があります。

夕方には友人のFrank Peoples君(1969年以来の空手の弟子)の奥さんが入院している病院にお見舞いに行ってきましたが、受け付けも何もなく、名札もつけず勝手に病室に入れるのには驚きました。アメリカでも昔は病院内に入るには規則がいっぱいあって管理が厳しかったそうですが、結局友人や家族がお見舞いに来る方が患者の回復にはプラスになるという考え方に変わって、出入りが自由になったのだそうです。
今日は今からResearch Triangle ParkにあるNIEHS(国立環境健康研究所)の友人を訪ねる予定です。車で多分40分くらいで行ける筈です。

2010年9月27日月曜日

支援者の一人から、9月24日に開催された第5回公判前整理手続に関する毎日新聞の記事が送られてきました。
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市川市で07年、英国人女性リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)の遺体が見つかった事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死罪などで起訴された住所不定、無職、市橋達也被告(31)の5回目の公判前整理手続きが24日、千葉地裁(堀田真哉裁判長)であった。市橋被告の弁護団は、▽殺意の有無▽リンゼイさんが死亡に至る経緯▽強姦致死の成立ーーの3点が大きな争点になる見通しだと明らかにした。
これまでの手続きでは、検察側が性的暴行の直後に正面から、手で首を絞めたと主張する一方、弁護側は後ろから腕で首を絞めたと主張している。
菅野泰弁護士は「司法解剖の鑑定書によると手で絞めたような跡はなく、検察側の主張は不自然だ。市橋被告は『後ろから腕で絞めた』と主張し、その場合には暴行後に体勢を変える必要がある」と説明。強姦致死罪成立に必要な暴行と死亡の時間の近接度を争う見通しという。次回期日は10月18日。

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これで検察側と弁護側の主張の違いが整理されて明確になったようですので、10月と11月の公判前整理手続では、情状酌量の余地があるかどうかの検討に入るのでしょうか。

私は昨日からサウスカロライナ州のGaffneyという田舎町に住んでいる昔からの友人(ノースカロライナ州立大学時代の研究室の同僚であると同時によく一緒にフィッシングに行った仲間)Tate 君を訪ねて、今夕モーテルに帰ってきました。車でハイウェイを時速120Kmくらいで走って片道4時間くらいかかる距離です。昔は、チャールストンというサウスカロライナ州の港町から内陸部に向かう駅馬車の停留所もやっていたと生前のお父さんに聞きました。Tate 一家で440エーカーですから、53万8千坪(178万m2=7万7千町)という広大な土地を持っています。昔は一面綿畑だったようですが、今は森と牧場に変わっていて、弟の家族が住んでいる母屋は「風とともに去りぬ」という映画に出てくるようなプランテーションの白いペンキ塗りの2階建ての建物です。広大な牧場に放し飼いにされている牛を小型トラックに乗って見に行きました。Tate 君自身は、自分で建てた屋根裏部屋付きのキャビン(丸太作りの家)に住んでいます。友人と二人で訪ねたので、友人にはゲストルームを、私には夫婦の大きなベッドを提供して、自分たちはリビングルームのソファーで寝ていました。南部の田舎のアメリカ人には、お客さんをもてなすこういう考え方が今でも残っています。美人でスラッとしたスタイルの奥さんは、元々高校の物理の先生でしたが、今は刑務所の囚人(20才から70才くらいまでいる)の教師をしています。Tate 君が自分の家の森で銃でし止めた鹿の肉のハンバーガーや、手作りのアイスクリームなどをご馳走になりました。朝は雄鶏の鳴き声で自然に目を覚ましました。こういうのは、私にとっては最高に贅沢な生活です。
私が来年3月に東京農業大学客員教授を定年になったら、こちらに来て住まないかと誘われました。

帰り道の途中でCharlotte という町に寄って、先日私のモーテル に来てくれたDon Prpffer 君ともう一人別の友人のWayne Brown 君(やはり昔からの空手の弟子で、今は3つのレストランのマネージャーをしている)と会って食事をしてきました。皆、実の兄弟以上に親しい仲間たちです。

2010年9月24日金曜日

ちょっと前に日本の家族から公衆電話を使っての連絡がありました(自宅の電話とFAXはまだ故障中のため)。9月19日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は130,000円、延べ164名からの合計額は2,194,565円になりました。10万円もの大金のご支援をありがとうございました。

日本と私が現在滞在しているノースカロライナ州とは13時間の時差がありますので、日本の朝11時はこちらでは前日の夜10時になります。今日は用事があって、空手の弟子で弁護士のEverette Noland君の事務所に行きました。用事が済んだ後、近くのレストランで昼食を食べながら3時間くらい話をしました。ひとつ驚いたことは、彼のお父さん(故人)は高い階級の職業軍人で、第二次世界大戦(ドイツ)、朝鮮戦争、ベトナム戦争に参加して、その他にもいろいろなところに派遣されていたということです。

私はNoland 君はMartin Luther King 牧師の人種差別撤廃運動の行進に同行したと思い込んでいましたが、今日詳しく訊いてみたら私の早合点で違っていました。1960年にまだ南部のジョージア州の大学の学生だった時に、ケネディ対ニクソンの大統領選挙が行われた時に、首府のアトランタの選挙会場の前で20人くらいの白人(当時学生だった今の奥さんも含めて)だけのグループで黒人にも選挙権を与えよというピケ(プラカードを持って抗議行動)を張ったのだそうです。King 牧師もアトランタの出身ですが、その頃は無名で、Noland 君らの勇気ある行動に触発されてその後の活動を展開した可能性がありそうです。

アメリカ憲法ではずっと前から黒人にも選挙権は認められていましたが、北部でも南部でもいろいろな事情で実際には投票に参加できない状態だったそうです。南部の場合は、字が読めなければ選挙はできないという理由で、黒人には難しい憲法の条文を読ませて説明してみろというような試験を課して、実際上投票できないようにしていたとのことです。その他にも、レストランにしても、トイレにしても、水飲み場にしても、あらゆる場面で黒人差別が日常化していたので、それはおかしいとして立ち上がったのだそうですが、その当時は社会をあげて大騒ぎで、よそ者が扇動しにきたと批判され、袋叩きにされかねない危険な状態だったとのこと。奥さんが持っていたプラカードは近づいてきた白人男性にナイフでズタズタに切り裂かれ、そのナイフを足元の地面に突き刺して脅かしたそうですが、近くにいた警官は止めようともせずにただ見ているだけだったとのこと。当時まだ若い女子学生だった奥さんは、無抵抗主義を堅持し、プラカードは破られればまた作り直せばいいとして、がんばったのだそうです。私は昨年海岸の別荘で奥さんにお会いしましたが、芯の強そうな女性でした。長年小学校教師をしていましたが、今はその経験を生かして女子大学で教師になる勉強をしている学生たちに子供への教え方や児童心理などを指導しています。

Noland君はジョージア州の大学で4年を卒業し、その後ミシガン州立大学の法学部で3年勉強して法学士号を取得、司法試験(Bar Test)に合格後、職がなかったので、イギリスから独立して間もないアフリカのナイジェリアに行って2年間現地の裁判所に勤務したのだそうです。ナイジェリアはイスラム教徒の北部とキリスト教徒の南部に分かれていますが、その他にも多くの部族があって大変難しい国のようです。
本にすれば面白そうな彼の経験や話を聞いているうちに3時間はあっという間に経ってしまいました。
日本の若者は、正しいことは正しい、おかしいことはおかしい、と立ち上がって主張する勇気を持ったいるだろうかということがちょっと気になって、いろいろと想像を巡らせました。

2010年9月23日木曜日

市橋君が卒業論文の研究をした研究室の教授が私が適正な裁判を支援する会の活動をしていることを皆に知らせて下さったらしく、市橋君と同じ時期に研究室を専攻し、空手の練習も一緒にしていた元学生が連絡をしてくれました。すでに結婚して子供の親になっている人ですが、学生時代の市橋君について弁護団に証言してもよいと言ってくれました。こういう状況になった市橋君は、皆に顔向けできないと思っている筈ですから、昔の友人たちができる範囲で彼の支援を申し出てくれていることを知れば、人の温かさを認識する筈です。

昨日はCharlotte から来てくれたDon Proffer 君と Raleigh 市内にある湖のひとつ Lake Wheeler にフィッシングに行きました。1969年以来の空手の弟子ですが、お父さん(故人)は陸軍のグリーンベレイと呼ばれる特殊部隊の隊長をしていた人です。大学卒業後は市警察に長年勤務し、その後資格をとってCPA(公認会計士)になりました。今は老齢のお母さんのお世話をしています。私が車を運転して遠くに行く時に道に迷ったり、居眠りして事故があってはいけないとの配慮で、わざわざ遠くから来て車に同乗してくれました。私のモーテルの部屋のソファで寝ていました(もう必要がないと判断して先ほど帰宅しました)。映画やメディアが描くアメリカ人のイメージと違って、Don Proffer 君をはじめとして多くのアメリカ人は、今の日本人が失ったものをちゃんと持っているすばらしい人たちです。

2010年9月22日水曜日

19日にノースカロライナ州の海岸の町 Wilmington に住んでいる友人のEugen Sanchez君を訪ねました。カストロ首相らによるキューバの共産革命の時に、フロリダに亡命してきた精神科医のお父さんと学校教師のお母さんの息子です。大学工学部を卒業してノースカロライナ州の電力会社に就職して私の道場(Gensei Dojo of Japanese Martial Arts)のあったRaleigh 市に引っ越してきた時以来の空手の弟子です。お互いに久しぶりの再会を喜び合いました。娘二人と愛犬を連れて、一緒に近くのKure ビーチに遊びに行きました。長女のMorgan は15才、次女のMelanie は12才ですが、こんなに甘えられたらお父さんはメロメロになって溶けてしまうだろうなと思えるほど甘えていました。9月も下旬に近いのに、砂浜では大勢の人が遊びに来ていて、ピアからフィッシングをしている人たちもたくさんいました。夕方には、Sanchez君の手作りのキューバ料理を全員でご馳走になりました。

私たち4人(全員空手の弟子のDon Proffer君、Bill Oakley 君、Margie Reinitzさんと私)は、近くのCarolina ビーチのモーテルに一泊しました。予約なしで行きましたが、日曜の夕方で大半の宿泊客が引き揚げた後でしたので、空室はすぐ見つかりました。翌日朝早く起きて海岸に散歩に行くと、ちょうど大西洋の地平線から朝日が昇るところでした。ペリカンが飛んでいたり、こんな時間から一人で釣りをしている人がいたり、打ち寄せる波の音と一種の静けさの中で、心が洗われるような気分を味わいました。
                                    
 (写真はクリックすると拡大できます)

2010年9月19日日曜日

昨夜(こちらの時間で18日〉遅くノースカロライナ州の空港に着きましたが、友人達3人が待っていてくれました。私が1969年に初めてきた時はRaleigh/Durhan空港(RDU)というのは田舎の空港で、セキュリティチェックもなく、恩師の故Dauterman教授が生まれて数ケ月の長男を腕に抱いて飛行機のタラップの下まで迎えにきてくれました。それが、日本のつくば研究学園都市のモデルになったといわれているResearch Triangle Park(RTP)という3つの主要大学と国・民間の研究学園都市ができてから人口が増え、空港も国際空港になって、昔の面影はなくなりました。空港の近くでレンタカーを借りて、いつも使っている台所付きの長期滞在用モーテルにチェックインしました。公共交通機関がほとんどないと同然なので、自分で車を運転するしかありません。友人があらかじめ冷蔵庫に食べ物や飲み物を入れておいてくれたので、もう一人駆けつけてくれた友人も含めて5人で再会を祝してパーティをしました。友人の一人はCharlotteというかなり遠い町から来たので、私の部屋のソファで寝ました。今日はもう少ししたら、皆でWilmingtonという海岸(大西洋)の町に住んでいる別の友人を訪ねる予定です。今夜は向こうで一泊することになるかもしれません。皆、1969年以来の空手の弟子でアメリカ人ですが、家族のような親しい関係です。

支援金が届いたらFAXでコピーを送るように家族に頼んであったのですが、息子からのメール連絡で、自宅の電話とFAX兼用プリンターの修理で1週間くらい使えないとのことです。支援金の報告をブログでしようと思っていたのですが、しばらくはできないかもしれません。ご了承下さい。

2010年9月17日金曜日

8月15日に東京から振り込まれた方(3回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は30,000円、延べ163名からの合計額は2,094,565円になりました。ありがとうございました。

今日は東京で報農会という財団法人主催の「植物保護ハイビジョン-2010」-生物農薬の展開と化学農薬の調和-というシンポジウムがあり、私も聴講してきました。300人を超す参加者で会場が一杯でした。6人の演者による講演があり、いずれも大変勉強になりましたが、特に静岡大学農学部の西東 力教授の「生物農薬の最近の開発・利用状況及び今後の展望」と題した講演は、生物農薬の夢と限界の現実を明確に指摘され、印象に残りました。元々、静岡県の農業試験場で長年農業の現場の問題に取り組んで来られた方ですので、宣伝や空論ではなく、説得力がありました。

私は明日の午前11時半頃自宅を出て成田空港に向かい、アメリカに出発します。10月9日に帰国します。

2010年9月16日木曜日

9月14日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は20,000円、延べ162名からの合計額は2,084,565円になりました。「パソコンが不調でメールを出せませんが、応援しています」というメッセージも書いてありました。ありがとうございました。東北からも振り込んだというメールでのお知らせが届いています。

私は明後日18日からアメリカに出かけて日本を留守にしますが、留守中は家族に払込取扱票をチェックしてもらってアメリカの滞在先に連絡してもらう予定ですので、ブログでの報告はできる筈です。アメリカでは古巣のノースカロライナ州に帰省して充電してくるのが主目的ですが、恩師のお墓参りや、各地の友人達と会ったり、EPAやNIEHSを訪ねて少しは勉強もしてくる計画です。パソコンは持参しますので、向こうでもメールは読めます。


2010年9月13日月曜日

9月10日に振り込まれた方(5回目)の支援金が届きました。ありがとうございました。前回までの分は9月8日に菅野弁護士に全額をお届けしましたので、支援金の現在高は10,000円、延べ161名から今までに振り込まれた支援金の合計は2,074,565円になりました。

イギリスの新聞The Timesの東京支局長Richard Lloyd Parry 氏が午後2時に松戸駅に到着し、私が車で迎えに行って千葉大学園芸学部にお連れし、猛暑の中でしたがキャンパス内を歩いて見学後、5時頃まで取材を受けました。家族の話題で、私の息子が英文学専攻でシェイクスピアの研究でイギリスに2回留学した話をしましたら、Parry氏はOxford大学でやはり英文学を専攻したとのことでした。奥様と小さいお子様と東京にお住まいで、年に1~2回イギリスに帰省されるそうです。

3時間の取材ですからいろいろな話題をカバーしました。市橋君の人間性、私が何故多くの人の反対を押し切って市橋君の適正な裁判を支援する会を立ちあげたのか、私の目的は何なのか、市橋君は自分の犯した罪を認めたのか、支援者はどういう人達なのか、・・等々。リンゼイさんのご両親は大切な娘を失った犠牲者だが、市橋君のご両親も息子を失ったのと同じで犠牲者で、大変苦しんでおられること。市橋君のご両親はリンゼイさんのご両親に対して大変申し訳ないと思っておられること。私は、いずれは両方がお会いする機会が訪れればよいと思っていること。いずれは市橋君のご両親もこの困難を克服して、医師として社会に貢献していただきたいこと。私が以前リンゼイさんのご両親宛に送ったメールは向こうの代理人にストップされて抗議されたこと。市橋君がリンゼイさんのご両親宛に書いた事件の経緯の説明と謝罪の手紙は、代理人から受け取りを拒絶されたのでご両親には届かなかったこと。

支援者から寄せられたメッセージを匿名化して一覧表にして以前菅野弁護士にお渡ししたもののコピーを差し上げました。支援者の方々がどういうお考えで支援をしておられるかが理解してもらえるようにとの考えからです。
弁護団は明後日15日に6名全員が集まって20回目の弁護団会議をやられるそうですが、その席で、市橋君がリンゼイさんのご両親宛に書いた手紙をParry氏に見せてもよいということが認められば、市橋君が罪を認めて謝罪していることがThe Timesに記事として紹介されてリンゼイさんのご両親に見てもらえることになるかもしれません。

私が目指しているのは、元教師として元学生がきちんと罪の償いをすること。受刑中も市橋君が生きる希望を失わずに自分を向上させられるように支援をすること。何年経ったら出所できるか、出所できるかどうかもわからないが、出所した時に市橋君が残りの人生を前向きに生きられる人間になるように支援をすること。

どういう記事になるのかはわかりませんが、被害者対加害者、代理人対弁護人という立場ではなく、人間対人間としてのメッセージがイギリスの人達に伝わればいいなと思っています。記事になった時は私にもメールで送ってくれるとのことでした。

2010年9月12日日曜日

ネットで支援金を振り込んだというメール連絡がありましたので、月曜日には届くでしょう。記録を調べてみましたら、この方は5回目になります。

私は犯罪心理学者でも精神科医でもありませんが、普通の学生だった市橋君が何故こういう愚かな行為に及んだのかを解明することは、市橋君自身の更生にとっても社会が同様の事件の再発を防ぐためにも重要な筈です。検察側は公判で検察側が描いたシナリオを提示し、いずれメディアや評論家たちも解説をしてみせるのでしょうが、適正な裁判が行われるために、市橋君と弁護団の間で信頼に基づいた対話がなされて、真相が解明されることを期待しています。

市橋君が育った町の風景(2010年1月31日撮影)







2010年9月10日金曜日

ブログの3月31日の記事で書いたイギリスの新聞The Timesの東京支局から電話があり、来週の月曜日にイギリス人の支局長が取材に来られるということになりました。3月の時は一度予定していた取材がキャンセルになりましたが、今度は実現したら、私たちはリンゼイさんとそのご遺族に大変申し訳ないと思っていることと、市橋君も一時的に理性を失った状態で自分がしていることがわからなくなって犯したとんでもない行為を反省し、責任をとって罪を償う覚悟であることをイギリス国民に伝えていただこうと思っています。

2010年9月9日木曜日

昨日の菅野弁護士のお話では、市橋君の公判前整理手続は、事件当日何が起こったかの弁護側と検察側の論点整理が大体9月末までに終わり、10月から11月には情状酌量の余地があるかないかなどの検討が行われ、年内には裁判の準備が済んで、来年3月頃に裁判員裁判が開かれるという見通しのようです。

市橋君は身柄を拘束されて以来、弁護団に親には絶対に連絡をとらないでほしいと言い続けてきたそうですが、これは自分自身の問題なので親や家族には迷惑をかけたくないという思いだったのでしょうか。育ててくれたご両親に申し訳ないという気持ち、感謝しているという気持ち、ご両親への敬愛、そんな思いを伝えたいという心境になったのでしょうか、最近ご両親宛の手紙を書いて弁護団に託したようです。親子は物理的に隔絶されてもお互いへの信頼で結ばれていたとしても、こういう状態に陥った息子からの何年ぶりかの手紙が届いて実際に手にした時のご両親の胸の内はいかばかりかと想像されます。

市橋君が千葉大学を卒業してからの2年間にどういう生活をしていたのか私には全くわかりませんが、ごく普通の学生だった市橋君がリンゼイさんにこんな酷いことをするには、よっぽど自分自身を失っていたとしか考えられません。何故彼がそういう行動に走ったのか、市橋君自身もわかっていないのかもしれません。亡くなった命は生き返らないし、犯した罪は消えませんが、何が彼に理性では考えられないこんな馬鹿げたことをさせたのかを明らかにすることは、弁護団にとっても市橋君自身にとっても大切なことかもしれません。

2010年9月8日水曜日

台風9号の影響で悪天候でしたが、郵貯銀行からその後振り込まれた支援金の全額191,000円を引き出して、菅野弁護士にお届けしました(領収書添付)。今日は菅野弁護士に加えて、山本宏行弁護士も同席して、いろいろお話を伺ってきました。

千葉刑務所内で熱中症で死亡者がでたというニュースに関連して、市橋君の入っている独居房には空調も扇風機もないので、暑さにはただ耐えるしかないとのことです。ただし、独居房には洗面設備はありますが、ボトル入りの飲用水を毎日3本ずつ支給されるようになったそうです。

未決囚なので私服を着用していますが、差し入れをしている人がいるらしく着替えなどに不自由はしていないようです。お金も差し入れをしている人がいるらしく、刑務所内の売店で食べものを買うことはできるそうです。最初の頃は甘いものを欲しがったけど、最近は支給される食事だけで不満はないそうです。衣類でも食べものでも、必要なものは市橋君が弁護団に接見の時に要望すれば、支援金を使って購入して弁護団から差し入れができるので、心配はないとのことです。

自殺の可能性があるという理由の特別扱いを止めて他の被告人と同じ扱いにしてほしいという点については、市橋君本人も弁護団も繰り返し改善を要望してきましたが、特に週に4~5回行われていた独居房への立入検査や私物の制限は改善されたそうです。繰り返し要望した結果か、千葉刑務所で8月に自殺者がでたので、ストレスを与えると自殺予防に逆効果と判断したのかはわかりませんが。

市橋君がリンゼイさんのご両親宛に日本語と英語で書いた手紙は、イギリスの代理人から日本の検察に受け取りを拒否するという連絡が入ったので、結局送れなかったとのことです。公判には被害者(の遺族)も出席できるので、そこで加害者に直接質問をぶつけられるので、今の段階で加害者側の説明や謝罪や言い分を聞く必要はない、ということなのかもしれません。つまり、被害者(の遺族)側は市橋君に対してかなり厳しい姿勢を維持して臨んでこられるのではと想像します。

公判前整理手続は当初予想した5~6回ではなく、7~8回は行われそうで、第5回は9月24日、第6回は10月18日に予定されているそうです。

皆さまから寄せられた支援金は弁護団が活動をする上で大変役に立っているとのことでした。これからも継続してご支援をお願い致します。

2010年9月7日火曜日

明日は菅野弁護士にその後振り込まれた支援金をお届けする予定です。市橋君の最近の様子などについても伺ってくるつもりです。




この写真は、市橋君が高校を卒業するまで住んでいた岐阜県竹鼻町を今年の初めに訪ねた時に撮ってきたものです。岐阜羽島駅から走っている名鉄は確か単線だったと思いますが、駅前の大通りに高層ビルもなく、線路を歩いてわたる歩行者用の通路があったり、この頃都会では見られなくなった昔の街並みや風情の残っている田舎の町でした。ほとんど町中の人は皆顔見知りかもしれないという印象でした。市橋君が、見慣れたこの景色を再び見ることができるのは何年先になるのかわかりませんが・・・。

2010年9月4日土曜日

支援者のお一人から、千葉県の情報サイトに第4回公判前整理手続の記事がありましたという情報提供がありました。
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市橋達也被告(31)の第4回公判前整理手続が3日、千葉地裁(堀田真哉裁判長)で行われた。
市橋被告の弁護団は、ホーカーさん死亡の時間帯が最大の争点となる見方を示した。弁護側は、暴行と死亡の時間が離れてたことを証明するため、市橋被告のパソコンデータを証拠請求する方針。手続きには市橋被告も出席した。
弁護団が明らかにした供述調書の内容によると、市橋被告は07年3月25日午前、自室に入った直後に強姦。その後、足などを縛られたホーカーさんを室内に置いた浴槽に入れた。翌26日午前2~3時ごろ、浴槽からはい出し声を上げようとしたため、後ろから馬乗りになり左腕で首を絞めた。殺意は否認している。
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これは弁護側が取材記者団にリリースした情報に基づいた記事でしょうが、検察側はまだ、強姦プラス傷害致死ではなく、強姦致死プラス殺人が行われたという主張の証拠を提出していないという印象を受けました。
最終的にどういう判決になるのかはわかりませんが、市橋君はとんでもない悪いことをしたのですから、心の底から反省して、相当長期間罪の償いをしなければならないでしょう。逃走中の生活態度から見ても、私が知っている市橋君は、しっかりそれができる人間だと信じます。

2010年9月2日木曜日

8月31日に振り込まれた方(6回目)の支援金が届きました。これで支援金現在高は191,000円、延べ160名からの合計額は2,064,565円になりました。「熱中症の方々が増え、私の勤務先も忙しい日々です。この暑い中、独房で一人の市橋さんの体調は大丈夫でしょうか。本当に気がかりで案じられます。意思を強くもって日々過ごしていただきたいです。」というメッセージもいただきました。ありがとうございました。

市橋君が千葉大学園芸学部で卒業論文の研究や研究室ゼミに参加していたのは、庭園デザイン学研究室で、当時は2人の教員が指導に当たっていました。事件後は、警察が事情聴取に来たり、メディアが取材に押し掛けたりで大変だったようです。現在はM教授お一人で学生の指導をされています。今日は市橋君が提出した卒業論文を見せてもらいに研究室を訪問し、学生時代の市橋君のことなどM教授と懇談してきました。

2010年9月1日水曜日

今日から月が変わって9月です。弁護団は、午後から行徳警察署へ事件の証拠物の閲覧に行ったり、事件現場(市橋君が住んでいたマンション)の見分をしている筈です。

8月30日に振り込まれた方(2回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は181,000円、延べ159名からの合計額は2,054,565円になりました。この方からはメールでお便りもいただきました。ありがとうございました。

2010年8月31日火曜日

今日も猛暑が続いていますが、東京農大のグランドでは野球部が対外試合をしていたり、サッカー部がシュート練習をしていたり、陸上部が200mを数人ずつ全力疾走していたり、元気のいい若者を見るのは気持のいいものです。私はジムで準備運動を兼ねて軽く筋力トレーニングをしてから、外に出て無理をしないように大学の周囲を1周(約2km)だけジョギングしました。
岡山県在住の知人(今年の春に会社勤めを定年退職し、今はブドウを中心とした農業をやっている)が松枯れの写真を送ってくれました。以前見た広島空港と広島市の間の高速道路沿いの山に骸骨のように立っている枯れた松の写真を撮りに行きたいと言ったら、そんな景色は岡山でもいくらでもあるよと言って送ってきたものです。

昭和30年代に松くい虫で松山が一度全滅した後、再生して生えてきた樹齢25〜30年くらいの若い松がまた松くい虫にやられてしまったそうです。こうなると松茸が生えなくなるだけでなく(松茸はこれくらいの樹齢の若い松の木の周囲に生える)、強風の時は木が倒れるので危険で山に入れないとのこと。健康被害があるという思い込みで反対運動を扇動して松くい虫防除の薬剤散布を中止に追い込んできた活動家の人たちは、こういう現状をどう見ているのでしょうか。

2010年8月30日月曜日

菅野弁護士からメールで連絡をいただきました。市橋君の裁判に向けて着々と準備をしておられるようです。8月17日に行われた第3回公判前整理手続を受けて、8月31日までに検察側、弁護側が追加して主張を提出し、9月3日に第4回公判前整理手続が開かれるとのことです。私が皆さまからその後に振り込まれた支援金をお届けするのは、9月8日午後ということになりました。

皆さまから寄せられている市橋君の健康状態その他に関する質問も、合わせてメールでお送りしました。

2010年8月29日日曜日

 今日は日曜日でしたし天気が良かったので、私と一緒に研究をやってくれている博士研究員の孫立倉君と一緒に千葉県大網白里町の瑞穂地区(松戸から車で1時間半くらいの距離)に水田を見に行きました。7月19日の記事では、千葉県香取市山田区の濃い緑色のカーペットのように広がっている水田の写真を載せましたが、あれから40日経った今日は予想通り黄金色の見事な水田が広がっていました。この辺りでは、大体4月末から5月初めの連休の頃に田植えをし、8月下旬に収獲をします。コンバインに乗って収獲作業をしていた農家に話しかけてみましたら、今年は高温が続いたので豊作だとのことでした。

記録によりますと、日本では千何百年もの間ずっと10アール当たり1.8俵くらいしか収獲できなかったお米が、明治の中頃になって3.5俵、昭和30年(1955年)になって5.5俵になり、現在は品種改良、肥料、農薬のお陰で安全で美味しいお米が安定的に10俵近くも収獲できるようになったのですから、科学技術の進歩は大変なものです。しかも農作業は私が学生だったついこの間までは、牛馬で耕したり、手で草取りをしたり、鎌で稲刈をしたり重労働でしたが、今は農薬と機械のお陰で人間を重労働から解放してくれました。

2010年8月28日土曜日

昨日から新聞でもテレビでも、死刑の是非を議論するきっかけとして、東京拘置所内の死刑刑場が初公開されたニュースを伝えています。支援者の一人から無期懲役について詳しい情報が載っているサイトを送っていただきました。かなり専門的ですが、無期懲役と終身刑との違いの説明もあります。
http://www.geocities.jp/y_20_06/index1.html
私のあるアメリカ人の友人(剣道の弟子)の弟は、何年も前に陸軍を除隊後40歳代で未成年(15〜16歳)の女性と恋愛関係になったことが女性の親に知られて訴えられ、終身刑(Life Term Imprisonment)3回という判決で今も服役中です。裁判を傍聴した友人たちの観察では、年齢的には未成年とはいえ、身体的には20歳代の成人女性にしか見えなかったとのことでした。どうやって終身刑を3回執行できるのかわかりませんが、アメリカでは未成年者に対する性的犯罪に対して厳罰が下されるということは、それだけそういう犯罪が多いということの裏返しかもしれません。

昨日届いた日本農薬学会誌の最新号に千葉大学時代の私の研究室を専攻して1982年(昭和57年)に大学院修士課程を修了したH君の総説が2篇掲載されていました。H君はその後千葉大学の薬学部で大学院博士課程を修了し、現在は千葉科学大学薬学部の教授をしています。私の研究室にいた時は、殺虫剤抵抗性の機構に関連して昆虫のカルボキシルエステラーゼという酵素について研究していましたが、農学から薬学に移ってからは哺乳動物やヒトのカルボキシルエステラーゼの分子多様性や基質特異性、遺伝的制御などを、医薬の副作用やプロドラッグデザインとの関連で研究してきたようです。
J. Pestic. Sci. 35(3), 218-228(2010)
Carboxylesterases: structure, function and polymorphism in mammals.
J. Pestic. Sci. 35(3), 229-239(2010)
Prodrug approach using carboxylesterases activity: catalytic properties and gene regulation of carboxylesterase in mammalian tissue.

元教師にとっては、サークル活動であれ研究室活動であれ、私のところを巣立った卒業生がこうしてそれぞれの分野で活躍しているのを見るのは何よりも嬉しいことです。

2010年8月27日金曜日

8月25日に振り込まれた方(6回目)の支援金が届きました。これで支援金現在高は161,000円、延べ158名からの合計額は2,034,565円になりました。いつもお心に留めて下さってありがとうございます。

金原龍一著「31年ぶりにムショを出た-私と過ごした1000人の殺人者たち」を読み終わりました。無期懲役で服役している人達が何を考えて生きているかや、どういう日常生活をしているかなどがわかりましたが、一番よかったのは千葉刑務所の独居房の内部写真や刑務をする工場の写真があったので、市橋君がどういう環境に置かれているかがある程度想像できたことです。今はまだ適正な裁判を受けることが先ですが、いずれ裁判が決着後は、この本によれば決められた刑務と規則正しい生活を繰り返しながらも、スポーツをしたり、音楽をしたり、書道をしたり、本を読んだり、いろいろな機会がありそうですので、市橋君が前向きに生きる姿勢を持ち続けさえすれば自分を高めることは可能だという印象を受けました。

市橋君が千葉大学園芸学部の空手部で一緒に汗を流した仲間で、今は大学院を修了して東京農業大学で教員(助教)をしているH君に昨日農大キャンパスで偶然行き会いました。事件が発覚した当初、私のところにも警察が何回か訪ねてきましたが、私が当時の空手部員の名簿を提出しましたので、彼のところにも警察からの問い合わせがあったようです。しばし二人で市橋君の学生時代のことを思い出して立ち話をしました。

市橋君が勉強をしていた千葉大学園芸学部のある松戸市は人口約50万ほどの東京近郊都市ですが、大学は戸定ケ丘(とじょうがおか)と呼ばれる小高い丘の上にありますので森に囲まれた静かな場所にあります。彼がこの地を訪れることは当分ないでしょうが、多感な学生時代に何年間かを過ごした春夏秋冬の景色は市橋君の心の中に残っている筈です。

2010年8月25日水曜日

8月23日に振り込まれた方(6回目)の 支援金が届きました。これで支援金の現在高は160,000円、延べ157名からの合計額は2,033,565円になりました。ありがとうございました。「こんなに多くの支援者が市橋君にはいるという事を知ることができたら、どんなに心の支えになることでしょう。弁護士の方を通して知らせることができたら嬉しく思います。」というメッセージも添えられていました。

2010年8月24日火曜日

 支援者のお一人から、刑務所での生活の様子を知るのによい本を推薦していただきました。
金原龍一著「31年ぶりにムショを出た―私と過ごした1000人の殺人者たち」(株式会社宝島社)です。市橋君と同じ年齢の頃に強盗殺人の罪を犯して無期懲役の判決を受け、最初の9年を大阪刑務所、その後を千葉刑務所で服役し、最近出所した人とのことです。市橋君が服役する可能性が高い千葉刑務所だということと、浦島太郎のように31年ぶりに出所してすっかり変わった社会を見て人はどう感じるのか、大変興味深いので、早速amazon.co.jpに追加発注しました。

 ほとんど毎年のことですが、私は9月18日から10月9日までアメリカに出かける予定ですので、先方との連絡などその準備を始めました。ノースカロライナ州立大学やEPA(Environmental Protection Agency)やNIEHS(National Institute of Environmental Health Sciences)を訪ねて農薬の健康影響について情報交換をしたり、長年の友人達に会ったり、恩師の故W.C. Dauterman教授のお墓参りをしたり、オレゴン州在住の恩師の奥様を訪ねたり、カリフォルニア州在住の娘の家族のところに立ち寄ったりしてくる計画です。

2010年8月23日月曜日

 8月20日に振り込まれた方(3回目)の支援金が届きました。これで支援金現在高は155,000円、延べ156名からの合計額は2,028,565円になりました。「・・裁判で事件の真相が明らかになり、市橋さんが更生へと早く歩み出すことができますように、願っています。」というメッセージも書いてありました。ありがとうございました。これを見ても、支援者は市橋君を単に犯罪者としてだけでなく、一人の人間として見てくれているということがわかります。

 一昨日の追記で紹介したブログ「刑務所体験作家 本間 龍の日記」
http://d.hatena.ne.jp/gvstav/20100814/1281798390
の著者の本間氏からメールをいただきました。東京拘置所に1年、栃木県の黒羽刑務所に1年収監されていたご自身の体験から、独居房の様子や、千葉刑務所では熱中症で死亡した受刑者がいるということや、市橋君の現在の処遇を改善するにはどうしたらよいかなど、助言をいただきました。あらためて上記のブログを訪問し、最新タイトルのいくつかを読ませていただきました。体験した人でなければわからない刑務所内での様子が垣間見えた気がしました。

 こんなことを考えるのはまだ早過ぎるかもしれませんが、裁判が終わって刑が確定(死刑ではないことを祈りますが)した後、市橋君は長い年月を服役することになるのでしょうから、その時に彼が社会から断絶された状態でなお自分を高める生き方ができるためにはどういう支援ができるかを考えるために、刑務所内での生活がどういうものか知りたいと思いました。ちょうど本間 龍氏の書かれた”「懲役」を知っていますか?有罪判決がもたらすもの”(学習研究社)の宣伝が上記ブログのページに載っていましたので、はじめにと目次とサンプルページと終わりにを試読の上、amazon.co.jpで発注しました。

2010年8月21日土曜日

 8月19日に振り込まれた方(2回目)の支援金が届きました。これで支援金現在高は135,000円、延べ155名からの合計額は2,008,565円になりました。ありがとうございました。今年の2月20日に募金活動を始めた当初は、何とか100万円くらいが集まれば裁判費用の一部を支援して少しでも市橋君に適正な裁判を受けさせられると思っていましたが、6ケ月で200万円を達成しました。交通事故の遺児の育英資金とか、地震や洪水の被害者の救済とかの募金だったら理解が得られやすいのですが、市橋君のような強姦と傷害致死の被告人を何故支援するのかという難しい状況下で(そのために匿名希望者が多い)、よく振り込んで下さったと思います。皆さまのお陰で、弁護団の裁判活動が支えられています。

 8月16日の追記でお知らせしました千葉刑務所内での受刑者(未決囚)の自殺のニュースは、私を含めて多くの人にとってショックでした。何故そういうことになったのか多くの人が疑問を抱いた筈ですが、支援者の一人が詳しい情報を見つけて送ってくれました。
http://d.hatena.ne.jp/gvstav/20100814/1281798390

 精神疾患のため公判停止のままで17年間も独居房に収容されたままになっていたようです。心神喪失状態だったとはいえ、強盗殺人の被告人ですから無罪放免はできないでしょうが、弁護人が要求したように医療機関に移して治療を受けさせた上で受刑させる措置はとれなかったのか、裁判所と地検の責任が問われているようです。

2010年8月20日金曜日

 8月17日に振り込まれた2名の支援金が届きました。これで支援金現在高は125,000円、延べ154名からの合計額は1,998,565円になりました。ありがとうございました。

 1名(3回目)からの払込取扱票には、市橋君宛の「精神的に辛く厳しい環境ですが、置かれている立場をしっかり受けとめ、弁護士さんを信頼・感謝して、自分自身でしか出来ないことを導いて(見つけて精進して?)下さい。どんな状況でも市橋達也さんを信じて見守っています。」というメッセージが書いてありました。

もう1名(7回目)からはメールでのお便りと、「・・市橋さんは現在も私物の管理を制限されているのでしょうね。先生のサイトのコピーを目にしているのであれば、決して一人でない事が分かると思いますので、逆境にくじけず、裁判を迎えてほしいと思います・・」というメッセージをいただきました。

 多くの支援者は、取り返しのつかない間違いを犯した市橋君に、心から反省し、潔く裁判を受けて罪を償い、それでいて魂を失わないように現在の自分が置かれている環境下でできることを見つけて、自分自身を高めてほしい、と願っているのだと思います。今は許されないけれども、できることなら母親が我が子を抱きしめるように、孤独な冷えた心を温めて励ましてあげたいのだと思います。世の中の人皆が市橋君を冷たい目で見ているのではなく、母親や父親のような思いで見守っている人がたくさんいることを知ってほしいのだと思います。

2010年8月19日木曜日

支援者の方から8月17日に行われた第3回公判前整理手続に関して毎日新聞の有料サイトに記事が載っていたとのご連絡をいただきました。

 弁護側は起訴罪名を否認し、強姦と傷害致死を主張。菅野泰弁護士によると市橋被告は捜査段階から殺意や性的暴行の結果による死亡を否定しており、検察官調書も証拠申請するという。また、菅野弁護士は『(強姦致死罪の立証に必要な)強姦と死亡が時間的に近いことを示す証拠が検察側から出てきていない』とも批判。弁護側は法医学の専門家に検死結果や司法解剖結果の分析を依頼するという。
 弁護側によると市橋被告も出席したが、終始無言だったという。次回手続きは9月3日の予定。

菅野弁護士からはまだ支援金をお届けする日程調整のご連絡は届いていません。お二人の支援者からは、支援金を振り込んだというお知らせをいただきました。

2010年8月16日月曜日

明日は第3回公判前整理手続が開かれる予定ですので、どういう展開になるのか、多くの方々が注目をしておられます。菅野弁護士に、その後振り込まれた支援金をお届けする日程調整をお願いしました。その機会に、市橋君の最近の様子などわかりましたら皆さまにお知らせ致します。

ある支援者が、千葉刑務所の独居房の男性が私物の箸で目を突いて自殺したというニュースを送ってくれました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100809/crm1008091808009-n1.htm

どういう罪を犯してどういう状況だったのかはわかりませんが、そこまで追い込まれた絶望的な心境を想像してゾッとしました。刑務所というのは、罪を償わせて更生させる場所の筈です。私たちの想像を超える厳しいストレスの中で生きなければならないのでしょうが、市橋君が生きる希望を持ち続けてくれることを祈ります。

2010年8月14日土曜日

 今日はアメリカからのお客さんを上野の東京国立博物館と国立西洋美術館にお連れしました。博物館では、「誕生!中国文明」という特別展もやっていましたが、常設の「日本文明」「韓国文明」「西アジア文明」の展示や、「法隆寺の宝物」の展示も見ごたえがありました。何時間も歩いたので足が棒のようになりましたが、せっかくの機会なので欲張って美術館にも足を運びました。ここでも、よくもまあこれだけ集められたと感心するほどヨーロッパの古い絵画が展示してあり、美術をやる人にはたまらないだろうなと思いました。

 それから新宿に移動し、新宿住友ビル48階にある平和祈念展示資料館に行きました。ここは私自身が行ってみたかったところですが、広島の原爆ドームの続きとしてアメリカ人にも是非見てもらいたかったところです。広島と違って、パンフレット以外は日本語の説明しかなかったのはちょっと残念でした。戦争中に徴兵されて家族に見送られて海外の戦地に送られた若者の写真や、満州や朝鮮や台湾からの引き揚げの様子の写真や、シベリア抑留の写真や、当時の衣服や、列車や収容所の模型などもあり、涙なしには見られませんでした。特に朝鮮からの引き揚げ者が、小さい子供を背負ってソ連兵に見つからないように山道を何日も歩いて南北を分断した38度線を必死に越える写真には、まるで自分自身の姿を見るようでした。1945年の終戦当時3才だった私は、齢の離れた長姉や親戚縁者に負ぶわれて脱出し、もう少しで残留孤児になるところだったと聞かされていましたので、親や家族がどんなに苦労して私を守り育ててくれたかを思うと、心の底から感謝の気持ちが湧いてきました。
 引き揚げ船の中で、日本に到着する前に病死して水葬された夫に別れを告げるために海をじっと見ている妻と小さい子供の写真には、運命の残酷さを感じました。

 日本人が戦争中に海外の人達にした残虐な行為も忘れてはいけませんし、日本に連行されて強制労働させられた海外の人達がその後も政治に翻弄されていまだに中途半端な立場に置かれている現実もあります。結局、戦争が、普段は理性のある普通の人間を非人間(動物)に変えてしまうのでしょう。

 平和祈念展示資料館で見たものは、アメリカ人のお客さんにも、今まで片方の側からだけ見てきた(アメリカ政府の説明でそう見させられてきた)ことには別の面があるということを気付かせた筈です。戦争に勝ったとか負けたとかではなく、犠牲者が何人とかではなく、その一人一人に大切な家族がいたということ。