2010年9月30日木曜日

9月28日に振り込んで下さった方(7回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は146,000円、延べ167名からの合計額は2,210,565円になりました。「・・孤独が市橋さんの心を弱らせていないか案じられます。強い精神で今後の日々をすごして頂きたいです」というメッセージも添えられていました。ありがとうございました。

ちょっと前に一泊旅行から帰ってきました。車の距離計を見たら往復でちょうど700マイルですから、約1,120Km走ったことになります。
昨日モーテルを出発する時は、海岸近くをハリケーンが通過したので先日訪ねたWilmington の町は道路が水浸しになったとテレビのニュースが伝えていました。。西に向かって高速道路を走っている時は激しい雨にあいましたが、6時間くらいかかってAshevilleという町の西端に位置するチェロキーインディアン保護地区(Cherokee Indian Reservation)に着いた時は小降りに変わっていました。1969年に初めてこの地を訪ねた時に比べて、モーテルやみやげ物店が大幅に増え、大きなホテルにカシノ(ギャンブルをする所)も併設されて、観光地化されていました。それでも、上高地の梓川に似た清流に面した小さなモーテルの2階のバルコニーのロッキングチェアーを揺すりながら、清流の音と雨の音を聞きながらワインをすすると、自然と一体になったような気分になりました。

今朝は川沿いに散歩をしたり、チェロキーインディアン博物館を見たりしてから、アパラチア山脈の尾根筋を走るBlue Ridge Parkwayを2時間ほどゆっくり(曲がりくねった山道なのでゆっくりしか走れない)ドライブし、山を降りてAshevilleの町に出てから高速道路を4時間くらい走ってRaleighに帰ってきました。山の中は、霧が深くて先がほとんど見えないところがあったり、紅葉が始まっているところや、遠くの山々が見渡せるOverlook(眺望地点)があったりして、素晴らしい景色を堪能しました。

チェロキーインディアンは、白人が到着するまではこの辺り一帯に分布して、独自の文化をもって栄えていたのに、土地を奪われ、虐げられ、言葉も失われ、北海道のアイヌと同じような境遇にあります。それでも今ではアメリカ国民として、第二次世界大戦にも朝鮮戦争にもベトナム戦争にも参加し、戦死者の名前を刻んだ記念碑が公園の中に建立されていました。

2010年9月29日水曜日

日本の家族との連絡がやっととれるようになり、モーテルにFAXが4通届きました。
9月18日に匿名のFAXでメッセージがありました。「市橋さんへ 大変だと思いますが応援していますのでがんばって下さい。真実を全て話して、そして罪を償って、また新たな人生を歩んで下さい」

9月22日に振り込まれた方(3回目)の支援金が届き、現在高は133,000円、延べ165名からの合計額は2,197,565円になりました。ありがとうございました。

9月24日に振り込まれた方(4回目)の支援金が届き、現在高は136,000円、延べ166名からの合計額は2,200,565円になりました。ありがとうございました。温かいメッセージもありました。「23日の記事を読みました。証言をしてくれる方が現れたとのこと、私も自分のことのように嬉しかったです。この方も名乗り出るのにすごい覚悟と勇気がいったと思います。罪を犯してしまっても???皆さんから心配や支援をしてもらえるなんて幸せものだと思います。だからこそ心から反省し、罪を償ってほしいです。わずかな金額ですが送ります」 

昨日はNIEHS(国立環境健康研究所)のBuck Grissom博士を訪ねて、ネオニコチノイド剤という殺虫剤のグループとミツバチの関係についてと、ニームオイルについて有意義な情報交換をしてきました。Buck Grissom博士は、1982年~1983年に恩師の故W.C. Dauterman教授が1年間研究休暇で海外出張し、私が代わりに客員教授として研究室の指導をしていた時に、私のグループミーティング(ゼミ)に他の研究室から博士研究員として参加していた人です。

今日は今から、ノースカロライナ州の西端に位置するアパラチア山脈の尾根を走るBlue Ridge Parkwayという道でチェロキーインディアンの保護地区に出かけます。遠いので、途中一泊する予定です。40年くらい前に家族と全員で秋に旅行した時は、山も谷も鮮やかな紅葉の連続で、息を呑むような美しい景色だったのを覚えています。時期がちょっと早いので紅葉は無理かもしれませんが、久し振りにノースカロライナの山の中をドライブするのは楽しみです。

明日の夕方には先日訪ねたサウスカロライナ州のTate夫妻が旅行の途中で私のモーテルに寄る計画ですので、それに間に合うように帰ってくる予定です。先日のお返しに、Tate夫妻に私のベッドを提供し、私はソファーで寝るつもりです。

2010年9月28日火曜日

市橋君と千葉大学で同じ研究室を専攻し、空手部活動も一緒に参加していた元学生が、10月初めに菅野弁護士事務所を訪ねて学生時代の市橋君の様子など証言してくれることになりました。

日本と同じでこちらも今年の夏は猛暑続きで旱魃に近い状態だったようですが、一昨日大雨が降ってから急に秋らしい気候になりました。昨日は雨の晴れ間にモーテルから車で15分くらいのところにあるLake Johnsonという湖の周りの小道(Trail)をジョギングしました。一周約5Kmの森の中の小道ですが、上り坂や下り坂もあり、多くの人が散歩をしたりジョギングをしたりしています。私は時間が十分あって体調もいい時は車でこの湖に行ってジョギングし、時間があまりない時はモーテルから走って行けるところにあるRegency Parkの池(一周約1Km)の周りの遊歩道をジョギングします。ここでもよく散歩をしたりジョギングをしている人に出会いますが、いろいろな野鳥やリスや野生生物が見られますし、Amphitheaterと呼ばれる野外劇場が隣接してあって、コンサートなどのイベントも開催されています。

その後、車でショッピングセンターの中にあるRadio Shackという電気店に行ってカメラとパソコンをつなぐUSBケーブルを買ってきてブログに写真が取り込めるようにしました。

その足でノースカロライナ州立大学のMike Roe教授の研究室を訪ねました。私の恩師のDauterman教授が亡くなってからは、私がこちらにきて研究をする時はたいていこの研究室に滞在します。千葉大学の私の研究室の卒業生の岩佐孝男君は、以前会社からこの研究室に1年間留学してネオニコチノイド剤と呼ばれる殺虫剤の作用機構についてすばらしい研究成果を挙げました。その時の業績の一部はCrop Protectionというイギリスの学術誌に掲載され、世界中から注目され高い評価を受けました。
Iwasa et al (2004) Mechanism for the differential toxicity of neonicotinoid insecticides in the honey bee, Apis mellifera. Crop Protection 23: 371-378.

その後ヨーロッパからRoe教授のところにこの論文に関する質問というか、文句がたくさん届いているとのことでした。最初のうちはひとつひとつ丁寧に回答していたけど、途中から答えるのを止めたとのこと。日本でもそうですが、多くの反農薬活動家の人達は農薬に反対することを生きがいにしていて、どんなに科学的に説明しても宗教と同じで自分の信じていること以外は受け付けないという傾向があります。

夕方には友人のFrank Peoples君(1969年以来の空手の弟子)の奥さんが入院している病院にお見舞いに行ってきましたが、受け付けも何もなく、名札もつけず勝手に病室に入れるのには驚きました。アメリカでも昔は病院内に入るには規則がいっぱいあって管理が厳しかったそうですが、結局友人や家族がお見舞いに来る方が患者の回復にはプラスになるという考え方に変わって、出入りが自由になったのだそうです。
今日は今からResearch Triangle ParkにあるNIEHS(国立環境健康研究所)の友人を訪ねる予定です。車で多分40分くらいで行ける筈です。

2010年9月27日月曜日

支援者の一人から、9月24日に開催された第5回公判前整理手続に関する毎日新聞の記事が送られてきました。
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市川市で07年、英国人女性リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)の遺体が見つかった事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死罪などで起訴された住所不定、無職、市橋達也被告(31)の5回目の公判前整理手続きが24日、千葉地裁(堀田真哉裁判長)であった。市橋被告の弁護団は、▽殺意の有無▽リンゼイさんが死亡に至る経緯▽強姦致死の成立ーーの3点が大きな争点になる見通しだと明らかにした。
これまでの手続きでは、検察側が性的暴行の直後に正面から、手で首を絞めたと主張する一方、弁護側は後ろから腕で首を絞めたと主張している。
菅野泰弁護士は「司法解剖の鑑定書によると手で絞めたような跡はなく、検察側の主張は不自然だ。市橋被告は『後ろから腕で絞めた』と主張し、その場合には暴行後に体勢を変える必要がある」と説明。強姦致死罪成立に必要な暴行と死亡の時間の近接度を争う見通しという。次回期日は10月18日。

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これで検察側と弁護側の主張の違いが整理されて明確になったようですので、10月と11月の公判前整理手続では、情状酌量の余地があるかどうかの検討に入るのでしょうか。

私は昨日からサウスカロライナ州のGaffneyという田舎町に住んでいる昔からの友人(ノースカロライナ州立大学時代の研究室の同僚であると同時によく一緒にフィッシングに行った仲間)Tate 君を訪ねて、今夕モーテルに帰ってきました。車でハイウェイを時速120Kmくらいで走って片道4時間くらいかかる距離です。昔は、チャールストンというサウスカロライナ州の港町から内陸部に向かう駅馬車の停留所もやっていたと生前のお父さんに聞きました。Tate 一家で440エーカーですから、53万8千坪(178万m2=7万7千町)という広大な土地を持っています。昔は一面綿畑だったようですが、今は森と牧場に変わっていて、弟の家族が住んでいる母屋は「風とともに去りぬ」という映画に出てくるようなプランテーションの白いペンキ塗りの2階建ての建物です。広大な牧場に放し飼いにされている牛を小型トラックに乗って見に行きました。Tate 君自身は、自分で建てた屋根裏部屋付きのキャビン(丸太作りの家)に住んでいます。友人と二人で訪ねたので、友人にはゲストルームを、私には夫婦の大きなベッドを提供して、自分たちはリビングルームのソファーで寝ていました。南部の田舎のアメリカ人には、お客さんをもてなすこういう考え方が今でも残っています。美人でスラッとしたスタイルの奥さんは、元々高校の物理の先生でしたが、今は刑務所の囚人(20才から70才くらいまでいる)の教師をしています。Tate 君が自分の家の森で銃でし止めた鹿の肉のハンバーガーや、手作りのアイスクリームなどをご馳走になりました。朝は雄鶏の鳴き声で自然に目を覚ましました。こういうのは、私にとっては最高に贅沢な生活です。
私が来年3月に東京農業大学客員教授を定年になったら、こちらに来て住まないかと誘われました。

帰り道の途中でCharlotte という町に寄って、先日私のモーテル に来てくれたDon Prpffer 君ともう一人別の友人のWayne Brown 君(やはり昔からの空手の弟子で、今は3つのレストランのマネージャーをしている)と会って食事をしてきました。皆、実の兄弟以上に親しい仲間たちです。

2010年9月24日金曜日

ちょっと前に日本の家族から公衆電話を使っての連絡がありました(自宅の電話とFAXはまだ故障中のため)。9月19日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は130,000円、延べ164名からの合計額は2,194,565円になりました。10万円もの大金のご支援をありがとうございました。

日本と私が現在滞在しているノースカロライナ州とは13時間の時差がありますので、日本の朝11時はこちらでは前日の夜10時になります。今日は用事があって、空手の弟子で弁護士のEverette Noland君の事務所に行きました。用事が済んだ後、近くのレストランで昼食を食べながら3時間くらい話をしました。ひとつ驚いたことは、彼のお父さん(故人)は高い階級の職業軍人で、第二次世界大戦(ドイツ)、朝鮮戦争、ベトナム戦争に参加して、その他にもいろいろなところに派遣されていたということです。

私はNoland 君はMartin Luther King 牧師の人種差別撤廃運動の行進に同行したと思い込んでいましたが、今日詳しく訊いてみたら私の早合点で違っていました。1960年にまだ南部のジョージア州の大学の学生だった時に、ケネディ対ニクソンの大統領選挙が行われた時に、首府のアトランタの選挙会場の前で20人くらいの白人(当時学生だった今の奥さんも含めて)だけのグループで黒人にも選挙権を与えよというピケ(プラカードを持って抗議行動)を張ったのだそうです。King 牧師もアトランタの出身ですが、その頃は無名で、Noland 君らの勇気ある行動に触発されてその後の活動を展開した可能性がありそうです。

アメリカ憲法ではずっと前から黒人にも選挙権は認められていましたが、北部でも南部でもいろいろな事情で実際には投票に参加できない状態だったそうです。南部の場合は、字が読めなければ選挙はできないという理由で、黒人には難しい憲法の条文を読ませて説明してみろというような試験を課して、実際上投票できないようにしていたとのことです。その他にも、レストランにしても、トイレにしても、水飲み場にしても、あらゆる場面で黒人差別が日常化していたので、それはおかしいとして立ち上がったのだそうですが、その当時は社会をあげて大騒ぎで、よそ者が扇動しにきたと批判され、袋叩きにされかねない危険な状態だったとのこと。奥さんが持っていたプラカードは近づいてきた白人男性にナイフでズタズタに切り裂かれ、そのナイフを足元の地面に突き刺して脅かしたそうですが、近くにいた警官は止めようともせずにただ見ているだけだったとのこと。当時まだ若い女子学生だった奥さんは、無抵抗主義を堅持し、プラカードは破られればまた作り直せばいいとして、がんばったのだそうです。私は昨年海岸の別荘で奥さんにお会いしましたが、芯の強そうな女性でした。長年小学校教師をしていましたが、今はその経験を生かして女子大学で教師になる勉強をしている学生たちに子供への教え方や児童心理などを指導しています。

Noland君はジョージア州の大学で4年を卒業し、その後ミシガン州立大学の法学部で3年勉強して法学士号を取得、司法試験(Bar Test)に合格後、職がなかったので、イギリスから独立して間もないアフリカのナイジェリアに行って2年間現地の裁判所に勤務したのだそうです。ナイジェリアはイスラム教徒の北部とキリスト教徒の南部に分かれていますが、その他にも多くの部族があって大変難しい国のようです。
本にすれば面白そうな彼の経験や話を聞いているうちに3時間はあっという間に経ってしまいました。
日本の若者は、正しいことは正しい、おかしいことはおかしい、と立ち上がって主張する勇気を持ったいるだろうかということがちょっと気になって、いろいろと想像を巡らせました。

2010年9月23日木曜日

市橋君が卒業論文の研究をした研究室の教授が私が適正な裁判を支援する会の活動をしていることを皆に知らせて下さったらしく、市橋君と同じ時期に研究室を専攻し、空手の練習も一緒にしていた元学生が連絡をしてくれました。すでに結婚して子供の親になっている人ですが、学生時代の市橋君について弁護団に証言してもよいと言ってくれました。こういう状況になった市橋君は、皆に顔向けできないと思っている筈ですから、昔の友人たちができる範囲で彼の支援を申し出てくれていることを知れば、人の温かさを認識する筈です。

昨日はCharlotte から来てくれたDon Proffer 君と Raleigh 市内にある湖のひとつ Lake Wheeler にフィッシングに行きました。1969年以来の空手の弟子ですが、お父さん(故人)は陸軍のグリーンベレイと呼ばれる特殊部隊の隊長をしていた人です。大学卒業後は市警察に長年勤務し、その後資格をとってCPA(公認会計士)になりました。今は老齢のお母さんのお世話をしています。私が車を運転して遠くに行く時に道に迷ったり、居眠りして事故があってはいけないとの配慮で、わざわざ遠くから来て車に同乗してくれました。私のモーテルの部屋のソファで寝ていました(もう必要がないと判断して先ほど帰宅しました)。映画やメディアが描くアメリカ人のイメージと違って、Don Proffer 君をはじめとして多くのアメリカ人は、今の日本人が失ったものをちゃんと持っているすばらしい人たちです。

2010年9月22日水曜日

19日にノースカロライナ州の海岸の町 Wilmington に住んでいる友人のEugen Sanchez君を訪ねました。カストロ首相らによるキューバの共産革命の時に、フロリダに亡命してきた精神科医のお父さんと学校教師のお母さんの息子です。大学工学部を卒業してノースカロライナ州の電力会社に就職して私の道場(Gensei Dojo of Japanese Martial Arts)のあったRaleigh 市に引っ越してきた時以来の空手の弟子です。お互いに久しぶりの再会を喜び合いました。娘二人と愛犬を連れて、一緒に近くのKure ビーチに遊びに行きました。長女のMorgan は15才、次女のMelanie は12才ですが、こんなに甘えられたらお父さんはメロメロになって溶けてしまうだろうなと思えるほど甘えていました。9月も下旬に近いのに、砂浜では大勢の人が遊びに来ていて、ピアからフィッシングをしている人たちもたくさんいました。夕方には、Sanchez君の手作りのキューバ料理を全員でご馳走になりました。

私たち4人(全員空手の弟子のDon Proffer君、Bill Oakley 君、Margie Reinitzさんと私)は、近くのCarolina ビーチのモーテルに一泊しました。予約なしで行きましたが、日曜の夕方で大半の宿泊客が引き揚げた後でしたので、空室はすぐ見つかりました。翌日朝早く起きて海岸に散歩に行くと、ちょうど大西洋の地平線から朝日が昇るところでした。ペリカンが飛んでいたり、こんな時間から一人で釣りをしている人がいたり、打ち寄せる波の音と一種の静けさの中で、心が洗われるような気分を味わいました。
                                    
 (写真はクリックすると拡大できます)

2010年9月19日日曜日

昨夜(こちらの時間で18日〉遅くノースカロライナ州の空港に着きましたが、友人達3人が待っていてくれました。私が1969年に初めてきた時はRaleigh/Durhan空港(RDU)というのは田舎の空港で、セキュリティチェックもなく、恩師の故Dauterman教授が生まれて数ケ月の長男を腕に抱いて飛行機のタラップの下まで迎えにきてくれました。それが、日本のつくば研究学園都市のモデルになったといわれているResearch Triangle Park(RTP)という3つの主要大学と国・民間の研究学園都市ができてから人口が増え、空港も国際空港になって、昔の面影はなくなりました。空港の近くでレンタカーを借りて、いつも使っている台所付きの長期滞在用モーテルにチェックインしました。公共交通機関がほとんどないと同然なので、自分で車を運転するしかありません。友人があらかじめ冷蔵庫に食べ物や飲み物を入れておいてくれたので、もう一人駆けつけてくれた友人も含めて5人で再会を祝してパーティをしました。友人の一人はCharlotteというかなり遠い町から来たので、私の部屋のソファで寝ました。今日はもう少ししたら、皆でWilmingtonという海岸(大西洋)の町に住んでいる別の友人を訪ねる予定です。今夜は向こうで一泊することになるかもしれません。皆、1969年以来の空手の弟子でアメリカ人ですが、家族のような親しい関係です。

支援金が届いたらFAXでコピーを送るように家族に頼んであったのですが、息子からのメール連絡で、自宅の電話とFAX兼用プリンターの修理で1週間くらい使えないとのことです。支援金の報告をブログでしようと思っていたのですが、しばらくはできないかもしれません。ご了承下さい。

2010年9月17日金曜日

8月15日に東京から振り込まれた方(3回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は30,000円、延べ163名からの合計額は2,094,565円になりました。ありがとうございました。

今日は東京で報農会という財団法人主催の「植物保護ハイビジョン-2010」-生物農薬の展開と化学農薬の調和-というシンポジウムがあり、私も聴講してきました。300人を超す参加者で会場が一杯でした。6人の演者による講演があり、いずれも大変勉強になりましたが、特に静岡大学農学部の西東 力教授の「生物農薬の最近の開発・利用状況及び今後の展望」と題した講演は、生物農薬の夢と限界の現実を明確に指摘され、印象に残りました。元々、静岡県の農業試験場で長年農業の現場の問題に取り組んで来られた方ですので、宣伝や空論ではなく、説得力がありました。

私は明日の午前11時半頃自宅を出て成田空港に向かい、アメリカに出発します。10月9日に帰国します。

2010年9月16日木曜日

9月14日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は20,000円、延べ162名からの合計額は2,084,565円になりました。「パソコンが不調でメールを出せませんが、応援しています」というメッセージも書いてありました。ありがとうございました。東北からも振り込んだというメールでのお知らせが届いています。

私は明後日18日からアメリカに出かけて日本を留守にしますが、留守中は家族に払込取扱票をチェックしてもらってアメリカの滞在先に連絡してもらう予定ですので、ブログでの報告はできる筈です。アメリカでは古巣のノースカロライナ州に帰省して充電してくるのが主目的ですが、恩師のお墓参りや、各地の友人達と会ったり、EPAやNIEHSを訪ねて少しは勉強もしてくる計画です。パソコンは持参しますので、向こうでもメールは読めます。


2010年9月13日月曜日

9月10日に振り込まれた方(5回目)の支援金が届きました。ありがとうございました。前回までの分は9月8日に菅野弁護士に全額をお届けしましたので、支援金の現在高は10,000円、延べ161名から今までに振り込まれた支援金の合計は2,074,565円になりました。

イギリスの新聞The Timesの東京支局長Richard Lloyd Parry 氏が午後2時に松戸駅に到着し、私が車で迎えに行って千葉大学園芸学部にお連れし、猛暑の中でしたがキャンパス内を歩いて見学後、5時頃まで取材を受けました。家族の話題で、私の息子が英文学専攻でシェイクスピアの研究でイギリスに2回留学した話をしましたら、Parry氏はOxford大学でやはり英文学を専攻したとのことでした。奥様と小さいお子様と東京にお住まいで、年に1~2回イギリスに帰省されるそうです。

3時間の取材ですからいろいろな話題をカバーしました。市橋君の人間性、私が何故多くの人の反対を押し切って市橋君の適正な裁判を支援する会を立ちあげたのか、私の目的は何なのか、市橋君は自分の犯した罪を認めたのか、支援者はどういう人達なのか、・・等々。リンゼイさんのご両親は大切な娘を失った犠牲者だが、市橋君のご両親も息子を失ったのと同じで犠牲者で、大変苦しんでおられること。市橋君のご両親はリンゼイさんのご両親に対して大変申し訳ないと思っておられること。私は、いずれは両方がお会いする機会が訪れればよいと思っていること。いずれは市橋君のご両親もこの困難を克服して、医師として社会に貢献していただきたいこと。私が以前リンゼイさんのご両親宛に送ったメールは向こうの代理人にストップされて抗議されたこと。市橋君がリンゼイさんのご両親宛に書いた事件の経緯の説明と謝罪の手紙は、代理人から受け取りを拒絶されたのでご両親には届かなかったこと。

支援者から寄せられたメッセージを匿名化して一覧表にして以前菅野弁護士にお渡ししたもののコピーを差し上げました。支援者の方々がどういうお考えで支援をしておられるかが理解してもらえるようにとの考えからです。
弁護団は明後日15日に6名全員が集まって20回目の弁護団会議をやられるそうですが、その席で、市橋君がリンゼイさんのご両親宛に書いた手紙をParry氏に見せてもよいということが認められば、市橋君が罪を認めて謝罪していることがThe Timesに記事として紹介されてリンゼイさんのご両親に見てもらえることになるかもしれません。

私が目指しているのは、元教師として元学生がきちんと罪の償いをすること。受刑中も市橋君が生きる希望を失わずに自分を向上させられるように支援をすること。何年経ったら出所できるか、出所できるかどうかもわからないが、出所した時に市橋君が残りの人生を前向きに生きられる人間になるように支援をすること。

どういう記事になるのかはわかりませんが、被害者対加害者、代理人対弁護人という立場ではなく、人間対人間としてのメッセージがイギリスの人達に伝わればいいなと思っています。記事になった時は私にもメールで送ってくれるとのことでした。

2010年9月12日日曜日

ネットで支援金を振り込んだというメール連絡がありましたので、月曜日には届くでしょう。記録を調べてみましたら、この方は5回目になります。

私は犯罪心理学者でも精神科医でもありませんが、普通の学生だった市橋君が何故こういう愚かな行為に及んだのかを解明することは、市橋君自身の更生にとっても社会が同様の事件の再発を防ぐためにも重要な筈です。検察側は公判で検察側が描いたシナリオを提示し、いずれメディアや評論家たちも解説をしてみせるのでしょうが、適正な裁判が行われるために、市橋君と弁護団の間で信頼に基づいた対話がなされて、真相が解明されることを期待しています。

市橋君が育った町の風景(2010年1月31日撮影)







2010年9月10日金曜日

ブログの3月31日の記事で書いたイギリスの新聞The Timesの東京支局から電話があり、来週の月曜日にイギリス人の支局長が取材に来られるということになりました。3月の時は一度予定していた取材がキャンセルになりましたが、今度は実現したら、私たちはリンゼイさんとそのご遺族に大変申し訳ないと思っていることと、市橋君も一時的に理性を失った状態で自分がしていることがわからなくなって犯したとんでもない行為を反省し、責任をとって罪を償う覚悟であることをイギリス国民に伝えていただこうと思っています。

2010年9月9日木曜日

昨日の菅野弁護士のお話では、市橋君の公判前整理手続は、事件当日何が起こったかの弁護側と検察側の論点整理が大体9月末までに終わり、10月から11月には情状酌量の余地があるかないかなどの検討が行われ、年内には裁判の準備が済んで、来年3月頃に裁判員裁判が開かれるという見通しのようです。

市橋君は身柄を拘束されて以来、弁護団に親には絶対に連絡をとらないでほしいと言い続けてきたそうですが、これは自分自身の問題なので親や家族には迷惑をかけたくないという思いだったのでしょうか。育ててくれたご両親に申し訳ないという気持ち、感謝しているという気持ち、ご両親への敬愛、そんな思いを伝えたいという心境になったのでしょうか、最近ご両親宛の手紙を書いて弁護団に託したようです。親子は物理的に隔絶されてもお互いへの信頼で結ばれていたとしても、こういう状態に陥った息子からの何年ぶりかの手紙が届いて実際に手にした時のご両親の胸の内はいかばかりかと想像されます。

市橋君が千葉大学を卒業してからの2年間にどういう生活をしていたのか私には全くわかりませんが、ごく普通の学生だった市橋君がリンゼイさんにこんな酷いことをするには、よっぽど自分自身を失っていたとしか考えられません。何故彼がそういう行動に走ったのか、市橋君自身もわかっていないのかもしれません。亡くなった命は生き返らないし、犯した罪は消えませんが、何が彼に理性では考えられないこんな馬鹿げたことをさせたのかを明らかにすることは、弁護団にとっても市橋君自身にとっても大切なことかもしれません。

2010年9月8日水曜日

台風9号の影響で悪天候でしたが、郵貯銀行からその後振り込まれた支援金の全額191,000円を引き出して、菅野弁護士にお届けしました(領収書添付)。今日は菅野弁護士に加えて、山本宏行弁護士も同席して、いろいろお話を伺ってきました。

千葉刑務所内で熱中症で死亡者がでたというニュースに関連して、市橋君の入っている独居房には空調も扇風機もないので、暑さにはただ耐えるしかないとのことです。ただし、独居房には洗面設備はありますが、ボトル入りの飲用水を毎日3本ずつ支給されるようになったそうです。

未決囚なので私服を着用していますが、差し入れをしている人がいるらしく着替えなどに不自由はしていないようです。お金も差し入れをしている人がいるらしく、刑務所内の売店で食べものを買うことはできるそうです。最初の頃は甘いものを欲しがったけど、最近は支給される食事だけで不満はないそうです。衣類でも食べものでも、必要なものは市橋君が弁護団に接見の時に要望すれば、支援金を使って購入して弁護団から差し入れができるので、心配はないとのことです。

自殺の可能性があるという理由の特別扱いを止めて他の被告人と同じ扱いにしてほしいという点については、市橋君本人も弁護団も繰り返し改善を要望してきましたが、特に週に4~5回行われていた独居房への立入検査や私物の制限は改善されたそうです。繰り返し要望した結果か、千葉刑務所で8月に自殺者がでたので、ストレスを与えると自殺予防に逆効果と判断したのかはわかりませんが。

市橋君がリンゼイさんのご両親宛に日本語と英語で書いた手紙は、イギリスの代理人から日本の検察に受け取りを拒否するという連絡が入ったので、結局送れなかったとのことです。公判には被害者(の遺族)も出席できるので、そこで加害者に直接質問をぶつけられるので、今の段階で加害者側の説明や謝罪や言い分を聞く必要はない、ということなのかもしれません。つまり、被害者(の遺族)側は市橋君に対してかなり厳しい姿勢を維持して臨んでこられるのではと想像します。

公判前整理手続は当初予想した5~6回ではなく、7~8回は行われそうで、第5回は9月24日、第6回は10月18日に予定されているそうです。

皆さまから寄せられた支援金は弁護団が活動をする上で大変役に立っているとのことでした。これからも継続してご支援をお願い致します。

2010年9月7日火曜日

明日は菅野弁護士にその後振り込まれた支援金をお届けする予定です。市橋君の最近の様子などについても伺ってくるつもりです。




この写真は、市橋君が高校を卒業するまで住んでいた岐阜県竹鼻町を今年の初めに訪ねた時に撮ってきたものです。岐阜羽島駅から走っている名鉄は確か単線だったと思いますが、駅前の大通りに高層ビルもなく、線路を歩いてわたる歩行者用の通路があったり、この頃都会では見られなくなった昔の街並みや風情の残っている田舎の町でした。ほとんど町中の人は皆顔見知りかもしれないという印象でした。市橋君が、見慣れたこの景色を再び見ることができるのは何年先になるのかわかりませんが・・・。

2010年9月4日土曜日

支援者のお一人から、千葉県の情報サイトに第4回公判前整理手続の記事がありましたという情報提供がありました。
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市橋達也被告(31)の第4回公判前整理手続が3日、千葉地裁(堀田真哉裁判長)で行われた。
市橋被告の弁護団は、ホーカーさん死亡の時間帯が最大の争点となる見方を示した。弁護側は、暴行と死亡の時間が離れてたことを証明するため、市橋被告のパソコンデータを証拠請求する方針。手続きには市橋被告も出席した。
弁護団が明らかにした供述調書の内容によると、市橋被告は07年3月25日午前、自室に入った直後に強姦。その後、足などを縛られたホーカーさんを室内に置いた浴槽に入れた。翌26日午前2~3時ごろ、浴槽からはい出し声を上げようとしたため、後ろから馬乗りになり左腕で首を絞めた。殺意は否認している。
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これは弁護側が取材記者団にリリースした情報に基づいた記事でしょうが、検察側はまだ、強姦プラス傷害致死ではなく、強姦致死プラス殺人が行われたという主張の証拠を提出していないという印象を受けました。
最終的にどういう判決になるのかはわかりませんが、市橋君はとんでもない悪いことをしたのですから、心の底から反省して、相当長期間罪の償いをしなければならないでしょう。逃走中の生活態度から見ても、私が知っている市橋君は、しっかりそれができる人間だと信じます。

2010年9月2日木曜日

8月31日に振り込まれた方(6回目)の支援金が届きました。これで支援金現在高は191,000円、延べ160名からの合計額は2,064,565円になりました。「熱中症の方々が増え、私の勤務先も忙しい日々です。この暑い中、独房で一人の市橋さんの体調は大丈夫でしょうか。本当に気がかりで案じられます。意思を強くもって日々過ごしていただきたいです。」というメッセージもいただきました。ありがとうございました。

市橋君が千葉大学園芸学部で卒業論文の研究や研究室ゼミに参加していたのは、庭園デザイン学研究室で、当時は2人の教員が指導に当たっていました。事件後は、警察が事情聴取に来たり、メディアが取材に押し掛けたりで大変だったようです。現在はM教授お一人で学生の指導をされています。今日は市橋君が提出した卒業論文を見せてもらいに研究室を訪問し、学生時代の市橋君のことなどM教授と懇談してきました。

2010年9月1日水曜日

今日から月が変わって9月です。弁護団は、午後から行徳警察署へ事件の証拠物の閲覧に行ったり、事件現場(市橋君が住んでいたマンション)の見分をしている筈です。

8月30日に振り込まれた方(2回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は181,000円、延べ159名からの合計額は2,054,565円になりました。この方からはメールでお便りもいただきました。ありがとうございました。