2013年1月30日水曜日

新潟県庁と胎内市役所に提出する報告書も完成し、明日の日本エアロビクスセンター(千葉市)での講演の準備もできました。今回の演題は、参加者の半分はグリーンキーパーということを考えて、「保安林・ゴルフコースにおける松くい虫防除の問題点-薬剤散布による健康被害は本当にあるのか?」ということにしました。
遅れて提出した日本農薬学会大会の講演要旨も何とか受け付けてもらい、印刷の入稿にギリギリ間に合いました。こちらの演題は、「有人ヘリ・無人ヘリで松林に散布されたフェニトロチオンMCの飛散調査:新潟県胎内市での事例」です。研究者にとっては、研究成果を学会で発表して多くの人に知ってもらうことも重要な仕事です。
明日の講演が終われば、一息つけます。

27日(日)にあった館山若潮マラソン大会は、私は練習不足で全く走れる体調(体重がベストの時に比べて10Kgオーバー)ではなかったので出場を棄権しましたが、千葉大学走友会の仲間のI先生は2時間40分で走って、40~49才男子の部で1位になりました。この部の参加者は1500人くらいいたようです。40才代になって自己ベストを7分も短縮したそうですので、たいしたものです。いくつになっても、目標を定めて努力を積み重ねて、進歩を続けたいものです。私も来年こそはと、密かに決意をしました。70才代の参加者はぐんと少なくなって、今年は150人くらいだったようです。

アメリカの友人Kelly 君が、昨年末12月31日にフロリダの海で体長42インチ(102cm)のredfish(鮭)を釣り上げたというニュースが届きました。証拠の写真が届くのを待っています。

2013年1月25日金曜日

私が東京農業大学で昨年秋に4回担当した「農業技術開発論」という講義の試験問題を作成するように依頼がありましたので、作成してメールで送信しました。実際の試験は来週の29日(火)ですので、その日は研究室で待機して、答案が回収・届けられたらすぐ採点をする予定です。

明日は名古屋大学で研究集会がありますので、名古屋に行きます。

2013年1月24日木曜日

一日中家にこもって、新潟県胎内市で昨年6月に実施したヘリコプターで松林に散布された薬剤の飛散調査の報告書の作成に没頭しました。できましたので、一緒に調査に参加してくれた研究者に送って訂正加筆を依頼しました。2~3日中には完成するでしょう。これでひとつ肩の荷が下りました。明日からは、来週31日に予定されている講演の準備にかかれます。

2013年1月23日水曜日

山本 出先生が埼玉県の農産物安全技術専門委員会の委員を3月で退任されるのに伴って、後任として東京農業大学の夏秋啓子教授を推薦され、新旧委員と県庁担当職員との顔合わせで山本先生の書斎に皆が集まり、私も委員長として参加しました。
この委員会は、久米 宏氏がテレビで1999年2月1日に埼玉県所沢産のホウレンソウから基準値を超えるダイオキシンが検出されたと述べた http://blog.livedoor.jp/media_research/archives/1551550.html ことから風評被害が生じた事件をきっかけにできた委員会ですが、その後ダイオキシン騒動が沈静化し、残留農薬や重金属の問題を扱うようになったものです。県庁職員の説明では、今年からは放射能汚染の問題も扱う予定とのことでした。

2013年1月22日火曜日

ある農薬会社OBで私より10年近く年配の知人が、農大の研究室に訪ねてこられました。樹木の病害虫防除に、環境を汚染しない農薬施用技術のアイデアをお持ちで、実用化に向けての研究に私も一緒に加わってほしいとの依頼でした。2時間くらいディスカッションをして、先ずはアイデアを試験してみる予算の獲得から始めようということになりました。

2013年1月21日月曜日

一昨日の講演の準備に集中して他のやるべきことをほったらかしにしてきましたので、あちこちに支障を生じています。先ずは、遅れに遅れた昨年の新潟県でのヘリコプターで散布された殺虫剤の飛散調査結果の報告書を大至急仕上げることと、今月末の31日(木)に予定されている講演の準備をすることが当面の課題です。
27日(日)の館山若潮マラソンは、全く走り込みができていませんので棄権します。払い込んだ参加費4,000円が無駄になるのは悔しいですが、今の体調では42.195Km を走るのは無理ですので。

2013年1月20日日曜日

東京駅の八重洲南口から出る8:20発の高速バスに乗って館山駅前には10:08に着きました。産経新聞記者を定年退職された女性が車で待っていて下さり、昭和25年頃から始まった平砂浦の砂防林事業に携わった古老(83才~94才)を訪ね、当時の様子をいろいろ伺ってきました。さすが元新聞記者だけあって、当時の植林作業に参加した方々でまだご存命の方々を探し出して、面会のアポイントメントまでとっておいてくれました。ほとんどが終戦で戦地から(お一人はシベリヤ抑留から解放され)帰国して当時20代で、県の事業として実施されたクロマツの植林事業に親と一緒に参加(集落ごとに割り当てられて)したとのことでした。戦争中は平砂浦は軍に接収されて松は伐採され、海軍の砲撃練習場として使われたそうです。戦後払下げられた時は畑を作っても西風が吹けば一晩で砂に埋まってしまったとのこと。竹で囲みを作って、藁を敷き詰めて、苗を植えるという作業に明け暮れ、大変な苦労をされたようでした。このような多くの人々の苦労の上に出来上がって、地元の人々の生活を60年近く飛砂から守ってきた松林が、2008年以降ヘリコプターによる殺虫剤散布が中止に追い込まれてから、急速に松くい虫の激害で壊滅状態になってしまったことは残念なことです。地元の人々の長年にわたる苦労の歴史を知らない、よそ者の農薬反対活動家の浅はかさと無責任さには怒りがこみ上げてきます。
古老の一人から、「平砂浦砂防史」(千葉県農地農林部林務課 昭和33年6月発行)という本をお借りしてきました。クロマツ植林事業がどのように行われたかの詳しい記録と、汀線(ていせん=海面と岸とが接する線)から後背地の山まで広漠とした砂地が続いている写真などが載っている貴重な資料です。砂防林造成の技術的指導をされた当時の権威・河田 杰(まさる)農学博士をはじめ、植林に大きな貢献をした方々の写真も載っています。今からじっくり読んでみようと思っています。

2013年1月19日土曜日

昨日、東京農業大学で総合研究所研究会農薬部会の拡大部会・賀詞交換会があり、私は会長ですので新年の挨拶と講演をしました。集まって下さる多くの参加者のために有意義なよい講演をと思って、ずっと写真や資料を集めたり、構想を練ったりして準備をしてきましたが、講演は無事に終わり、参加者のコメントも大好評でしたので、集中して努力した甲斐がありました。「白砂青松の松原が消滅しつつあるのは何故か? ~魔女の噂に怯える行政~」という演題でした。1982年以来初めてお会いする方も来て下さり、昔を思い出して懐かしみました。今は一つの大仕事が済んだという心境です。
先週、房総半島南端の平砂浦の松くい虫の激害で壊滅した松原の視察に訪れた折に、壊滅した平砂浦の松原の状況に心を痛めておられた元産経新聞の記者の女性に偶然出会いました。地元にお住まいで、約60年前に平砂浦に松を植林した関係者をご存知でしたので、明日は樹木医と一緒にお訪ねして、関係者に当時の様子を伺ってくる予定です。

2013年1月8日火曜日

今日も今月18日の講演の準備をしました。松枯れについて扱ったあるテレビ番組を録画したDVDから、特定の画面をコピーしてパワーポイントスライドを何枚か作りました。もちろん自分ではできないので、そういうことのできる機械を持っているある会社に行ってコピーしてもらいました。パソコン上でDVDを再生して自分でデジタルカメラで撮影するよりも、はるかに鮮明な画像がとれました。

2013年1月7日月曜日

山本弁護士の事務所に電話をしてみましたが、今日から仕事初めで出たり入ったりしているとのことで、今日もお話ができませんでした。時間をみて再度トライしてみるつもりです。

東京大手町の経団連会館で農薬工業会の恒例の賀詞交歓会があり、私もゲストの一人として招待されましたので出席しました。農薬工業会の会員会社だけでなく、関係行政機関や試験研究機関、流通組織、大学、報道など、植物保護に関わる多くの方々が集っていました。

ブラジルのサンパウロに在住の姉に電話をしました。年賀状と同じように、こうやって話をするのは1年に1回だけになってしまいましたが、年頭の挨拶をし、お互いの安否を確認し合いました。

2013年1月6日日曜日

昨日お知らせしたオランダ在住37年のK氏から、私のメールに対する返信が届きましたが、想像した通り現地の女性と結婚して大学生の年齢の息子さんと娘さんがおられるとのことでした。空手を教えるために若い時代に日本を離れてここまでくるのにはいろいろ紆余曲折(うよきょくせつ)もあったのでしょうが、その行動力は素晴らしいなと思いました。私の方が10年くらい年長のようですが、いつかお会いする機会があれば、お互いの経験を語り合いたいものです。
ブラジルに渡ってポルトガル人と結婚した私の兄にしても、アメリカ人と結婚したカリフォルニア在住の私の娘もそうですが、遠い昔に地球上を移動・分散・隔離して人種や民族に分かれた人類は、近年の交通手段の急速な発達とともに再会し、一つに融合しつつあるような気がします。

テレビ朝日で夜9時からやっていた「聨合艦隊司令長官山本五十六-太平洋戦争70年目の真実-」という2時間半近い映画を見ました。歴史ですからストーリーはある程度わかっていましたが、豪華キャストの割には話がきれい過ぎて、戦争の残酷さ・悲惨さ・非人間性が描き切れていないなと感じました。それでも、政治家や軍人やそれに迎合したマスコミによって社会全体に愛国主義やナショナリズム、戦争推進の大きな流れができてしまうと、それに反することを言ったり、個人で止めようとしても止まらなくなってしまうという怖さがほんの少しだけ伝わりました。

以下は、昨日パソコンに保存されている古いドキュメントの中から見つけた5年前に千葉大学園芸学部同窓会報に依頼されて書いた定年退職の挨拶文です。
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退任にあたって-大学における民主主義の復権を!

生態制御化学教授 本山直樹
 
 約10年間勤務した前任地(米国ノースカロライナ州立大学)から千葉大園芸学部に助手として着任したのは1978年で36歳の時だったから、私は千葉大で今日までかれこれ30年過ごしたことになる。1966年に当時の園芸学科の応用昆虫学研究室を卒業後、名大大学院に進学し、大学紛争の真最中に米国に留学、帰国した時には研究室は環境緑地学科の環境生物学に変わっていた。その後学部改組で1991年には生物生産科学科ができ、応用動物昆虫学から分離・新設された生態制御化学研究室を教授として一人で(途中サンチェス・バヨ博士が時限の助手として3年間加わったのを除いて)17年間担当してきた。大学院生時代から一貫して殺虫剤の作用機構を研究の柱としてきたが、千葉大着任後は時代の流れに沿って研究テーマを多様化した。そのことが外部研究費の獲得だけでなく、研究室を専攻してくれる学生の確保にもつながった。最近は、偽装有機農業用資材の分析や、農薬の環境動態・生態影響・健康影響に関する研究が中心になり、農水省の農業資材審議会委員や講演会など社会活動にもかなりの時間とエネルギーを使ってきた。振り返ってみると大学の悪いところは、(1)教員は補助職もなく一人で全て(教育・研究・管理)をやらなければならない、(2)雑用が多い、(3)研究設備も予算も貧弱、(4)学生は常にゼロからのスタート、(5)学生の中には精神的・社会的に問題のある者もいる、ということだろう。反対によいところは、(1)研究テーマの選択の自由がある、(2)外部研究費は努力である程度は取ってこれる、(3)社会から科学的・客観的な存在として見てもらえる、(4)学生の頭は柔軟で新鮮、(5)指導した学生が育っていくのは最大の楽しみ、ということだろうか。退任の時期になってちょっと心配なことは、この1~2年の間に「競争原理重視」という文部科学省の誘導の下に、大学の民主主義が急速に失われつつあるということ。大学全体では学長を中心とした理事会、学部にあっては学部長を中心とした役員会に権力が集中し、戦後確立した学部の自治も教授会の自治もなくなった。学長や学部長のところに巨額の予算を留保し、昨今問題視されている官庁の随意契約と似たような使い方をしている一方で、教員がバラバラにされて研究室組織もなくなり、研究費も教員一人当たり僅か年25万円(出張旅費、図書費、コピー代、消耗品費を含んで)。大学には本来外部研究費のとれる分野だけでなく、流行らなくても継承し、学生に教育していかなければならない学問分野がある筈なのに。このところ急に若手教員の元気がなくなったと感じるのは気のせいか。いつか再び自由な発想と自主的な意志に基づいて、教員一人一人が生き生きと教育研究に従事できる日がくることを期待したい。この機会に、これまで私を陰に陽に支えてくれた現および旧教職員、卒業生、課外活動の空手部員、ならびに私の研究室を専攻してくれた学生諸君に厚くお礼申し上げる。
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2013年1月5日土曜日

突然、オランダ在住約37年という人からメールが届きました。埼玉大学空手部の出身で、KLMオランダ航空に勤務しながらKLM空手部で空手も続けておられるとのこと。私が数年前に千葉大学空手部の部誌に寄稿したいくつかの文をどういう経由かはわかりませんが、埼玉大学空手部のOBを通して入手し、共感されたご様子。私自身すっかり忘れていましたが、予想もしなかったところで、予想もしなかった人の目に留まったことに驚くと同時に嬉しくなりました。パソコンに保存されている古いドキュメントを探して、該当する原稿を3点見つけました。同じ頃に千葉大学園芸学部の同窓会報に依頼されて書いた、定年退職するにあたっての挨拶文も見つかりました。なつかしいので、その中の一文をコピーします。
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千葉大学空手部部誌(昇龍)15/五十周年記念号平成19930日発行 掲載挨拶文

創部50周年に際して-千葉大学空手部のあるべき姿とは?

千葉大学空手部部長 本山直樹(第10代主将)

 千葉大学空手部の歩みを見ると、昭和32年(1955年)1月に福士和夫先輩が同好会を結成し、同年4月に正式の空手部が創設されて高橋洋一先輩が初代の主将に就任している。高橋先輩は、元々松涛館流空手の有段者だったのに玄制流創始者の祝嶺制献先生の門下生になり、埼玉大学に空手部を創設後千葉大学に空手部を創設するために転学してきたと聞いた。空手の歴史をたどれば遠くインドに源流があるとされ、仏教とともに中国に伝えられ、それが当時独立国であった沖縄に伝えられ独自の発達を遂げたとされている。沖縄から日本に伝えられたのは1900年代初期とされているので、たかだか100年くらい前のことである。関東を中心に松涛館流を広めた富名腰(船越)義珍、関西を中心に剛柔流を広めた宮城長順、・・・祝嶺先生はもっと最近になってからであるが、やはり沖縄から日本に来て空手を広めた一人である。従って、長い歴史のある柔道や剣道と異なり、日本での空手の歴史は浅く、未だに流派ごとに型も練習方法も異なり、試合のルールさえ統一されていない。そういう状態の武道は、いきおい各流派が「俺が」「俺が」と自己優越性を主張し、勢力を拡大しようとする。大学空手部はいったん流派が入り込めば、毎年新しい部員が入ってきて毎年経験を積んだ部員が卒業していくので、その流派にとっては勢力拡大の絶好の場所になる。当初、高橋先輩が千葉大学に転学してきたのも、祝嶺先生の使徒として玄制流を広めようという使命を帯びていたのかもしれない。

 一方、大学・学生の立場からすれば、空手部に入るということは教育の一環としての課外活動に参加することに過ぎない。一般に日本では私立大学の運動部は、箱根駅伝で見られるように、大学の宣伝も兼ねて優勝するような強いチームであることが求められている。国立大学でも、体育学部のある筑波大学のようなところは別としても、ある時期の京都大学のアメフト部がそうであったように、指導者と部員に恵まれれば目覚しい活躍をする場合もある。どの運動部も優勝を目指して練習に励み、それが実現した時には達成感に酔い、大学や社会やOB会からはよくやったと褒められる。しかし勘違いしてはいけない。基本的には、私立・国立を問わず大学の学生にとっては各専門分野の勉強をすることが主であり、それが大学に入学してきた目的であり、空手の練習をすることは従である。選手になって必死に練習して大会で優勝しようと思う学生もいれば、許される(勉強の障害にならない程度の)時間内でほどほどに練習してほどほどに強くなればよいという学生もいる。運動神経は普通以下でも、仲間の部員と一緒に汗を流したり、練習後の時間を一緒に過ごすことによって、得られる友情を大切と思う学生もいる。千葉大学空手部は、それら全ての学生を受け入れられる空手部であってほしいし、今まで50年間実際にそうであったと思う。選手になって大会で華々しい活躍をした部員もいれば、違う場面で著しい貢献をした部員もいる。それでいいのだ。空手のように大学に入って初めて習い始める学生がほとんどのスポーツでは、上級生やOB会や流派の師範の指導なしにはまともな練習も上達もおぼつかないが、全員で空手の技の習得と大会での優勝を目指して練習を重ね、また自分達で部を運営することを通して、専門分野の勉強とは別の、課外活動の本当の目的-人間としての成長-を達成できるのだ。大会の成績だけで部を評価してはいけない。日本の空手界がいまだに流派単位で動いている現状は残念だ。その分だけ、OB会が団結して後輩に技術的、精神的、経済的な支援をしてほしい。福士先輩と高橋先輩が50年前に蒔いた種をしっかり育て、次の50年の世代に引き継ぎたいものである。
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2013年1月4日金曜日

山本弁護士の事務所に電話をしてみましたが、新年は7日から開きますという録音メッセージが流れました。

中学時代の友人を訪ねるために、自分で車を運転して(道路が比較的空いていましたので片道30分くらいしかかかりませんでした)埼玉県さいたま市(旧浦和市)に行きましたが、あいにく留守で会えませんでした。ついでに、55~58年前に卒業した小学校と中学校をカーナビで探して行ってみました。両方とも私が頭の中に描いていた昔のイメージとは全く変わって、周辺はすっかり住宅だらけになっていました。そんな中で一軒だけ、同級生だった人の家の大きな門が残っていました。昔は農家で大地主だったのでしょうが、りっぱな門だけが昔の面影を残していました。

千葉大学時代に私の研究室で博士号を取得した中国人留学生で、今は新潟県胎内(たいない)市の工場に勤務している人が松戸在住の家族の元に帰省した折に、会いに来てくれました。駅の近くの喫茶店でコーヒーとケーキを食べながら1時間ちょっと話をしました。新潟は雪が降って、除雪車が除雪をしても夜になると道路が凍ってしまうとのこと。高校3年生になったお嬢さんが大学受験の準備で東京お茶の水の塾に通って、毎日夜遅く帰ってくるとのことでした。受験は日本人だけでなく、留学生とその家族にとっても大変なことのようです。国立大学を目指しているとのことですので、無事合格すればいいなと思います。

2013年1月3日木曜日

今日もテレビで箱根駅伝の実況放送を観ました。総合優勝した日本体育大学は昨年は最後の中継所で先頭チームより20分以上遅かったので繰り上げスタートをして、皆で運んできたタスキを最後のランナーに渡せなかったとのこと。その悔しさをばねに1年間がんばってトレーニングを重ねてきて、今年は2位以下に大きな差をつけて優勝したのですから、りっぱでした。
明治大学チームだったでしょうか、今日も一人のランナーが脱水症と低体温症でフラフラになって、もう少しで倒れるところを必死の気力で頑張って何とかタスキをつなげた時は、思わず拍手をして胸をなでおろしました。箱根駅伝には毎年ドラマがあり、感動を与えられます。
我が東京農業大学チームは、17位でしたが、2校は途中で倒れて棄権扱いでしたから、実質的には最後から2番目でした。それでも、1年間トレーニングを重ねてきて、予選会を勝ち抜いて出場権を得て、全員がベストを尽くしたのですから胸を張ってもらいたいと思います。
駅伝観戦の後で、江戸川堤防を10Km ゆっくり走ってきました。シャワーを浴びて体重計に乗ってみたら、10Kg もオーバーしていました。道理で走れない筈です。この分では、今月末のフルマラソン大会出場はとても無理です。

年末・年始は海外の卒業生からのクリスマスカードや国内からの年賀状がたくさん届きます。普段疎遠にしている人たちの様子がわかり嬉しいことです。ある元女子学生だった人からの年賀状には、昨年の秋に長野県でした私の講演にご主人が参加していたと書いてありました。そうと知っていれば話しかけたのに、全く気が付きませんでした。

2013年1月2日水曜日

箱根駅伝往路は、区間によって順位が大きく動いて手に汗を握るような展開になりました。東洋大学、日本大学、駒澤大学、早稲田大学などが先頭を争って、最終的には山登りの区間で日本体育大学ががんばって往路優勝。我が東京農業大学も頑張りましたが、往路では17位という成績になりました。明日の復路でさらに上位に食い込めるか、期待しています。それにしても、どの大学でも1年間必死に走り込んでトレーニングを重ねてきた筈なのに、2つの大学の選手が途中で倒れ、タスキが途切れて失格になったとは・・・。

箱根駅伝に刺激を受けて、私も少しでも体を動かさなければと思ってジョギングに行きました。太り過ぎと運動不足で息が続かず、走ったり歩いたりですが、2時間近く江戸川堤防や、住宅地を回ってきました。戸定ケ丘(とじょうがおか)歴史公園には茅葺(かやぶき)屋根の山門がありますが、その前にはりっぱな門松(かどまつ)が飾ってありました。
真っ赤に熟して自然に落下しそうな柿がたくさんなっている柿の木も、冬の青空に映えて見えました。


2013年1月1日火曜日

支援者の皆様、明けましておめでとうございます。
我が家では毎年元旦の恒例になりましたが、息子が年末に映画の切符をプレゼントしてくれましたので、妻と一緒に有楽町に映画「007 スカイフォール」を観に行ってきました。

今月18日に予定されている東京農業大学での講演の準備をしています。白砂青松100選の松原が消滅しつつあるのは何故かという話題について話をする予定でスライドを作成したり、準備をしています。日本人にとって、松は身近な存在だということに気付かされます。