2014年12月31日水曜日

もう筋肉痛はほとんどなくなりましたが、昼休みに千葉大学園芸学部構内を通って、江戸川の葛飾橋を渡って金町側に行き、水元公園Cブロックを中心に約2時間ゆっくり歩いてきました。不動池の前には望遠レンズを構えた4~5人のカメラマンがファインダーを覗きこんでいましたので、池のなかに突き立てた小枝にちょうどお目当てのカワセミが飛んできていたのでしょう。

百周年記念戸定ケ丘ホールの裏には、この時期にはいつも南天の赤い実と黄色い実が鮮やかです。事務管理棟前のイタリヤ式庭園の端には赤星先生の胸像が建っています。いつも遠くから見るだけで、赤星先生がどういう人物だったのかも気に留めませんでしたが、今日は近くに寄って書いてある碑文を読んでみました。千葉大学園芸学部の前身は千葉県立の園芸専門学校だったのを、当時校長だった赤星先生の努力で文部省に移管になって国立の千葉高等園芸専門学校になったことの功績を称えて昭和10年(1935年)に建てられた像でした。
フランス式庭園の西側には私が学生だった50年以上前には木造の講堂が建っていましたが、その後建て替えられて今はA研究棟が建っていて、緑地環境学科のいくつかの研究室が入っています。市橋君が在学中は、この建物の2階の向かって右端の研究室を使っていました。

我が家は、日米の子供たちも私たち夫婦も無事1年を過ごすことができました。






2014年12月30日火曜日

昼休みに、運動着に着替えずにいつもの普段着のジーパンと運動靴で出かけ、デパートの文房具売り場に寄って来年の手帳を買ってから町の中を通って江戸川堤防に行きました。途中市立図書館の前を通ったら、ガラス窓に児童虐待に関するポスターが貼ってあり、相談の電話番号が書いてあったので手帳にメモをし写真を撮ってきました。

実は先週の月曜(22日)にA氏に面会するために土浦拘置支所に行き、面会者待合所で自分の番号を呼ばれるまで待っていた時に、若いお母さん(16~17才くらいに見えた)と2才の女の子がいましたが、非常に気になったことがありました。お母さんは自分の順番を呼ばれるまでの長い待ち時間の間ベンチに腰かけてずっと俯(うつむ)いて手で髪の毛を触っていましたが、子供はお母さんの隣に腰かけてじっとしていました。そのうちにもそもそと動き出して、ベンチから降りたり上ったりし始めました。手に持っていた何か小さなおもちゃみたいなものを床に落としたら、お母さんがとても女性とは思えない口汚い言葉で子供を叱り飛ばしました。子供は怯(おび)えてお母さんに見放されないように抱きついていきましたが、もしかしたら家では虐待されているのではないかと心配になりました。この頃、時々若いお母さんやお父さんが小さい子供を虐待して殺してしまったという信じられないような事件が報道されますので。
自分自身が大人に成長する前の年齢で母親になってしまって、もしかしたら面会にきた相手が子供の父親で、何か悪いことをして拘置所に入れられて生活が滅茶苦茶になってしまったのではないだろうかと想像して、これから先この小さな子供は大丈夫だろうかと心配になり、胸が痛みました。
たまたま面会者待合所で同席しただけの他人なので余計なおせっかいをしてはいけないと思いましたが、2才の小さな子供がちゃんと温かい家庭で育っているかどうか、自分の3人の孫のことを思いながらその後ずっと気になっていました。
どの親の子供として生まれるかによって、子供には責任はないにもかかわらず、育てられる環境に大きな違いができてきます。金持ちか貧乏かではなく、全ての子供が少なくとも両親に愛されて温かい家庭で育ってほしいものです。

松戸駅西口から江戸川に向っている道を真っ直ぐ行くと堤防に上るちょっと右手前に浄土宗のお寺がありますが、その前に立っているお地蔵様が全員可愛らしいおそろいの赤い頭巾をかぶっていました。お正月に向けてのプレゼントでしょうか。
昨日の冷たい雨とは打って変わって、今日は気温も高く青空が広がっていましたが、東京方面の空だけは師走の東京を忙しく走る車の排気ガスのせいかスモッグがかかって視界が悪く、まるでどんよりしている中国の北京の空のようで、いつもはよく見える東京スカイツリーが目を凝らしてやっと霞んで見えるか見えないかの程度でした。
まだ筋肉痛が少し残っていましたので、江戸川堤防からの景色を眺めながら、野外の空気を吸って、太陽の陽射しを浴びて、風に当って、ちょうど2時間ぐらいゆっくりウォーキングしてきました。

NHKテレビのBSプレミアム(チャンネル3)で朝7時半からやっていた「ぐるっとブラジル・6000キロ舟の旅後編」(再放送)を観ました。再放送なのでもしかしたら以前も観たことがあるかもしれませんが、改めて感慨深いものがありました。私の家族は1945年の終戦(敗戦)で朝鮮から日本に引き揚げてきて、しばらく宮崎県の須木(すき)村の山を開墾した父は、その後母が名古屋の金城女子専門学校に在学中の体育の教師だった星野ます先生(当時浦和市議会議員)の援助で埼玉県の浦和市に引っ越し、その後川口市(蕨)に家を建てて引っ越しましたが、私が小学6年生で12才だった1954年にブラジルに移住しました。父は1903年(明治36年)生まれですから、51才だった筈です。当時は国策として各県の県庁がブラジル移民を奨励していた時代でした。その後数年して私の兄(今年2月に80才で亡くなった)が渡伯して父に合流してポルトガル人の女性と結婚し、その数年後に次姉が渡伯して日本人と結婚し、私も千葉大学園芸学部を卒業して農業技術を身に着けたら移住してアマゾンを開拓するつもりでした。私の母は1909年(明治42年)の生まれですが、よく埼玉県庁に行って担当者からブラジル移住者を紹介してもらって、移民船(さんとす丸?)が出航する度に港に父に届けてほしい荷物を持って行って託していました。私も何回も母と一緒に横浜港に行って、出航の時に船の上から別れのテープを投げてもらって船が岸壁を離れてちぎれるまで握っていたのを思い出します。その後の状況の変化や、私自身の心変わりから、ブラジル移住は止めて大学の研究者になってしまい、こうして老後は日本で暮らすことになりましたが、映像に映っていたアマゾン川流域で暮らす人々の生活の様子や、日本人移民の生活の様子や、コショウで栄えたトメアスやゴムで栄えたマナウスの様子は、他人事とは思えませんでした。
日本政府がいつからブラジル移住を奨励する政策を中止したのか正確なところは調べてみなければわかりませんが、今この年齢になって考えてみれば、行かなくてよかったとも思いますし、行っていれば行っていたで今頃は現地に適応した別の生き方をしていたのではないかとも思います。



2014年12月29日月曜日

この数年は年末の恒例行事のようになりましたが、東京在住の長姉(私より12才年長)が訪ねてきて、妻が1週間ぐらい前から頭を絞って腕によりをかけて作った手料理の昼食を食べました。終戦(敗戦)後、朝鮮から引き揚げてきて宮崎県小林市に住んでいた頃から男2人、女2人の我が家の子供たちの中で一番優秀で、当時非常に難しかった津田塾大学に合格して英語を学び、84才の今でも自宅で何人かの生徒たち(といっても大人)に英語を教えています。駐日英国大使ティム・ヒッチンズTim Hichens とは、彼がまだ子供でお父さんが駐在武官として英国大使館に勤務していた頃から交流があったらしく、大使になって再来日した彼が津田塾大学で講演をした時は関係者として特別招待されたとのことでした。そんな姉も、帯状疱疹の経験や白内障の手術や高血圧もあって、最近は体調が万全ではなく、会うたびに体が小さくなって弱々しくなってきたように感じます。

引揚げの時は私は3才で、この姉の背に負ぶわれてソ連兵に見つからないように山の中を歩いて38度線を越えて南側に逃れたと聞いていましたので、その当時のこととか引き揚げてきてからのこととかを話してもらいました。朝鮮では祖父がリンゴ園をやっていた黄海道黄州(ファンジュ)というところに住んでいましたが、開城(ケソン)にも分園があり、当時は開城は南側で米軍の支配下にあったので(朝鮮戦争の結果、北側に編入された)、開城のリンゴ園に辿(たど)りついてからは、引揚げ船に乗るまでの間家族一同しばらく休むことができたとのことでした。
今日はあいにくの天候で冷雨が降っていましたので、松戸駅まで私の車で送り迎えをしました。

家を出て東京で自立している息子は忙しいらしくほとんど実家に顔を見せませんが、1年に1回はお正月に夫婦で観に行くようにと映画の券を送ってくれます。今年はどの映画を選んだのだろうかと思ったら、「ゴーン・ガール」という内容が想像できない日本語の題名の映画でした。ネットで調べたら、デヴィット・フィンチャーDavid Fincher監督の"Gone Girl"という題名の、妻が失踪するという内容のミステリー/スリラー(原作はギリアン・フリンGillian Flynn著のベストセラー小説)のようです。外出するのが嫌いな性格の妻ですので、息子から映画の券が送ってきた時だけの本当に1年に1回の夫婦そろっての外出ですが、楽しみです。

2014年12月28日日曜日

今朝の朝日新聞に「花粉症 食べて緩和? 慈恵医大など研究」という見出しの記事が載っていました。
http://www.asahi.com/articles/ASGDK3SH6GDKULBJ00D.html
さらに詳しい解説は農業生物資源研究所の次のサイトにも載っています。
http://www.nias.affrc.go.jp/gmo/basic.html

私が千葉大学で現職だった時に、デュポンというアメリカの会社が開発した有用成分を高濃度発現する遺伝子組換え大豆を、大学の研究農場内に隔離圃場を作って試験栽培する計画を立てて農水省と大学に申請したことがあります。反農薬活動家グループと同じように、遺伝子組換え作物に対しては過激な反対グループがあるから十分準備をした方がいいと忠告され、農業生物資源研究所で当時計画していた花粉症緩和米の試験栽培に関する説明会があるというので様子を見に傍聴に行きました。驚いたことに、全国から集められた反遺伝子組換え活動家が会場を埋め、最初から結論ありきで妨害のための質問を浴びせていました。今も覚えている馬鹿げた質問の一つは、花粉症緩和米の安全性についてで、確かラットを用いた長期投与試験で何の異常もみられなかったという試験結果が紹介されたのに対して、ラットは何頭供試したのかとか、それで人間に対して安全と言えるのかといった試験栽培の安全性の判断とは関係のない本筋を外れた発言を繰り返していました。

私の試験計画についても、そんなことをしたら松戸市産や千葉県産の農産物は風評被害で売れなくしてやるとか、全国から反遺伝子組換えの活動家を集めて千葉大学で騒動を起こして教育研究をできなくしてやるとか、強迫に近い圧力をかけてきました。最終的には学内に反遺伝子組換え活動に同調する教員がいて、アメリカの会社が開発したものに対して日本の国立大学の研究農場を使って協力するのはけしからんという馬鹿げた屁理屈まで持ち出して、残念ながら結局野外での安全性を見るための試験栽培は実施できませんでした。

今回の記事によると、その後花粉症緩和米の研究が進んで、スギ・ヒノキの花粉の飛散時期に人間に一定期間食べさせて、花粉症の原因となる免疫細胞の増殖が抑えられたことが確認されたということのようです。
今から科学的な試験をしようという時に、初めから自分たちが信じ込んだ結論ありきで何が何でも試験をさせないという態度では、科学の進歩が阻害され、国民の利益が損なわれてしまいます。そんな態度は社会正義でもなんでもなく、単なる自己満足だと思います。

今日はいつもの床屋に行って散髪をしてもらい、サッパリしてきました。予想通りあちこち筋肉痛なので、運動に出かけるのは止めました。

2014年12月27日土曜日

稲毛海浜公園の駐車場に午後2時半に集まって、準備運動をして、全員(12名)で芝生のグランドを2周軽くジョグしてから、今年出場したレースの時間に応じて時差をつけてスタートしました。私が一番遅いので、一番先にスタートしましたが、今日の参加者の中で一番記録がいい東京女子医科大学の外科医のS先生は私より23分遅れでスタートしました。幕張のマリンスタジアムまでの往復8Kmを、絶対に完走だけはしようと思ってマイペースで走り、途中で後からスタートした4人に追い抜かれましたが、結局1時間5分かかってゴールインできました。1Kmで8分もかかっているので、歩くのとほとんど変わらないようなスローペースですが、最近は8Kmも続けて走ったことはなかったので、満足でした。昔(50代の頃)は5Kmを19分43秒で走ったことがありますので、1Kmを4分以内で走ったことになります。その当時から比べると体重が約10Kg重くてメタボ状態だということと、走り込みが全然できていないということと、時間が20年経過して年齢が72才になったということを考えると、目標としていた完走ができただけでよしとしなければなりません。

稲毛の駅前の居酒屋で皆で忘年会をやっている時も、私にしては少し飲み過ぎたかもしれませんが、気分は上々でした。帰りは市川駅から松戸駅行きのバスに乗って、途中で降りて江戸川堤防を少し散歩して酔いを醒ましました。夜江戸川堤防に行くことはほとんどありませんが、真っ暗闇の中で江戸川のゆったりとした流れと遠くの街の明かりを見ながら歩くのもいいものでした。

走っている時に太ももの裏の筋肉が攣(つ)りそうになったのを我慢して走りましたので、今夜はもしかしたら寝ている間に足が攣るかもしれませんし、明日は筋肉痛があるかもしれません。それでも、こうして仲間と一緒に楽しく走れるだけの健康が維持できているということは、幸せなことです。来年はもっと減量して、走り込みもして、もう少し競争的に走れるようになりたいと思っています。私より2才年長のO先生が出場したあるマラソン大会では、最高齢者は91才だったとのことですから、72才でもう高齢者だから走れないという言い訳はできません。

埼玉県の県庁前で法律事務所を開いている浦和高校時代の同級生のT弁護士から電話がありました。つくば中央警察署に収檻されていたA氏から手紙が届いた時に、警察の留置場にいる被疑者に弁護士や家族でなくても面会ができるのかどうかを訊きたくて自宅に電話をしましたが、留守で話ができなかったので、改めて電話をしてくれたのでした。A氏については、私はこれ以上関わらないと決めたのでもう問題は解決したと伝えましたが、質問に対する答えは、警察署内の留置場でも警察官の立ち会いの下で面会はできるということでした。
A氏については、何故窃盗のような犯罪を繰り返すのか背景がわからないので判断のしようがありませんが、多分一種の病気の可能性があるので、再犯を防いで本当に立ち直らせるには刑罰を与えるだけでなく、精神科の治療なり人間としての教育が必要なのかもしれないという気もします。
52才という年齢を考えると、今から人間教育をして生き方を変えさせるのは難しいかもしれませんし、全国に多分何万人、何十万人もいる筈の犯罪者一人一人に社会がそういう対応をするのは不可能かもしれませんが・・。

2014年12月26日金曜日

常磐線の電車で土浦駅まで行き、徒歩で市役所の前を通って土浦拘置支所に着いたのは午後1時半ぐらいでした。面会の申請書に必要事項を記入し、住所は被面会者には知らさないというところに丸をして、前回と同じ塀の外の面会者待合室で番号を呼ばれるまで待ちました。今日の番号札は13番でした。市橋君との面会に行った千葉拘置所や東京拘置所と違って、ここの面会時間は家族・非家族にかかわらず30分となっているのでゆっくり話ができます。若い女性の2人連れや、初老の父親らしい人や、ちょっと組員みたいな感じの男性や、・・いろいろな人が面会に来ていますが、塀の中から刑務官が出てきて番号札が何番の方は被面会者が面会を拒否しましたのでお帰り下さいと言っていました。せっかく面会に来たのに、会いたくない人がいる場合もあるのかと思いました。

約1時間待って、私の番号が呼ばれたので塀の中に入ってロッカーに荷物を入れて、指示された面会室3に入りました。前回(月曜)に面会に来た時に書き取ったA氏の実家の電話番号に毎日何回電話しても誰も出ないので、昨日車で訪ねてきたことを話しました。カーナビに入力した住所の所に3~4軒の家があったので、そこに車を止めて電話をしてやっと姉さんと話ができたことと、会話の内容を話してあげました。お母さんは病院から処方された精神安定剤を飲んで、今は気分が安定しているということ、姉さんがちゃんと世話をしているので心配要らないということを伝えました。その間A氏は嬉しそうな顔をして、私の報告を聞いていました。姉さんの家族はいるのかと訊いたら、出戻りで姪(めい)っ子を育てていてその娘がもう大学を卒業する年齢だとのこと。A氏は何才までこの家で育ったのかと訊いたら、高校卒業まで家にいて、その後は水戸の専門学校で原子力について2年間勉強したとのこと。
撮ってきた写真をガラスの仕切り板越しに見せて、家はこの中のどれですかと訊いたら、一つの写真を指してこれですと答えました。りっぱな農家の家です。もう何年も実家には帰っていないでしょうから、霞ヶ浦の写真も見せました。姉さんが、連絡がないから弟がどこに住んでいるかもわからないと言っていたよと言ったら、今回の事件を起こした時は千葉に住んでいましたと答えました。

あんな田舎の農村で長男が悪いことをして警察に捕まれば、たちまち村中に噂が広まってお母さんと姉さんはずい分肩身の狭いつらい思いをしているのではと言ったら、頷(うなず)いていました。私はつい元教師の性分がでて、なんでそんな馬鹿なことをしたのか、もっとちゃんとしなければ駄目じゃないかと説教をしていました。52才になって、父親のように説教をしてくれる人はいなかったのか、神妙な面持ちで、それでいて嬉しそうに私の説教を聞いて頷いていました。
裁判は裁判員裁判ではなく一般裁判で1月16日(?)に開催が決まったと言ったので、私は市橋君の裁判で証人として証言台に立ったことがあるけど、抽選で選ばれる裁判員には当たり外れがあるので(犯罪そのものを正確に理解しようとするのではなく、ミーチャン・ハーチャン的な興味本位の質問しかしなかった)、一般裁判でむしろよかったかもしれないという感想を伝えました。
求刑通り6年の懲役になるか4年になるかわからないけど、どちらにしてもしっかり刑期を務めて、あんなにりっぱな手紙を書けるのだし(2通ともしっかりした文章でした)、ボイラー技士としての資格を生かすなりして、真面目に働いて生活ができるようにして下さいと諭しました。

お母さんのことは姉さんがちゃんと世話をしているので心配要りません。私は牧師でもないし弁護士でもないのでこれ以上A氏にしてあげられることはありません。これが最後でもう面会には来ないので、後は自分の責任で生きて下さいと言って面会室を出ました。市橋君の時と同じように、A氏も頭を下げて感謝の意を表して私を見送ってくれました。
弁護士(多分、国選弁護人)がどういう考えでA氏に私に手紙を書くように勧めたのかわかりませんが、私が関わるべき特別の事情は見当たりませんでしたのでA氏に対する私の役割はこれで終わったと思います。

昨日は私が留守の間にアメリカ在住の娘の家族から電話があり、孫たちも一人一人がメリークリスマスと言ったと妻が報告しました。時差があるので、今頃クリスマスツリーの下に置いておいたプレゼントを家族全員が開けて喜んでいる筈です。

明日は午後2時半から稲毛海浜公園で千葉大学走友会の練習会です。全く競争的に走れる体調ではないので、ちょっとストレスに感じますが、何とか8Km をマイペースで完走できればと思っています。走った後の仲間との懇親会/忘年会は大いに楽しみです。

2014年12月25日木曜日

土浦拘置支所に窃盗の罪で収檻されているA氏から聞いた住所をカーナビに入力して、お母さんの住んでいる実家を訪ねてみました。往きは渋滞もなく2時間弱でしたが、帰りは2時間半以上かかりました。

田舎の農村地帯でした。カーナビが示した場所に車を止めて、念のために電話をしてみたら長い時間鳴った後で誰かが受話器をとってくれたので、やっと話ができました。私が来た目的をいくら説明しても話が通じず困りました。しばらくしたら、自分は使用人なのでこの家の人と代わりますと言われて、代わった人はA氏の姉さんでしたのでやっと話が通じました。

私が誰で、A氏とは面識も何の関わりもなかったのに、A氏が収檻されているつくば中央警察署と土浦拘置支所から突然手紙をもらった(多分弁護士の勧めで)ことを説明し、A氏からお母さんが自殺しかかって心配だから私に連絡をとってほしいと頼まれたので、ちょっとだけでも会っていただけないかと打診しましたが、結局もうほっといてほしいというニュアンスの返事でした。姉さんとお母さんは一緒に暮らしていて、お母さんはA氏の今回の顛末(てんまつ)でショックを受けて精神的に高ぶってしまったけど、近くの病院で精神安定剤を処方してもらって、今は安定しているとのことでした。

姉さんもお母さんも、もう何年間もA氏がどこに住んでいるのかも何をしているのかも知らず、毎回事件を起こして逮捕された時だけ家に手紙を書いて助けを求めてくるので、今までは家族だからということでその都度助けてきたとのことでした。そんなことの繰り返しで、家族にとってはどうしようもない放蕩(ほうとう)息子・弟だったようです。お母さんはそれでも息子だからということで、何回裏切られても援助をし、今回は特に、せっかくボイラー技士の資格を持っているのだから、それを生かして定職に就くようにと援助をして期待をしていたようです。それを裏切られたのでショックが大きく、絶望的になったようです。息子と言っても、もう本来は分別のあるべき52才です。子供は姉さんと弟の二人だけとのことでしたが、母親というのは放蕩息子に何回裏切られても、頼ってこられると許してしまい今度こそは立ち直ってほしいと期待してしまう性(さが)なのかもしれません。

せっかく2時間もかけて家の前まで行ったのに、短い電話だけで姉さんにもお母さんにも会えずに帰るのは残念でしたが(使った時間だけでなく、往復の高速道路料金とガソリン代も年金暮らしの私にとってはかなりの支出でした)、私に対して申し訳ないという気持よりも、恐らく本当は誰だかわからない他人の私に放蕩息子・弟に苦しめられている家族の内情を見られたくないという気持の方が強いのだろうと思って諦めました。仕方がないので、明日土浦拘置支所を訪ねて再度A氏に面会し、今日姉さんと話をしたことを伝えますと言いました。今私にできることは何もないようだけど、将来刑期を終えて出所してから相談相手が必要な時が来たら、私は保護監察官 http://www.fukusisi.com/fukusi/archives/2006/03/post_436.html ではありませんが場合によっては相談相手にはなれるかもしれませんと言い足して、帰路につきました。姉さんは最後に私の名前を確認して書き留めたようですが、A氏には今までよっぽど煮え湯を飲まされるような経験をしてきて、もうほっといてほしいというのが本心のようでした。明日面会する時にA氏に見せるために、家と近所の写真を2~3枚撮ってきました。

今朝出かける前に用事で寄った松戸郵便局で順番待ちの間に備え付けの日本経済新聞を手に取ってみたら、東京都がデング熱に関して2015年以降の感染対策をまとめたという記事が載っていました。
http://2ntv-a.info/articles/view/1419487648
専門家による対策会議の結論として、デングウィルスを媒介する蚊の発生を抑えたり、早期に診断する体制を整備するというのは当然ですが、国に対して、薬剤散布による生態系への影響調査の実施を要請したとありました。都立代々木公園で感染が確認されて以来、8月と9月は蚊を防除するために真っ白い霧状の殺虫剤がもうもうと散布されている映像がテレビニュースで毎日のように放送されていました。普段は何Kmも離れたところで1年に1回散布しても、体調が悪化したと常に苦情を訴える反農薬活動家グループが、周辺に大勢の人々が集うこんな都会の真ん中の公園で大々的に殺虫剤が散布されていることにどうして反対の声をあげないのか不思議な気がしていました。実際に、散布した殺虫剤の飛散で周辺の誰かが体調が悪化したというメディアの報道もありませんでした。検討会では、周辺住民への健康影響の可能性は問題にならずに、生態系への影響の可能性だけを問題にして調査の必要性を指摘したようです。
人間に病気を媒介する昆虫の防除に散布する殺虫剤のありがたさは、防除をしない場合のリスクを考えればすぐ実感できますが、作物や樹木の害虫の防除に散布する殺虫剤は、本当は食料生産や環境保全に大きな貢献をしているのですが、身近な問題として感じられないので反対し易いというようなことがあるのでしょうか。


2014年12月24日水曜日

昼休みに道場に行って準備運動と筋力トレーニングを少しした後、江戸川に行って上流に向かって右岸の堤防を10Km歩いたり走ったりしてきました。太り過ぎでちょっと走ると息が切れるので、走るのと歩くのを半々くらいにしています。

土浦拘置支所に収檻されているA氏のお母さんに毎日何回も電話していますが、いつも留守で誰も電話をとってくれません。もしかしたら、市橋君のご両親の場合と同じで、嫌がらせ電話があまりにも多いので受話器が鳴ってもとらないことにしているのか・・。あるいは、A氏が心配していたように自殺しようとして病院にでも入院しているのか・・。まさか、私の同情を得るためにA氏が存在しない老母の作り話をしたようなことはないと思いますが・・。
カーナビに面会の時に書き留めた住所を試しに入力してみたら該当場所が出てきましたので、明日車で訪ねてみようと思っています。渋滞がなければ、片道2時間半ぐらいで行ける筈です。もし家に誰もいなければ、近所の人にお母さんのことやA氏のことを訊いてみるつもりです。

22日(月)のブログで書いた記事について、「市橋達也君の更生を支援する会」の幹事をしている〇〇さんと〇〇さんから嬉しいメールが届きました。いつもこのブログをチェックし続けて下さりありがとうございます。私がA氏の今後に関わるかどうか、明日実家を訪ねてどのような状況になっているのか確認し、もう一度土浦拘置支所に面会に行って、その上で判断しようと思っています。
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本山先生
こんにちは
師走で忙しい時期、ブログで拝見しましたが、面会の件ですが、先生のやさしさを再確認しました。寒いのでお身体を大切にしてください。良いお年をお迎えください。
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来年1月16日(金)に予定されている東京農大総合研究所研究会農薬部会の賀詞交換会における特別講演の演題が届きました。
演者: Dr. Harald Pritz, President & Representative Director of Bayer CropScience K.K.
演題:  "Feeding a Hungry Planet - Perspectives from a Multinational Company"
ドイツ人の演者が世界的な広い視野で、人類の現状と将来をどう見通しているのか、非常に楽しみです。

2014年12月23日火曜日

今週の土曜(27日)には千葉大学走友会の練習会が稲毛海浜公園であり、幕張のマリーンスタジアムまで往復8Kmを競争的に走らなければなりませんが、このところ練習不足だし相変らず体重が約10Kgオーバーな状態ですので、走れるかどうか不安です。メンバーの中では私が一番遅いので一番早くスタートしますが、今年も順位は無視してとにかく完走だけを目標にせざるを得ません。
今日は昼休みに江戸川を上流に向かって左側の堤防を三郷排水機場の辺りまで、2時間半ちょっとかけてゆっくり歩いたり走ったりしてきました。同じ景色でも、反対側の堤防から見るとまた違って見えて飽きません。

知人がネオニコチノイドとミツバチの関係について、玉川大学の中村 純先生から届いた以下のサイトを紹介してくれました。
http://www.americanbeejournal.com/site/epage/81673_828.htm
American Bee Journalというオンラインの情報誌に載っている、アメリカ昆虫学会(Entomological Society of America)で行われた学生のディベート大会で優勝したカリフォルニア大学デービス校のチームの"Should the Agricultural Use of Neonicotinoids Be Banned?"(農業におけるネオニコチノイドの使用は禁止されるべきか)と題したプレゼンテーションの内容です。
学会で学生たちにディベートさせるというのはいかにもアメリカ的ですが、現実的な思考をしていて、大変面白いなと思いました。こういう機会と経験を通して、学生たちは必要な情報を集めて、いろいろな視点を比較して、自分の頭で判断して、それを他人に分かり易く論理的にプレゼンテーションする能力が鍛えられます。

土浦拘置支所に収檻されているAさんのお母さんに昨日から何回も電話をしていますが、誰もでません。高齢とのことでしたので、何か事情があってもう家にはおられないのか・・。住所を地図で調べてみたら、高速道路を使えば車で片道2時間か2時間半くらいで行けそうな距離ですので、できたら明日か明後日にでも訪ねてみようかと思っています。次回面会に行くときに、お母さんの様子を報告してあげたいと思いますので。

2014年12月22日月曜日

明日23日(火)は天皇誕生日でまた祭日なので、今日のうちにと思って土浦拘置支所に行ってきました。受付で、水戸少年刑務所の支所ということはここには少年が入っているのかと訊いたら、少年は少年院に入るので刑務所には入らないし、水戸も今は水戸刑務所となって大人の受刑者が服役しているとの答えでした。1時ちょっと過ぎに到着したのですが、番号札は12番でした。もう一度塀の外に出て、面会者の待合所で待機して番号を呼ばれたら、塀の中に入って荷物を全部ロッカーに入れて指定された面会室に行くようにと言われました。
待合所には2才の女の子を連れた若いお母さんがいたので、荷物は手帳やノートも駄目なのかと訊いたら、金属探知機で反応するものだけが駄目で、実際にはそれ以外のものは持ち込んでも大丈夫とのことでした。
指定された面会室2のドアを開けたら、千葉拘置所の場合と同じようにガラスで仕切られた向こう側に私に手紙をくれた男性(Aさん)が座っていて、その斜め後ろに刑務官が座っていました。手紙を2回もらったのでどういう用件かと思って面会に来たと告げると、手紙での返事だけで私が直接面会にきてくれるとは思っていなかったとのこと。何をしたのかと訊いたら、窃盗とのこと。何才ですかと訊いたら、52才とのこと。仕事は何をしていたのかと訊いたら、ちょっと考えてから建築(建設?)関係とのこと。前科があるようなので、建築現場でパート労務者として働いていたのかもしれません。弁護士から、私が市橋君の支援活動をして多くの女性が物心ともに支援してくれたと聞いたと言いましたので、市橋君は千葉大学の卒業生で私の空手の弟子でもあったので、適正な裁判を受けさせるために支援活動をしたが、今は裁判は結審して無期懲役で服役しているがどこの刑務所にいるのかも私にはわからないということと、30年服役後に仮釈放される可能性があるとのことだが私はすでに72才なのでそれまで多分生きてはいられないので、その時のために支援金の残りを私より年齢の若い人に管理してもらっていると話しました。私に何をしてほしいのかと訊いたら、自分がまたこんなことになってしまったので姉さんから母親が自殺をしそうだと聞いたので母親に連絡をとってほしいと言いました。せっかく親からもらった命なのに、こんな馬鹿なことをしては駄目じゃないですかと少し説教をしました。手紙ではもうすぐ判決が下されると書いてあったがと訊くと、すでに6年という求刑がされましたと答えたので、6年は短いので服役が終わったら今からでも遅くないのでちゃんと人生をやり直しなさいと説教したら、斜め後ろで会話を全部聞いている刑務官が、求刑は6年でも判決は4年くらいのこともあると言ってくれました。奥さんやお子さんなど、ご自分の家族はいるのですかと訊いたら、フィリッピンの女性と結婚していたけど、帰国してしまって今は連絡もないとのこと。暴力をふるわれて帰国したのか、まともに働かないので愛想を尽かして帰国したのか、子供を連れて帰国したのか、・・想像をすればきりがありませんが、今日は初対面でしたのでそれ以上は訊きませんでした。
お母さんの連絡先を教えてほしいと言って、刑務官にここで手帳にメモをとってもいいですかと訊くとOKとのことだったので、住所と電話番号を書き取りました。(帰宅後に息子さんに面会してきたことを伝えようと思ってすぐ電話をしてみましたが、あいにく留守でした)
Aさんは一見ヤクザのような目つきや風体(ふうてい)にも見えましたが、よく見ると優しい性格のようにも見えました。一度前科がつくと、罪を償ってから社会復帰しようとしても、なかなか社会に受け入れてもらえなくて再犯に走る割合が高いと言われますので、Aさんも厳しいだろうなと想像します。
再度お母さんに連絡をとって、もっと詳しい事情を訊いてみようと思っています。

今日は時間の余裕があったので土浦駅から拘置支所まで往復とも歩きましたが、途中にある土浦市役所の小高い丘の周りには大きな松の木が10本くらいありました。元々はもっとたくさんあったのが松くい虫被害で枯れて、10本くらいが残ったのかもしれません。全部に樹幹注入剤(マツガード=有効成分はミルベメクチン2%)施工済のラベルが留めてありました。丘の上からは筑波山が近くに見えました。
土浦駅西口前にはちょっとした緑地があって、人工的な川と池と紅葉が配置されていました。






 
 

2014年12月21日日曜日

つくば中央警察署から土浦に移檻になったという手紙が届いた男性は、差出人の住所が土浦市になっていたので土浦警察署かと思って調べてみたら違っていて、水戸少年刑務所‐土浦拘置支所でした。何故警察署から警察署へ移されたのかなと不思議に思っていましたが、拘置所なら理解できます。ネットで調べたら、土浦駅から2Km 弱の距離とありました。面会時間は8:30-11:30と13:00-16:00となっていましたので、今日は昼休みの運動をしないことにして、午後一番の時間を目指して思い切って電車に乗って面会に行ってきました。手紙のやりとりをするよりも、直接会った方がどういう人物なのか、何をして逮捕されたのか、私に何を期待しているのかがよくわかるかもしれないと思ったからです。何十年ぶりかで降りた常磐線土浦駅西口からタクシーに乗ったら1,100円の距離でした。

運転手がここの筈ですと言って降ろしてくれた建物は、以前市橋君に面会に行った千葉拘置所や東京拘置所と全然違って、コンクリートの壁に小さなドアが一つあって、すぐ横のインターフォンで受付とやりとりをしてドアを開けてもらうようになっていました。残念ながら、壁に面会日として土日と祝祭日を除く平日と掲示がしてありました。念のためインターフォンを押してみましたが何の応答もなかったので、すぐ同じタクシーで土浦駅に戻りました。無駄足を踏んで半日が無駄になりましたが、面会時間だけチェックして面会日のことをチェックせず、今日が日曜だということを忘れていた私の不注意です。
移檻された場所が水戸少年刑務所の土浦拘置支所となっていたということは、手紙の内容(来年傘寿を迎える母親の存命中にやり直したい)から手紙の主は40才くらいの男性かと勝手に推察していましたが、もしかしたら少年なのかもという疑問が湧いてきました。やはり会ってみないとどういう人物なのか、私が関わる必要があるのか全く判断できません。

帰りのタクシーの中で、運転手に千葉県の松戸から来たのだと事情を説明したら、電車賃やタクシー代はどこから出るのかと訊くので自費だと答えたら、親戚でもないし全く会ったこともない誰かわからない犯罪人のために自分にはできないことですと言われました。
私もまだ関わるかどうか決めたわけではなく、2通も手紙をいただいたので、礼儀として少なくとも一度は会ってどういう人物か確かめてみる必要があると思っているだけです。

NHK総合テレビで午後4時40分から、一昨年パキスタン・タリバーン運動(TTP)に銃撃されてその後ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんとの独占インタビュー「世界を動かす16才」をやっていました。クローズアップ現代を担当している国谷裕子キャスターの英語での巧みな問いかけに対して、日本では高校生の年齢に相当するまだ16才の若い女性とは思えないほど、素晴らしい受け答えをしていて惹き込まれました。番組の中でマララさんがあちこちでした演説が紹介されていましたが、全ての子供たちに教育を受けさせたい、全ての女性に教育を受けさせたいと訴えた内容に加えて、言葉を適切に選んで、一語一語力強く効果的な間隔で発する彼女の演説能力は、まるで熟練した政治家か宗教家のようでした。
http://matome.naver.jp/odai/2141317478124355501
マララさんの演説は、キング牧師(Martin Luther King Jr.)が1963年に人種差別撤廃を訴えて行った有名な演説 "I Have a Dream" (私には夢がある)を思い出させました。
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-king.html
世界には貧しいがために、小さいうちから働かされて学校に行くことができない子供たちや、偏見のために教育を受けられない女性たちがたくさんいるということを認識させられます。それに比べて今の日本では、豊かになり過ぎて自分たちがどんなに恵まれた環境にあるのかということに気がつかずに、それを最大限生かそうとしない子供たちがたくさんいるのは残念なことです。

2014年12月20日土曜日

夕方4時にある農薬会社OBのK博士と松戸駅で待ち合わせて、忘年会をやることになっていましたので、その前に少しでもカロリーを消費しておこうと思って江戸川堤防に約2時間運動に出かけました。園芸学部構内の創立百周年記念戸定ケ丘ホール前の黄金色に輝いていた銀杏(イチョウ)の大木はすっかり落葉して幹と枝だけになっていました。何のグループかはわかりませんが、その前のグランドに大勢の大人と子供が集まって焚火(たきび)をしていました。この頃は野外で焚火を見ることはほとんどなくなったので、赤い炎が温かく感じられました。
JRの陸橋の上から見る戸定ケ丘の斜面林も、広葉樹がすっかり落葉して4本あるマツの大木の頭が見分けられるようになっていました。
水元公園の案内の看板をよく見たら、Aブロック、Bブロック、Cブロックという区分けがしてあることに気がつきました。不動池があってカメラマンがいつ行っても三脚を立ててカワセミの写真を撮ろうと狙っているところは、Cブロックでした。小合溜と呼ばれる池の向こう側が埼玉県のみさと公園になっているところは、Bブロックでした。

K博士とたまにはインド料理を食べようということになって、以前も行ったことがある西口のビルに行ってみたら、廃業したらしく閉っていました。仕方がないので、比較的静かに話ができる地下にある居酒屋に行き、鍋をつつきながら一杯やりました。K博士は私より6才年長ですから多分78才の筈ですが、相変わらず勉強熱心で、まだ仕事(植物保護で貢献)をしたいという情熱をお持ちでした。K博士は現職の時にネオニコチノイドの開発にも関わった方で医学博士ですから、今一部の人たちから攻撃目標にされているネオニコチノイドについて、科学的に正しい情報を社会に発信する普及記事を農学博士の私と共著で書いてどこかの雑誌に投稿しませんかと提案をして、若干の資料もお渡ししました。果たして彼の興味に火がついて本気になってくれるかどうか・・。
二次会は少し酔いを醒ますために喫茶店でコーヒーを飲んで、夜の8時半頃に別れました。


 


2014年12月19日金曜日

長野県庁の方々とは、結局1月14日(水)に松戸でお会いすることになりました。私が上野から長野まで新幹線で行ってもよかったのですが、今は雪に覆われていて問題になっている地区の松林とその周辺の地形の視察は難しいということで、それは来年の春以降にまた機会を改めてということにしました。

出版予定の本に関する返信をしたり、先日開催された委員会の議事録案のチェックをして返信をしたり、アメリカの友人にメールを打ったりしてから、江戸川堤防に運動に行きました。今日は上流に向かって右岸の堤防を10Km 歩いたりジョギングしたりしてきました。大学教授は、今の時期は学部生や大学院生の論文の指導で忙しい時期ですが、こうやって外出の予定の入っていない日の昼休みに午後からのスケジュールに追われることなくゆっくり時間をとって運動できるのは定年退職した者の贅沢な特権です。
5~6人の同好の人たちが河川敷に集まってラジコンの飛行機を青空に飛ばしていたり、看板の上で鳩が羽を休めていたり、葦原の前の落葉した木の枝に雀の大群が留まっていたり、江戸川流水路として造成されたふれあい松戸川にはバン(?)と呼ばれる水鳥が泳いでいたり、・・毎年同じことの繰り返しですが冬には冬の景色が楽しめます。

11月につくば中央警察署に収檻されている男性から突然の手紙が届き、どう対応すべきか決められないまま約1ケ月が経過してしまいましたが、2度目の手紙が届き、今度は土浦警察署に移檻になり、年内に判決が下る運びで切羽詰まっているとのこと。どんな犯罪を犯して収檻されているのか、「ご尽力をお願いできれば・・」と言われても私に何を期待されているのか全くわかりませんが、この週末に返事だけは差し上げようと思っています。






2014年12月18日木曜日

一昨日の外資系農薬メーカーのドイツ人社長との話し合いの中で、いわゆるGreen Party(緑の党)と呼ばれて、自然保護や有機農業や反農薬活動をしている人たちはどこから発生したのかということが話題になりました。1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカでもヨーロッパでも日本でも大学紛争が頻発して既存の体制や権威に対する反抗運動が活発に行われましたが、そこが源流だということになりました。ネットで調べたら、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E3%81%AE%E5%85%9A 確かにそのような感じがします。

日本では、大学紛争は東京大学の安田講堂に立てこもった学生たちが機動隊に排除された以降は、時々追い詰められた過激派集団が内ゲバ事件を起こした以外は終息に向かい、環境問題や反遺伝子組換えや有機農業推進や反農薬活動に転向していったような気がします。アメリカでも、私が留学した1969年当時はまだ大学紛争が少しは残っていて過激な活動(あちこちの大学を渡り歩いて紛争の火種を焚きつける)をしている活動家が私の空手の道場にも偽名を使って入門してきたりしていましたが、国民の支持が得られずやがて終息しました。ヨーロッパでは何が違ったのかはわかりませんが、Green Party として勢力を伸ばし、欧州議会でもかなりの議席を獲得して政治的影響力を発揮しているようです。

グリーンピースについても話題になりましたが、設立者自身が現在のグリーンピースの過激な活動は支持できないとして組織を去って、グリーンスピリットという別の団体を立ち上げて活動をしているとのことでした。これもネットで調べてみたら、グリーンピース (NGO) 詳しい情報が載っていました。
反捕鯨の過激な活動で日本でも注目を集めたシーシェパードというのは、グリーンピースは生ぬるいとして派生してできたさらに過激な団体とのこと。

グリーンピース・インタナショナルの中でグリーンピース・ジャパンがどういう位置付け(関係)なのか私にはわかりませんが、2~3ケ月前に朝日新聞と読売新聞に掲載した反ネオニコチノイドの全面広告は、科学的事実を無視してメディアや世論を自分たちの活動方向に動かそうとする政治的スローガンのように見えました。
しかし、12月5日に東京農大総合研究所研究会農薬部会が主催したネオニコチノイドの健康影響とミツバチ影響について検証するセミナーに参加をされたということは、団体としての既定の政治的目標とは別にちゃんと科学的事実を勉強しようという正しい姿勢があるようにも思いましたが・・。

今日はテレビも新聞もアメリカのオバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長が同時に53年振りに国交正常化に向けた交渉を始めると発表したニュースを大きく伝えていました。ノースカロライナ州のウィルミントン市に在住の私の長年の空手の弟子/友人のサンチェス君(Eugenio Sanchez)は、カストロ前議長が革命を起こした後フロリダに亡命した両親の子供で、スペインにいる親戚は訪問できてもキューバに残っている親戚は訪問できませんでした。大使館も再開して渡航も自由化するようですので、サンチェス君や年老いた両親が故郷のキューバを訪問して親戚と再会できる日が間もなく来ることでしょう。私も明るい嬉しい気持になりました。

私自身も祖父(母の父)穂坂秀一が2千町歩のリンゴ園をやっていた朝鮮の黄海道黄州というところで3才まで育ち(生まれたのは平城=今の北朝鮮の首都のピョンヤン)、終戦(敗戦)で日本に引き揚げてきましたので、いつの日か生まれ故郷を訪問してみたいと思っています。リンゴ園は平城と京城(=今の韓国の首都のソウル)を結ぶ街道沿いにあったと聞いています。西ドイツと東ドイツが統一されて一つの国になったように、韓国と北朝鮮が統一されて一つの国になり、自由に訪問できる日が私が生きている間にくればよいのですが・・。

午前中は歯医者で4ケ月に1回の定期検診と歯のクリーンアップをしてもらい、午後は貸倉庫に行って押し込んである荷物の片付けをしました。歩く場所ができて少し整理できましたが、まだまだ見つけたい本が簡単に見つかる状態ではありません。不要なものを思い切って捨てたり、書庫として利用し易くするにはあと何時間かはかかりそうです。

2014年12月17日水曜日

千葉大学の女子学生Sさんと一緒に私の車で千葉県森林研究所に行って、培養したマツノザイセンチュウを分譲してもらった時に借りた大量のガラスシャーレを返却してきました。
ついでに、松のコンテナ苗を試験的に育成しているところを見学させてもらってきました。容量300mℓで24植穴のトレイを使って、培土には化学肥料の施用量を変えてどの条件が苗の育成に最適か試験をしていました。施肥量に応じて苗の生長程度が明らかに違っていました。研究所でコンテナ苗育成の最適条件が設定できれば、種苗業者に技術を普及して、今後は千葉県でもコンテナ苗を植樹することで活着率を高めようという方針のようです。
私がアメリカから持ち帰ったマツノザイセンチュウに抵抗性のテーダ松の苗育成には容量150mℓで40植穴のトレイを使うつもりですが、ちょうど今日発注していたトレイが配達されて届きました。

新聞もテレビも昨日(16日)パキスタンのペシャワールというところでイスラム過激派の反政府武装勢力「パキスタン・タリバーン運動(TTP)」が学校を襲撃して、児童や生徒や先生など141人が死亡したというニュースを伝えています。TTPが発表した犯行声明では、パキンスタン軍がアフガニスタンとの国境沿いの地域でTTP掃討作戦をしていることへの報復とのこと。学校を襲って子供たちを大量虐殺するとは、何と野蛮で卑劣で残虐な・・。こんな犯罪がイスラム教という宗教の名の下に組織的に行われたということは、世界には今のこの時代にまだ中世のような考え方をしている人たちがいるということで、信じられない思いです。子供たちを失った親や家族のどうしようもない深い悲しみは日本人もパキスタン人も同じ筈で、胸が痛みます。



2014年12月16日火曜日

先日の農薬工業会主催の虫供養で同席して名刺交換をした外資系農薬企業の社長の依頼で同社を訪問し、意見交換とその後の会食をしてきました。同社を訪問するのは初めてでしたが、東京駅近くの巨大なビルの中にあり、長さが100mはありそうな大きな部屋にコの字型の衝立(ついたて)で仕切られた机が無数(多分100以上)に配置されていました。部署ごとの管理者には個室があり、社長室はひときわ広い部屋で、そこで日本人の幹部数人も加わって話し合いをしました。同社では農業の活性化のために、2015年8月24日~28日にオーストラリアのキャンベラで第2回世界若者農業サミット"Feeding a Hungry Planet"(地球レベルでの食糧安定供給について)を開催予定で、世界各国から農業の未来を担う100人の若者を招く計画のようです。
www.youthagsummit.com
日本からも18~25才の若者を対象に募集する英文エッセイにより3人を選抜するとのことで、私も審査委員の一人として加わるように依頼されましたので、喜んで引き受けました。
何人の応募があるかわかりませんが、多ければ第一段階選抜で選ばれた人を対象に第二段階選抜で3人に絞ることになるかもしれません。多分、英語でのプレゼンテーションもあるでしょうから、どういう若者が日本代表で選ばれるか楽しみです。

ドイツ人の社長は海外勤務が長いらしく、アメリカに10年暮らした私とは話が合うことが多く、楽しい時間を過ごしました。欧州連合(EU)の将来についてどう思うかという質問には、何を訊かれているのかわからず、ちょっと驚きました。私なりに人類の再融合の試みと勝手に解釈し、エチオピアから人類の先祖が世界中に広がって、定着した場所ごとに地理的隔離が起こって、異なる人種や言語や国家や文化ができ、戦争によって勢力を拡大するようになったのが、ヨーロッパでは逆に再び融合の動きがでてきたのは素晴らしいと思っているという私の見解を伝えました。ただ、西ドイツと東ドイツが統一された時のように、経済的に豊かな国が貧しい国の負担をしなければならないので一時的には不満が募るだろうが、いずれはそれも解消して同じ人類として、戦争のないよい社会ができるのではと期待していると答えました。

彼の質問の本意はそういうことではなく、EUではいわゆる緑の党(Green Party)と呼ばれる勢力が強くなり、農業でもOrganic Agriculture(有機農業)を強く推進しているので、農業が衰退して人口を養うだけの食糧生産ができなくなることに対して私の意見はどうかという意味だったようです。
第二次世界大戦中の1942年生まれで、1945年の終戦(敗戦)で3才で朝鮮から日本に引き揚げて食糧難の時代を経験してきた私の立場は、有機農業しかできなかったあの時代に逆戻りすることなどとんでもないということです。

2014年12月15日月曜日

平成26年度の木材保存剤等性能審査委員会第2回安全性部会が東京都江東区の南砂町にある公益財団法人日本住宅・木材技術センター試験研究所で開催され、私も委員の一員として参加してきました。今回は木材保存剤として5製剤の申請がありましたが、慎重審議の結果、いくつか追加情報の提出や使用方法への注意事項の追加記述などの条件付きで、安全性の観点からはいずれも承認しました。上記委員会の中には、もう一つ防蟻・防腐効果が十分かを一定のマニュアルに従って実施された試験成績から判断する部会もあります。これらの手続きについては、公益社団法人日本しろあり対策協会(通称白対協)のホームページにわかり易く説明されています。
http://www.hakutaikyo.or.jp/nintei/
委員会は事務局担当の女性のOさんが非常に有能で、いつも事前に申請書類を綿密にチェックして疑問点や問題点などをメモしておいてくれるので、効率よく審査ができて助かります。

今回は申請された木材保存剤の審査以外の検討課題として、1)ジェネリック原体を利用した場合の安全性資料取り扱いについて、2)安全性試験のGLP試験対応について、3)気中濃度測定について、議論をして現段階における審査方針の確認をしました。農薬の審査と同じように、木材保存剤の審査でも安全性については原体の有効成分だけでなく不純物組成も重要なので、製剤にジェネリック原体を使う場合は同じ有効成分に関する公表データの引用ではなく、当該原体を用いた毒性試験のデータが必要ということにしました。

一般財団法人日本緑化センターが「松保護士の手引き」改訂版を出版するにあたり、私にも一部執筆を担当するように依頼がありました。原稿締め切りは平成27年2月末頃の予定とのことですので、まだ時間的には余裕があります。本書は次の13章から構成され、私は第5章の防除の中の予防散布の健康影響を執筆することになっています。それぞれの分野の専門家による共著ですが、松を保護する上で重要な項目がほとんど全部網羅されている貴重な本になりそうです。

第1章 松林の歴史と文化
第2章 マツ類の生理と構造および松林の生態
第3章 松枯れと松枯れ研究の歴史
第4章 松林の現状と対策
第5章 マツ材線虫病の診断と防除
第6章 マツ材線虫病以外の病虫害
第7章 マツ材線虫病等の防除薬剤
第8章 マツ材線虫病防除方法の実際
第9章 マツノザイセンチュウ抵抗性育種
第10章 マツ類の育成と管理
第11章 海岸林の整備・保全
第12章 被災海岸林の整備・保全
第13章 海岸林の生態系保全

12月5日のブログで、イギリスの新聞 THE TIMES の12月4日付けの記事を紹介しましたが、今日はまた知人から同じ事件(2010年に科学者が集まって、ネオニコチノイドを禁止に追い込むという政治的目的のために特定の科学者を選んで論文を書かせるという策略会議をした)について、別の情報が送ってきました。
 http://www.science20.com/print/150299
12月2日に Hank Cambell という人が SCIENTIFIC BLOGGING というサイトに掲載したものですが、ずい分詳しく解析し、批判しています。

2014年12月14日日曜日

天気予報では関東地方にも降雪の可能性があると言っていたのでもしかしたらと思っていましたが、結局この辺りでは雪は降りませんでした。それにしても、テレビで報道される青森県や新潟県の積雪量には大変だなあと思ってしまいます。
妻と一緒に選挙会場に行って、衆議院選挙(小選挙区と比例区)と最高裁判所の裁判官の信任/不信任の投票をしてきました。今どき古いと思われるかもしれませんが、我が家では妻はいつも選挙の時は私の意見を訊いて、私と同じ候補者に投票をしています。それだけ私の判断を信頼してくれているということでしょうから、ありがたいことです。

今年のノーベル物理学賞を受賞した3人の日本人、赤崎 勇終身教授(名城大学)、天野 浩教授(名古屋大学)、中村修二教授(米国カリフォルニア大学)の受賞式での様子やインタビューの様子が繰り返しテレビで報道されていますが、今日偶然見た天野教授の発言にはなるほど言い得ていると感心しました。記者が奥様の存在を何かに例えるとと問いかけたのに対して、「空気」と答え、「それがないと生きていられないから」と言っていました。

選挙後妻は買い物に行きましたが、私は日曜なのでゆっくりしようと思って、運動着に着替えていつもと違う道を1時間半くらい歩いたりジョギングしたりしてきました。松戸市内でも今まで一度も行ったことがないところがあるので、足の向くまま気の向くまま景色を眺めながら歩くのは楽しいものです。
帰宅してシャワーを浴びてからは、メールを打ったりテレビを見たりして時間を過ごしました。

明日からはまたいろいろと予定が入っています。

2014年12月13日土曜日

寒気で気温は低かったけど、冬晴れの透き通るような青空に真っ白な雲が浮かんだ気持のいい一日でした。日本海沿岸は大雪が降ったようです。昼休みに運動に出かけて、江戸川堤防を上流に向かって、上葛飾橋を渡って三郷側に行き、下流に下って葛飾橋を渡って松戸側に戻ってきました。途中、気が向くままに横道にそれたりしましたので、2時間半くらいかかってしまいました。

この寒い日に水上スキーをやっている人がいましたが、水は冷たくないのでしょうか。
堤防の上はサイクリングに最適ですので、多くの人が自転車で走っています。私ももう少し体力が落ちてウォーキングやジョギングができなくなったら、自転車を買って走ろうと思っています。
三郷市側の堤防下にある稲荷社には大きなクロマツの木が3本あって、平成10年(1998年)に保存木の指定がしてありました。3本とも松くい虫による被害を防ぐために、殺線虫剤のグリンガード・エイト(有効成分酒石酸モランテル8%)が樹幹注入してありましたが、施工済のラべルに書かれた字が消えかかっていて、正確に何時施工したのか、何本施工したのかわかりませんので、マツノザイセンチュウに対する防除効果は何年間持続するのか、次回はいつ施工する必要があるのか判断するのは困難でした。最近の樹幹注入剤は1回の施工で6年間くらい有効なものがあるようですので、それくらいの期間はラベルが読めるようにするべきだと思うのですが。

堤防から戸定ケ丘の方向には、木々の間に戸定邸(徳川昭武の別邸)の屋根瓦と廊下のガラス戸が少しだけ見えます。明治維新後に最後の将軍徳川慶喜がよくここを訪れたそうですが、当時は人家も少なく今の様な高層の建物はなかったでしょうから、農地と川がよく見渡せたのではないかと想像されます。








2014年12月12日金曜日

ある農薬会社に勤務している千葉大学時代の私の研究室の卒業生T君と松戸駅の改札口で12時に待ち合わせの約束をしてあったので、時間に行ってみたら向こうは4人で来ていました。すぐ駅前の軽食のレストラン/喫茶店に入って、昼食を食べながら2時間くらい私がアメリカから入手して提供したあるサンプルの試験データの説明を受けたり、今後の方針の相談をしたりしました。

今は早く暗くなるので4時頃家を出て、リハビリセンターに長期入院している元同僚教授/友人のN君を見舞いに行きました。到着したら4時半頃でしたが、他の入院患者は大きな部屋に集まって夕食中でした。N君はもう口から食事はできなくなって、頸部の血管に差した管から栄養液をポンプで注入していますので、もう一人の同じような症状の患者と部屋に残ってベッドに寝ていました。先月来た時は顎(あご)が外れないように顔の周りに巻いていた包帯みたいなものはしていませんでした。
受付で、インフルエンザが流行っているのでマスクを買ってして下さいと言われましたので、自動販売機に100円入れたら1箱(2枚入り)でてきました。マスクをして病床に行って、「おいN君、君の顔を見に来たぞ、私が誰だかわかるか」と声をかけたら、私の顔を見つめて目を大きく開けて、「馬鹿にするな、わかるさ、おー本山、よく来たな」というような表情をしました。

一昨日名古屋で講演をしたついでに、八事(やごと)にあるお墓参りをしてきた話をしました。一昨日のブログで紹介した水掛地蔵様の写真と石碑の写真を見せ、石碑に書いてある文章を読んであげました。第二次世界大戦中にサイパン島に食料や水や弾薬の補給もなく取り残された(見捨てられたと言ってもいい状態)5万人以上の日本の兵士(その一人一人は父であり、夫であり、息子であり、日本で必死に無事を祈っている家族がいる普通の人間だった筈)が、敵機の猛爆や火炎放射器で全滅したことと、それを国(政府)は玉砕という言葉で隠蔽したと書いてあることを話しました。N君はその間、目をくちゃくちゃにして「う-っ」とか、「お-っ」とかいう大きなうなり声を出していたので、また顎が外れないかちょっと心配になりました。

ちょうど今朝、NHKテレビの BSプレミアム(3チャンネル)で、朝ドラの「マッサン」とその後の火野正平がやっている「こころ旅」の短縮版を見た後で、8時から1時間放送された「英雄(再放送)昭和名演説」という番組で、第二次世界大戦中の1940(昭和15)年2月2日に帝国議会衆議院本会議で立憲民政党の斎藤隆生衆議院議員が行った名演説について、数人の学者が評論している番組をやっていて、釘付けになりました。軍部が台頭し、政治家も議会もマスコミも戦争を批判することができなくなった状況下で、よくあんな演説ができたと驚きました。演説の後、斎藤隆生は軍部の逆鱗(げきりん)に触れ衆議院議員を除名されてしまいました。しかしその後の日本はまさに演説で斎藤隆生が警告した通りの結果になって、全国民が悲惨を極める経験をすることになってしまったわけです。斎藤隆生というのはどんな人物だったのかと思ってネットで調べてみたら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%BB%8D%E6%BC%94%E8%AA%AC に詳しい情報が載っていて、http://pandora32.blog.fc2.com/blog-entry-5282.html?sp には実際の演説の一部が動画で載っていました。もう私もN君も高齢でそんなに将来があるわけではないので日本が再び戦争に巻き込まれても大したことはないけど、子供たちや孫たちの世代のことを考えると、今の日本の社会の状況は心配だなあと話をしてあげました。N君が口がきければ、きっと同意する筈です。

それから11月29日のブログで紹介した日没直後の江戸川の写真を見せ、東京スカイツリーと富士山の両方が写っていると話をしました。江戸川はN君がまだ元気だった頃、よく昼休みに大学から散歩に来ていたところですので、写真にじい-っと見入っていました。

30分ぐらい話しかけた後、メモを書いてベッドサイドの小机の上に残して、N君にまた来るからなと言ってリハビリセンターを後にしました。夕方5時を過ぎるともう外は真っ暗で、玄関の前の木にはクリスマスのイルミネーションが飾りつけてありました。N君はもう車椅子に乗ることもできませんので、このイルミネーションを見ることもできません。肉眼では病室のベッドの上の天井(てんじょう)しか見えなくても、心の中では彼の人生で元気だった頃に家族と一緒に見てきた景色を好きなだけ自由に見ている筈です。家族全員でカナダの大学で1年間研究生活をしていた頃のことや、奥様と毎年登ったと言っていた高尾山のことなどを思い出しているのでしょうか・・。帰路の途中運転中に奥様から携帯に電話があり、少し遅れて病室に到着して私のメモを見たとのことでした。私がいつまでもN君のことを忘れずに見舞いに行くことを感謝されました。

2014年12月11日木曜日

地下鉄有楽町線の豊洲(とよす)駅前にある大きなビルの会議室で、東京電力株式会社ならびにグループ会社の東京パワーテクノロジー株式会社の環境部や環境事業部の人たちと、午後3時頃から2時間半くらい会いました。

東京電力というのは単に発電をして電気を売るだけの会社ではなく、発電所の周りの緑地を含めて、あちこちでいろいろな形の緑地の管理もしているとのことでした。実際の管理作業は下請けの業者に発注する場合が多いようですが、そこで使われる農薬が適正に使われているかどうか、周辺環境の水質汚染をしていないかどうかなど、相当神経を使っている様子でした。福島県での原子力発電所の事故以来、緑地管理事業分野でも万が一の事故がないように私の助言を得たいというのが今日の会合の目的でした。
すでに農薬使用に関する綿密な社内指針が作成されていました。ただ、原則としては農薬散布時には毎回水質検査をすることになっていても、分析費用が莫大になるので、何回か分析して全く問題がなければ、それ以降は毎回分析する必要はないのではないかという疑問も持っていました。
2005年に千葉大学園芸学部を卒業して私の講義を受講したことのある元学生も、環境影響調査グループに就職していて、会合に参加していました。

何回分析すれば問題ないと判断できて、その後は分析を省略してもよいかどうかは、散布する場所の地形その他によって条件が異なるので、一概には決められないという私の意見を伝え、実際に散布をして分析をした結果を見せてもらえればある程度の判断はできる筈だが、ワーストケースの分析例(例えば、散布直後に降雨があった場合など)も必要だと伝えました。
それと、下請けの造園業者を入札で選ぶ時に、安く請け負うけれど作業もずさんということにならないように、法令遵守や農薬の適正使用についてきちんと研修を受けて理解している業者を選ぶことの重要性も伝えました。
万が一の事故が起こった場合には、仕事を受注した業者の責任とは言っても、福島の事故以来東京電力に対する社会の風当たりは強い筈なので、東電という会社の無責任な体質として非難の根拠にされかねないところが辛いところです。

一緒に会合に参加した樹木医のA氏と、有楽町駅の近くの居酒屋に寄って一杯やってから帰宅しました。

2014年12月10日水曜日

大須観音の近くの名古屋市企業福祉会館で公益社団法人緑の安全推進協会主催の平成26年度「緑の安全管理士会」支部大会兼資格更新研修会が開催されました。緑の安全管理士というのは、主に緑地・ゴルフ場などで樹木や芝の病害虫・雑草の防除に携わる人に高度な知識と技術を習得してもらうことを目的にした資格で、一般社団法人日本植物防疫協会が農耕地分野で認定している同様な資格「農薬安全コンサルタント」に相当するものです。資格を更新するには、5年に1回は研修会に参加することが義務付けられています。
http://www.midori-kyokai.com/sikaku/sikaku.html
今回の研修会では、農水省東海農政局の人が「農薬を巡る最近の動向について」、環境省水・大気環境局土壌環境課の人が「農薬に関する環境リスクの評価と管理」、農林水産消費安全技術センター(FAMIC)の人が「農薬の登録状況を巡る話題について」講演をし、支部別テーマとして、私が「松くい虫激害の再発生とその原因と対策」について講演しました。

農水省や環境省の方々の資料(スライド)は、当然各役所の担当部署で作成されたものの筈ですが、重複している部分がかなりありました。講師は支部大会によって毎回違う人が担当するのでしょうが、若手の行政官が派遣され、現場で実際に農薬散布をしているベテランの聴講生を前に講演をするのは相当緊張してつらいだろうなと想像しました。しかし、こういう経験を積み重ねてだんだん成長して広い視野をもったりっぱなキャリア官僚に育っていくのでしょう。

私は朝早く出発して八事(やごと)の墓地に寄ってお墓参りをしてきました。今年は1月以来でしたので(と言っても、その後息子が一度墓参りをして除草剤を撒いてきたようですが)、相当草が生えていて、持参した剪定ばさみを使って草取りをするのに30分以上かかって汗をかいてしまいました。しかし、きれいになったお墓に花を供えて、墓前で家族は全員元気に過ごしているという報告をしてさっぱりした気持になりました。
八事の墓地は広大な丘の上にありますが、今まで気がつかなかった碑が建っているのが目に留まりました。第二次世界大戦中に南方の島サイパンで多くの日本兵が水も食料も弾薬もない状況で米軍の猛攻で全滅したことを痛んで、水掛(みずかけ)地蔵を建立したと記してありました。戦争が終わったのは昭和20年(1945年)ですから、70年経った今でも、国家(政府)から見捨てられて異国の島で火炎放射器で焼かれて虫けらのように死んだ兵士を水と花を供えて追悼し続けている人がおられるということに、胸が熱くなりました。

講演終了後、千葉大学時代の元同僚教授のT先生と大須観音の近くの居酒屋で一杯やって楽しいひと時を過ごしました。




2014年12月9日火曜日

長野県からの問い合わせに対して、やっと返事を書いて送りました。資料は写真が多くて重いので、宅ファイル便で送りました。
次は、島根県からの問い合わせに対応しなければなりません。

明日は朝早く家を出て名古屋に行き、午前中に八事(やごと)にあるお墓参りをして、午後からは講演です。千葉大学の作物学の教授を定年退職して名古屋に在住のT先生も講演を傍聴に来られるとのことで、夕方は一緒に一杯やることになっています。楽しみです。

2014年12月8日月曜日

日本農薬学会第22回農薬レギュラトリーサイエンス研究会は東京農業大学百周年記念講堂で開催され、私も参加してきました。主催者の話では150数名の参加者があったそうです。
農業生産の現場で農薬散布をする作業者が、どれぐらいばく露するのか、どうすればそれを低減できるのか、防護具はどれくらい有効なのか、海外では作業者ばく露の安全基準値はどのように設定されているのか、日本における作業者安全性評価の現状、大気経由の飛散によるばく露量のシミュレーションモデルによる予測など、5名の講師による講演がありました。

いずれも大変興味深く、勉強になりましたが、一番最初の田中 茂先生(十文字学園女子大学大学院教授)による講演「農薬散布における曝露リスク低減のための労働衛生保護具の有効性と適正使用について」は、ショッキングな内容でした。市販されているいろいろな保護マスクを試験したところ、大なり小なりの漏れが検出され、農薬が体内に取り込まれている可能性があるという調査結果でした。マスクを付けたからと安心するのではなく、適正なマスクの種類を選んで、顔面に隙間なくきちんとフィットするように装着しないと、知らないうちに農薬を取り込んで危険だということです。
防護具のもう一つの問題は、夏の高温時には特に施設内では暑くて着用して作業をするのはつらいという問題と、野外でも完全装備をして作業をするとそんな危険なものを散布しているのかと反農薬活動家グループに攻撃されるので着用を避ける場合があるということです。前者の問題は、自動散布装置(すでにロボットスプレヤーがある)の開発が必要でしょうし、後者の問題は消費者や周辺住民とのコミュニケーションをよくすることが必要なのでしょう。

農水省消費・安全局農産安全管理課は、2013年までの作業者へのばく露量を代表的な散布方法として13シナリオを想定して調査した結果を報告しました。作物としては、水稲、立体野菜(トマト、きゅうり等)、平面野菜(キャベツ等)、立体果樹(りんご、もも等)、棚果樹(ぶどう、なし等)、芝に分けて、それをさらに露地と施設、散布方法、製剤で分けて13シナリオを想定してありました。実際には農水省や都道府県の試験研究機関に依頼して散布と分析を実施したのでしょうが、作業者のばく露の実態を把握する上で貴重なデータだと思います。

ただ、農薬と同じ有効成分は、木保存剤としてシロアリ防除でも散布されますし、食堂やデパートの地下の食料品売り場でも散布されますし、松林の保護にも散布されますが、それらはシナリオには含まれていませんでした。シロアリ防除は農水省の所管ではありませんが、建物の床下の狭い空間で散布されますので、作業者の安全管理や、床上の居住空間に生活する人たちへの安全管理は重要課題の筈です。私が農業資材審議会委員(農薬分科会長)をしていた時も、この問題に取り組むために省庁の縦割りの壁を越えて対応する組織を作ってほしいという提案をしましたが、省庁設置基準の改正まで視野に入れなければできないという回答でした。今日の担当講師にこの問題をぶつけるのは酷だとわかってはいましたが、その後何か改善されたか質問をぶつけてみましたが、やはり全く進歩はないようでした。縦割り行政の弊害は解決されていないということがわかりました。

農薬散布で一番ばく露量が大きいのは作業者ですから、作業者の健康を守るために、この分野の研究をもっと促進して、法的規制の整備や作業者への教育訓練の徹底など、改善が必要な分野だと思います。

情報交換会(懇親会)が終わって、夕方7時頃経堂(きょうどう)駅までの道路を歩いていたら、大きな満月が建物の屋根の上に上っていました。