2011年3月31日木曜日

3月29日に振り込まれた2名の方(9回目と初回)の支援金が届きました。ありがとうございました。初回の方はメッセージはありませんでしたが、ずい分遠方の方でした。これで今日までに払込取扱票が届いた分までで、支援金の現在高は189,000円、延べ264人からの合計額は2,989,565円になりました。
3月30日にも振り込まれた方がおられるらしく、今朝郵貯銀行に寄って確認したら現在高は206,000円になっていましたので、今日全額を払い出して菅野弁護士に届けました。

3月16日に予定されていた公判前整理手続きについては、前日の15日に連絡があって裁判所のエレベーターがストップしているので中止(階段を歩いて移動すると報道陣にさらされるので)となりましたが、実際には16日に本人の出席なしに裁判官、検察官、弁護人だけで打ち合わせは実施されたとのことです。3月29日に再度、裁判官、検察官、弁護人と法廷通訳(女性)が出席して打ち合わせが行われ、実質的には整理手続きが終わり、7月第1週から始まる公判の日程が全て確定したそうですが、形式的には4月19日に予定されている公判前整理手続き最終回の後で一般には公表されるということになりました。法廷通訳が出席したのは、今回はイギリス人の被害者(遺族)参加があるので日本語は英語に、英語は日本語に通訳するためだそうです。そのために審理期間が通常の2倍とってあるのだそうです。公判における審理には、リンゼイさんと英語学校NOVAで同僚教師でかつ同じアパートに住んでいたカナダ人のニコルさんも、検察側証人として出席するそうです。

公判には80人くらいの傍聴が可能なようですが、メディア関係者が席を確保するためにアルバイトを雇ったりするので厳しい競争になることが予想されるようです。私も証人として出席する時以外は、たとえ希望しても抽選に当たらなければ出席できませんし、市橋君のご両親には家族枠があるそうですが、一貫して裁判には関わらないという姿勢を貫いておられるので恐らく出席されないだろうとのことです。従って、被害者遺族として来日されるリンゼイさんのご両親と市橋君のご両親が、公判の前にも後にも直接顔を合わせて言葉を交わす機会もないだろうとのことです。私としては残念な気がします。

最近よく報道される冤罪事件では、検察側が自分たちの見立てに不都合な証拠は隠蔽して提出しないという傾向があると指摘されていますが(最近の例では厚生労働省の村木厚子元局長の冤罪事件)、裁判員制度の導入に合わせて検察側が持っている証拠に対する開示要求がかなり広い範囲で認められるようになったので(まだ全面的ではない)、市橋君の場合も弁護側の要求がかなり認められて、パソコンに残っていたメールのやりとりや、検察側が証拠として採用しなかった調書なども証拠開示されることになったようです。

以前、市橋君がリンゼイさんのご両親宛に謝罪文を書いた時は、代理人弁護士が受け取りを拒否しましたが、手記出版の印税収入を被害者弁償として提供したいという申し入れ書については、代理人弁護士が受け取って被害者遺族に届けたという返事がきているそうです。被害者遺族が受け取るかどうかの返事はまだのようですが。市橋君自身は、もし被害者遺族への弁償金を受け取ってもらえない時は、今度の震災被害者の救済に寄付をしたいと言っているそうです。

接見禁止中の差し入れについては、次の決定がされていて、2ケ月毎に更新されているとのことです。
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接見等禁止決定 
被告人 市橋 達也
 被告人に対する死体遺棄被告事件について, 刑事訴訟法81条に掲げる理由があるものと認め, 検察官の請求により, 被告人と同法39条1項に規定する者(ただし, 下記のものを除く。)との接見及び文書(新聞, 雑誌及び書籍を含む。)の授受を第一回公判期日までの間禁止する。
1 ・・・
2 ・・・
平成21年12月2日
千葉地方裁判所 裁判官・・・
裁判所書記官・・・
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従来は現金の他に、差し入れ人が匿名を希望しない限り差し入れ人の名前とともに、下着や着替えなどの衣類が大量に差し入れされ、独居房に保管できない分は一定分量までは刑務所が保管したり、菅野弁護士の事務所にも保管されているそうですが、本人が確認のサインをしていたので、本人は社会には自分のことを心配してくれている人たちがいることをその都度認知できていたそうです。それが、市橋君の手記が出版された1月25日以降は差し入れがパッタリ届かなくなったそうです。上記の接見禁止決定文章から明らかなように、文書以外の差し入れは禁止されていない(食べ物については刑務所内の売店で購入できる物に限定)筈です。手記の出版も法律違反ではないにもかかわらず、刑務所側にとっては全く把握していない寝耳に水のことだったらしく、そのために被告人と弁護人の間でやりとりされる文書のチェックを担当していた刑務官の失態が上層部から厳しく叱声されたらしく、その腹いせに市橋君に嫌がらせをしている可能性があるとのことです。

2月に弁護団が訴訟関係書類と一緒に手記の書評を同封して市橋君宛に郵送したところ、訴訟関係書類は即座に配達されたにもかかわらず、手記の書評だけは6日後くらいに遅れて配達されたそうです。被告人(現状は未決なので推定無罪の筈)の罪を裁くのは裁判所の役割で、刑務所の役割ではない筈なのに、弁護団が被告人に送った書類を刑務官がこのように選別した扱いをすることは、刑事収容施設法第135条で中身の審査をしてはいけないと規定されていて、許されない行為の可能性があります。そこで、1月25日以降に差し入れをした人は本当に全くいなかったのか、あるいは刑務所が自分たちの知らないところで手記が出版されたことに対する嫌がらせとして差し入れされた物をストップして本人に配達していないのかが問題になります。メディアだけでなく、国家公務員の刑務官までもが本来の役割の範疇(はんちゅう)を越えて、弱い立場の市橋君にこのような差別的な扱いをすることがあるのだとすれば、許されることではありません。

もし、1月25日以降に市橋君に差し入れをした方がおられましたら、何月何日に何を差し入れされたか、至急私宛にご連絡下さい。連絡先は: n3motoya@gmail.com です。もちろん、皆様のプライバシーは絶対に守ります。来たるべき公判に向き合うために心の準備をしなければならない市橋君が、こんなことで心をわずらわされてイライラするのは馬鹿げたことです。市橋君も、震災で大勢の人々が苦しんでいる時に、差し入れされる物が欲しくてこんなことにこだわっているのではないことを支援者の皆様にも知ってほしいとのことです。刑務官の個人的な感情で不当に差別をされることが納得できないのでしょう。

山本弁護士によると、市橋君は刑務所の中でも自分を律したストイック(克己主義者のような)な生活をしているようで、毎日腕立て伏せ300回、腹筋運動300回などを欠かさず実行しているとのことです。また、気持ちを静めるために山本弁護士が助言したように、刑務所内の売店でスケッチブックと水性ボールペンを購入して、すでに60枚~90枚くらいの絵を描いてこれが精神安定上大いに役に立っているとのことです。描き終わった絵の多くは、宅下げされて弁護団の一人秋元弁護士(3月17日のブログで言及した布川事件の弁護も担当)のところにあるそうです。いずれは、これらの絵もどこかの出版社が出版の興味を示してくれるかもしれません。その収入は被害者遺族への弁償の原資にもなりますし、受け取りを拒否されれば震災被害者への寄付のように、市橋君が刑務所の中にいて社会貢献できるひとつの方法にもなります。

市橋君は定時に流されるラジオのニュースを耳にすることができるので、東日本で大地震が起こったことは知っていましたが、新聞は購読可能ですが購読していないので被災地の悲惨な写真や、世界中の人が繰り返しテレビで見た津波で建物や車が流される恐ろしい映像は見ていないので、どれくらい大きな被害がでたかについては、接見した弁護士の説明で初めて実感したようです。

菅野弁護士事務所では私の訪問の後に弁護団会議が予定されていたらしく、集まってきた秋元弁護士や坂口弁護士とも初めてお目にかかることができました。これで弁護団全員とお会いしたことになります。

卒業論文は今日次の順番の方に料金(640円)受取人払いの宅急便で発送しました。私のジョギングは時間がなかったので、今日は弁護士事務所に出かける前に4km しか走れませんでした。

2011年3月30日水曜日

3月28日に振り込まれた3名の方(2回目、13回目、3回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は149,000円、延べ262人からの合計額は2,949,565円になりました。ありがとうございました。それぞれの方から以下のようなメッセージをいただきました。

「本山先生は本当にお忙しい方なのですね・・・にもかかわらず、市橋君の為にこの会の活動もされ本当に頭が下がります。本山先生だからこそ私達支援者は安心して託すことができます。これからもよろしくお願い致します。先生、どうぞお身体ご自愛下さいませ。」

「13回目の送金をさせていただきました。又お手数ですが宜しくお願い致します。ニュースでは被災地の物資不足や放射性物質による摂取制限・作業員の被ばく等まだまだ落ち着かない状況が放送されていますが千葉におられる本山先生や市橋さんはいかがお過ごしなのでしょうか?私は震災後 自分ができる事そして与えられた仕事を私なりに頑張っています。これからも大変な事がいろいろと有るかもしれませんが微力ながら市橋さんのサポートをしていけたらと思います。
本山先生どうぞお体には気をつけてお過ごし下さい。]

「先生のブログでは公判前整理手続きが最後の一回を残すのみとのこと、いよいよ裁判が近づいているんだなと感じます。ただただ適正な裁判を…と願うばかりです。今日は少しですが振込みをさせていただきました。先生も出廷されるのですね。 駅伝大会もありますますお忙しい日々が続きますね。 どうぞ、お体には十分気をつけて頑張ってください!!それからいつでも構わないのですが、市橋さんの卒業論文を拝見させていただけたら、と思っております。大変お忙しいと思いますが可能な時で構わないので、どうかよろしくお願い致します。」

市橋君の卒業論文については、このところ私がちょっと忙しかったものですから、皆様にお送りするのがストップしていました。明日からまた順番に発送致します。

今日の朝日新聞に気になる記事が載っていました。一審の裁判員裁判で無罪判決になった事件が、東京高裁で破棄差し戻しになったというもの。事件は、2009年9月にアパートの一室に侵入し、現金千円を盗んだうえ、ストーブ内の灯油をまいて火をつけたなどとして起訴された被告が、前科(侵入先で十分な現金を盗めなかったうっぷん晴らしのために灯油をまいて放火を繰り返していた)について証拠採用されず審理がされなかったために、放火罪については無罪となった一審の手続きは違法と結論づけたというものです。市橋君の場合も、事件の内容は全く異なりますが、検察側が強姦致死・殺人という自分たちの見立てに固執するために、都合の悪い証拠を隠蔽するようなことはないものと信じます。

横浜駅伝の準備として、今日は江戸川堤防を少し遠くまで(12km) 走りました。明日は弁護団にその後の支援金を届ける日です。

2011年3月29日火曜日

昨日は2名の方から支援金を振り込んだというメールでのご連絡をいただきましたので、明日には到着するでしょう。

東京農大のキャンパスは、サッカーやアメフトや陸上や野球や競技ダンスや・・・、サークル活動をする元気のいい学生達の姿で賑やかになってきました。応援団は大太鼓を打ちながら、水を入れたペットボトルを両手に持って農大名物の大根踊りを練習していました。私はいつものようにトレーニングルームで準備運動をしてから外に出て、大学の周りを約6km 走りました。

昨日貸倉庫を整理したら、駅伝やマラソンの古い記録が出てきました。それを見ると、平成3年(1991年)9月28日に皇居の周りで行われた第8回在京国立学校等駅伝競走大会に、千葉大学は当時の人事課長O氏の指示で急遽各部局から走れる教職員を集めて走友会を結成し3チーム(1チーム5人)が初めて参加しています。当時49才だった私は一番遅いCチームで走り、皇居1周約5kmを20分57秒でした。その時の私がタスキを受け取る瞬間の写真(私の自慢の1枚)は、その後走友会の会員募集のポスターに使われました。今から20年前ですが、走友会の仲間に誘発されて(そそのかされて?)翌平成4年(1992年)からフルマラソンにチャレンジし始め、走る度に記録を伸ばし、確か平成6年(1994年)3月の佐倉朝日健康マラソン大会だった筈ですが、52才ちょっと前に自己ベストの3時間35分を出しました。その後は仕事が忙しくなったことと体力の低下で記録は落ちる一方になりましたが、それでも、ジョギングは今日まで続いている私の健康管理の方法になりました。


今朝はまたノースカロライナ州在住のアメリカの友人から電話がありました。向こうのテレビでは、日本では放射能汚染で食べるものも水もないと報道されているらしく、食べ物を送ったという連絡でした。この辺りで検出されている放射線量は低いので全く心配はないし食べ物にも水にも不自由はしていないと説明しても、それは政府の言い方と同じで、信用できないとのこと。何が届くのかわかりませんが、まさかわざわざお金をかけてアメリカ大陸と太平洋を越えて水を送ってこなければいいのですが。メディアによる報道というのは、直接現場にいない大衆にとっては、それによってしか情報を得られないので、受け取る方がしっかり判断しないと、報道の仕方によっては誤解を与える場合があるという一つの例かもしれません。

2011年3月28日月曜日

3月26日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は124,000円、延べ259人からの合計額は2,924,565円になりました。ありがとうございました。この方からは手書きのメッセージが添えられていました。
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初めての振込みです。39才・主婦ですが、H15年から1年弱千葉県市川市に住んでいました。市橋君、あなたの強い精神があれば、必ずやり直せます。罪を償い、新しい人生をスタートさせて下さい。支援を続けていきます。
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社会の関心は地震と津波と原子力発電所の事故に釘づけになっている時に、はるか遠くにお住まいにもかかわらず市橋君のことを忘れずに、支援金を送り、励まして下さる方がいらっしゃるというのは、大変ありがたいことです。間違いを犯した人間を見放すのは簡単でしょうが、寛大な心で立ち直らせようとして下さるのは、人間の優しさだと思います。

走友会の仲間からの連絡では、佐倉マラソンも荒川マラソンも中止になったとのこと。毎年4月29日に開催される横浜駅伝もどうなるかわかりませんが、実施される場合のために練習だけはしっかりしておくつもりです。昨日はカメラをトレーニングウェアの上着のポケットに入れて6kmしか走らなかったので、今日は昼休みにいつもの江戸川堤防を10km走りました。風もなく、ポカポカ陽気で汗を一杯かきました。

2011年3月27日日曜日

3月もいよいよ最後の週になりました。千葉大学園芸学部では、先週の木曜には今年度最後の教授会が開催され、定年退職する教授(今年は2人)が挨拶をしたようですが、その中の一人は市橋君もよく知っている環境デザイン学講座のT教授でした。研究室も同じA研究棟の3階と2階の位置関係なので、市橋君も学生の時は行き来した筈です。支援者の一人が、今月はリンゼイさんの事件が起こってちょうど4年目だと知らせてくれましたが、大学ではだんだん風化して事件のことも市橋君のことも忘れられつつあるのかもしれません。

今日はあいかわらず風は冷たかったけど天気が良かったので、カメラを持って江戸川にジョギングに行きました。途中にユキヤナギが塀の外に植えてあるところがあって、今年も白い小さな花が満開できれいだったのでシャッターを押しました。途中横切る坂川にはカモが泳いでいました。大学の構内では、桜のソメイヨシノはまだ蕾ですが、E棟(教育棟)東側のオオカンザクラという品種が満開で小鳥が何羽も蜜を吸いにきていました。学生宿舎の浩気寮(こうきりょう)の坂を上ってきたプールの横の三角地点のパンジーも、色とりどりで目を楽しませてくれていました。市橋君にとってはみんな見慣れた景色の筈です。刑務所の中の市橋君にはもう外の景色を直接見たり、春の風を肌で感じることは許されませんが、思い出して想像を巡らすことはできる筈です。そう思って、写真を撮ってきました。

ジョギングコース沿いのユキヤナギと坂川(上段)、園芸学部構内(下段)
私は今日も貸し倉庫の整理をしました。2つを空にするにはもう少しです。今日は、私が初めて論文を書いた1968年の分から今まで保存してあった多くの論文の別刷りを各々数部だけ残して捨てました。何かを書く時の参考資料としてとってあった学生の試験の答案や、レポート(中には世界中どこに出しても恥ずかしくないりっぱなものもありました)も捨てました。アメリカの何人かの空手の弟子/友人達と40年くらい前にやりとりした手紙も捨てました。1970年初め頃にアメリカでは20代の学生が、ベトナム戦争の戦況悪化で徴兵されて戦地に送られたりしていましたが、どこの部隊に派遣されているのか(軍事機密?)わからないように差し出し地は軍のコード番号になっていました。彼らも今は私と同じ60代で、当時の手紙は懐かしい思い出ですが、思い切って捨てました。この春は私にとっても気持ちを切り替えなければならない人生のひとつの区切りです。

2011年3月26日土曜日

3月24日に振り込まれた方(6回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は119,000円、延べ258人からの合計額は2,919,565円になりました。ありがとうございました。以下のメッセージもいただきました。
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今回、大震災を目の当たりにし、「寄り添う心」の大切さと、「支援を行う」ということは、感情的なボランティア思考では長くは続かないこと。冷静な意識と視点でなければ、「長期の寄り添い」はできない・・・ということを学びました。今後も、当たり前のこと「市橋達也さんが適正な裁判を受けられるための支援」を、当たり前のこととして、実践し続けます。
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つい先日は、数年前に私の研究室を専攻して修士課程を修了した元学生から突然のメールの便りで、実は同じ時期に私の研究室に在籍していた元女子学生と結婚して第一子が誕生したとの知らせがありました。鈍感な私が気がつかない間にそんな関係にまで発展していたのかと驚くとともに、嬉しい気持ちになりました。昨日はまた、私の研究室に長年在籍して数年前に博士課程を修了した元学生からのメールで、この3月に結婚しましたとの知らせが届きました。妻もよく知っている元学生ですので、一緒に大喜びしました。私がアメリカでの永久滞在ビザの申請に失敗して日本に帰国し、千葉大学に奉職したのは1978年で約33年前ですから、最初の頃に大学院生だった元学生はもう子供が成長して定年の時期に近づいていますし、今回の便りのように新たに結婚したり第一子が誕生したりする元学生もいます。
元教師にとっては、学生時代という人生のある時期を指導した元学生が、各々の道を歩んで成長していく姿を見ることは何よりの喜びです。

先週、経堂駅からの通称農大通りを歩いていたら、切り倒したアカマツの巨木(3月4日の記事に写真添付)の根をユンボで掘り起こしていました。さらに小さく切断するのにチェーンソーの歯が届かずに苦労していました。あんまり立派な根なので立ち止まってざっと年輪を数えてみたら、不正確ですが113以上はありました。ということは1898年(明治31年)以前に生えた木だったということになります。どおりで威厳が感じられたわけです。当時はこの辺りは人家もまばらな山林だったのかもしれません。

 (写真はクリックすると各々拡大できます)

2011年3月25日金曜日

3月23日に振り込まれた方(4回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は114,000円、延べ257人からの合計額は2,914,565円になりました。「市橋君、ひとりじゃないよ。人生明日はきっとあります。信じて人生やり直そう。」という市橋君宛のメッセージが手書きされていました。ありがとうございました。

今日は菅野弁護士と電話連絡がとれました。3月16日に予定されていた最後の公判前整理手続きが中止になったのは、地震の影響の停電で、裁判所のエレベーターがストップし、刑務所から裁判所に車で移動した市橋君が階段を歩いて部屋に行くと途中に待ち構えている報道陣の写真撮影のフラッシュ攻撃にさらされるので、そういう状態を避けたいというのが市橋君の希望なので中止になったのだそうです。形式的には4月に公判前整理手続きが再設定されるそうですが、実質的にはすでに整理作業は全て終わっているようです。7月第1週から始まる公判の日程も決まっているようですが、4月の形式的な公判前整理手続きが1回分残っているので、今の段階では公表はできないそうです。実質的に5日間くらいの審理、4日間くらいの評議(評議時間としては通常より長い)を経て、7月21日頃には判決となりそうな感じです。当然ですが、審理には裁判官、被告人、検察官、弁護団、被害者遺族とその代理人弁護士、検察側証人、弁護側証人が出席するようですが、評議は裁判官と裁判員だけで行われ、検察官も弁護団も傍聴は許されないようです。

市橋君は、差し入れのことで一時トラブル(詳しいことはわかりませんが)があったそうですが、今は落ち着いて絵を描いたりしているとのことです。最初の手記の出版後、接見禁止の筈なのにどうして原稿が外部に持ち出せたのかが問題になり、検査(監視?)が厳しくなったようです。2~3の出版社が、事件そのものについての手記や、市橋君の言いたいことを出版したいという要望があるようですが、公判が始まる(終わる?)までは無理でしょう。

3月31日には私が弁護士事務所を訪ねて、その後の支援金をお渡しするとともに、私自身も公判では弁護団から証人として出廷する要請を受けていますので、山本弁護士も含めて相談をすることになりました。

2011年3月24日木曜日

2008年(平成20年)6月8日 秋葉原で17人が死傷した無差別殺傷事件で、殺人罪などに問われた元派遣社員の被告(28)に対して、東京地裁は本日24日、求刑 通り死刑を言い渡したと報道されましたが、実際に裁判を傍聴してきた支援者の一人から以下のメールが届きました。極刑を求める被害者遺族の気持ちがよくわかりながら、それでもなお一方ではできることなら被告人に更生の機会を与えてやりたいという矛盾した思いは、多くの支援者に共通なのではないでしょうか。

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私は今日、秋葉原無差別殺傷事件の判決を傍聴する機会に恵まれました。正直いって辛かったです。人が人を裁くというのはどれほど残酷な事か。傍聴席に座っている遺族・被害者の姿を見て、この人達は極刑を望んでいるのがわかりました。それは当然でしょう。
私が見た被告人は痩身でいかにも神経質な感じのする青年でした。
この人があんな大それたことをしたなんて・・・。信じられませんでした。確かに家庭的には恵まれていませんでしたが。
私は改めて被害者と遺族の気持ちを汲まなければと思いました。市橋君を極刑にしたい遺族の気持ちも痛いほどわかりました。それでも更生の機会を与えてあげたいと心から願っています。それがごく少数の意見だとしても、市橋君の味方がいなければ可哀想です。

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カリフォルニア州に在住のアメリカ人の義理の息子は、3月20日に行われたロサンゼルスマラソン大会に出場した筈なのに結果の報告がないので、今朝娘に電話をしてみました。現地は今が雨期らしく、冷雨というあいにくのコンディションになってしまい、最後の方は寒くて震えながら歩いたりの惨めな状態で、結局5時間15分という予想外の結果だったとのこと。もう2度とマラソンは走りたくないと言っているとのことでした。
以前、千葉大学走友会の仲間に、フルマラソンは、レースで走る距離(42.195km)の最低10倍の距離(すなわち約400km)をレース前の1ケ月に走り込まないと走れないというのが経験則だと教えられましたが、義理の息子は週3回、20kmずつ走っていると言っていましたので、それでは1ケ月に240km にしかならないので、無理だったのでしょう。
私がフルマラソンで自己ベストの3時間35分を出したのは、今の彼よりも10才くらい歳をとってからの51~52才の頃の佐倉朝日健康マラソン大会でしたが、当時は朝、昼、夕方と3回に分けて走り、1ケ月に400km 以上走り込んでいました。これで今度義理の息子に会う時は、”私に追いつくにはまだまだだな”とからかって大きな顔をしていられます。

私の最後の空手の弟子で、今春修士課程を修了して大田区の青果物市場に就職するT君は学生寮を出て東京の大田区大森にアパートを借りてすでに研修を始めていますが、今日は千葉大学に私を訪ねてきてくれました。気のせいかすでに表情からたくましくなったような気がしたら、何と自転車で3時間かけて大森から松戸まできたとのことでした。昔卒業した空手部のある学生は奄美大島の出身でしたが、夏休みに帰省する時は、鹿児島と大島の間のフェリー区間以外は千葉県の松戸と奄美大島の間を自転車で往復していました。若者のエネルギーは底知れずたいしたものです。

今日もあまり時間がなかったので、私はT君を待っている間に江戸川堤防を6kmだけ走ってきました。

2011年3月23日水曜日

3月21日に振り込まれた方(13回目)の支援金が届きました。日本中の関心が大震災や大津波や放射能汚染問題に注がれている時に、市橋君の適正な裁判を支援する会のことを忘れずに、地道に振り込みを続けて下さりありがとうございます。これで支援金の現在高は109,000円、延べ256人からの合計額は2,909,000円になりました。

今日は千葉大学園芸学部では卒業式で、名誉教授の私も招待されたので列席しました。いつもは千葉市の大きな施設で全学部合同の卒業式を行い、その後チャーターしたバスで園芸学部に戻って卒業生を送る会を実施するのですが、今年は大学全体の式は中止になりました。それでも、卒業する学生にとっては一生に一度の記念すべき行事ですので、男子学生も女子学生も晴着を着て、式の後は庭に出て卒業証書を手に仲間たちと記念撮影をしていました。大学院に進学する学生も大勢いる筈ですが、この若者たちはこれから社会に出てそれぞれの道で活躍する一歩を踏み出すことになります。市橋君が手記の中で書いていた「感謝」という言葉が私の頭の中をよぎり、この学生たちは今、これまで育ててくれた親や家族に感謝しているだろうかと想像しました。そして、皆これからがんばれよと心の中で祝福してやりました。

先日死体で発見されたバングラデッシュからの元留学生の件で、松戸警察を訪ねて、担当した巡査部長から詳しい状況を聞いてきました。遺体は千葉大学法医学教室で司法解剖され、死因は脳内出血と判断され、外傷がなかったことから病死とみなされ、警察も事件性はないと判断したとのことでした。遺体は病院から、バングラデッシュ大使館の許可を得て葬儀屋に引き取ってもらい、そこからバングラデッシュに搬送され(費用はビジネスパートナーとバングラデッシュ協会の仲間が負担?)たのだそうです。すでに故郷の土に埋葬されたようですが、父親代わりの義兄は、本人が生存中にビジネス上のトラブルがあったと聞いていたことと、死体が発見された時の状況から、毒殺されたのではと疑ったようです。大使館には死因不明という最初の報告だけが渡され、その後明らかになった脳内出血の報告は渡されなかったようです。脳内出血の原因が、高血圧によるのか、別の原因によるのかは特定されていませんので、脳と血液のサンプルはまだ保管されているとのことでした。アパートに残された遺品の整理については、今日アパートの管理人を訪ねてみましたが留守でしたので、再度訪ねてどういうことになっているのか訊いてくるつもりです。それも遺族にとっては大事なことかもしれませんので。こういう事情は、早速バングラデッシュ在住の義兄にメールを送って知らせてあげました。

2011年3月22日火曜日

菅野弁護士の事務所に電話をしましたら、2日間は出張中とのことで、25日金曜以降に再度電話をすることにしました。従って、今日は市橋君の様子を伺うことはできませんでした。

先日死体で発見されたバングラデッシュからの元学生A君の義理の兄さん(この人自身も千葉大学で博士号を取得して、現在はバングラデッシュ農業大学の教授で、A君の父親のような存在)のメールアドレスと電話番号がわかりましたので、今朝11時半(現地は時差がマイナス3時間ですから、朝8時半)に国際電話をして話をしました。今月10日にはA君は生きていたのに、その後連絡がとれなくなったのでいろいろな人に捜索を依頼し、ある人が13日に警察と一緒に彼のアパートの部屋に入って死体を発見したとのことでした。イスラム教では死体を解剖することが宗教的に認められないのかどうかはわかりませんが、死体はすでにバングラデッシュの家族の元に送り届けられていて、死因は不明という警察の証明書が付いていたそうです。そうなると、殺人か心臓発作による自然死かわからないので、事件という扱いにはならないのでメディアでニュースとして報道されなかったのでしょう。

東京農業大学では学生の課外活動が再開し、小雨の中をグランドではサッカー部が走り回り、陸上部が100m を全力疾走して残り300m は楽に流すというインタバルトレーニングを何回も繰り返していました。野球部員や陸上部員の側を通ったら、面識はないにもかかわらず、私が年配なので教員と思ったのか "こんにちは" と挨拶をされました。こんな風に若者の元気いっぱいの姿を見られるのは、爽やかな気分になっていいものです。市橋君も高校時代は陸上部だったとのことですので、こういうトレーニングをやっていたのでしょう。私はいつものように昼休みにジムで準備体操と筋力トレーニングをした後、大学の門の外に出て、年齢相応にゆっくり4km くらい走りました。

2011年3月21日月曜日

昨日と今日は終日、千葉大学を定年退職時に研究室から大量の本や、40年分の実験ノートや研究資料や書類や手紙類を移して保管してきた3つの貸倉庫の中の2つの整理をしました。もう必要がないだろうという判断で、学会誌も、書類・手紙類も、日本に帰ってきてからあちこちで野外調査(農薬の生態影響)をした時の記録帳も、長年収集してきた研究用の資料も、アメリカのノースカロライナ州立大学勤務時代の英語で書いた10何冊かの実験ノートも全部廃棄しました。ざっと目を通しながら捨てるものを決めましたが、実験ノートからはそれぞれの実験をしている時の苦労や喜びや興奮が甦ってきました。

ちょうど今、福島県の原子力発電所の事故で放射能汚染が注目を集めていますが、1970年頃に実験室のドラフトの中で放射性同位元素P32を使って標識した殺虫剤の合成をしている時に失敗をして、実験室中を汚染してしまい、しばらくの間実験室が閉鎖されたことを思い出しました。向こうの大学では放射能の検査員が週に1回研究室に廻ってきて、実験台の上や流しや床などの汚染検査をしてくれ、汚染が見つかれば除染もしてくれていました。その時は、白衣だけでなく、上着もズボンも財布も腕時計も靴もその靴で歩いた足跡も汚染していることがわかったのでジャンプスーツ(つなぎ)と代わりの履物を与えられ、今日はこれを着用して帰宅するようにと言われました。風船も膨らませて、呼気に放射能が含まれていないかも検査されました。P32は強いエネルギーの放射線を出しますが半減期が短いので、確か2~3ケ月後に実験室を再開し衣類も返してもらいました。その後、もう一度合成をやり直して今度はうまくいって、それを使ってカブリダニという微小生物の殺虫剤抵抗性はグルタチオンS-トランスフェラーゼ(GST)と呼ばれる酵素による解毒が主要機構であるということを、解明できました。GSTが殺虫剤抵抗性に関与していることを明確に示したのは当時では世界で初めてのことでした。今日はそういう想い出の詰まった実験ノートを全部捨てました。家が狭くて保管する場所がないので、やむを得ません。

私より10才年長だった恩師のW.C.Dauterman 教授が63才で亡くなってからすでに15年という時間が流れましたので、私もそろそろ引退する時期かもしれません。

2011年3月19日土曜日

3月16日に予定されていた布川(ふかわ)事件の再審の公判判決も、リンゼイさん(市橋君)の事件の公判前整理手続きも、延期になったと支援者からの情報が届きました。地震の影響で停電があったり、交通手段が確保できないことが関係しているのかどうかわかりませんが、今後どういう予定になっているのか連休明けに菅野弁護士に電話で訊いてみようと思っています。

昨日はバングラデッシュからの元留学生が住んでいた大学近くのアパートに寄ってみました。2階の彼の部屋の前に置いてある電気洗濯機は蓋が開いたままで、洗濯をし終わって取り出して干そうとしていたような洗濯物がそのまま残っていました。洗濯途中で訪ねてきた犯人に無理やり押さえつけられて毒を飲まされたのでしょうか。現在は遺体は警察の管理下で、死因を特定するために解剖されるのかもしれません。一度は学問を志して私の研究室で博士号取得を目指していた元学生ですが、その後は目標を切りかえてビジネスに従事していましたので、そちらの方で何かのトラブルに巻き込まれたのかもしれません。このような悲惨な結末になったことが信じられない思いです。

今日の江戸川の堤防はポカポカ陽気で暑いくらいでした。多くのランナーや散歩をしている人達と行き交いながら、ゆっくり8km 走ってきました。

2011年3月18日金曜日

3月16日に振り込まれた方(4回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は108,000円、延べ255人からの合計額は2,908,565円になりました。ありがとうございました。この方からはメッセージも添えられていました。

「千葉も地震で大変でした。市橋君も体には十分気を付けて下さい。本山先生もお忙しいとは思いますが、よろしくお願いします。」

地震が発生したのは先週の金曜日11日午後2時46分でしたので、今日でちょうど1週間経ちました。まだまだ行方不明者もたくさんで、確認された死者数と合わせると犠牲者は2万人を超えそうです。歴史的な大地震と歴史的な大津波と歴史的な原子力発電所の大事故で、東北地方の太平洋沿岸は壊滅的な被害ですが、社会は少しずつ落ち着きを取戻し、復興に向けて動き出しているように感じます。

私と一緒に研究をしてくれている博士研究員(中国人)の奥さんと高校1年生の娘さんは、昨日日本を出国し中国の大連に一時帰国しました。外国では、放射能汚染がよっぽど危険な状態にあると思われているようです。私のアメリカ人の友人からも再度メールが届き、車の中でラジオをかけたら、インタビューで日本人のジャーナリストが家族を東京から疎開させたと言っていたけど、本当に大丈夫なのかと心配していました。

今日は東京近郊の電車はいくつかの路線で間引き運転されているだけで、ほとんど普段と変わらず運行していましたので、1週間ぶりに東京農業大学に行きました。いつもは元気のいい学生達で賑わっている野球場もグランドも体育館も無人で、応援団の姿もありませんでした。余震のことも考えて、大学が学生を守るために慎重な対応をしているのでしょう。

2011年3月17日木曜日

先日札幌を訪問した時に、滞在していたホテルで見た3月11日付けの北海道新聞に気になる記事があったので切り抜いておきました。最高検が実施した検事の意識調査で、供述と異なる調書の作成がされることがあり、検事の26%は上司からの指示があった、という内容でした。帰宅後同日付けの朝日新聞を調べてみたら、不祥事を受けて最高検が全検事を対象にアンケートを実施したら、検事の3割が問題のある取り調べを見聞きしたことがあると答えた、という同様の内容の記事が載っていました。

3月10日付けの朝日新聞には、「自白・布川事件の43年・上-物証ゼロ 供述を誘導」という見出しの記事が、続いて3月11日には、「自白・布川事件の43年・中-隠された大量の証拠」という見出しの記事がありました。布川(ふかわ)事件というのは、1967年に茨城県利根町布川であった殺人事件のことで、犯人とされ、無期懲役刑が確定した元被告2人が3月16日の水戸地裁土浦支部での再審の判決公判で無罪となる公算が大きいという事件だそうです(実際にそうなったかどうかは、地震関連記事が満載の17日付けの朝日新聞には報告されていないので私にはわかりませんが)。

検察が強引な取り調べの末に自白に追い込み、それと矛盾する証拠があっても提出しないことがあり、しかも上司がそれを黙認する、というようなことが現在の日本であるというのは信じられないようなショックです。布川事件の当事者の桜井昌司さんは、「無罪の証拠を隠すのは、有罪の証拠を捏造(ねつぞう)するのと同じ、税金を使って集めた証拠は、一体誰のものなのか。少なくとも検察だけのものではない」と憤っているとのこと。

市橋君の事件の裁判にも言える事ですが、司法制度への信頼が失われないように、検察は裁判で事実を明らかにするという基本を忘れないでほしいと思います。

今日も江戸川堤防上は凍えるような冷たい強風だったので、6kmだけ走って帰ってきました。

2011年3月16日水曜日

日を追って明らかになってくる東日本大震災の悲惨な状況には、胸が痛みます。岩手県の花巻近くに住んでいる友人に電話をしてみたら、小さい被害ですんだとのことでした。千葉県銚子にある千葉科学大学薬学部の教授をしている私の研究室の元学生のH君は海の見えるところに家を新築したと言っていたので電話をしてみたら、幸い家は高台の上なので被害はなかったが、低い位置にあった大学の建物の一つに津波の水が入って、床に置いてあったパソコンなどが被害を受けて、事務室が機能しなくなったとのことでした。

海外の報道では今回の被害は日本全国に及んでいるという印象を与えているらしく、今朝はブラジル在住の姉から無事かどうか確認の電話がありました。アメリカでは、福島県の原子力発電所の放射能が東京にまで危険なレベルで到達していると報道されているらしく、カリフォルニア在住の娘から戸外に出ると危ないからと心配した電話がありました。日本の大学には多くの中国人留学生が来ていますが、心配した親から帰国するようにという連絡が殺到しているらしく、千葉大学でも普段は北京まで往復3~4万円の航空券に20万円以上払ってでもすでに帰国した学生がいるそうです。

一昨日は埼玉県での会議が中止になり、今日から玉川大学で始まる予定だった日本農薬学会大会も中止になりましたが、来週予定されていた明治大学での講義の打ち合わせ会も中止、福岡の九州大学で予定されていた日本応用動物昆虫学会大会も中止になりました。私は31日から一泊二日で秋田県立大学への研究打ち合わせの出張を予定していましたが、現地の様子を伺ってみたら、やはりかなりの影響が出ているようなので延期することにしました。お蔭で少し時間の余裕ができましたので、今まで溜まっていた論文書きをしようと思っています。

今日は江戸川の堤防では強い向かい風だったので、往復6kmだけ走って帰ってきました。

2011年3月15日火曜日

3月10日に振り込まれた支援者(2回目のお一人)から、メールで市橋君宛のメッセージが届きました。

「市橋さんに、石を投げる人は多いですが、本山様をはじめ、支援してくれる人もたくさんいますので、その人たちのためにも、がんばって生きてください!!
市橋さんが、やり直しができるチャンスが来るように祈っています!!
これから、生まれ変わるつもりで生きてください!!」

先週3月8日に行われた第15回公判前整理手続きの様子について、支援者のお一人から毎日新聞のサイトに記事が載っているという情報をいただきました。
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http://mainichi.jp/area/chiba/news/20110309ddlk12040166000c.html

(一部抜粋)殺意の有無について、検察側は「ある」と認定して殺人罪で起訴した。だが、弁護側は殺害する理由が不明だと指摘。主任弁護人の菅野泰弁護士は「互いに顔見知りで、事件当日にレッスンがあったことは同僚も知っていた。殺意があったと納得できる動機が検察側から示されていない」と疑問を表明した。
市橋被告が出版した手記の印税について、遺族への被害弁償に充てる旨を書面で遺族代理人に申し入れ、この申し入れ書を千葉地裁が証拠採用することが決まった。

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今朝、元同僚だった千葉大学のある教授から電話があり、バングラデッシュから千葉大学大学院博士課程に留学して私の研究室を専攻していた元学生A君の消息を知らないかと訊かれました。バングラデッシュ在住のA君の義兄から連絡がとれないから、もしかしたら地震の犠牲になったのではと捜索依頼があったようです。A君は千葉大学大学院を単位取得退学後、秋葉原の駅前でビジネス(旅行代理店、アジア食品販売、テレホンカード卸販売など)をしていたのを一度訪ねたことがありますが、その後の交流は途絶えていました。今夕再度メールでの連絡があり、A君は以前から住んでいたアパートの自室で死体で発見されたとのことでした。日本に来ているバングラデッシュ出身の人達は協会(互助会?)みたいな組織を作ってお互いに交流しているようですが、義兄は、発見された遺体の状態(口から泡を吹いて、体が青色)からバングラデッシュ人のビジネスのライバルに毒殺されたという推測をしているようです。これから死因を特定する解剖が行われるのでしょうが、一度は学問を志して私の研究室を専攻した元留学生が、こういう結末になって残念です。

4月29日に開催予定の横浜駅伝大会に向けて、江戸川堤防を昨日は8km、今日は10km走ってきました。これから真剣に減量と走り込みに取り組まなければなりません。私は千葉大学走友会Bチームのアンカー区間(8.195km)を走ることになっています。

2011年3月14日月曜日

3月10日に振り込まれた3名の方(11回目、2回目、2回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は103,000円、延べ254人からの合計額は2,903,565円になりました。ありがとうございました。2回目の支援者はお体が弱いお母様らしく、娘さんが代筆してくれたメッセージをいただきました。

「市橋君もご両親もマスコミの心ないバッシングに負けず、強い心と体に気をつけ、弁護士の方々と本山先生に感謝してがんばって下さい。刑期を終え、いち日も早く静かな生活ができるよう祈っております。」

交通機関が麻痺したままですので、今日10時~12時に浦和で開催予定だった埼玉県の「農産物安全技術専門委員会」は中止になりました。担当の県庁職員も出勤できずに、早朝に自宅から電話連絡が届きました。明日の評議員会から出席予定だった日本農薬学会大会(会場:玉川大学)も中止になりました。長い時間をかけて苦労して準備をしてきた大会実行委員会の皆さんにはお気の毒ですが、こういう状況では仕方がありません。お蔭で私は少し時間的なゆとりができましたが、まだその次の予定が迫っていますので気を抜けません。

11日の午後に起こった東日本大震災と東北地方の太平洋沿岸に押し寄せた大津波による被害は、専門家の想像をもはるかに超える規模だったとのこと。テレビに映しだされる映像や新聞に掲載される写真は、まるで映画のシーンのようで、あらためて自然の災害の恐ろしさと人間の非力さを認識させられました。家族ごと、集落ごと津波に飲み込まれたり、行方不明者を入れると犠牲者は1万人を超える様子。現地で幸い生き残った人たちも、やがて悲しみを克服して、これから生活を再建する長い苦しい戦いが始まるのでしょう。心から健闘をお祈りしたいと思います。

(3月10日のブログに写真を添付しました。房総半島ではもう春だったのが、札幌ではまだ冬でした。)

2011年3月13日日曜日

地震のことで心配して下さるメールが届きましたので、とりあえず私は大丈夫だったことだけでもお知らせ致します。10日の札幌での講演が終わって、11日は新千歳空港を朝9時に出発する飛行に乗って10時半頃羽田に着きました。まだモノレールもJRも動いていましたのでそのまま東京農業大学に行って、研究会に出席しました。イスラエルのテルアビブ大学のBaruch Sneh 教授の講演を聴いている途中で地震があり、一時的に机の下にもぐって避難しました。その後、午後5時頃研究会が終わってから、どうしても翌日12日には自宅で学会の準備をしたかったので、タクシーや地下鉄や徒歩を組み合わせて帰宅しようと試みたのですが、南千住の駅までたどり着いたのは午前2時でした。そこから再度タクシーを拾おうと思って、長蛇の列に並びましたが、寒くて震える中で5時間近く並んでも結局駄目で、12日の朝8時になってやっと再開したJRの常磐線に乗って松戸まで帰りました。自宅では本棚から本が全部落ちたり、食器棚のお皿や茶碗がほとんど床に落ちて割れたくらいの被害ですみました。東北地方の家屋の倒壊や、巨大な津波の流れに飲み込まれた方々に比べれば、不幸中の幸いで幸運でした。

地震のことではアメリカや中国やパキスタンの元学生や友人たちからも心配してメールや電話がたくさんありました。津波の被害の惨状が各国のトップニュースで報道されているのでしょう。

市橋君の裁判に関連していろいろ書きたいことはたくさんあるのですが、明後日16日から始まる日本農薬学会大会での講演発表の準備などで追われていて、今は時間的な余裕がありませんので、一段落したらブログを更新します。

2011年3月10日木曜日

このところ忙しくてブログの更新ができませんでした。3月8日は房総半島の館山の近くの海岸の砂防林で行われた松くい虫の被害木の伐倒・集積作業を視察に出かけました。2年前にヘリコプターによる薬剤散布を中止して以来、被害木が急速に増えて、このままでは海岸の砂防林がやがて消滅してしまうのではと心配になりました。これらの被害木はマツノザイセンチュウに寄生されたマツノマダラカミキリが羽化・脱出して次世代の発生源にならないように、チップ化されるのだそうです。フラワーラインと呼ばれる海岸沿いの道路には菜の花やストックの花畑があり、春一杯でした。

9日は昼頃羽田を発って札幌に入りましたが、今朝は大雪が降って札幌市内は真っ白でした。午後からは北海道無人ヘリコプター安全推進協議会の事業検討会で、「ヘリコプターで散布された薬剤の環境中での濃度と生態影響・健康影響」という演題の講演をしました。無人ヘリコプターのオペレーターの資格を持っている若い農家が中心で約170人の参加者が耳を傾けてくれ、自分たちのやっている仕事に自信が持て元気がでてきたと感想を言ってくれました。
明日は朝新千歳空港を発って東京に戻り、午後からは東京農業大学での研究会に出席します。その後も予定がびっしりで、しばらくは息をつく間もなさそうです。メールをいただいた方に返信ができずに、失礼しています。


支援者の一人から、公判前整理手続きについて毎日新聞のサイトに以下の記事が載っていると情報が届きました。今発売中の婦人公論という雑誌に市橋君関係の記事が載っているという情報も届きました。

http://mainichi.jp/area/chiba/news/20110309ddlk12040166000c.html

2011年3月4日金曜日

3月2日に振り込まれた2名の方(初回、5回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は83,000円、延べ251人からの合計額は2,883,565円になりました。ありがとうございました。5回目の方からは手書きのメッセージがありました。

「市橋達也さんの公正な裁判が行われるよう、毎日祈っております。「祈り」の力は絶大です。支援者皆様の「想い」は、必ず届くと信じております。本山先生、お身体ご自愛下さいませ。」

3月1日に振り込まれた方からはメールでメッセージが届きました。

「支援を始めてから、本山先生の熱意を感じ、支援者の優しさに触れる事ができました。市橋達也さんが裁かれる裁判や生活する刑務所について知りたい思いで、裁判傍聴や刑務所の施設見学をしています。被告人が犯罪を犯すまでに至ってしまった心の闇、被害者やご遺族の悲痛な思いを直接感じ複雑な心境になりました。又、被告人を支援する事に対しても、軽い気持ちでは無く、責任を感じました。刑務所は犯罪者に罰を与え苦しめるところなのか?と言うイメージがありましたが、自由は奪われますが作業の様子や更生に向けての取組、受刑者の生活を知り少し安心しました。
市橋達也さんの体力・精神的な強さに圧倒される反面、切なさを感じたり・・・犯罪者ですが、人として惹かれる部分も有ります。事件と向き合ってから、色々と学び、新しい出会いや思いやりを感じ、プラスになりました。市橋達也さんは決して憎まれるだけでなく、人の力や支えになる事も出来ると思います。
今、出来る事に最善を尽くし、深く反省し罪を償い続けて欲しいです。自分を大切にして、市橋達也さんらしく生きて下さい。ずっと見守ります。」

小田急線経堂駅から通称農大通りを歩いて東京農大の世田谷キャンパスに向かうと、途中にわずかですが日本式の大きな屋敷や樹木が残っています。その中の一つに、「保存木」の木札が付いた大きなアカマツが威風堂々と空を突くように立っている屋敷があり、私はいつも側を通る度に何と見事なアカマツだろうと思って見上げていました。それが、この数日であっという間に切り倒され、家屋も解体されてしまいました。このくらいの大きさの松の樹齢が100年なのか200年なのかあるいはそれ以上なのか私にはわかりませんが、せっかく東京の真ん中で今まで生き延びてきたのに、惜しいなあという気がしました。

伐倒されて細切れにされたアカマツの巨木

2011年3月3日木曜日

3月1日に振り込まれた4名の方(初回、4回目、7回目、3回目、14回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は76,000円、延べ249人からの合計額は2,881,565円になりました。ありがとうございました。メッセージも手書きされていました。

「市橋君の卒論とmoeを送っていただいてありがとうございます。あとの詳しい話はメールで書きます。」
「市橋君に早くみんなの声が届けられ、多勢の人達が更生を願っているので、神を信じ、責任をまっとうしてほしいと思います。本山先生、本当にありがとうございます。」
「先生の2つのGoods Newsと朝日新聞のジャーナリストの評価に嬉しくて涙が止まりませんでした。支援者の思いがひとつになって市橋君の刑期が少しでも短くなるよう毎日祈っております。コピーと小冊子を送って頂けたらと思います。先生、御身大切になさって下さい。三保の羽衣の松が弱っているそうです。」

卒業論文のコピーと小冊子moeは、希望された方にお見せしていますが、送料を心配される方がおられますので、これからは送料受取人払いで宅急便でお送り致します。何人かの方が順番待ちしていますので、届きましたら3~4日で返却していただければ、次の順番の方に発送できます。

先日就職が決まった広島県出身の学生のことを書きましたが、今日は昼休みに彼と最後の稽古をしました。学部生の時から4年間くらい一緒にやってきましたが、私が19才の時から今日まで50年間空手の稽古をしてきた中で、彼が最後に指導した弟子になるでしょう。農業高校出身で地味な学生でしたが、寮長も務め、4月からは花卉(鉢物や切り花)の流通の仲卸の会社で働くそうです。住むところも蒲田の辺りに決まったとのこと、市橋君と同じように郷里を遠く離れて一人暮らしを始めますので、時々は携帯に電話をして元気にやっているか様子を聞こうと思っています。これから社会人になって長い人生を生きるのだから、ちゃんと運動をして健康管理をすることが大事だよと言ってやりました。

2011年3月2日水曜日

2月28日(取扱日は2月27日)に振り込まれた方(3回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は45,000円、延べ244人からの合計額は2,850,565円になりました。ありがとうございました。この方からはメールでメッセージも届きました。

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いつもお忙しい中、ブログの更新ありがとうございます。今日少額ですが支援金振りを込みさせて頂きました。

2月25日のブログに書かれていた2つのGood News・・・
市橋さんが、ご両親に面会に来てほしい旨の手紙を書いたとゆうのを見て、逮捕された時
親に連絡しないでほしいと言っているとニュースで見たので市橋さんの気持ちの変化に、胸がじんとしました。この先、罪を償い謝罪の気持ちを持ち続けていれば、ご両親との面会も許される日が来ますよね。そう願ってます。そして、ブログの記事を見せる予定とありましたが、前に本山教授が市橋さんに見せてあげたいと撮られてた写真も、見せてあげることが出来るんですね。限られた景色しか見ることができない今、懐かしい風景と本山教授や支援者の皆さんの優しい気持ちに、心が癒されるといいですね。

それでは、あたたかくなって来ましたがまた寒さがぶり返してくるようなので、風邪など引かれませんように・・・
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見覚えのないメールアドレスからでしたから多分非支援者だと思いますが、匿名の方から以下のメールと情報が届きました。「刑務所体験作家 本間 龍の日記」の中で、『市橋達也「逮捕されるまで」を読んで』という書評があり、手記を出版した市橋君の気持ちを前向きに評価した感想が述べられています。知りませんでしたので、ありがとうございました。

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本山先生、こんにちは。いつもブログを拝見しています。
今日メールをしたのは、市橋さんの手記に関する書評が下記のWEBにてありましたので、お知らせしたくメールをさせて頂きました。わりと同調的(同情的?)な評価だと思います。もうご存知でしたら申し訳ありません。
http://d.hatena.ne.jp/gvstav/20110201/1296542080
余談ですが、私は以前テレビ番組の制作会社に勤めていましたが、メディアの影響力はものすごいものがあると感じました。視聴者により面白く伝えるために、事実にいろんな情報を追加・編集する等あらゆる演出をします。市橋さんの件に関しても、どこも過剰な演出や方向付けがなされていると感じました。事実を伝えることは大切ですが、視聴者にはどうかこのような演出には惑わされないでほしいと思います。
手記を読んで感じましたし、上記書評にもあるように彼は根は真面目で努力家で忍耐強い性格で、私と年齢が近いせいもありますが、ごく普通の青年だと思います。彼の本質を感じとってほしいです。
最後になりますが、もし、先生のブログを通して彼に伝わるならと思い、メッセージを送らさせて頂きたいと思います。
「市橋さんのことを支援している人はたくさんいます。今はキツイと思いますが精一杯生きて、いつかご自身の高い才能を生かせるよう祈っています。」

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2011年3月1日火曜日

2月27に振り込まれた方(6回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は40,000円、延べ243人からの合計額は2,845,565円になりました。メールでメッセージもいただきました。ありがとうございました。

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 市橋さんの本、購入し読ませていただきました。もとはと言えば、自分が撒いた種ではありますが、それを差し引いても、本当によく頑張った(逃亡のためとはいえ)の一言に尽きます。行動力・体力・知力・・・必ず更生して社会に役立ってくれると思います。

 運命のいたずら・魔がさした・被害者側の落ち度・・・どう理由づけても、市橋さんのしたこと・逃げたことは許されません。批判されることも当然です。 しかし、実際以上に、相手が反論できない状況にいることを良いことに、人の不幸に付け込んで、この時とばかり罵詈雑言をあびせるのは、いかがなものかと思っています。 逮捕時にわめいていた野次馬や、マスコミなどです。
 「今、自分が出て行ったら、さらしものになる」と、市橋さんが出頭しなかったように、報道は必要なものですし、犯罪を憎む気持ちも大切なものではありますが、犯罪に乗じた「お祭り騒ぎ」はなくしていかなければならないと思います。

 裁判が公正に行われることはもちろんとして、世間の人にも本当の市橋さんの姿を知ってもらうことも大切だと思います。 刑を終えて出てきたときに、少しでも暖かく社会が迎えてくれるよう、市橋さんが自分らしく生きていけるように。理解者が増えていくことを期待しています。
 季節の変わり目ですが、本山先生・弁護士の先生方・市橋さん・ご家族様、くれぐれもお身体ご自愛下さいませ。
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今日は東京農業大学第一高等学校の卒業式でした。式は大学の方のキャンパスの百周年記念講堂で行われたらしく、息子・娘の晴れ姿を撮ろうとカメラを手にした若いお母さんたちがたくさん講堂の外で待ち構えていました。第一高等学校は大学と道を一本隔てた隣の敷地にありますが、垣根に沿って植栽してある早咲きの桜(河津桜)の木々がピンク色の花を咲かせていました。子供たちが、戦争に巻き込まれることもなく、こうして各々の次の目標に向かって前進していけるのはすばらしいことだと思いました。