2012年2月29日水曜日

地下鉄千代田線の綾瀬駅は松戸駅から3つ目ですが、そこから雪道を歩いて東京拘置所にはちょうど12時半頃に着きました。周りは10何階建ての大きなマンションがたくさん林立している環境で、東京拘置所もそれらに負けないくらい近代的なりっぱな高層の建物でした(目印は屋上に巨大な円盤状の物が見える建物)。面会の受付の入り口を探すのに、ウロウロ歩き回ってやっとたどり着きました。待合室では遠方から来られてちょうど同じ時間に到着されたお二人の支援者とお会いしました。待合室の売店は千葉刑務所のよりは品ぞろえが多く、明るい感じでした。お二人は差し入れの手続きをされ、私は面会の手続きをしました。雪のせいか面会者は多くなく、私は午後の一番でした。市橋君は10階に収容されているらしく、エレベーターで10階に昇り、10階の受付に面会許可証を提出すると、何番の面会室(各階ごとに複数の面会室がありました)に入って下さいと指示されました。東京拘置所には3,000人もの未決者・既決者が収容されているようですが、面会室が各階ごとにあるので、千葉刑務所では8分だった面会時間がここでは15分(家族は20分)もありました。

市橋君は刑務官と一緒に仕切り板の向こう側に入室し、刑務官は隣の少し高い位置の椅子に座りました。市橋君は黒のダウンジャケットを着ていて、一目見て顔色がいいなと思いましたが、いつものようにどうだ元気にしていたかと訊いたら、はいと答えました。今日は支援者からメッセージを預かっていたので、忘れないように伝えることや言いたいことを紙にワープロで打って持っていきました。支援者の気持ちは変わっていなくて、寒い中、体調に気を付けて万全な態勢で裁判に臨んで下さいという〇〇県の支援者からのメッセージを伝えました。また、支援者の〇〇さんが27日に書いた手紙は移送の前に届いたかと訊いたら、届かなかったと答えました。多分、遅れて東京拘置所に送られてくるのでしょう。

今日は外は雪が降っていることを伝えたら、屋上が広い運動場になっていて、毎日30分間運動の時間があるので行ってみたら雪があったので今日はできなかったけど、これからは体を存分に動かせますと答えました。帰りがけに下から屋上を見上げてみたら、確かに各棟の屋上には金網がドーム状に張ってあって、あの下が運動場になっているのだなと思われました。ただ横の壁が結構高いので、空は見えて外の空気は吸えても、周囲のマンションや外の景色は見えない構造になっているように見えました。

千葉大学時代に空手部でも研究室でも一緒だった友人から託されたメッセージを読んであげたら、市橋君の目が潤(うるお)ってきて、心を動かされていることが明らかでした。この方からは二人のお子さんと一緒に撮った最近の写真も送っていただいたので、A4の大きさにプリントして透明のプラスチックファイルに挟んで、わざと彼の目の届く位置に置いて見せました。千葉刑務所では以前写真やプリントしたものを見せようとしたらルール違反だと刑務官に止められましたので、何も言わずに写真を市橋君から見える位置に置いたら一生懸命見ていましたが、刑務官は何も言いませんでした。友人が結婚したことを知らなかったらしく、結婚したのですかと訊いたので、そうだよと答えました。市橋君は、友人に迷惑がかからないようにして下さいと言いながら、私が読んだメールの手紙を差し入れしてもらえますかと言ったので、そうすると約束しました。自分の手に取って何回も読み返したいと思ったのでしょう。最後に、友人に「ごめん」と伝えて下さいと言いました。

今日は、寝間着代わりに冬用のトレーニングウエア防寒用ダウンジャケットを差し入れしてくれた〇〇県の〇〇さんと〇〇さんが差し入れに来てくれているので、後で会うことになっていると伝えました。支援者からたくさん手紙が届いている筈だが返事は書いているのかと訊いたら、書いていませんと答えました。万が一にでも手紙が人目にさらされるのを極端に避けたがっているように感じました。

テレビ番組制作会社から打診されたいくつかの質問を読んで回答するかと打診したら、お断りしますと即答しました。

先週は国際会議でローマのFAO 本部に行って、町の中をジョギングしながら見てきたことを伝え、古い遺跡があちこちにあることや、建物が昔風なことや道が狭いことを説明したら、道は石を敷き詰めた石畳ですかと訊き直しました。松の木もあちこちにあったけど、日本と樹形が違うので案外向こうの景色と合っていると感じたことを話しました。君は千葉大学にいた時は日本庭園とヨーロッパ庭園とどっちが好きだったのだと訊いたら、ヨーロッパ庭園ですと答え、園芸学部では入り口にクスノキの大木があった洗心館前の庭がイギリス式庭園で、彼のいた研究棟前の広い芝生の庭がフランス式庭園でしたと説明してくれました。イタリア式庭園があったかどうかはわからないが、事務棟の前にあるのがそうかなと私が言うと、自分もわかりませんと答えました。京都で見たどこどこ(私には聞き取れませんでした)の日本庭園も自分は好きでしたと言いました。こういう会話をしている時の市橋君の目は生き生きしていました。ちょっと残酷だったかもしれませんが、君なんかだったら、ローマの遺跡で庭園がどうデザインされているか興味があるだろうなと言ったら、興味はものすごくあるけど、もう今の自分にはどうしようもありませんという仕草をしました。
約束した空手の本と本間 龍氏の本と最近の支援者リストを差し入れすることは、忙しくて延び延びになっているけど忘れてはいないからと言ったら、構いませんと答えました。

最後に何か困っていることや私にしてほしいことはあるかと訊いたら、昨日身柄が移送されてきて、その後洗面用具などの私物も届いたけど、肝心の裁判資料だけが届いていません、裁判も近いので心配ですと言いました。面会が終わってから、すぐ菅野弁護士の事務所に電話をしたら外出中でしたので、何故裁判資料が届かないのか調べて下さいと伝言を依頼しておきました。

面会中に刑務官ともここは面会時間が長くていいという会話もしましたし、千葉刑務所に比べて建物も新築で明るいということもありますが、面会をする者や面会を受ける者にもよく配慮がされているという印象を受けました。市橋君も元気だなという印象を受けました。
面会後に、1階の待合室で待っていて下さった支援者と一緒に歩いて綾瀬駅まで行って、近くの喫茶店で夕方5時半くらいまでお話をしました。

2012年2月28日火曜日

菅野弁護士に電話をしましたら、市橋君は今日2時半に東京拘置所に移送されたという連絡が東京高裁から届いたとのことでした。東京拘置所は小菅(こすげ)というところにあるそうですが、ネットで検索しましたら、以下のサイトに詳しい情報が載っていました。
http://www.kangoku.org/contents/docs/toko_annai.html

所在地:〒124-0001 東京都葛飾区小菅1-35-1 電話03-3690-6681
行き方:東部伊勢崎線「小菅」駅下車、面会入口まで徒歩約10分 又は、営団地下鉄「綾瀬」駅下車、面会入口まで徒歩約15~20分
面会受付時間:午前の受付 午前8時30分~11時30分まで
    午後の受付 午後0時30分~4時まで
差し入れ受付時間:午前8時30分~午後3時30分まで(ただし、午後0時~1時までは休憩)


明日、遠方から差し入れに上京される予定の方にも早速連絡を差し上げました。私も明日は東京拘置所に出かけて市橋君に面会をしてきます。天気予報ではあいにく雪のようですが、新しい場所に移って初めての差し入れと初めての面会で、市橋君も心強く感じることでしょう。千葉大学時代の同じ研究室の友人から預かったメッセージと、支援者の皆様の温かいお気持ちを伝えてきます。
弁護団は千葉市に事務所がありますのでこれから東京都内の小菅まで行くのは遠くて大変になりますが、3月15日の控訴審までに少なくとも2回ぐらいは打ち合わせのために接見に行く必要があるだろうとのことでした。

今日は江戸川堤防を20Km 走ってきました。ローマでの滞在中と往復の飛行機の中では、食べることが多い割に運動不足でしたが、今日は久し振りに長距離をゆっくり走れたので気分は上々です。

今日のブログの記事をご覧になった支援者から早速以下のお便りが届きました。ありがとうございました。
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本山先生、今日のブログ読みました。市橋君が本日移送されたのですね。思ったよりもかなり遅いなと思いました。市橋君も住み慣れた(?)千葉刑務所から東京拘置所に移ったことであらためて覚悟を決めたのだと思います。
 あの場所には様々な未決囚や既決囚(=確定というべきでしょうが)がいます。私が去年3月に初めて傍聴した秋葉原連続殺傷事件の被告人もいますし、オウム関連の確定囚、裁判員裁判で初の死刑判決をされた人。
 ・・・・その中に市橋君は入るのですね。

以前にも書いた事があるかもしれませんが、千葉地裁の法廷で座っている市橋君を間近で見て、世間で卑劣な犯罪者と見られているけれど私には血の通った一人の人間だとしか思えませんでした。取り返しのつかない事をしてしまいましたけれど。罪を償うのはもちろんですが、更生してやり直してほしいと切に願っています。
控訴審がどうなるかはわかりませんが、どんな判決が下っても腐らずに罪を贖ってほしいです。

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本山直樹先生
公私にわたるご活躍、本当に私自身、いつも元気をいただいています。明日は支援者の方と東京拘置所に行かれるとのこと。市橋さんは控訴審が近づき緊張されていることでしょうし、慣れない初めての場所で身心共に寒い想いをされていないか本当に心配しています。
先生とのお話や支援者の方々の差し入れにより市橋さんのお気持ちが和みますように心から祈っております。私も支援金や手紙、差し入れなど頑張って続けていこうと思いますので今後とも宜しくお願い致します。

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2012年2月27日月曜日

2月24日に振り込まれた方(21回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は245,000円、延べ468人からの合計額は4,345,928円になりました。ありがとうございました。

先週差し入れに行くとおっしゃっていた支援者から、「一昨日(本山:24日)、千葉刑務所に参りました。東京拘置所への移送が気になりましたが…市橋達也さんは、まだ千葉刑務所にいました。」というメールが届きましたので、市橋君は少なくとも先週末時点ではまだ小菅に移されていなかったようです。明日、菅野弁護士に確認の上、29日の面会を千葉に行くのか小菅に行くのか最終判断をしようと思っています。

千葉県庁、千葉県海匝(かいそう)農業事務所、JAちばみどりの方々5人が、旭市海上(うなかみ)地区のマッシュルーム栽培で困っているキノコバエの問題について相談に来られました。いろいろお話を伺い、ある程度は実情を理解できましたが、来週3月8日に実際に現場を見せていただくことにしました。よい防除方法が提案できて、問題が解決できれば生産者(農家)は助かります。ちなみに、海に面していない内陸部なのに海上(うなかみ)という地名は珍しいと思ったら、江戸時代に湖を埋め立てて農地にしたので湖の上の土地ということからきているらしいとのことでした。

時間が少ししかありませんでしたので、昼休みに東京農業大学の周りを約4Km だけ走りました。千葉大学走友会の仲間からは昨日の東京マラソンに出場した結果の報告が届いています。正味で、工学部教員の一人は4時間56分、医学部の外科医(今は東京女子医科大学教授)は3時間35分の自己ベストだったとのことでした。抽選に当たって出場できただけでもラッキーなのに、それぞれ自己ベストまで出せて嬉しい筈です。外科医というのは長時間の手術をこなせるだけの体力が必要だという話を聞きますので、これだけの記録が出せるというのは時間があれば走ってトレーニングをしておられるのでしょう。

2012年2月26日日曜日

飛行機の中では時差ボケにならないようによく寝たのですが、昨夜はベッドに入ってもなかなか眠れませんでした。ローマのホテルではどういう訳か途中からブログの更新ができなくなっていましたので、夜中に起き出して写真の整理をして、さかのぼって更新をしました。

今朝はゆっくり起きて、朝食後メールの返信をして、東京マラソンのテレビ中継を観てから江戸川に出かけて14Km 走ってきました。藤原 新(あらた)選手が日本人では久し振りの2時間7分台の好記録で2位に入り、元気を与えられました。江戸川ではひばりが天高く舞いながらさえずる声が聞こえ、走りながら春の陽射しを感じました。

ローマ空港でアリタリア航空のミスで飛行機に積みそこなった私のスーツケースは、今朝早い便で成田に到着し、夕方には自宅に宅配されて届きました。向こうではお金はポケットに入れたユーロを使っていたので、日本の円とカードの入った財布はうっかりしてスーツケースの中に入れっぱなしだったのですが、スーツケースは途中で開けられないようにローマ空港で発見された時点でプラスチック製のロック(はさみで切らないと開けられない)がされて保管されていたらしく、そのままの状態で届き中身に異常はありませんでした。

明日は千葉県庁の職員その他が菌床栽培のマッシュルームに発生するキノコバエの件で、東京農業大学の研究室に相談に来られることになっています。
しばらく日本を留守にしましたので、明日は菅野弁護士に電話をして、29日(水)に面会に行く予定の市橋君がまだ千葉にいるのか小菅に移されたのかを確認するつもりです。その上で、遠方から差し入れに来られる支援者とお会いする場所と時間の打ち合わせをしようと思っています。

2012年2月24日金曜日

飛行機の出発は午後3時で、タクシーは12時に約束してありましたので、朝食前にジョギングの服装に着替えてローマの町をもう一度一走りしてきました。そうしたら、バスも地下鉄も動いているようでしたが、タクシーをキャンセルしないことにしました。朝食後時間のゆとりがあったので、ロビーのレセプション室で同じ会議に出席していたエジプト人2人、ヨルダン人1人と話をしました。なんと、エジプト人の教授は以前千葉大学時代に私の研究室にきていたエジプト人留学生の指導教授だということがわかりました。ヨルダン人の人は、日本のJICA(Japan International Cooperation Agency 国際協力機構) の研究プロジェクトに参加して研究費を獲得したことがあるそうで、私が農薬の毒性学が専門だとわかったら、JICAに専門家派遣要請のプロジェクトがあるので、私に1年間ヨルダンに来て指導してほしいと頼まれました。申請が通ってからの話ですが、今までアラブ世界には行ったことがないし、私の知識と経験がヨルダンの農業発展や教育場面で役に立つのだったら行ってもいいなと思いました。

予定通りアリタリア航空の直行便に乗って、帰りは風のせいか1時間短く正味12時間で成田に着きました。日にちは一日ずれて25日になりました。空港ではアリタリア航空会社の社員が待ち構えていて、私のチェックインしたスーツケースはローマで飛行機に積み忘れてしまったので、明日の飛行機で到着したら宅配便で届けると言われました。順調な旅行の最後に落とし穴が待っていました。

帰国してみたら、2月21日に振り込んで下さった方(24回目)の支援金が届いていました。これで支援金の現在高は235,000円、延べ467人からの合計額は4,335,928円になりました。ありがとうございました。

2012年2月23日木曜日

GMUS-2 会議の3日目(最終日)は再び総会形式で、4つの分科会で集約された結論を報告して、それをさらに整理集約して次の会議(4~5年後)に向けての課題として提言するという作業をしました。
夕方ホテルに戻ったら、明日は交通機関がストライキを打つ予定なので空港行きの地下鉄もバスも全部ストップする予定だと知らされました。飛行機も飛ばなくなればもう一泊しなければならない事態もあり得るかなと思いましたが、飛行機のチェックインに間に合うように一応ホテルにタクシーの手配を依頼しました。
日本からもう一人参加していた農薬メーカーのN氏と一緒に食事をしようということになって、ホテルからブラブラ歩いて目に入った中華料理店に入り、日本語で楽しい歓談(と言っても私が勝手におしゃべりをしてご迷惑だったかもしれませんが)の時間を過ごしました。
ローマの町は古い建物と遺跡が目に付きましたが、松の木もたくさんあり、日本とは樹形が違って傘をさしているようなのが面白いと思いました。ホテルの洗面室には日本のウォシュレットと似たものがトイレの横に別にありました。浴槽の壁には何かが起こった時に救助を求めるられるように、SOSと書いた紐(ひも)が下がっていました。



2012年2月22日水曜日

GMUS-2 会議の2日目はBreakout Session 分科会で、4つのトピックの分科会が同時進行で行われました。私は分科会4 のRegulatory Incentives and Policy Considerations (登録行政上の推進政策と配慮)に招聘(しょうへい)されていましたので、そこで日本における取り組みと問題点を紹介する講演をしました。お世辞かもしれませんが、講演後にカナダの出席者に素晴らしい内容だと誉められてスライドがほしいと言われたので、ホテルに帰ってからメールに添付してあげました。私がこの会議に呼ばれたこと自体が、日本の農水省の情報発信が不十分なので、世界の関係者が情報を欲しがっているということかもしれません。
分科会4はオーストラリア政府の農薬・動物薬管理局のAlan Norden 氏が座長でしたが、4人が講演した後、Brainstorming (ブレーンストーミング、インスピレーション)と呼ばれる手法で問題点の整理と意見の集約をしました。日本ではあまりなじみがないかもしれませんが、分科会に参加している全員に何が大事だと思うか直感的に思いついたキーワードを一つずつ言わせ、それを大きな紙に分類しつつ記載します。それを同時進行でパソコンに入力してスクリーンに投影し、皆で意見を言い合いながらさらに整理し、集約していくという手法です。
夕方はホテルに帰ってからジョギングの服装に着替えて、ローマ市内の見取り図を片手にジョギングに出かけました。30分くらいで繁華街を抜けて郊外に出ました。道を記憶しながら走ったのですが、帰りは道に迷って人に訊いたりしながらやっとホテルに戻りました。坂道が多く、狭い道に車がビッシリ駐車していてさらに道を狭くして、建物はレンガを積み上げたような印象の古い建物が多いという印象を受けました。露天商や道にはみ出しているレストランもたくさんあって、活気が感じられました。
道端に座って物乞いをしている乞食も二人見ました。一人は老婆で小さな缶を前に置いて頭が地面に付くぐらい下げていました。老婆の缶にポケットにあった2 €(ユーロ)のコインを1枚入れたら、音がしたのでわかったらしく顔を少し上げ、感謝の目つきで私を見てくれました。ニュースではイタリアも経済が厳しいということですので、社会から取り残された人がでているのでしょう。日本でも、終戦(第二次世界大戦)後に傷痍(しょうい)軍人も含めて同じような人がたくさんいたのを思い出しました。


2012年2月21日火曜日

FAO(国連食糧農業機関)本部はローマ市内の比較的ゆったりした場所にあって、白い箱型の建物なので、レンガを積み上げたような形の地元の建物と一見して違っていました。青い国連旗が掲げられていて、国連機関だということを示していました。ビルディングA、B、C とありましたが、元々は第二次世界大戦当時のイタリア政府のムッソリーニ(首相?総統?)政権の行政施設があったところだと聞きました。
GMUS-2 (Global Minor Use Summit 2 マイナー作物農薬登録推進第2回世界会議)の初日は総会で、先ずアメリカのIR-4 の所長のJerry Baron 氏の座長の下にアメリカのEPA(環境保護局)、中国代表、ブラジル代表、アメリカ農務省、FAOによる開会の挨拶がありました。本当は世界第3の経済大国の日本はここに顔を出すべきだったのかもしれませんが、農水省は参加登録申し込み期限が過ぎてからやっと消費・安全局の課長補佐を一人出席させる対応しかしませんでした。
続いて、地域ごとの近況報告がされ、アフリカはケニア、アジアはタイ、ヨーロッパはEU、アメリカはIR-4、ラテンアメリカはブラジルが代表しました。農業生産者の意見はエチオピア、イギリス、アメリカが代表し、農薬業界の意見はCrop Life International (世界農薬工業会)とIBMA (International Biocontrol Manufactures Asspciation 世界生物防除産業協会)が代表して講演しました。
それを受けて、マイナー作物の農薬登録推進のための世界的な協力問題や、データの共有問題についてパネルディスカッションが活発に行われました。
最後はレセプション(懇親会)でしたが、タイの代表の女性Nuansri Tayaputch 博士は実は私がノースカロライナ州立大学にいた時に修士課程にいて、博士号の研究は東京農業大学の山本 出先生の下で行ったということがわかりました。私がノースカロライナで当時空手を教えていたことを覚えていました。68才だそうですが、現在もタイの研究所の顧問みたいな立場で活動されておられるとのことでした。
韓国代表の人が話しかけてこられて名刺交換しましたら、何年も前に私がIAEA(国際原子力機関)派遣専門家として韓国農村振興庁の農薬研究所(当時)に1ケ月間滞在して放射性同位元素を用いた農薬研究の指導をした時に、私の講義を聴講した一人で、千葉大学時代の私の研究室に留学していた韓国の留学生と同僚の人でした。
ジャマイカ代表の人とは、私が現在は無人ヘリコプターで松林に散布された農薬の飛散と健康影響を研究していることを話したら、是非もっと詳しい情報がほしいと頼まれました。ジャマイカでは輸出産業のコーヒー栽培が山の斜面で行われていて、農薬散布に無人ヘリコプターを導入できたらと考えたようです。
国際会議に参加することのよいことは、こうして世界中のいろいろな人々と出会えることです。


2012年2月20日月曜日

朝起きたら雨が降っていたので、いつもするように朝食前にジョギングに出かけるかどうか迷いましたが、結局シャワーを浴びてから1階のレストランに行って朝食を食べました。バッフェー方式ですが、スペインから来た老夫婦と同じテーブルになりました。向こうはスペイン語でこちらは英語で簡単な会話をしました。

部屋に戻って、午後には雨も止むかもしれないと思って、ジョギングはそれからでもいいということにして、地下鉄に乗ってバチカンのサン・ピエトロ大聖堂と広場を見に行くことにしました。支援者の中にカトリック信者の方がおられるので、時間が自由になる日は今日だけしかないのだとしたら、カトリックの総本山といわれるところを一度見てみたいと思いました。実に美しい、荘厳な建物でした。広大な広場を囲む巨大な円柱に圧倒され、その上に多数並んでいる聖人像も見事でした。バチカン博物館に入るには長蛇の列で時間がかかると聞いていたのですが、サン・ピエトロ大聖堂の方も中に入るには広場の周りに延々と延びた長蛇の列でしたので、並ぶのは止めて付近の街中を散策しました。

一度ホテルに戻って、再度地下鉄(違う方向)に乗ってFAO(国連の食糧農業機関)に行き、明日からの会議のために必要な入場許可証になる写真付きのバッジと会議の資料一式が入ったバッグを受け取りました。FAOの建物でIR-4の所長のJerry Baron 氏に会ったので、一緒に食事をし、マラソンの話をしました。彼は今年53才になるそうですが、現在の記録は4時間半~5時間で、1年に4回のペースでレースに参加して、アメリカの全ての州でのマラソンを走ることを目指しているとのことでした。私と同じホテルに宿泊していて、徒歩で15分くらいでこれると聞いたので、帰りは一人で地図を見ながら歩いてホテルまで戻りました。
ホテルのロビーでエジプト人の参加者2人と出会ったので少し立ち話をしたら、ノース・カロライナ州立大学の故W.C. Dautermann 先生のことをよく知っていて、自分たちの仲間のエジプト人が留学していたという話になり、私も知っている人でした。

午後3時半頃には雨も止みましたので、ホテル周辺の地図を片手にジョギングに出かけました。往復で1時間半くらい、あちこち景色を眺めながらゆっくり走り、帰りは道がわからなくなって人に何回も訊きながらホテルに帰ってきました。ローマは歴史があるだけに古い建物や遺跡がたくさんあり、芸術的な銅(石?)像もたくさんありますが、いたるところに落書き(地下鉄の車両にまでも)がありました。地下鉄の中で、突然大きな音楽を鳴らしてクラリネットを吹き始めた男がいたのには驚きましたが、チップ(寄付)を受け取るコップが音楽プレーヤーに貼り付けてあったのでお金を稼ごうとしているのだということがわかりました。そういうところは、アメリカのボストンやニューヨークの古い街角と同じ雰囲気でした。
もう一つ目についたのは、少し肌の色の黒い人達(若者)があちこちで傘を何本も抱えて道行く人に売っている姿でした。中には道端で衣類を売っている人も、屋台みたいなところで食べ物や飲み物を売っている人達もいました。日本を出発する前に、イタリアに詳しい知人にイタリアにはジプシーがいるから注意をするようにと忠告されてきましたが、もしかしたらこの人達もジプシーなのかなと想像しました。全然違うかもしれませんが・・。

夕食をホテルのレストランで食べるのはおもしろくないと思ってホテルの近所を歩いたら、チッキン半分とポテトと野菜のサラダを付けて€(ユーロ)5と書いてある小さい店があったので入って食べました。店長はバングラデッシュ人で、イタリアに来て13年になるとのことでした。私がイタリア語は話せるのかと訊いたら、ヒンズー語、バングラデッシュ語、英語、イタリア語全部話せると言っていました。私も日本の大学でバングラデッシュ出身の学生を3人指導して、バングラデッシュにも行ったことがあると言って、話しが弾みました。



2012年2月19日日曜日

成田空港を朝10時の飛行機に乗って、時差が8時間ありますので、ローマのレオナルド・ダビンチ空港には同じ19日の午後3時に着きました。正味の飛行時間は13時間でした。イタリアのアリタリア航空の直行便で、ロシアの上空を飛んでいる時は、下の景色は雪や氷に覆われて真っ白でした。景気が悪くて観光客もビジネス客も減っているのか、ビジネスクラスの座席はざっと見て24席くらいありましたが、私も含めて6人しか乗っていませんでした。エコノミークラスも満席には程遠い状態でしたので、赤字運航かなと心配になりました。ビジネスクラスの座席は大きいし、前後のスペースも十分とってあるので、椅子の背を倒して、ベッドに寝るのに近い水平に近い角度で寝ることができ快適でした。いつも乗っているエコノミークラスの座席とは大違いでした。

空港から直行の急行列車に乗って約30分で町の中心の駅に着いて、そこから地下鉄に乗り換えて一駅で宿泊するホテルのあるCavour 駅に着きました。日本と違って道案内の看板もないので人に訊いたら、Grand Hotel Palatino-Roma は徒歩100mくらいのところにありました。8階の部屋でした。部屋の外にバルコニーがあってテーブルと椅子が置いてあるので出てみたら、周りは古そうな建物がビッシリでした。フロントでもらった地図にコロシウムが乗っていたので、ジーパンに履き替えて散歩をしてきました。石積みの古い建物や石を敷き詰めた石畳の道路がいたるところにあって、観光客も一杯でした。

2012年2月18日土曜日

今日は午後から東京都渋谷区の国連大学の隣にある東京ウィメンズプラザのホールで、食生活ジャーナリストの会主催の第21回公開シンポジウム「安全と安心の狭間(はざま)-安全でも安心できない消費者の心理と風評被害について-」が開催され、私も昨年に続いて聴講してきました。先ず、中谷内(なかやち)一也氏(同志社大学心理学部教授)による基調講演がありました。中谷内教授は、「安全。でも、安心できない・・・-信頼をめぐる心理学」(ちくま書房新書)という著書があり、社会心理学的に何故安全なものが安心ではないのかを解析されている方です。安全は確率的なリスクの大きさで決まるのに対して、安心できない(不安)は恐ろしさ因子と未知性因子の2つで決まるので、いくら確率的に安全ですよと言っても安心にはつながらない、とのことです。
安全を安心につなげるには、安全を判断できる科学的な能力や公正さに加えて、価値類似性の認識によって信頼を得ることが大事で、そのためには科学的に安全を説得するよりも、安心できない人たちと目線を合わせて目標確認作業をすることが有効とのことです。これは、私が農薬の安全性についてあちこちで講演をして感じていることと全く同じでしたので、なるほどと「目からうろこ」のように納得しました。

パネルディスカッションは、佐藤達夫氏(食生活ジャーナリストの会代表幹事)の司会で、中谷内先生に加えて浦郷(うらごう)由季氏(コープ神奈川組合員理事・ユーコープ事業連合組合理事)と松永和紀(わき)氏(科学ライター)もパネリストとして加わって行われました。松永和紀氏とは私が農業資材審議会委員をしていた時からの知り合いですが、「メディア・バイアス-あやしい健康情報とニセ科学」(光文社新書)という著書で2008年科学ジャーナリスト賞を受賞された方です。メディアは本来中立公正であるべきだが、情報は商品化して、売れる情報を発信するようになってしまったという鋭い指摘をされました。つまり、食品でも農薬でも「危ない」は売れるが「危なくない」は売れない情報になるので、どうしても「安全では」ないという情報ばかりが発信される情報災害が起こっているとのこと。普段から何故と思っていたことに対して、大変説得力がありました。

会場の参加者からも興味深い質問や意見が次々と出され、原発被災地福島県の学校給食担当者からの生々しい報告などももっと聞きたいところでしたが、会場の都合で時間がなくなったのは残念でした。関心のある方のために、このような有意義な活動をしている食生活ジャーナリストの会の事務局をお知らせしておきます。
Tel/Fax   042-554-3887  e-mail   ifj-shoku@t-net.ne.jp  ホームページ  http://www.ifj-net.com/

 

東京に出かける前に江戸川堤防を8Km 走ってきました。松戸は昨夜雪が降って、途中坂道の日陰の部分が凍っていて、不覚にも滑ってころんでしまいましたが、別に怪我はありませんでした。明日の朝は6時発の電車で成田空港に向かいます。ローマのホテル周辺の道路の状態はわかりませんが、一応ジョギングできる衣類と靴は持っていきます。パソコンも持参しますのでメールのやりとりはできる筈です。できたらホテルからブログの更新もしたいと思っています。25日に帰国の予定です。

2012年2月17日金曜日

2月15日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は224,000円、延べ465人からの合計額は4,324,928円になりました。ありがとうございました。この方からはこのところしばらくメールがありませんでしたが、お変わりなければと思っています。

東京農業大学総合研究所研究会農薬部会の第85回セミナーでは、お二人の素晴らしい講演がありました。
1.Prof. Philip W. Lee(元DuPont 社、現京都大学招聘教授)
    Question : Can in silico technology adequately predict chemical      properties, environmental and toxicological behaivor? (質問:コ    ンピューターを用いた情報検索技術は化学物質の性質や環境    中での挙動・毒性学的作用を十分に予測できるか? 本山: in     silico というのはcomputational という意味で、silico はコンピュー    ターの心臓部で使われているsilica や有名な Silicon Valley と同    じ silico からきているそうです
2.吉村 功氏(株式会社ケイ・アイ研究所 取締役所長)
    新たなALS阻害型除草剤の創出を目指して-PC除草剤からピ    リミスルファンの開発まで-

いつもより多いセミナー室一杯の参加者が、お二人の実績に裏打ちされた講演内容に引き込まれていました。お二人とも懇親会とその後の山本 出先生のご自宅での二次会まで残ってお付き合い下さり、特にProf. Leeは台湾出身のアメリカ人で1970年代にカリフォルニア州立大学に留学して勉強し、私の恩師の故W.C. Dauterman 教授をご存知など、お互いに共通点が多くあってすっかり意気投合しました。アメリカ生活が長いので、元々は中国人ですが、アメリカ人のような雰囲気を漂(ただよ)わせていると感じました。私も昔ノースカロライナ州に長年住んでいた時に、日本から訪ねて来た人に同じようなことを言われたことがあります。その土地に長く住んでいると、自然にその土地の人と同じような表情になってくるのでしょう。
この3月で京都大学での仕事が終われば、アメリカのバージニア州のブルーリッジマウンテンの谷に40エーカーの土地を買ってあるので、山小屋を建ててブドウの木を植えてワイナリーをやるのだと言っていました。私の剣道の弟子/友人のケリー君も場所は少し離れているけど、やはりブルーリッジマウンテンの谷に住んでいて私は毎年訪ねているので、今度はアメリカで会おうということになりました。
私も5年くらい前までは、千葉大学を定年退職する時は退職金でブルーリッジマウンテンに土地を買ってケリー君と一緒に牛を飼う牧場をやろうという夢を持っていましたが、結局実現しませんでした。

2012年2月16日木曜日

2月14日に振り込まれた方(34回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は219,000円、延べ464人からの合計額は4,319,928円になりました。ありがとうございました。メッセージもありました。
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人が人を裁くので、本当に市橋君の真実の叫びが立証されるよう願っております。市橋君は立派に更生のできる人です。ですから、心より支援できるのです。市橋君を支援できる事は、私の人生の糧となります。先生、ローマお元気で行ってらして下さい。
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市橋君と学生時代に同じ研究室を専攻していた支援者の一人とのメールのやりとりで、私は29日に面会に行く予定なので何か伝えたいことがあれば伝えてくるよと言ったら、心のこもったメッセージを託されました。お子さんたちと写った最近の写真も送ってくれました。面会の時に市橋君にこれを読んでやれば、涙がポロポロ落ちて止まらなくなるのではと想像できるような素晴らしい内容のメッセージです。才能豊かで夢に溢れた若者だった学生時代の市橋君の姿が瞼(まぶた)に浮かびますが、これ以上紹介できないことが残念です。

支援者から、[2/20 AM1:20-1:50 TBS 報道の魂「死刑を免れた男たち~無期懲役囚の実態」が放送されます。 岡山刑務所での高齢化と介護、長期収容ゆえに起こってる問題を取り上げた番組のようです。]という連絡が届きました。私はあいにくその日は日本にいないので見れませんが、犯罪加害者の福祉に関心をお持ちの方には興味深い番組かもしれません。

国際会議でのプレゼンテーションのテキストは今夜中には仕上がりそうです。明日17日は午後から東京農業大学総合研究所の研究会がありますが、その前に私も委員として参加している埼玉県農産物安全技術専門委員会の件で県庁の方々との打ち合わせがありますので、朝はいつもより早目に自宅を出なければなりません。
明後日18日は、東京で食生活ジャーナリストの会のシンポジウムがあって私も聴講予定ですので、19日早朝にローマに向けて出発する前に私が国際会議の準備ができるのは今夜が最後でしょう。

2012年2月15日水曜日

2月13日に振り込まれた方(5回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は214,000円、延べ463人からの合計額は4,314,928円になりました。メールアドレスがわかりませんので個別の礼状は差し上げませんが、ありがとうございました。

ローマでの国際会議のスライドが出来上がったので、私がプレゼンテーションをするセッションの座長をする予定のオーストラリア人にメールに添付して送りました。タイトルは、Pesticide Registration for Minor Crops and Crop Grouping Effort in Japan (Part 2) (日本におけるマイナー作物用の農薬登録と作物グループ化の努力 第2部)です。同じタイトルの第1部は、2005年9月12日~15日にアメリカのカリフォルニア州のSan Diegoで開催されたIR-4全国会議で、すでにプレゼンテーションしました。それから7年近く経過しましたので、その後の日本での対応状況を整理して、さらに現在何が課題かを指摘してくるつもりです。

このところ走る時間が極端に少なくなったので、昨夜寝ている時に足がつりそうになりだしました。走らない状態から急に走り出すとよく足がつりますが、反対によく走っている状態から急にしばらく走らなくなると同じように足がつります。午後から千葉大学の共同研究をしている研究室に寄って、農薬の分析を担当してくれている大学院生にデータの計算方法にについて指示をした後、江戸川堤防を8Km 走ってきました。

2012年2月14日火曜日

テレビ番組用の取材は、場合によっては取材を受けるのは私だけになるかもしれません。千葉大学時代に市橋君と直接接点があった人たちに市橋君の実像について話してもらいたいと思って声をかけてみたのですが、ほとんど断られてしまいました。市橋君のごく一面しか知らないという遠慮と、興味本位のワイドショウ的なテレビ番組でどのように扱われるかわからないという不信感が大きく影響しているようです。企画が成り立たないことになれば、市橋君の事件自体について番組の対象にしないか、学生時代の市橋君を直接知っている人たちへの取材なしの番組になるかもしれません。

今日も一日机に向かって国際会議のプレゼンテーションで使うスライドや資料の準備をしました。大体できましたので、後は見直して仕上げて、英語での講演ですから今度はそれぞれのスライドをどう説明するか考え、どこにどれだけの時間を配分するか計画を立てます。いつもこうやって準備をします。

先日のマラソンの結果をアメリカ人の空手の弟子/友人の一人Margie さんにメールで、私は69才で42.195Km を5時間11分で完走したことを報告し、Now I wonder how many of the-over-the-hills can run the distance when they reach my age, 69 years olds.(下り坂の男達の何人が私と同じ69才になった時にこの距離を走れるだろうか)とからかってやりました。私が初めてアメリカに行って空手を教え始めた時は27才で、弟子たちもほとんどが大学生の年齢で元気一杯の20代でしたが、今は私と同じようにほとんどが60代になりましたので、自分たちをover-the-hills(下り坂の男達)と呼んでいます。そうしたら、次の返事が返ってきました。The over-the-hills could not run a marathon when they were in their twenties... why would you think we could do it now!  Really?  Most can hardly walk.  Congrats on your time in the race.  The race is always with yourself and time. (下り坂の男達は20代の時にもマラソンを走れなかったのに、何故今走れると思うのか。本当に完走したのか。自分たちのほとんどは歩くのさえ困難になっている。5時間11分おめでとう。レースはいつも自分自身と時間との競争です。)と言ってきました。実際に、アメリカ人の空手の弟子/友人の中には太り過ぎて歩くのが困難な人や、心臓ペースメーカーを入れている人や、人工関節を入れている人もいて、走れる人は少数になってしまいました。

「普段から健康管理をきちんとする」か、「食べ過ぎ・飲み過ぎ・運動不足を続ける」かの違いは、60代後半になるとはっきり現れてくるようです。私はフルマラソンに再挑戦すると決めて、3ケ月ちょっと走り込んだお陰でメタボを解消しましたので、今はこんな調子のいいことを言っていられます。

2012年2月13日月曜日

ローマでの国際会議のスライドと配布資料の準備に追われています。今日は他の用事もあってあちこちウロウロしていたら時間が足りなくなって、出発までに間に合うかどうか少し焦ってきましたので、走るのは止めました。
2月29日に遠方からお二人で市橋君に差し入れに来られる予定の方は、できたら私にも会いたいとおっしゃったので、私もその日に合わせて面会に行くことにしました。差し入れと面会は別々の筈ですので、同じ日に重なっても問題はないと思います。多分その頃までには市橋君の身柄は小菅の拘置所に移されているのではと想像しますが・・。普段メールのやりとりしかしていない遠方の支援者とこうしてお目にかかれるのは楽しみです。

2012年2月12日日曜日

昨夜遅く大阪在住の卒業生から、今日12日のNHKのEテレ(2ch)「趣味の園芸」午前8:30~8:55に出演するから見て下さい、というメールが届きました。妻と一緒に見ましたが、園芸研究家という肩書で、胡蝶蘭(コチョウラン)の管理方法や楽しみ方を上手に解説していました。妻もすっかり気に入って、我が家の居間の出窓にコチョウランの鉢を置いて飾りたいと言い出しました。
この元学生は昭和62年(1987年)卒業ですから、もう47才くらいになっている筈です。花卉園芸学研究室を専攻し、卒業後はハワイの大学にも1年くらい留学しましたが、私が指導していた千葉大学園芸学部空手部でも熱心に稽古をして皆を引っ張る主将をしていました。今は大阪でメリクロンアーツという洋ランの会社/研究所をやって、講演活動や執筆活動もやっているようです。元学生がこうしてそれぞれの分野で活躍しているのを見るのは、元教師としては嬉しい限りです。
市橋君も本当は、ちょっとしたきっかけであんな馬鹿なことをして一生を棒に振らなければ、今頃は刑務所の中ではなく、この元学生と同じように社会で素晴らしい活躍ができる元学生の一人になっていた筈なのですが・・。千葉大学で同じように私と関わった二人の元学生の運命は、身から出た錆(さ)びとはいえ、残酷にも全く違ったものになってしまいました。

孫たちの日本語学校での日本語スピーチコンテストが終わった時間に、カリフォルニアの娘に電話をしました。孫たちが電話に出て、6才のAika(愛夏)ちゃんは2等賞になってトロフィーをもらったよ(娘によると、1等賞以外の子供たちには全員2等賞としてトロフィーをあげたとのこと)と誇らしげに言い、8才のAiden(叡伝)君は今年も1等賞になったよ(昨年も1等賞でした)と、自慢したいのを抑えて、控えめに言いました。爺(じじ)馬鹿の私と、婆(ばば)馬鹿の妻は嬉しくて、ニコニコしながらそうかすごいなと誉めてやりました。先週行われた4才児のクラスでは、Colin(琥倫)君がトロフィー(全員に授与した参加賞)をもらったよと誇らしげに言っていました。小さい児童にはやきもちを焼いたりひがんだりしないように、点数をつけずに全員に参加賞を与えて努力を誉め、大きい児童には競争をさせて1等賞、2等賞、3等賞と点数をつけるというのは、アメリカでも子供の心理を考えた教育的配慮だなと思いました。

国際会議で使うスライドや配布資料の準備がだいぶ軌道に乗ってきましたので、午後から江戸川堤防を14Km 走ってきました。北西の風が強く、吹きさらしの堤防の上では吹き飛ばされそうで、他に走っている人はいませんでしたが、私は調子よくビュンビュン走りました。

2012年2月11日土曜日

先日出場した第32回館山若潮マラソン大会から記録証が葉書で送ってきました。私の正式記録は、フィニッシュタイム5:11:36、中間通過タイム2:26:27、後半タイム2:45:19で、50才以上男子の部での順位は、1100位/1290人中となっていました。やはり、35Km過ぎ辺りから足がつりそうになるのを騙し騙し走ったので、後半の方が20分近くも遅くなっていました。
当日渡されたプログラムの参加者名簿で改めて参加者数を数えてみたら、総勢10,170名の中で、フルマラソンの部の男子は5,409名、女子は854名でした。50才以上のフルマラソンの部の男子は1,637名で、その内訳は50代が1,061名、60代が494名、70代(最高齢は77才)が82名でした。50才以上の男子は、1,637-1,290=347人は完走できずに棄権になったか、参加を中止して走らなかったか(参加費4,000円を払っておきながら)ということになります。
参加者名簿では私の年齢(69才)以上は121名で、50才以上男子の5.0%で、男子全体のの2.2%でした。私の年齢でフルマラソンを走るのは少数派のようですが、大会直前の1ケ月の走り込みをあと70Kmくらい余計にしておけば5時間を切って、4時間台で走れたかなと思いました。5時間11分というのは私にとってはフルマラソンワースト記録の更新でしたが、今回は制限時間6時間以内の完走が目標でしたから、自分としては満足しています。
同じ大会を走った千葉大学走友会の仲間からも結果の報告(中には、フルマラソン50回目の完走でしたというのも、45才の人が2時間48秒で8位入賞というのもあります)が届いていますので、私もメンバー共通のグループメールアドレスに私の結果を投稿・報告しました。

今日は散髪に行った以外は、自宅にこもって原稿書きや再来週のローマでの国際会議での発表の準備をしました。ヨーロッパは寒波でイタリアも寒いとのことなので、妻は私の衣類の準備をし始めました。

2012年2月10日金曜日

テレビ番組制作関係会社の方が3人で来られ、市橋君の事件について2時間半くらい情報交換や話し合いをしました。事件の背景として、市橋君を直接知っている人たちから取材をして、事件後に想像も含めて報道された虚像ではなく、市橋君の実像を示すことを中心の番組にしようという方向になりました。今日は、私からどういう情報が得られるかを確認することと、他に取材に協力してくれるどういう人がいるかなどを探って番組の方向を考え、後日カメラを回して収録するということになりました。二段構えの慎重な取材姿勢には好感が持てました。

今日の朝日新聞朝刊の国際ニュース面に、小さいけれど私にとっては興味深い記事が載っていました。「南北協議、糸口見えず-韓国 害虫駆除協議提案、北朝鮮 ウェブで拒否姿勢」という見出しが気になったので読んでみました。「北朝鮮がかって支援を要請してきた高句麗古墳群の病害虫駆除・・」、とあったので何のことかと思ったら、「松食い虫などの病害虫を駆除する支援・・」、とありました。北朝鮮の大切な歴史的古墳群の周囲の松林で松くい虫による松枯れ被害が拡大して困っているようです。
以前、韓国農薬研究所に招かれて1ケ月滞在した時に、韓国農村振興庁を訪ねたら、壁にかかった大きな地図を差しながら、イネミズゾウムシという稲の害虫が日本から侵入して韓国中に広がって、分布を北に拡大して北朝鮮にも入っていると言われたことを思い出しました。冗談に、悪いものはみんな日本から入ってくるとも言われましたが、イネミズゾウムシというのは実はアメリカから日本に侵入してきた害虫でした。
松くい虫も100年くらい前の日露戦争の頃にアメリカから長崎に輸入された松の材木に紛れて侵入したと言われていますが、それが日本全国に拡大して毎年莫大な量の松を枯らしているだけでなく、今や韓国に侵入し、北朝鮮にまで分布を拡大して猛威を振るっているということのようです。北朝鮮では防除に不可欠な農薬(殺虫剤)が不足・欠乏しているでしょうから、松枯れは悲惨な状況になっているのでしょう。

今日は来客の前に東京農大の周りを6Km 走りました。短い時間でしたが、汗をビッショリかいて、熱いシャワーを浴びるのは快適でした。

2012年2月9日木曜日

山本宏行弁護士から電話連絡があり、以前支援者が問い合わせてこられた差し入れして宅下げされた本の処分方法についてですが、すでに市橋君の希望としてはBOOK OFFのようなところで引き取ってもらって、得られた収入は東北大震災の被害者救援目的で寄付をするということで、山本弁護士との間で合意ができているとのことでした。宅下げされた書籍類は山本弁護士の事務所に、衣類は菅野弁護士の事務所に保管されているそうですが、いずれ保管できなくなるでしょうから、衣類も同様に処分することになるのではないかと思います。
なお、本日山本弁護士は市橋君に接見してこられたそうですが、控訴審の日程も決まって、元気な様子だったとのことでした。

テレビ番組制作会社は明日3人で取材に来るということになりました。最近世間の注目を集めた複数の事件の中の一つとして取り上げる計画のようです。テレビでも新聞や雑誌でも、あらかじめストーリーができていて、取材で言ったことと違う趣旨の番組になることがありますので、そこは慎重に対応するつもりですし、支援者や関係者の個人情報は厳重に守るつもりです。

1月末が締め切りで、2月8日まで延ばしてもらった原稿はやっと今日仕上がりましたので、メールに添付して送信・提出しました。いつもそうですが、依頼された時はまだ先の話で時間的な余裕があると思って、気軽に「あ、いいですよ」と引き受けておいて、実際にはいろいろなことに追われて集中できず、最後の最後に追い詰められてやっとかっと苦しんで書き上げる場合が多く、自分でも厭(いや)になってしまいます。これも、決められたことがきちんとできない私のだらしのない性格で仕方がないことなのかもしれませんが・・。

ここ数日運動する暇がなかったので、今日は江戸川堤防を18Km 走ってきました。青空が抜けるようで、気温は低くても春を予感させる心地(ここち)よさでした。千葉大学走友会の幹事長から今年の横浜駅伝大会は4月30日(振替休日の月曜)になったと連絡がありました。10Km、3Km、5Km、8Km、3Km、5Km、8.195Km 区間があって7人で横浜市綱島(つなしま)の鶴見川沿いのランニングコースを42.195Km 走りますが、私はどの区間でもいいということで早速参加申し込みをしました。今度は一人一人が走る距離が短いので、持久力だけでなくスピード練習もしなければなりません。このところ私が千葉大学走友会の中で一番遅いランナーで最下位が続いていますので、今年は最下位脱出を目指して少しがんばろうかと思っているところです。フルマラソンのトレーニングで体重が大幅に落ちた状態にあることは、私にとっては名誉挽回を目指す好条件です。

2012年2月8日水曜日

遠方の支援者から、今月末の29日(水)に上京して市橋君に差し入れに行く予定との連絡がありました。せっかく遠方から来られても、同じ日に他の方が先に差し入れをして、差し入れができないとお気の毒ですので、他の方は重ならないようにこの日の差し入れは避けていただければと思います。郵送による差し入れは別のようですので、構いません。もしかしたら、その時までには市橋君の身柄は小菅に移されているかもしれませんが。

あるテレビ番組制作会社から、3月18日(日)テレビ東京(全国ネット)で20:00~22:30に放送予定の「ニッポン事件簿」という番組で市橋君の事件もその一部として取り上げたいとのことで、私への取材申し込みがありました。私としては、以前情報がなかった時にメディアが作り上げた市橋君の虚像を是正して、市橋君の実像を国民に知ってもらう一つの機会ですので、取材OKの返信をしました。もちろん差し障りのある個人情報は一切公表するつもりはありませんが、学生時代の市橋君を知っていて、最近の市橋君にも直接面会している数少ない人間の一人として、彼の実像を伝えられればと思います。東京高裁での控訴審は3月15日ですから、その3日後に放送予定というのはタイミングがいいのか、悪いのか・・。

ローマのFAOで開催されるマイナー作物の農薬登録問題に関する国際会議でプレゼンテーションをする準備として、一昨日はFAMIC(農林水産省消費安全技術センター)の農薬検査部農薬残留検査課を訪ねて情報収集をしましたが、今日は午前中に農薬工業会、午後に全農(全国農業協同組合連合会)肥料農薬部技術対策課を訪ねて情報収集をしてきました。後は、農水省の植物防疫課から情報収集できれば、プレゼンテーションをするのに必要な基礎的資料は全部そろいます。

農業大国で農産物が重要な輸出品目でもあるアメリカでは、確か1963年頃からIR-4(Interregional Research Project Number 4)と呼ばれる国家プロジェクトが動いていて、生産量の少ないマイナー作物の農薬登録に必要な試験データの作成は国が毎年莫大な予算をつけて費用支援をしてきています。一方、日本ではマイナー作物に使う農薬にもそれ用の登録が必要と規制が強化されてから、登録に必要な試験要件を軽減する措置を取りましたが、費用は地方政府(都道府県)や農薬メーカーの負担のままにしてきました。そのために農薬の値段が高くなって農家の生産費が高くついたり、そのために農産物の国際競争力が弱まったり、農薬メーカーが赤字になる場合は登録自体に消極的になって、農家は病害虫・雑草の防除資材がなくて困ることになります。私は従来、日本の農水省はこの問題に対して何故こんなに冷たいのだろうという印象を持っていましたが、実はそうではなかったということが今日わかりました。

農水省も、当時マイナー作物の農薬登録に必要な試験費用を国が支援するべく財務省に予算申請をしたようですが、ちょうど小泉内閣の時で、地方分権や国家事業の民間移管の流れが大きくなった時に重なり、時代に逆行して全く問題にならないと財務省に却下されてしまったというのが事実のようです。確かに補助金が交付金に変わって地方の自由裁量の範囲が増加したのはいいのですが、今度は地方政府内の勢力争いで、マイナー作物(と言っても、その地方にとっては重要な地域特産農産物)栽培に必要な防除資材の確保というような目立たない分野・力の弱い分野には目が行き届かず、必要なお金が回らないというのは問題だなと感じました。

2012年2月7日火曜日

2月4日に支援金を振り込んで下さった支援者から以下のお便りが届きました。ありがとうございました。
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入金確認のご報告ありがとうございました。暫く覗きに行けなかったブログを早々に拝見させて頂きまた涙してしまいました、皆様がほんと心優しくて
《有期刑になったとしても、一番長い方に近い25年~30年くらい》ですか。。。。
「罪を憎んで人を憎まず」全ての罪を犯した人に私はこの言葉を重ねられるほど心大きな人間ではありませんが、裁判では人として【更生】出きるかどうかを判断して頂きたいのです。裁判において加害者が償いの言葉を発せれば「心がこもっていない」、犯行当時の心理を語れば「反省が見受けられない」、加害者が発する言葉のひとつひとつが被害者にとっては憎しみを増殖させることでしょう。この被害者の心境を市橋君はどのように受け止めるか、裁判で対峙するのではなく裁判で和解できるよう、人が生きていくうえでの「許す」という行為の難しさが簡単なことではないことを彼なら受け入れ、償いが出来ることと信じて疑いません。
更生できる人間を長く拘束するほど罪なことはない。社会に戻り償いのためだけに生きる、これもまた刑に処すると同じと考え【人】をみ【人】として判断して頂けますよう願うばかりです。
末文になりましたが先生の多方面のご活躍、目を見張りますね~下文(本山:省略)の年齢を見て更に驚きました!毎日 「疲れた~」連呼の私・・・がんばらねば!です。ご連絡に感謝致します。

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今日浦和高校時代の同級生が東京農業大学の研究室に訪ねてきた用件は、文藝春秋の「同級生交歓」という欄の対談の企画相談でした。同期の卒業生の中から、藤井直之君(地震学者)、川野幸夫君(スーパーマーケット協会長)、諏訪敏一君(深谷日赤病院長)、犬養基昭君(前日本サッカー協会長)、私(農学者)の5人で、高校卒業後に辿(たど)った道をお互いに紹介し、次世代を担う若者へのメッセージを伝えようという企画です。前の3人は高校時代に学業成績トップで、後の2人は運動ばかりしていて学業成績はビリに近かった人間です。私はともかく、他の4人はいずれも紆余曲折(うよきょくせつ)を経てそれぞれの分野で日本をリードするような目覚ましい活躍をしている仲間で、ネットで検索すればすぐ出てきます。実際に集まって対談をするのは、多分5月頃になるだろうとのことです。

オーストラリアからの電話は約束通り午後2時にあり、再来週のローマでの国際会議のBreakoutセッションの進め方について相談しました。カナダ、アメリカ、オーストラリア、日本(私)がプレゼンテーションをした後、いくつかの設定した特定のトピックについてフロアからの発言も求めて議論しようという計画です。

カリフォルニア在住の娘から、週末に通っている日本語学校のスピーチコンテストに出た4才の息子Colin(琥倫)君の写真が送ってきました。この年齢のクラスは、出場者全員に参加賞としてトロフィーが授与されたそうですが、得意気な孫の表情に爺(じじ)馬鹿の私と婆(ばば)馬鹿の妻の顔もほころびました。ハーフの孫は日本人似でしょうか、アメリカ人似でしょうか。6才の愛夏(あいか)ちゃんと8才の叡伝(えいでん)君が出場するスピーチコンテストは今週末11日だそうです。昨年は叡伝君は優勝して、「ヤッター!」と国際電話をかけてきました

2012年2月6日月曜日

菅野 泰主任弁護士から控訴審の日程について以下のご連絡をいただきましたので、支援者の皆様にそのままお知らせ致します。
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2012年2月6日
市橋達也君の適正な裁判を支援する会
代表 本山 直樹  様
主任弁護人  菅  野   泰

ご 連 絡
前略
 市橋達也君の控訴審裁判の日程等が決まりましたので、お知らせ致します。
1.公判期日 2012年3月15日(木)午後1:30~夕       方
2.法  廷 102号法廷
       東京地裁及び東京高等裁判所で一番大きな法廷  です。傍聴希望者が多数あるかもしれないこと  を考えての対応です。
3.審理予定
 ①控訴趣意書の要点朗読
  ②事実調べ請求(書類2点)
  ③被告人質問
    高裁は、市橋君の事件について1から審理をやり直すことはしません。事後審として、原判決(千葉地裁判決)の当不当を判断し、不当であれば原判決を破棄します。
    なお、検察官より、被害者参加人は書面による意見陳述を行うが、法廷へ出る予定はないとのことでした。
  ④休憩後弁論
    弁論は、別期間に行うことを考えましたが、被告人質問を踏まえますが、基本的に控訴趣意書の中味とほぼ同一のものですので、3月15日被告人質問の後でやることにしました。
4.判決言渡
  控訴審の裁判官は、既に原審(千葉地裁)の記録を精査し ていると考えますので、判決は1ヵ月後位と考えています。 3月15日審理終了時、指定されます。
                          草々
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24日に振り込まれた方(5回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は209,000円、延べ462人からの合計額は4,309,928円になりました。ありがとうございました。

支援者からご自分の心境を語った以下のお便りが届きました。いよいよ控訴審を迎えるにあたって、多くの支援者が居ても立っても居られない心境を経験しておられるのかもしれません。市橋君は皆さまのご支援のお蔭で5名からなる弁護団に弁護をしていただけて、恵まれています。なお、事件と空手については全く関係はありません。以前、警察関係者も私のところに来られて、市橋君の空手の腕前について事情聴取をしていきましたが、週に1~2回昼休みだけの短い稽古時間で、それも1年足らずですから、ほとんど初心者(白帯)と同じで、空手を使って人を傷つけるというレベルではありませんでした。
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いつも、ブログを拝見しています。先日は少しばかりの支援金をお送りし、ブログ上の報告で、受取の確認をさせていただきました。ありがとうございました。
当初100万円が目標だったのに、すごいですね。先生が市橋君の裁判以外の内容も、色々書いて下さっているのを読みながら「このように社会の様々な分野で活動なさっている先生が、この会の主宰者である、ということが外に向けて、大事なアピールだと認識しています。
昨日書いていらしたように、私ももちろん市橋君は「殺意が無かった」と確信できるので、支援しています。1審で「殺意があった」と判断されたことへの彼のショックは、本当に言葉では言い表せないでしょう。
最近、プロレス界やボクシング界では、練習中や試合中の死亡事故がよく発生しているようですね。スポーツとして、相手を負かす、屈服させる、相手の力を奪う、ために使った技が致命的になったりしています。もちろん加害者的な当事者に、殺意はなかったわけだし、「事故」であり、罪に問われません。同じ技を使っても、ほとんどは亡くなることなどないはずなのに、なぜか「事故」は起こってしまいます。
私は、市橋君の事件は、いわば「事故」だと思っています。日頃から空手を武道として学んでいた彼は、リンゼイさんを抑えること、一時的に自由を奪うことに感情が先行し、瞬発的な異常な力が彼女の身体に加わったと思います。変な話、レイプの場合も、武道など学んでいない普通の男性にでも、抑えられたら、女性はほとんど抵抗できないと言われています。空手が悪いわけではないけど、どのスポーツ・武道も、生死と隣り合わせの部分があると思うのです。
ですから、何かそういったスポーツの突発的な事故の症例に詳しい医師なり、トレーナーなり、経験ある人なりの証言があったらいいな、と思いました。加害者的に自分の技で、相手(仲間・同志)を死に至らせてしまった苦悩を抱えてる人とか、話してくれる人はいないでしょうか。長く首を絞めたわけでもないのに、偶然急所に入ってしまって、相手を死に至らせてしまった人とか、いないでしょうか。全く私個人の意見で、空手を愛している先生には申し訳ないけど、そんなことを考えています。
結果的に「殺人」してしまった市橋君は、一生償う覚悟はありますね。でも、「黙れ~!俺の言うことをきかない女は死んでしまえ~!生きてここを出るな~」と思ってリンゼイさんの首を3分以上絞め続けたのでは、絶対ないはずです。殺意があったか、なかったかではなく、他の切り口はないのでしょうか。
すみません、素人が勝手に長々と。考え出したら、妄想、想像が止まらなくなって・・・。私の悪い癖です。

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今日は、ローマでの国際会議で日本におけるマイナー作物の農薬登録問題の現状についてプレゼンテーションをする準備として、FAMIC(農林水産省消費安全技術センター)の農薬検査部を訪ねて、担当官から詳細な説明を受けました。私が農業資材審議会会長を退任して3年ちょっとの間にずい分進歩があり、農水省が一つ一つの問題を克服する対応をしてきたことが認識できました。次は日本農薬工業会を訪ねて農薬メーカーの立場からの見解を伺い、その次は全農(全国農業協同組合連合会)を訪ねて農業生産者ならびに農薬流通担当者の立場からの見解を伺って、その上で私のプレゼンテーションの内容を構想しようと思っています。

2012年2月5日日曜日

私が2月3日のブログで裁判で役に立つ情報があれば弁護団に提供して下さいと唐突(とうとつ)に呼びかけたことに呼応して、ある支援者から以下の情報提供がありました。ありがとうございました。
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市橋さんが住み込みで神戸の寮にいた時に、自分の部屋の壁に書いたとされる落書きですが、十字架の絵と、赤字で小さく「神は主である」と書かれてあります。(雑誌からの写真なので見にくくてすみません)(本山:写真は省略
当時ワイドショーやニュースなどでもずいぶん報道していました。私も当時これを見た時、逃亡はしてしまっていたけれど、懺悔(ざんげ)の気持ちを持ち続けていたんだなと感じました。この落書きの意味は、はっきりとはわかりませんが、罪の意識から祈らずにいられなかったのでは…と思います。先日の裁判では、市橋さんの反省の態度を、減刑のためのパフォーマンスだと指摘されていましたが、この落書きを書いた頃は逃亡中であり、市橋さんの本心なのではないかと思いました。裁判で急に態度を変え、反省し始めたのではないということが、少しでもわかってもらえる材料になれば…と思ったのですが…。

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市橋君がどういう宗教観を持っているか、私は全くわかりませんが、彼がある支援者に差し入れてほしいと要望した佐野洋子作・絵の「100万回生きたねこ」は、読む人によっていろいろなメッセージが受け取れる素晴らしい絵本だと思いました。この絵本を差し入れてほしいと言った市橋君は、多分、永遠の心の安らぎを求めているのかなと想像します。(ちなみに、この支援者は先週の金曜3日に売店で購入した食料品やカイロ、スケッチ用の用紙とともにすでに差し入れをしましたので、絵本は明日6日には本人の手に届くそうです。)
十字架の絵と、「神は主である」という言葉が、市橋君が落書きしたのだとしたら、多分、弁護団がその真意についてすでに市橋君に確かめたのではないかと思います。上記支援者の推察通り、逃走中の市橋君が、自分の犯した取り返しのつかない罪について深く悔いて、どうすれば罪を償えるか絶対的な神に問い続けていたのではないでしょうか。

法律や裁判については私は全くの素人ですが、裁判の一番のポイントは殺意の有無をどうやって証明するか、ということではないかと思います。市橋君は、強姦後に監禁していたリンゼイさんが夜中に逃げ出そうとして大声で騒いだので、どうしていいか分からず咄嗟(とっさ)に後から腕を回して口を塞いで声が出ないようにしようとし、抵抗されてその腕が口からずれて頸(くび)に当って、結果として窒息死してしまったけれど、市橋君にしてみれば殺意などは全くなかったというのは正直な気持ちでしょう。腕が頸に当っていた時間は長くても1分以内だったという市橋君の感覚・記憶が正しいとしたら、それを今から法廷でどうやって証明できるのか、また窒息死するには頸を3~5分絞め続けることが必要という法医学的常識との矛盾をどう説明できるのか、ということが難しい課題になるのではないでしょうか。そうだとすれば、もし1分でも死に到る場合があると証言してくれる法医学者が本当にいるとしたら、弁護団はそういう情報を提供してほしいのではと想像します。きちんと法廷で証言して証明できなければ、裁判には価値のない情報ということになります。検察側は、法医学の常識を根拠に、3~5分も頸を絞め続けたことを殺意があった証拠とするのでしょうから。
今回の事件は、市橋君自身が悪いことをしましたと認めて謝っているので冤罪(えんざい)事件ではないようですが、殺意についてはいくら市橋君がなかったと正直に話しても(私はその通りだろうと信じます)、それを法廷で証明できないというところが裁判の難しいところなのでしょう。

今日は自宅で一日中パソコンに向かって、追われている論文原稿の執筆をしましたが、ストレスが溜まらないように午後から江戸川堤防に出かけて14Km 走ってきました。まだ今夜と明日の午前中の時間がありますので、何とかなるでしょう。午後からは、東京都小平市にあるFAMIC(農林水産省消費安全技術センター)の農薬検査部(旧農薬検査所)を訪問する約束があります。

2012年2月4日土曜日

2月2日に振り込まれた方(11回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は199,000円、延べ461人からの合計額は4,299,928円になりました。ありがとうございました。

支援者から以下のお便りが届きました。ありがとうございました。
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こんばんは、先生メッセージありがとうございます。毎日ご多忙の中ブログ更新ありがとうございます。先生の2012年2月2日木曜日のブログで市橋さんの事細かなご説明感謝しております。なぜ懲罰を受けたのか? それから日々の生活の事、支援者としてとても嬉しい内容でした。何も出来ない私にとってこの支援者の会で色々な方のお便りを読み、大袈裟かもしれませんが自分の価値観、考えの柔軟性を持てることもできるようになりました。
そして2月になりました、控訴審の動きがいよいよ始まるわけですね。小菅への移動も中旬から下旬の見込みでしょうか? これからが正念場になります。市橋さんには頑張ってほしいです。先生のブログを拝見しておりますと市橋さんは大丈夫だと思っております。
それから日々の走り込み頭が上がりません。ご尊敬申し上げます。
毎回少額でしか支援が出来ないのですが市橋さんに適正な、ほんとにほんとにきちんとした判決が出る事を願うばかりです。長くなりましたが先生いつもありがとうございます。
それから先生はローマでの国際会議にご出席されるとの事なのでこの大寒波で体調を崩されないことを祈っております。それでは失礼いたします。

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今日は松保護士樹木医のA氏と一緒に、私の車を運転して房総半島の九十九里浜の松枯れを再調査してきました。蓮沼海浜の森は3月11日の津波で海水に覆われたところですが、松枯れの被害は深刻でした。津波の影響だという見方もあるようですが、その前から激害が見られましたし、偶然現地で出会った森林組合の人の話しでも津波の前から枯れていたとのことでした。私たちが昨年の6月に無人ヘリコプターによる試験散布と地上散布の薬剤の飛散を比較する調査をした白子海岸中里地区の松林の被害も、このままではいずれ松林は消滅することが危惧(きぐ)される状態でした。さらに南下して一の宮町東浪見(とらみ)海岸の松林は、陸側は激害で松は残り少なくなっていましたが、海側は比較的微被害でまとまった面積の松がまだ残っていました。しかし、松くい虫は新しく植林して補植した松にも寄生していましたので、このままではいくら植林しても、枯れる本数の方が多いので、やはりやがて消滅することが危惧されました。

人間と松くい虫の戦いは、圧倒的に松くい虫の方が優勢で人間は負け続けている状況です。県有林は県が予算をつけて、翌年の発生源になる被害木は伐倒駆除(ばっとうくじょ)する作業をやっていますが、その年の予算の範囲を超えた被害木は放置されています。被害木の幹の部分(丸太)は現場でチップ化したり搬出してチップ化したり、搬出できない時は現場でシートで覆って燻蒸(くんじょう)処理をしていますが、小枝は林内に放置される場合が多く、樹皮を剥(は)いでみると食害痕があったり、松くい虫(正式名はマツノマダラカミキリ)の幼虫が入っています。これが5月~7月頃に成虫になって、体に線虫(正式名はマツノザイセンチュウ)を付けて羽化・脱出して、次々と新しい松を食害して松枯れ(正式にはマツ材線虫病)を伝搬(でんぱん)していきます。実際に、前年以前に林内に放置された被害木の小枝を調べると、松くい虫の丸い羽化・脱出孔が確認されます。

基本に戻って、成虫が食害する樹冠(じゅかん)部に存在する当年枝と1年枝にしっかり薬剤を散布すること(そのためにはヘリコプターによる上からの散布が最適)、成虫の発生期間全体をカバーできるように残効性の長い薬剤を散布するか、残効性が短い薬剤の場合は複数回散布すること、被害木は翌年の成虫発生時期前に残らず伐倒駆除して、小枝も放置しないこと、をしっかり実施すれば松枯れを抑えて農業環境や人間の生存環境を飛砂害、潮風害、強風害などから守れる筈です。

なお、今日は九十九里浜の松林をゆっくり回って綿密に調査したために、予定していた鴨川までは行けませんでした。

        (写真はクリックすると拡大できます)
 

 

 

2012年2月3日金曜日

支援者から嬉しいお便りが届きました。
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支援金確認のご連絡、ならびに市橋さんのご様子を教えていただき有難うございました。ブログを拝見しておりますと本当にご多忙な中での私たち支援者への細やかなご配慮に頭が下がります。お仕事など、公私に渡って沢山なさりたい事がお有りだと思いますが、お体だけは ご自愛下さい。(しっかりと自己管理なさっておられるとは思いますが、私は自分の職業柄どうしても言ってしまいます。お気を悪くなさらないでください。)
どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

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もし、支援者や元支援者や関係者の中に市橋君の裁判で役に立つ情報をお持ちの方は、弁護団に提供していただければと思います。ただし、言うまでもなく裁判は一定のルールの下で行われる筈ですので、弁護団はその情報が裁判の場で証明できるかどうかを判断して弁護に使えるかどうかを決めるのではと思います。

ローマのFAOで開催される国際会議に出席する飛行機の切符の手配と、宿泊するホテルの手配は全部完了したというメール連絡がありました。飛行機代も宿泊費も全部向こう持ちですが、飛行機は往復ともビジネスクラスをとってくれました。会議自体は21日~23日の3日間ですが、移動の時間や時差がありますので、私は19日(日)に成田を出発して、25日(土)に成田に到着します。

明日は、私の車を運転して再び房総半島の九十九里浜と鴨川の松枯れの調査に行く予定です。松の保護士樹木医のA氏が同行してくれます。松戸を朝8時頃出発して、帰ってくるのは夕方になるでしょう。

2012年2月2日木曜日

1月31日に振り込まれた2名の方(6回目、20回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は194,000円、延べ460人からの合計額は4,294,928円になりました。ありがとうございました。20回目の方はメールアドレスが分かりませんので、個別の礼状は差し上げませんがご了承下さい。

今日は午後一番に面会の受付で申請ができるように、千葉刑務所に行ってきました。1時10分前に着いたら、すでに一人が受付の前で窓口業務が開くのを待っていて、私が午後の2番目でした。申請書に記入をしていたら3番目にロシア人らしい女性二人が来ましたが、受付の人との会話から大使館員らしく、順番を待たずにすぐ面会室に入りました。外交官については何か特別扱いの合意があるのかもしれません。申請書を提出していつものように待合室で番号が呼ばれるのを待っていたら、一番の人は現在入浴中なのでしばらくお待ち下さいという放送があり、結局私が先に呼ばれました。

小さい面会室の仕切り板の向こう側に市橋君と刑務官が、こちら側に私がほとんど同時に入りました。私が先に椅子に腰かけるのを待ってから市橋君も腰かけました。
私が、懲罰を受けたそうだが一体何をしたんだと訊いたら、刑務官に苦情を言って口論になりましたと答えました。肩を押したとか、体に触れたのではないだろうなと言ったら、そんなことはしていませんと答えました。もう懲罰期間は終わったのかと確認したら、はいと答え、懲罰が終わるのと同時に2年以上も続いていた私物の保管禁止が解除されたのでよかったですと言いました。私は、市橋君が自殺の恐れがある被疑者・被告人という扱いが解除された時に私物の保管もできるようになったとばかり思っていましたので、どういう意味かと訊き返しました。例えば、売店で購入した白い紙とサインペンでスケッチをすることは認められていたのではないかと訊いたら、ボールペンと便箋やお箸などもいちいち要望した時にだけ独居房に入れてくれて、使い終わったら取り上げられていたようです。それが洗面用具とか皆様が差し入れて下さった本などもそういう扱いだったのかどうかはわかりませんが、そういう私物を手元に保管することをいつまでも禁止されていることに対して強く苦情を言って、口論になったと言っていました。

もうすぐ控訴審が開かれて結審すれば、今度は被疑者・被告人としてではなく、受刑者として長期間生活しなければならないのだし、今までのような自由はなくなるのでそろそろその心構えをしなければならないなと言ってやりました。服役した経験があって、今は作家をしておられる本間 龍氏を知っているかと訊いたら、はいと答えました。本間氏が支援する会に加わって、受刑者としての刑務所内の生活がどうなるかについて、いろいろ情報を提供して下さっていることを伝え、高齢者や認知症の受刑者のお世話をする用務者という仕事があるそうなので、君のような才能のある人間にとっては単純作業の繰り返しよりも他の人の役に立つ仕事は生き甲斐になるのではないかと思うと伝えました。そうしたら、自分は単純作業でも大丈夫ですと答えていました。今度、本間氏が栃木県の黒羽刑務所での経験を書いた本を私から差し入れするからと伝えました。

前に要望された玄制流の空手の本はマラソンの練習に追われて貸倉庫から見つける時間がなかったけど、忘れていないからと言ったら、それは大丈夫です、先生に習った正拳突きの稽古をやっていますからと答えました。空手では強い武器を作るために握った拳で巻き藁を突いたりサンドバックを叩いたりしますが、それらがない場合は拳を握って相手に当てる中指と人差し指のナックル部分で腕立て伏せをして、握りを強くしたり、相手に当てた時に反動に耐えられるように手首や肘を強くしたり、脇を締める稽古をします。市橋君は独居房の中で、巻き藁の代わりに畳を突いたり畳の上で腕立て伏せをしていると言いたかったのかもしれません。

本については、市橋君の方から「百万回生きたねこ」はどうなりましたかと訊いてきました。もう〇〇さんに伝えて、本も入手したので君の懲罰期間が終わったら差し入れすると言っていたよと言ったら、〇〇さんにありがとうございましたとお伝え下さいと言いました。もしかしてすでに差し入れしたのに、刑務官に保留されているといけないと思って先ほど電話で確認しましたら、明日千葉刑務所に行って差し入れてくる予定ですとのことでした。
この本については、何人かの支援者から読んで涙がこぼれたと言ってきたし、私も君が差し入れてほしいと言った本がどんな内容なのか知りたかったので自分でも一冊購入したよと伝えました。

この間の日曜は館山若潮マラソンだったので、3ケ月ちょっとで950Km くらい走り込んでトレーニングをして、5時間11分で完走したぞと言ったら、毎日10Km 走ったということですかと尊敬の眼差しで訊き返しました。君は高校時代の陸上部では長距離だったのか短距離だったのかと訊いたら(前にも同じこと訊いた筈ですが忘れていましたので)、短距離で110m ハードルと400m でしたと答えました。こういう会話をしている時の市橋君は生き生きしていると感じました。

昨日の時点で延べ458人の支援者が合計約430万円の支援金を振り込んでくれて、皆君が心安らかに生活できるようにと願っているよと伝えたら、実数で何人くらいですかと訊き返しました。多分150人くらいだけど、中には25回とか33回とか繰り返し毎月振り込んで下さる方がいて、君のお母さんと近い年齢でご自分の息子さんや娘さんをお持ちの方々だよと教えてやりました。前回一度支援者名簿を差し入れましたが、あれからずい分支援金が増えましたので、近いうちにもう一度加筆訂正して差し入れしようと思っています。
支援者の方々に何か伝えたいことがあるかと訊いたら、ありがとうございますとお伝え下さいと答えました。

東京に移されるのはいつか聞いているかと訊いたら、昨年は10月頃かと言われていましたが、今は自分は全くわかりませんと答えました。お父さん・お母さんから何か連絡はあるかと訊いたら、ありませんと答えました。

もっと、西日本は何十年ぶりの大雪だということや、新潟県の松枯れ調査のことや、宅下げされた本のことなど話をしたかったのですが、8分間はあっという間に過ぎ刑務官のストップウオッチのベルが鳴りましたので、立ち上がって元気でなと言って部屋を出ました。彼はいつものように立ち上がってお辞儀をして見送ってくれました。今日の市橋君は、少なくとも私には、自分の運命を受け入れて覚悟を決めて生きていこうとしているように見えました。

面会から自宅に帰ってきたらすでに午後3時半を過ぎていましたが、寒いし遅いし風邪をひくからと言って妻が反対するのを無視して江戸川堤防を10Km 走ってきました。今日は時々西からの冷たい突風で体が吹き飛ばされそうになる中でしたが、10月17日から1月31日までの106日間(3ケ月半)にマラソンで走った距離も含めて1,014Km 走った余勢が十分残っていて、夕日が関東平野の地平線に沈みかけるのを眺めながらビュンビュン走って、気分は爽快でした。

先月末が締め切りだった論文原稿は、2月8日までに延ばしていただきましたので、これから最優先でこの仕事を完成させなければなりません。いつも原稿執筆はギリギリになることが多く、我ながら情けない限りです。私の性格上、多くのことに興味があって、欲張って同時進行でやろうとするからこういうことになってしまいます。

2012年2月1日水曜日

1月30日に振り込まれた方(25回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は183,000円、延べ458人からの合計額は4,283,928円になりました。メッセージも手書きされていました。ありがとうございました。
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本山先生、いつもお世話になります。25回目の送金をさせて頂きます。寒さ厳しい日々です。どうぞお体ご自愛下さい。
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今日は自宅で夕方までかかって期末試験の採点が終わりましたので、採点表に記入して提出しました。152人受講した中で、講義を欠席した学生もいましたので、結局147人が試験を受けました。千葉大学にいた時もそうでしたが、記述式にすると、講義をしっかり聴いて理解した学生と、後ろの方の席に固まって座って携帯電話の画面とにらめっこしていた学生の違いがはっきり出ます。私は、努力した学生とそうでない要領だけいい学生はちゃんと区別して評価してあげたいので、採点に時間はかかっても試験問題は記述式にしてきました。それとパソコン全盛の時代に、できるだけ学生に自分の考えを文章で書かせるトレーニングをさせたいと思っているからです。

2月21日~23日にローマのFAOで開催される国際会議で私がプレゼンテーションをするセッションのオーガナイザー/座長(オーストラリア人)とは、メールでやりとりをして準備を進めています。国際電話で直接話をしたいとのことでしたので、来週の火曜日の午後の時間を指定して東京農大の研究室で待機することにしました。時差は日本が同じ日で2時間遅れなだけのようですので、調整は楽でした。

試験の採点は終わっても、先月末が締め切り期限だった論文の原稿がまだできていませんので、そろそろ催促の連絡が来る筈です。早急に仕上げないと発行日が決まっているので迷惑がかかってしまいますが、明日は市橋君に面会に行ってくるつもりです。抗弁で懲罰を受けた後の市橋君の様子も気になりますし、弁護団とは別行動で頻繁に面会に行かれている元支援者からの無責任な入れ知恵で、市橋君の精神がどういう影響を受けているかも気になるところです。