2012年12月25日火曜日

今日は私が注目したニュースが2件ありました。1つは、法務省の調査では服役中に性犯罪者向けの抑止講座を受けた性犯罪者が出所後に再び性犯罪を犯す割合が2割低下したというニュースです。新聞報道(朝日新聞12月25日夕刊)によると、「プログラムは2004年に起きた奈良女児殺害事件をきっかけに、欧米の実践例を参考にして06年から導入。刑務所では3~8ケ月聞かせて、性犯罪者同士の話し合いを通じて感情をコントロールする方法などを身につけさせる内容だ。」 リンゼイさんの事件が起こったのと同じ頃、千葉大学園芸学部の女子学生が殺害されるというもう一つの事件がありましたが、この犯人も性犯罪を繰り返して仮出所したばかりの男性でした。「文藝春秋」の記事がきっかけで、服役している北海道の刑務所から私に手紙をくれた男性もインターネットで調べてみたら性犯罪を繰り返している人で、結局自分は一種の病気だということに気がついて、精神的な治療の必要性を訴えていました。
被害者の感情を考えると難しい面もあるでしょうが、アメリカでも日本でも犯罪者の再犯率が高いということは、服役させることで自由を奪って苦しみを与えて罪を償わせる以外に、出所後に普通の生活に戻れるようにきちんとした治療や教育を受けさせることの重要性を示しているのではないでしょうか。

もう1つは、広島での被爆体験を元にした漫画「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんが肺がんのために73才で亡くなったというニュースです。この漫画は10ケ国語以上に翻訳され、世界の多くの人々に原子爆弾の悲惨さを伝えました。私のアメリカ人の空手の弟子/友人のMargie さんが来日した時も、英訳された「はだしのゲン」を見たことがきっかけで広島を見たいと言ったので、原爆ドームと平和記念資料館につれて行きました。戦争体験者がだんだん少なくなっていく中で、私たちはいつか来た道に再び戻ることがないように、勇気をもって発言したいものです。

「女性自身」という週刊誌の1月1日号の表紙には、『「発達障害児」急増!の裏には農薬汚染食品が・・・』という見出しが載っていましたので一冊買ってみました。この記事の内容には全く科学的根拠がなく、いくら販売部数を増やすためとはいえ、よくこんな無責任な記事が書けるものだとこの雑誌の良識を疑いました。せっかく買ったのでついでにページをめくってみたら、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(90才)の、今の政治状況は太平洋戦争へと突き進んでいった戦前の日本の政治状況とそっくりで危険を感じるという趣旨の談話が載っていました。そんな大事な発言をしても、政治家の勇ましい発言や俳優やタレントやスポーツ選手のゴシップ記事にばかり気をとられて、ほとんど社会の注目を集めないところが怖い状況だなと感じました。

2012年12月22日土曜日

今日も支援者の一人から、支援金の残金の処理方法についてお便りが届きましたが、ブログには紹介しないでほしいとのことでしたので紹介はしません。私が12月18日のブログで書いた記事をまだご覧になっていない支援者は、ご覧になってご意見を寄せていただけると助かります。

2012年12月21日金曜日

支援者から以下のお便りが届きました。ありがとうございました。
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本山先生
すっかりご無沙汰いたしております。お元気でご活躍のご様子、ブログで拝見しております。
寒さが増すにつれ、市橋さんの現状が気になっておりましたが、まったくの「孤独」というわけではなかったことに半ば安心し、また一方では「K子さんとは、いったいどんな方なのだろう?」と、不安も感じております。
身近に相談相手さえいない・考える気力さえ損なわれるような状況にいると、手近で耳障りのよい言葉・目先の優しさにすがりついてしまうのが人間なのかなと思ったりしております。そう思いますと、周囲に誰かがいる(面会に来たり、差し入れしてくれる誰かがいる)ということだけで「孤独ではない」といえるものではないのかも知れません。特定個人以外の人の言葉が耳に入らないことが、本当の「孤独」なのかも知れません。
支援金の件でございますが、本当にありがとうございます。私は、市橋さんのご両親に依頼することが一番よいのではないかと思っております。ただ・・・おそらくお断りされるかもという不安は、かなり強くあります。・・・かといって、ご両親抜きに考えることはできないかと思っております。一度お願いしてみて、断られたら次の対策を考えるというのではいかがでしょうか? 「無駄足覚悟の一寸逃れ」的方法ですが、(出所まで、十分に)時間はありますので、焦る必要はないと思います。
また、私個人の愚痴ですが、私は、一度くらいはご両親が面会に行ってくださるか、裁判で証言してくださるものと信じていました。市橋さんの起こしたことは、最低最悪のことで、世間の人は許さないかも知れません。でも、ご両親にとってはかわいいわが子であり、本当の・いつもの市橋さんの人柄も十分わかっているはずです。世間への遠慮等々おありでしょう。でも、それでもせめてご両親くらいは赦し励まし、ともに生きていってあげていただきたい。支援金のお願いをすることで、ご両親の気持ちが動かされる一助ともなれば(もちろん、それだけでは無理でしょうが、いろいろな要因が積み重なれば、またご両親のお考え・気持ちも変わるかもしれません)、という期待もございます。
本当にいろいろとお手数をおかけいたしますが、ご検討くださいますようお願い申し上げます。間もなく一年が終わります。どうぞよいお年をお迎えくださいますよう、心よりお祈り申し上げます。
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本山直樹先生
ご無沙汰しております。今年も残すところ10日ほどになりました。月日の流れるのは本当に早く、「光陰、矢のごとし」を実感する日々です。先生のお元気そうなご様子はブログで拝見させていただいています。ただ私の仕事柄、今のシーズンは大変忙しく先生のブログを読みながら寝落ちしてしまい支援金についてのメールも遅くなってしまいました。本当に申し訳ありません。
市橋さんへの支援金についてですが、私たち支援者が市橋さんの事を考え、想い、少しずつ送らせて頂いていた支援金です。何とか市橋さんのお手元に届けたいと先生も色々と悩み試行錯誤して頂きながら動いてくださっていた支援金です。市橋さんに届く事が私の願いです。
市橋さんのご両親様に管理して頂きたい気持ちは有りますが、人の感情は大変難しくご両親様もお困りになるのではないか・・・と思います。
ですから,この際、K子さんについての私の余計な感情は省かせて頂き「市橋さんに届けたい!」という願いだけを優先的に考えて、①の山本弁護士の開設した口座に移してK子さんに管理していただく。という選択を私はしたいと思います。(山本弁護士様が間におられる事が救いです。)
このまま良い案を探すことで保留にしておく事は本山先生に沢山のご負担をおかけしてしまいますし、やはり決断しどきなのかもしれません。私は毎日市橋さんの事を案じておりました。無事に支援金が届くようにとも祈っておりました。一生懸命、服役された後は彼に元気で生き直して欲しいと思います。
本山先生、又また子離れできない母親のようで申し訳ありませんが心配で心配で仕方ありません。ほかの支援者の方々はどのようにお考えなのかは判りませんが皆様、市橋さんに無事に届いて欲しいという願いは同じだと思います。長々と勝手申しまして本当に申し訳ありませんが宜しくお願い致します。

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2012年12月20日木曜日

一昨日私がブログで書いた支援金の残金の処理方法について、今日も支援者の一人からメールが届きました。支援者の方々も以前ほど頻繁にこのブログをチェックしていないと思われますので、まだご覧になっていない方は12月18日の記事をご覧になってご意見をお寄せ下さい。

2012年12月19日水曜日

早速、支援者の一人から昨日のブログで問いかけたことについてメールが届きました。ありがとうございました。しかし、メールの内容はブログには紹介しないでほしいということでしたので紹介はしません。

千葉大学時代の元同僚教授の息子さんで音楽家(バイオリニスト)になった人のコンサートがあったので、妻と一緒に聴きに行ってきました。上野公園の一角にある旧東京音楽学校奏楽堂と呼ばれる古い由緒ある建物で、ソプラノ歌手3名、サクソフォーン奏者1名と、彼との共演コンサートでした。音楽については全く無知の私でも、それぞれ素晴らしいなあと感じました。それぞれにピアノの伴奏がついていましたが、伴奏のピアノも素晴らしいと感じました。
子供の時からよく知っている息子さんが、音楽の道を選んでよかったと思いました。演奏中は録音も写真撮影も禁止と貼り紙がしてあったので、始まる前に会場のステージの写真だけ1枚撮ってきました。この建物は近日中に取り壊されることが決まっているそうですが、なかなか趣のある建物でした。

2012年12月18日火曜日

「週刊文春」のI記者が訪ねてこられる前に、菅野弁護士に電話をして、支援金の残金約120万円の処理方法について支援者の希望をお伝えしました。少数の方は私の考えるように(千葉県弁護士会に寄付をして弁護人のいない被疑者や被告人の弁護に使っていただくか、菅野弁護士から打診のあった千葉刑務所の弁護活動妨害行為を告訴する費用に使っていただくか)処理してよいとのご意見でしたが、多数の方は市橋君のために振り込んだお金なのであくまで市橋君のために使ってほしい(約30年後に仮出所する機会が与えられるまで保管してほしい)というのが希望でしたとお伝えしました。
問題は、現在70才の私はそれまで生きていられるかどうかわからないし、もっと年齢の若い支援者に管理をお願いして皆様にその方のお名前を公表するとその方が嫌がらせ行為の目標にされる危険性があるということです。そこで、市橋君のご両親に管理していただいて、30年後に市橋君が出所した時に必ず市橋君の手に渡るように遺言して残していただけないかお願いすることも考えていることをお伝えしました。

今日菅野弁護士を通してわかった状況は、市橋君は山本弁護士とは連絡をとったらしく、弁護団の中で山本弁護士だけは市橋君がどこで服役しているかご存知だということ、以前ブログで言及した元支援者でその後は支援する会からは離れて独自に熱心に支援活動をしてこられたK子さんが現在も熱心に支援活動をしておられて(刑が確定後は、市橋君と養子縁組をするか婚姻届を出すかして親族という立場になられた可能性があるようです)面会にも行っておられること、また市橋君の方も彼女の(彼女だけの)支援に依存しているということのようです。マインドコントロールという言葉が適切かどうかはわかりませんが、東京高裁に上告してから、そういう状態になって市橋君と弁護団との信頼関係には齟齬(そご)が生じてしまったようです。市橋君自身が、弁護団よりも、ご両親よりも、私を含めた支援する会の支援者よりも、K子さんを信頼し、これからはK子さんに依存するという選択をしたのでしょう。個人情報ですから、K子さんについてこれ以上のことはここでは申し上げられません。

手記の出版から得た印税の約900万円は、当初リンゼイさんのご遺族に被害者弁償金として提供する申し入れをしたけれど受け取りを拒否され、すでに寄付をして残ってはいませんが、その後手記が増刷された分の印税として出版社からさらに約200万円が支払われたとのことです。このお金は山本弁護士が開設した口座に移され、K子さんが管理をしておられるようです。以前、市橋君の事件を主題にした映画を製作する計画がありましたが、すでに映画は完成して試写会も行われたとのことですので、その中にどこかの映画館で上映されるようになるかもしれません。そうすると市橋君にも何らかのお金(一定金額)が支払われることになったり、それがきっかけで社会の関心が高まればまた手記が増刷され印税が支払われるということもあり得るようです。そういう将来の収入についても、山本弁護士が開設した口座に移され、K子さんが管理をするということになっているようです。
そこで、支援する会の支援金の残金約120万円についても(現在は菅野弁護士の口座に保管されたままです)、山本弁護士が開設したその口座に振り込んでK子さんに管理して頂くというのも一案ということです。K子さんは以前被害者弁償金が必要なら1億円用意できると弁護団におっしゃった方です。K子さんは2010年3月から何回か支援する会に支援金を振り込んで下さり、私とはメールのやりとりもされた方ですが、途中から考え方(目的)が異なるとおっしゃって支援する会から離脱されました。当時、何故そんなに熱心に支援されるのですかとお訊きした時は、そのことについてはお構いなくとおっしゃって答えてくれませんでした。ですから、私には今でも何故K子さんが市橋君の支援にそんなに熱心なのかはわかりません。

こういう状況ですので、支援金を振り込んで下さった支援者の皆様のご意見(支援金の残金約120万円を、①山本弁護士の開設した口座に移してK子さんに管理していただくか、②市橋君のご両親に管理していただいて約30年後に仮出所した時に彼の手に渡るようにお願いしてみるか-断られる場合もあり得ますが、③その他何かよい方法があればご提案下さい)をお寄せ下さい。

なお、「週刊文春」は今年起こった大きな事件(市橋君の裁判が結審したこともその中に入るそうです)について振り返る記事を特集する企画があるらしく、多分来週号あたりに掲載するのかもしれません。弁護団とK子さん以外では、私が最も頻繁に(2011年7月から2012年4月まで約10ケ月)面会に行って市橋君に接してきたということで、何故市橋君があのような事件を起こしたと思うかと質問されましたが、事件そのものについては彼がまだ語れる心境になっていなかったので(その話題に近づくと下を向いて涙をポロポロこぼして沈黙しました)、もっと時間が経ってから彼自身が語るしかないのではと答えておきました。

2012年12月14日金曜日


東京農業大学総合研究所研究会農薬部会の第88回セミナーが「食と農の博物館」であり、今回は2題の講演がありました。
1.「ピリフルキナゾン(コルト®)の創製について」上原正浩氏(日本農薬株式会社総合研究所)
2.「農薬の内分泌かく乱作用に関する諸問題と科学的対応」青山博昭氏(一般財団法人残留農薬研究所毒性部)

上原氏は、大学院時代は天然物化学が専門だったのを、会社に入ってから合成を担当するようになり、ピリフルキナゾンという殺虫剤をどういう発想の過程を経て発明するに至ったかを、たくみな話術で話されました。普段から、異分野の学会に顔を出して自分の基礎を広げる努力をしてきたことと、上司にもう見込みがないから止めろと言われても止めずに頑張り通したことが成功につながったと話されました。
青山氏は、内分泌かく乱活性(いわゆる環境ホルモン)をどうやって検定して確認するか、特に低用量で影響を確認したとされる事例が実は実験動物の遺伝的多形による誤差を拾っただけの場合があると話されました。
お二人の講演ともすばらしい内容で、非常によい勉強になりました。

 

2012年12月13日木曜日

JONA(JAPAN ORGANIC & NATURAL FOODS ASSOCIATION 日本オーガニック&ナチュラルフーズ協会)に勤めている千葉大学園芸学部の卒業生E君が東京農業大学の研究室に訪ねて来てくれました。久し振りだったので、2時間くらいお互いに近況を話しました。有機農業を認証する団体ですが、最近は中国や台湾や韓国からも認証依頼があるらしく、外国にも出かけるとのことでした。
帰りに、途中のアジアレストランに寄って、生ビールを飲んで、辛いタイの料理を食べました。I君は学生時代はアメリカンフットボールをやっていたということを今日初めて知りました。どうりで体格がいいだけでなく、仕事にも馬力がある筈です。こうやって昔の卒業生が訪ねてきてくれるのは、嬉しいものです。

2012年12月12日水曜日

リハビリセンターに長期入院している元同僚教授のN君をお見舞いに行ってきました。前回と同じ4人部屋ですが、ベッドの位置が窓際に移動してあり、隣には80才代の男性の新しい患者のベッドがありました。付き添っておられた奥様とお話したら、何とかいう難病でだんだん体の自由が失われて、今では言葉も失われたとのこと。それでも甲斐甲斐しくお世話をしておられました。つい1年半くらい前には元気で一緒に旅行もしたのに、今はご主人の病気をどうすることもできなくて残念だとのことでした。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授の発見(iPS細胞=人工多能性幹細胞)が実用化されるしか治療方法はない病気だけど、自分の主人には年齢的に間に合わないとのことでした。いくら話しかけても、返事をしてくれないのはN君も同じです。

私が月刊誌「文藝春秋」12月号に載った同級生交歓の写真のページのコピーを見せながら、高校時代の仲間だぞと言って一人一人の説明をしたり、今年の6月に新潟県胎内市でヘリコプターで松林に薬剤が散布された時に飛散調査をして、今その結果を論文にする仕事をしていることなどを話しました。彼は私が目の前に差し出した写真を目で追いながら、言葉は何も言ってくれませんでした。君は現役教授の時は、ほうれん草の硝酸還元酵素の研究をしていて、実験でよい結果が得られた時は、「よし、これは世界で初めてだ!」と言って私にどうだと自慢していたけど、ヘリコプターで散布された薬剤の飛散問題については今では私が一番データを持っていて日本で一番の専門家だぞと言って自慢したら、急に笑顔になってニコニコ笑い出しました。やっぱり、私の言うことは聞こえていたのです。昔から親友であると同時に研究者としてよきライバルだったので、少し刺激したらやはり反応をしてくれました。

それを見ていた隣の患者の奥様は、いつも無表情のN君しか見たことがなかったのに、初めて笑顔を見たと言って驚いていました。N君は言葉で自分の気持ちを表すことはできなくなっているけど、こちらの言うことはちゃんと聞こえているのだと思いますと言ったら、自分の主人も同じだと思いますとおっしゃいました。ご主人も誤嚥(ごえん)で肺炎になるのを避けるために流動食をストローで吸って飲み込んでいるそうですが、時々お茶碗をかかえてお箸で食べる格好をしてご飯を食べたいという表情をされるのだそうです。
私がN君の昔の研究自慢の話をしたらニコニコ笑い出したことは、後でN君の奥様に電話でお伝えしようと思います。

夜、週刊誌「週刊文春」のI記者から電話があり、年末にいろいろな事件を振り返って総括する記事を企画していて、市橋君のことについても取り上げたいとのことで、来週火曜に取材に来られることになりました。私は市橋君がどこで服役しているかも知らないし、何も新しい情報はないことは伝えたのですが、書いていいことと書いてはいけないことがあるだろうから、相談に来たいとのことでした。I氏とは月刊誌「文藝春秋」の担当だった時からのお付き合いですが、良心的な記者という印象を持っています。

2012年12月11日火曜日

今日は東京農業大学に行って昼過ぎに大学の周囲をジョギングしていたら、正門近くの世田谷通りの歩道で元日本を代表するマラソンランナーだった谷口浩美氏とすれ違いました。どうしてこんなところを歩いておられるのだろうと思って、自宅に帰ってネット http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E6%B5%A9%E7%BE%8E で調べてみたら、何と2011年4月1日から我が東京農業大学の陸上部助監督に就任しておられるということがわかりました。靴が脱げるというアクシデントがあったオリンピックの後は旭化成の駅伝部におられたところまでは覚えていましたが、その後いろいろなところで指導者として活躍され、現在は東京農業大学の陸上部助監督をしておられたとは驚きました。これで、新春の箱根駅伝での東京農業大学チームの活躍が益々楽しみになりました。

カリフォルニア大学デービス校(UC Davis)の教授だった松村文夫(Fumio Matsumura)先生が12月6日に肺炎(a complication of pneumonia)でお亡くなりになったという訃報が届きました。松村先生は私より10年くらい年長ですが、大阪大学、東京大学を経てずい分初期の頃にアメリカに留学された方です。以来、殺虫剤の毒性機構解明その他の分野で世界をリードする研究をされ、私たちの憧れの対象であり、自分もああなりたいという目標の人物でした。多くの原著論文の他に、単著として執筆された「Insecticide Toxicology」(殺虫剤毒性学)という本は、多くの研究者に教科書的に利用されました。日本の多くの研究者を受け入れて指導し、私自身も一度カリフォルニアにお訪ねした時にご自宅に泊めていただいたこともありました。幸い、奥様をはじめご家族に見守られて穏やかに息を引き取られたとの奥様からのお便りがあったとのことで、ホッとしました。

2012年12月10日月曜日

私の千葉大学勤務時代に、文部科学省の国費留学生として来日して私の研究室で研究をして博士号を取得したHenry(ヘンリー) O-Sintim さんからメールが届きました。ガーナに帰国して大学の教員をしていますが、学会誌に投稿して発表した論文(私も共著者になっている)が、同様にパキスタンから国費留学生として私の研究室に来て博士号を取得して帰国したTariq(タリク) Mohamood さんの目に留まったらしく、私のメールアドレスを知りたいという問い合わせが届いたとのことでした。

私もTariq さんの消息を知りたいと思っていたところでしたので、早速こちらの近況を書いてメールを送ったら、すぐ返事がきました。彼はパキスタンに帰国して、NARC(National Agricultural Research Center 国立農業研究センター)の研究者になり、現在はIPM(Integrated Pest Management 総合的有害生物管理)プロジェクトのリーダーをしているとのことでした。現在55才になり、子供は娘4人と息子2人だが、長女はすでに結婚して夫と一緒にBahrain(バーレーン:ペルシャ湾の国)に住んでいるとのこと。2018年には60才で退職予定と書いてありましたので、パキスタンの国立研究所では日本と同じで一定の年齢に達したら強制的に定年退職させられるのかもしれません。

Tariq さんは私が受け入れた初めてのイスラム教徒の留学生でしたので、いろいろ初体験することがたくさんあった当時を思い出します。実験室で一定の時間になると毎日何回か床に絨毯(じゅうたん)を敷いて頭を床に付けてお祈りをする時は、どう対応していいか戸惑いました。インド人の著者が書いたイスラム教を冒涜する本を日本語に翻訳した筑波大学の先生が暗殺された時は、犯人が残した靴跡から中国の北京で売っている靴と同定され、Tariq さんは北京経由で一時帰国したことがあったので、犯人の可能性はないかと疑われて刑事が私の研究室に訪ねてきたこともありました。よく報道写真で見たアフガニスタンのタリバーン兵士のようにモジャモジャのあごひげを生やし、独特の帽子を被って、白い布でできたマントみたいな衣服を着て、大学近くの一間だけの安アパートに住んで、4年間くらいわき目も振らずに研究に専念していました。電気生理学的な手法を使って、当時日本で発見されて間もなかったチャバネゴキブリとイエバエのピレスロイド剤(殺虫剤)抵抗性は、作用点である神経の感受性の低下が主要メカニズムであることを明らかにするという素晴らしい研究をしました。私が大学教員として研究指導した百何十名かの学生の中で、人間的にも研究者としても最も優秀な一人でした。
こういうよい思い出を残してくれた元学生たちに出会えたことが、私の大学教員としての人生に充実感・満足感を与えてくれています。

あれから確か25年くらいが経った筈ですが、こうして再び偶然お互いの消息がわかり、連絡が取り合えるようになったことは嬉しいことです。まるで、予期していなかったクリスマスプレゼントが届いたような気分です。

2012年12月9日日曜日

しばらく忙しくてブログの記事の更新ができませんでした。面白いことに、私に嫌がらせ行為をしている人もブログをチェックしているらしく、以前は何故記事を更新しないのだというメールが届いたことがありました。今回は久し振りに非通知設定の番号からコレクトコール(着信払い)の電話が2回かかりましたので(もちろん着信を拒否しましたが)、早く更新してほしいという催促なのかもしれません。そんなことで人にかまって(振り向いて)もらおうとしたり、ストレスのはけ口にしたり、幼児のままごと遊びのような情けないことをせずに、人と直接対面して話をしたり、まともなコミュニケーションをできるようになればいいのにと思ってしまいます。

12月29日の千葉大学走友会の練習会と忘年会に参加できるように、少しでも体調を整えておこうと思って久し振りに江戸川堤防を約2時間歩いたり走ったりしてきました。葛飾橋を渡って川の向こう側(東京都の金町と埼玉県の三郷)の堤防を上流に向かって、上葛飾橋を渡って川のこちら側(千葉県の松戸)に戻ってきました。葛飾橋の上からは松戸市の中心街が見渡せ、三郷側の堤防の途中には樋ノ口(ひのくち)の渡し跡の説明をした標識が建っていました。今から約300年前に江戸川を掘削して作った時に、村が2分されたので舟で行き来するために設置された渡しだそうです。住宅の間に遠くの筑波山の山影も見えました。こういう景色を眺めながら歩いたり走ったりするのは、楽しいものです。
園芸学部構内や、「緑の回廊」でつながっている松戸市歴史公園(徳川昭武の別邸だった戸定邸がある)の裏門の辺りでは紅葉が鮮やかでした。もう初冬の筈なのに、今年は遅くまで気温が高かったのでしょうか。






2012年12月2日日曜日

カリフォルニア在住の娘の子供たち(私たちには孫)から電話があり、「お父さんをお世話してくれてありがとう」とAikaが言いました。義理の息子が日本のバーバ(妻のこと)とグランドパ(私のこと)からの孫たちへのお土産を持って帰ったので、大喜びした筈です。毎週土曜日に通っている現地の日本語学校のタレントショーで歌った歌を電話の向こうでかわりばんこに歌って聞かせてくれました。Aikaはこの夏日本に来ていた時にやっていたNHKテレビの朝ドラ「梅ちゃん先生」の主題歌を上手に歌いました。Colinは日本の童謡を歌い、Aidenはフルートでクリスマスの歌を吹いてくれました。

私は今日も忙しかったですが、昨日と同じように思い切って江戸川堤防を6Km だけ走ったり歩いたりして汗をかいてきました。

2012年12月1日土曜日

早くも12月になりました。アメリカ人の義理の息子は、日本滞在中に義理の母親になる私の妻にご馳走を作ってもらって、洗濯をしてもらって、取り引きのある日本のテレビ局の人達とも会って、全ての目的を果たして今日の午後の飛行機でカリフォルニアに向かいました。午後から寒波が下りてきたので、成田空港から初雪を見たと電話をかけてきました。わずか1週間の滞在でしたが、本当の息子と同居しているようでした。
向こうに着いたら時差ボケを治す間もなく、子供のサッカーの練習試合に付き添うようです。私が、仕事と家族サービスと大変だなと言ったら、家族と過ごす時間は大変じゃなくて楽しいよと答えていました。