2010年10月30日土曜日

10月28日に振り込まれた2名の方(お二人とも8回目)の支援金が届きました。これで現在高は54,000円、延べ182名からの合計額は2,325,565円になりました。息の長いご支援をありがとうございます。お一人からはメッセージが添え書きされていました。「寒い日々が続いていますが、本山先生をはじめ支援する会のスタッフの皆さま、おかわりございませんか? 8回目の送金です。以前TVで市橋さんの手紙が公開された際、TV関係者の方々の厳しい発言に世間の方々の考え方と自分の考え方の差がこんなにもあるのかと落胆しましたが、私の、市橋さんにもう一度人生をみつめ直しやりなおして欲しいという想いは変わらず、こんな私の存在も神さまは認めて下さると信じています。」

「市橋達也君の適正な裁判を支援する会」は、無償で弁護を引き受けてくれた弁護団の裁判活動の費用を支援することで、市橋君が適正な裁判を受けられるようにすることを目的としていますが、ほとんどの支援者は、市橋君が犯した罪に相当の罰を受けることはやむを得ないと考えつつも、できたら死刑ではなく、市橋君には罪を償った上で人生をやり直すチャンスを与えてほしいと願っているのでしょう。

支援金を送って下さる方の中には、匿名の方もおられますし、名前を公表してほしくないという方もおられますので、支援する会のスタッフは代表の私一人だけです。お手伝いをしてもよいと申し出て下さった方もおられましたが、支援者のプライバシーを守るために、顔を表に出した私一人でやっています。そのために、最近は振り込みがあっても礼状を出せない場合がほとんどで、お便りをいただいても返事を差し上げずに失礼していることをお許し下さい。ただし、本ブログでの報告だけは入金の度に欠かさずしていますので、振り込まれたお金が私のところに届いたかどうかをご確認下さい。

2010年10月29日金曜日

10月24日に振り込まれた方(4回目)と10月26日に振り込まれた2名の方の支援金が届いていました。これで支援金の現在高は43,000円、延べ180名からの合計額は2,314,565円になりました。ありがとうございました。
菅野弁護士から連絡があり、11月2日に弁護団会議を開いて、市橋君の指導教員の一人だったM教授と会って相談する日程の調整結果を11月4日に知らせていただけるということになりました。

支援者のお一人から、先日ニュースが伝えていた耳かき店員殺害事件の裁判を傍聴してきたとのメールをいただきました。亡くなった人を生きて返してほしいという被害者遺族の切々たる訴えに、多くの方々が胸を詰まらせて涙を流していたとのことでした。市橋君の公判でも、リンゼイさんのご両親の同様の訴えに、市橋君は自分の犯した罪がどれほど人を不幸にしたかをあらためて実感することになるのでしょう。

函館市湯の川温泉で開かれた農薬環境科学研究会は昼で終わって、エクスカーションとしてバスで道南地方農業の実態視察をして、今夕松戸に帰ってきました。七飯(ななえ)町は、プロシア人のR.ガルトネルという人が五稜郭を占領した榎本武揚(後に東京農業大学の創立者になった)と開墾条約を結んで明治2年に大規模な農場を開いて、リンゴを日本で初めて栽培した場所とのことでした。大沼国際セミナーハウスと城岱(しろたい)牧場を回って、函館空港に戻りました。大沼国定公園は紅葉が真っ盛りでした。城岱牧場は山の上の町営牧草地で、春から10月20日まで牛を預かって放牧するそうですが、ちょうど牛が下山した後でした。昨夜バスをチャーターして登った函館山から眺めた夜景は、さすが日本の3大夜景と自慢するだけのことはありました。津軽海峡を越えて、遠くに青森県側の灯りも見えました。

今回の研究会のテーマは、「土壌残留農薬の挙動と農作物及び周辺環境への影響」で、特別講演と7題の講演がありました。約100名の参加者が全国から集まり、熱心な討議が行われました。私は参加者の中で最長老に近い年齢だったからだと思いますが、情報交換会(懇親会)の中締めの挨拶を頼まれました。気持だけは現役のつもりでも、こういう挨拶を頼まれるようになったということは、私もそろそろ引退の時期が近づいたということなのでしょう。

2010年10月27日水曜日

昨夕は東京農業大学の帰りに千葉大学園芸学部に寄って、市橋君が専攻していた庭園デザイン学研究室のM教授に会って、お礼を申し上げるとともに、市橋君が在学していた当時の様子をさらに伺ってきました。私が指導していた生態制御化学という実験科学の分野と違って、庭園デザイン学では必修単位の卒業研究の成果を論文(研究)として提出する場合と作品(計画・設計)として提出する場合が認められていて、市橋君は論文の方を選んだので、すでに退職されたもう一人のO教授の指導を主に受けていたとのことでした。

函館に早めに到着しましたので、地図を片手に興味のあるところをいくつか歩いて回ってみました。予想と違って雪はありませんでしたが、寒くて手がかじかみました。函館港には、1988年(昭和63年)に廃止されるまで1908年(明治41年)から80年間青森と函館の間で人と物資を運んでいた青函連絡船の一つ摩周丸が記念館として展示されていました。確か1962年か1963年頃だった筈ですが、千葉大学空手部の夏合宿が北海道大学空手道場で行われた時に、私は青函連絡船に乗った記憶があります。吉永小百合が私達の世代の憧れだった時代で、仲間と一緒に甲板のデッキから景色を眺めて感傷的になったのを思い出しました。あれから時代が変わり、青函トンネルを列車が走るようになり、飛行機が移動の主流になりました。

函館山の裾にある函館北方民族資料館にも行きましたが、受付を通ってすぐの展示室1にある「アイヌ風俗12ケ月屏風」は江戸時代の和人(日本人)の絵師が描いたものを拡大複写したもののようですが、あまりにも不思議な感じがしたので、質問をしたら年配の学芸員が一つ一つの屏風に描かれている絵に含まれる意味を丁寧に説明してくれました。内地の日本人に興味を抱かせて屏風絵を買ってもらうために、例えば1月なのに裸足で(実際にはアイヌの人は皮で作った靴を履いていた)鳥居の前で日本人との交易で得た珍しいもの(オモチやタバコの葉や紋付など)を持って嬉しげに歩いているなど、ちょっと見ただけでは何故本来多神教のアイヌ人が日本の神の象徴の鳥居と一緒に描かれているのかわかりません。アイヌ(人間)という言葉自体も最近まで蔑称扱いで、ウタリ(仲間)という言葉が使われたとのことでした。ちょうど先月末に訪ねたアメリカのチェロキーインディアン保護地区で見たのと同じように、アイヌの人達は私達の先祖の日本人に酷い扱いを受け、悲惨な運命をたどったのでしょう。

今夜は五稜郭(ごりょうかく)の近くに宿を取りましたので、明日は朝早く起きて、研究会が始まる前に五稜郭の辺りを散歩するつもりです。


2010年10月26日火曜日

今日も初めての方からメールが届きました。「本日、市橋さんの適正な裁判を支援する会宛に振込みました。少ないですが、適正な裁判の為にお役だてください。被害者のご家族に市橋さんの謝罪の気持ちが届きますように」というメッセージをいただきました。ありがとうございます。

ニュースでは、耳かき店員とその祖母を刺殺した被告に対して、検察が裁判員制度で初の死刑求刑をしたと報道しています。被告は反省し謝罪したものの、遺族感情は厳しく、極刑を求めているとのこと。判決は11月1日に言い渡されるようですが、裁判員らがどう判断するか・・・。

私は、今週28日~29日に函館で開催される日本農薬学会の農薬環境科学研究会に参加するために、明日早朝に出発します。幹事会出席で早めに到着するので、函館山に登ったり五稜郭の辺りをジョギングできたらと思っていましたが、気象情報では現地は雪とのことですので、残念ながら無理なようです。

2010年10月25日月曜日

10月21日(2回目)と22日に振り込まれた方の支援金が届きました。前回までに振り込まれた支援金は全額菅野弁護士にお渡ししましたので、支援金の現在高は13,000円、延べ177名からの合計額は2,284,565円になりました。ありがとうございました。

2010年10月22日金曜日

昨日の夕方松戸に帰ってきました。初めての方から支援金を振り込んだとのメールが届いていました。ブログを欠かさず読んで下さっているとのことありがとうございます。今まで躊躇していたけど、支援金によって検死報告書の再鑑定も可能になり、結果として検察側が死亡推定時刻について主張を変えざるを得なくなったということから、支援金は適正な裁判を可能にすることを認識されたとのことでした。支援金は振り込まれてから届くまでに2日かかりますので、月曜には届くでしょう。

岡山県での松枯れと松茸の視察旅行はわずか一泊二日でしたが、大変有意義でした。ヘリコプターで松くい虫防除の薬剤散布をしている山は元気な松が再生して松茸も発生し、薬剤散布をしていないところは、元々この地方の自然植生で純粋な松林だった山の松が松くい虫の被害で枯損して全滅し、他の雑木に置き換わっているということをこの目で確認し、写真や映像も撮ってくることができました。松かさがはじけて出てくるアカマツの種子は小粒で羽がついているので、風で分散するそうです。高梁(たかはし)市の山のように隆起してそれほど時間が立っていない山の土地は痩せているので、痩せた土地でも育つ松が自然に優先種だったようです。

谷底に位置する川沿いの道からは見えない両側の山の頂上には昔からの集落が存在し、野生動物と戦いながら農業をしていました。終戦で朝鮮から引き揚げてきた私の父(その後ブラジルに移住)が、宮崎県須木(すき)村の山を開墾してサツマイモを作っていた時に猪との戦いだったのを思い出しました。岡山県高梁市上布賀(ふか)の人々は、今でも猪、鹿、ハクビシン、ヌートリアと戦いながら米や野菜や果物の生産をしていました。

なお案内してくれた知人によると、軍国主義時代の中学の教科書に「キクチコヘイハテキノタマニアタリマシタガ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」と書かれた日露戦争の英雄「木口子平」は、途中、成羽(なりわ)川沿いの山の中腹に4~5軒の屋根が見えた集落の出身だったそうです。こんな小さな山村の出身の若者が戦場に送られ戦死したことは、戦争がいかに馬鹿げたことかを思い起こさせます。

2010年10月21日木曜日

今日は知人の高校時代の先輩で、農業高校の教員を定年退職後吉備(きび)中央町議会議員をしているN氏の松山に入山し、松茸の生えているところを見せてもらい収獲もさせてもらいました。

N氏の口利きで吉備中央町の農林課長を訪問し、町が松くい虫防除のために4地区の松林(計341ha)で有人ヘリコプターによる薬剤散布を続けて松を守ってきたことの説明を受けました。車で回ってみたら、昨日見たほとんどが枯死した松林と違い、林道沿いの松も斜面の松も青々と元気よく見えました。単に松茸生産のためだけでなく、アカマツは町の樹でもあるので、町の誇りとしてこのアカマツ林を守っていきたいとのことでした。

2日間にわたって知人の車で山の中を走り回りましたが、岡山県がこんなに山だらけだとは知りませんでした。地面が隆起して間もないことを示す急峻な岩壁や、美しい山の景色と不釣り合いな、上流の新成羽(なりわ)川ダムの浚渫工事が行われていて清流(成羽川)に何ケ月も汚濁水が流され続けているためにアユもそれを餌とする川鵜もいなくなった現実(電力会社による環境汚染問題)や、山の上の集落に住む人達の厳しい生活の様子など、勉強になりました。

2010年10月20日水曜日

今朝6時頃松戸を出発して新幹線で岡山県に来ました。知人の車で高梁(たかはし)市の山村を廻り、松くい虫防除の薬剤散布を中止したために松が全滅に近いくらい枯死している悲惨な様子を視察しました。将来松枯れ問題に関するテレビ番組を作るときに使えるように、写真(静止画)と映像(動画)をたくさん撮りました。

知人の生家は標高450mくらいの山の頂上の集落にあり、平家の落人が隠れ住んだところとのことですが、ブドウ(ピオーネと呼ばれる紫色の大粒種)や野菜や稲を作って生活しています。明日は松茸を守るために薬剤散布を続けているので松枯れがほとん見られないという山を視察する予定です。夏の高温・乾燥で今年は松茸が不作と言われていたのが、ここにきて降雨があったので発生してきたという山に入って現場を見せてもらうとともに、山主さんから話も聞く予定です。新幹線の岡山駅の売店には、岡山産松茸が5ケ入って10,000円という箱が並んでいました。

知人の生家の辺りは周囲が山ばかりなので、集落の周囲は野生動物の侵入を防ぐために電気柵を張り巡らせてあるそうですが、それでも猪と鹿とハクビシンとヌートリア(昔、毛皮目的に輸入され、その後野生化した巨大ネズミ)と害虫との戦いだそうです。

今夜は総社(そうじゃ)市のサントピア岡山総社という元厚生年金保養施設(民間に売却された)に泊まって、明日の夜には松戸に帰ります。

2010年10月18日月曜日

10月15日に振り込まれた方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は207,000円、延べ175名からの合計額は2,271,565円になりました。ありがとうございました。

今日は菅野弁護士の事務所を訪ねて、その後の支援金207,000円をお渡ししてきました。今日は第6回の公判前整理手続が行われましたが、検察側が強姦致死・殺人の根拠としていたリンゼイさんの死亡推定時刻を、事件の起こった3月25日午前10時ちょっと過ぎというのを取り下げて、26日夜までに死亡と変更したとのことです。これは、市橋君の証言ならびに弁護団の主張と一致します。

英語のレッスンを受けたのは3月25日朝で、その後リンゼイさんと同居していた2人の女性からリンゼイさんが行方不明だからと捜索願が出され、26日夜には警察が市橋君のマンションを訪ね、市橋君には逃げられたけれどもリンゼイさんの遺体を発見しました。警察はマニュアル通り遺体を検分して、死亡時刻の推定に重要な直腸温度(19.6℃)を測定記録し、その後遺体を冷蔵庫に保管してしまったので、28日に千葉大学医学部法医学教室の岩瀬博太郎教授によって遺体解剖が行われた時には死亡時刻を推定することは不可能な状態でした。そこで、死後2日以内というような幅のある推定になったようです。検察側は、強姦致死・殺人が行われたとする自分たちの見立てに不都合な警察による直腸温度の測定記録を出さなかった(隠した?)のを、弁護側の証拠開示要求で開示せざるを得なくなり、さらに弁護側が検死報告書を別の大学の法医学教室の教授に再鑑定してもらった(私たちが提供した支援金が使われた)結果などに対して、死亡推定時刻を変更せざるを得なくなったようです。

これで、強姦してすぐ殺したという検察側の主張した見立ては崩れたわけですが、殺人という起訴罪状を取り下げるかどうか(従来の例では取り下げない場合が多い)は、11月16日に予定されている第7回公判前整理手続で明らかにされるのかもしれません。

折しも、郵便不正事件で、大阪地検特捜部の主任検事(元)が証拠隠滅罪で起訴され、フロッピーディスク内の文書の更新日時を自分たちの見立てに都合のよいように改ざんしたことを上司も承認したと報道されています。私は今まで検察は事実だけを明らかにするところとばかり思っていましたが、最近続々と明らかになる冤罪事件の例をみると、検察という組織に構造的・体質的な問題があるのかと信じられない思いです。

菅野弁護士から、これまでの裁判活動の収支報告を文書でいただきました。これまでに約50万円が実費として支出されています。適正な裁判が行われるために、私たちが提供した支援金が大変役に立っています。来年3月~4月と予想される公判まで、弁護団にはこれからも多くの時間を使ってがんばっていただかなければなりませんので、引続きご支援をよろしくお願い致します。

なお、市橋君は自殺の恐れがあるということから収容されていた病舎から、未決囚が収容される普通の独居房に移されたそうです。外部との手紙のやりとりや接見ができないのは今まで通りですが、私物を手元に置くことや、決められた時間に運動をすることなどは認められるようになったそうです。

2010年10月16日土曜日

市橋君が千葉大学園芸学部で卒業論文の研究で専攻した研究室の教授が先月卒業生にメールで市橋君の現状とこのブロクについて紹介して下さったということで、昨日同じ研究室を専攻していた元学生から支援金を振り込んだという連絡がメールで届きました。支援金は来週の月曜には届くでしょう。「今まで市橋君のことを気にかけていたけれど、何もできずにおりました。わずかばかりですが、今私ができることとして、市橋君を支援していけたらと思っております」というメッセージがメールには書かれていました。同じ研究室の元専攻生として2人目です。昔の仲間からの支援ですから、市橋君が知ったら皆が彼を支えようとしていることがわかり、励まされる筈です。

今日の東京での農業高校の教員を対象にした農薬セミナーは、約2時間の私の話を全員熱心に聴いてくれました。私の研究室を専攻した元学生の中にも、現在東京都の農業高校の教師をしている人がいますが、今日は参加していませんでした。終わってから、立食スタイルの簡単な懇親会をしました。その席でもいろいろ質問が出たりして、先生方の熱意が垣間見えました。私の講義を聴いて農薬に関する誤解が解けて見方がガラッと変わったと言ってくれた人も何人かいました。

先週の土曜に帰国してから1週間が経ちましたが、待っていた仕事を一応こなしましたので、明日の日曜はゆっくりできます。

2010年10月15日金曜日

10月13日に振り込まれた2名の方(3回目と6回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は187,000円、延べ174名からの合計額は2,251,565円になりました。「市橋さんへ、今回で3回目です。又1,000円のみでごめんなさい。相変わらず病気で働けません。今後もできる限り協力します。がんばって!!」「涼しくなったので拘置所の中少しは過ごしやすくなったでしょうか。市橋さんが死刑や無期にならないように毎日祈っています。応援しています」というメッセージが添えられていました。ご自分の生活が厳しい中で送って下さる1,000円は大金です。市橋君がこれらの支援者のお気持ちを知ったら、きっと励まされ、しっかり生きて罪の償いをしなければいけないと思う筈です。ありがとうございました。

今日は東京で(財)残留農薬研究所主催の第11回IETセミナーがあり、私も出席しました。「土壌中残留農薬等の後作物への移行性の解明に向けて」というテーマの下に、4題の講演がありました。神戸大学の乾 秀之講師は、「残留性有機汚染物質の植物による吸収及び蓄積機構の解明」について、これぞ大学の基礎研究といえるようなすばらしい研究成果を発表しました。(社)日本植物防疫協会理事の藤田俊一氏は、「土壌中残留農薬の後作物移行に関する実態」について、多数の農薬と多数の作物の組み合わせで、前作物に使った農薬が後作物にどれだけ移行するか、それにはどういういう要因が関わっているかについて膨大な試験データを紹介しました。(財)残留農薬研究所の林 靖氏は、今でも場所によっては土壌中に残っている有機塩素系殺虫剤ヘプタクロールがどのような機構で作物に移行するかについて、飯島和昭氏は後作物移行性試験に関する世界的動向について解説しました。
いずれも安全な農作物を生産する上で重要な問題で、特に日本植物防疫協会と残留農薬研究所の研究は、大学や国の研究機関では対応できない課題を扱っており、両方とも農水省の外郭団体ではありますが、余人をもって代え難い役割を十二分に果たしているという印象を受けました。

2010年10月14日木曜日

10月12日に振り込まれた方(6回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は181,000円、延べ172名からの合計額は2,235,565円になりました。ありがとうございました。いろいろなご事情がおありの中で、市橋君に適正な裁判を受けさせるために何回もご支援下さり本当にありがとうございます。

先日取材に来られた日本テレビの番組DONのディレクターから午後1時頃電話があり、本日12時15分くらいから放送予定だった葉もの野菜の収獲後の光合成や農薬問題に関する番組は、チリの炭鉱労働者救出の特別番組が入ったので延期になったとのことでした。

明後日16日に東京で予定している農業高校教職員対象のセミナー「農薬の役割と安全性の最新情報」の資料の準備が出来たので、今日宅ファイル便で発送しました。農薬の安全性はどのように確保されているかに加えて、無農薬栽培は必ずしも安全とは限らないという話をするつもりです。千葉大学園芸学部ではいろいろな研究が行われていますが、病害虫を無防除で栽培しているダイズ畑があるので見に行ってみましたら、害虫(主にハスモンヨトウ)が大発生して激甚被害で、収獲はほとんどゼロに近い状態だったので写真を撮ってきました。これほど酷い被害も珍しいですが、農薬がいかに作物生産に貢献しているかがわかります。


2010年10月13日水曜日

東京農大の研究室にTBSテレビの報道局Nスタのディレクターの一人が取材に来られ、「家庭菜園ブームの裏側で見たものとは!」(仮題)というのが切り口の番組でしたので、カメラが回る中で、家庭菜園といえども、病害虫が発生して手に負えない時は、インターネットで流通したりホームセンターに並んでいる怪しげな資材(いわゆる植物抽出液や自然農薬の類)に惑わされずに、農薬はちゃんと登録のあるものを選んで適正に使うことが必要という指摘をしておきました。その後、車で松戸に移動し、千葉大学園芸学部の研究圃場や共同研究をしている研究室の実験室風景の映像を撮っていきました。ずい分長い時間カメラは回っていましたが、実際に放送される時は編集され、ストーリーに会う場面を切り取った短いワンシーンになるのが普通です。来週19日(火)の18時15分頃からの特集コーナーで放送予定だそうですが、どういう編集がされるか興味があります。

このディレクターは、何年か前に市橋君が逃走している最中に、私が当時のTBSの取材に応じて、テレビで自主的に出頭するように呼びかけた(そのために当時の学部長に呼び出され、取材禁止に違反したので懲罰委員会にかけるぞと脅かされましたが)のを覚えておられました。

今週の土曜16日と来週の土曜23日には東京で農業高校の教師を対象にした農薬に関するセミナーが予定されていますので、私が担当する約2時間の講義の準備に今からとりかかり、明日中には資料を送付しなければなりません。

2010年10月12日火曜日

支援者のお一人からネットで支援金を振り込んだというメールの連絡が届きました。また、菅野弁護士からも連絡があり、支援金をお届けするのは10月18日ということになりました。第6回目の公判前整理手続が予定されている日ですので、市橋君のその後の様子なども伺ってきます。

ニュースでは、郵便不正事件の証拠を改ざんしたとして逮捕された大阪地検特捜部の元主任検事が、証拠隠滅罪で起訴されたという話題が賑わしています。検察官というのは、無実の人を有罪にするために都合の悪い証拠を改ざんするようなことがあるのか? 難しい司法試験に合格して検察官になっている筈なのに、何故そんな馬鹿なことをするのか(人を有罪にすることが自分の功績として評価されるのか?)、信じられない思いです。市橋君の事件を担当している検察官は、まさか事実を曲げてでも自分たちの描いた事件の構図を無理に通そうというようなことはないと信じますが。

今日の午後の千葉大学園芸学部・公民館連携市民大学講座「食に関する誤解を解く~知っておきたい食の現実」には、70名くらいの申込者から32名が選ばれて出席していました。私は「農薬と食品安全」を担当しましたが、その他に、「輸入食品の安全性」や「食品添加物と食品安全」や「GMOと食品安全」や、「市内植物工場見学」なども組まれています。

私は松戸市文化ホールでの2時間の講演が済んだらすぐ東京農大の研究室に行き、日本テレビが昼11:55~13:55に放送しているDONという番組の取材を受けました。野菜の残留農薬の安全性に関する質問をされましたが、明後日14日(木)の12時15分頃に放送予定と言っていました。以前はテレビで農薬のことを取り上げるのはタブーだったようですが、再近は変化が見られるとのことでした。明日の午後はTBSテレビが夕方16:53~19:00に放送しているNスタという番組が、やはり農薬問題について取材に来ることになっています。こちらの方は19日(火)の特集コーナーで18時15分頃から放送予定だそうです。あらかじめ質問事項が届いていますので、どう答えるか今から少し考えておこうと思っています。

2010年10月11日月曜日

アメリカ滞在中に、市橋君の事件について、Western People(西洋人)の感覚では市橋君のしたことは言語道断で、特に自分の娘が被害者だったらと想像したら情状酌量の余地は全くないと言われました。リンゼイさんのご両親も恐らく同じ心境で極刑以外には考えられないと主張しておられるのでしょう。故W.C. Dauterman先生の奥様だけは、私は元学生の市橋君に適正な裁判(Fair Trial)を受けさせたいので支援する会を立ち上げて募金活動をしているのだと申し上げたら、どんな人間でも適正な裁判を受ける権利があるので、私のしていることは正しいと言って支持して下さいました。
今日はメールで菅野弁護士にその後振り込まれた支援金をお届けする日程調整をお願いしました。

一昨日に帰国して、幸か不幸か予定していた松茸収獲の映像撮影の出張がなくなったので(今年も全く不作で発生してこないとのこと)、昨日と今日は明日行われる千葉大学・公民館連携講座「食に関する誤解を解く」の講演の準備ができました。やっとパワーポイントのスライドを宅ファイル便で送りましたので、夕方道場で筋力トレーニングをした後、江戸川の堤防に走りに行きました。多くの人が散歩をしたり、ジョギングをしたり、自転車に乗ったりしていました。私は往復8Kmを景色を眺めながら、ところどころ歩いたりしてゆっくり走りました。ノースカロライナ州の湖と樹木しか見えない森の中のジョギングコースと違って、堤防の上からは常にビルや人家が目に入りますが、北東の方角には家々の間に筑波山の山影がぽっかり見え、関東平野の西の地平線には夕日が沈んでいくのが見えました。
これからまた、スケジュールに追われるような日本での生活が始まります。

2010年10月9日土曜日

先ほど松戸の自宅に到着しました。その後、10月4日に振り込まれた方(7回目)、10月6日に振り込まれた2名の方(7回目と2回目)の支援金が届いていました。これで現在高は171,000円、延べ171人からの合計額は2,235,565円になりました。「・・支援者の方々のメッセージを読むと涙がでます。嬉しくなります。本山先生、証言してくれるお友達・弁護士の方々・支援者の方々に感謝して、ご両親のためにも気持を強く持ってがんばって下さい。いつでも応援しています」、「少しばかりですが2回目の支援金を送ります。本日の新聞で市橋君の手紙の件を読みました。心より市橋君の更生を願っております。支援する大勢の人達の声が市橋君に届くことを願っております」というメッセージも添えられていました。その他に、手紙のことが公表されて以来、メールで何人もの方からメッセージも届いています。
明日にでも、集まった支援金を菅野弁護士にお届けする日程調整をお願いしようと思っています。

昨日の朝(現地時間)、娘の車で空港に行く途中でSanta Monicaの子供たちの学校(Mckinley School)に再度寄りました。朝8時15分に到着すると、大勢の子供たちが運動場で元気よく走り回っていました。白人、黒人、アジア系、ヒスパニック(メキシコ人など)系、それぞれのハーフ、の子供たちが分け隔てなく本当に仲良く遊んでいました。車で送ってきた親たちも自分の子供と英語で話したり、スペイン後で話したり、中国語で話したり、日本語(私の娘)で話したり、カリフォルニアという土地柄なのかもしれませんが、まるで世界の縮図を見ているようでした。8時半になったら、それぞれのクラスの先生が担任の子供たちを整列させて教室に引率していきました。

ロスアンゼルス空港で、Scientific American という雑誌の表紙の "Human Evolution Is Not Over" (人類の進化は終わっていない)という記事の見出しが目にとまったので、一冊買って飛行機の中で読んでみました。人類(私たちの祖先のホモサピエンス)が約6万年前にアフリカ東部から世界中に移動分散し、どのように進化して現在の姿になったかを遺伝子の解析から推察した記事でした。昔は長い時間をかけて移動したので、定着した場所毎に隔離が起こり、それぞれの地域の気候や環境に適応するために、黒人や、白人や、モンゴロイド人や、ポリネシア人などの人種ができたのでしょう。
Jonathan K. Pritchard: How we are evolving, Scientific American  p.40-47, October 2010.

サンタモニカの小学校で見た光景を思い出し、もしかしたら現在はそれと逆のプロセスが起こっているのかもしれないという気がしました。原始時代と異なり、交通手段が発達し、遺伝子の突然変異以外にも環境に適応するいろいろな方法(衣服や住居など)を得た現在では、再移動が簡単になり、人種の融合が起こって、再びひとつの人類に戻りつつあるのかもしれないという気がしました。
そう考えると、国と国の戦争や、民族と民族のいがみ合いは馬鹿げたことに思えてきます。

2010年10月7日木曜日

オレゴン州のRoseburg を朝5時半に出発して空港に向かい、Eugene-San Francisco-Los Angeles という経路でカリフォルニア州に来ました。娘が空港で待っていてくれて、Santa Monica に来ました。子供3人が小学校や幼稚園に行っているので、迎えに行くついでに学校や教室の中も覗いてみました。20人くらいの生徒数に先生が一人とアシスタントが一人という恵まれた環境でした。白人や黒人やアジア人やヒスパニック系の子供たちが皆一緒に勉強したり遊んだりしていました。

建物もラテン系の造りのものがたくさんあり、街路樹も高温の半乾燥地帯のような樹種が目だって、オレゴン州の景色やアメリカの東部海岸とは印象が全く異なります。義理の息子が庭のグリルで焼いてくれたステーキの夕食を食べました。孫たちは、8月に日本に来ていた時は日本語で話していたのに、すっかり英語で話すようになっていました。

明日は娘が子供たちを学校に送っていく車に同乗して、Los Angeles 空港に送ってもらって日本に帰国します。時差の関係で日本到着は9日になりますが、翌日からは早速仕事が待っていますので、これでバケーションは終わりです。

2010年10月6日水曜日

昨日は飛行機をRaleigh-Washington DC-San Francisco-Eugene と乗り継いで、夕方オレゴン州のEugene 空港に到着しました。故Dauterman 先生の奥様の住んでいるRoseburg というところは、空港から100Km くらい離れた人口22,000人の小さな田舎の町です。奥様と長男のWalter Jr  君が迎えに来てくれていて、途中小高い丘の上にあるKing Estate Winery というレストランに寄って夕食をしました。全面積1100エーカーという広大な農場の約半分(470エーカー=約190ha)がぶどう畑で、日本のように水平の棚ではなく、管理作業がし易いように垂直の垣根型に仕立てたぶどう畑が見渡す限り広がっていました。ここで収穫したぶどうから作ったぶどう酒をアメリカ全土だけでなく、外国にも輸出しているとのことでした。寒くて手がかじかむくらいだったので、暖炉の赤い火が燃えているしゃれた部屋でワインを飲みながら食事をして外に出て、空を見上げたら満天の星空で、まるで星が降ってくるという表現がピッタリのような無数の星が輝いていました。こういう自然の雄大さに接すると、人間と人間のつながりの暖かさがよりありがたく感じられます。

夜遅く奥様の家に到着して、ベッドで寝ていたら夜中に日本のテレビ朝日と日本テレビから携帯に計4回電話がありました。市橋君がリンゼイさんのご両親宛に書いた手紙が弁護団から公表されたことに関する電話取材でした。私自身は、リンゼイさんのご両親の代理人から受け取りを拒否されたことは知っていましたが、手紙の内容を見ていないのでちょっと戸惑いましたが、日本テレビの方が一部読んでくれたので何が書かれていたのかが正確にわかりました。その後、支援者の方々からも連絡が届きました。イギリスの新聞The Times 社の東京支局長が取材に来た時に、イギリスの新聞に手紙の内容が掲載されれば、リンゼイさんのご両親にも見てもらえる可能性があるので、代理人には受け取りを拒否されたけれども、市橋君の反省と謝罪の気持を間接的にご両親に伝えられるのではないか、という話になりました。その結果、弁護団が手紙をThe Times社の東京支局長に見せ、それがイギリスの新聞に掲載され、それが日本のメディアにも伝わり、弁護団が公表するに至ったというのが経緯です。

手紙の内容は、まさに市橋君が自分が犯した罪の重大性を認め、心から反省し、リンゼイさんのご両親に精一杯の言葉で謝罪を伝えようとしています。ご両親にすなおに気持を受け取ってもらえなかったのは残念ですが、元教師としては、やはり私の知っている市橋君らしく、よくそういう気持になってくれたと嬉しく思いました。命のある限りこの十字架を背負い続けなければならない、ということを市橋君自身がしっかり自覚していることが読み取れますので、生きることが許されるなら更生の可能性は十分あると感じました。

今朝はこちらは秋晴れの最高の天候でしたが、Walter Jr が運転する車に乗って奥様と私と3人で138号という山道を登って、山の頂上にあるCrater Lake という国立公園に指定されている湖に行きました。7千年くらい前の火山の噴火でできた噴火口に水が貯まってできた湖ですが、透明度が世界で1、2位という真っ青な水の色をしていました。噴火口の褐色の斜面と真っ青な水の色のコントラストが何とも言えず美しく、神秘的でした。すそ野の方には火山灰が何mも堆積しているらしく、いまだに木が生えない砂漠のような大地が広がっていて異様な景色でした。

夕方Roseburg の町に戻ってきて、故Dauterman 先生の次男John 君の家でご馳走になりました。John 君はノースカロライナ州にある名門のDuke University の医学部卒の医師で、近くの病院で病理科の専門医として勤務しています。今は専業主婦をしている美人の奥さんと3人の息子(9才、7才、2才)と暮らしています。息子たちが昆虫採集に夢中だというので、千葉大の応用昆虫学研究室専攻の学生に作ってもらった日本の昆虫の標本をお土産にあげたら、大喜びしていました。
明日は朝5時半に家を出発して、Eugene-San Francisco-Los Angeles と乗り継いで、カリフォルニア州のSanta Monica に住んでいる娘のところに向かいます。

2010年10月4日月曜日

いろいろなところから届いたメールに返信をした後、Lake Johnson に行って最後のジョギングをしました。それから、先日チェロキー保護地区からの帰り道で、高速道路の両側の松林の一部にかなりまとまって松が枯れているところがあったので、写真を撮りに道路を1時間くらい逆方向に走ってみました。日本の松枯れの原因のマツノザイセンチュウは元々アメリカから松の材木と一緒に入ってきたと言われ、アメリカの松はこのセンチュウに抵抗性だから枯れないと言われているのに、枯れた松があるのは珍しいと思ったからです。残念ながら、かなり遠くだったらしく、まとまって枯れている所までは行けませんでしたが、何本か個別に枯れている松は見つかったので写真を撮りました。

友人のBill Oakley 君とMargie Reinitz さんと3人で魚料理のレストランに行って、私はBroiled Scallop (焼き貝柱)を食べました。ヒラメをはじめ何種類かの魚(淡水魚の養殖ナマズも)があり、こちらではたいていFry(揚げる)か、Broil(焼く)か、Steam(蒸す)かして食べます。魚が、フライドポテト、Hush puppy(ハッシュパピー)と呼ばれるトモロコシ粉の揚げた菓子、コールスローと呼ばれるサラダの一種と一緒に出てきました。

Barns & Noble という本と音楽の専門店に寄って、友人がオンラインで注文しておいてくれたJohn Denver のヒットソングを収録したDVDを受け取り、ついでに最近テレビでカーター元大統領が宣伝していたWhite House Diary という本を買ってきました。DVDは、先日Blue Ridge Parkway をドライブした時に、John Denver の"Take Me Home, Country Roads" の歌と同じような気分になって、あらためて聴いてみたくなったからです。

それから、友人のFrank Peoples 君の奥さんが入院しているBlue Ridge Health Care Center に寄って、明日出発するからと言ってお別れをしてきました。今日は2回リハビリの訓練をしたそうですが、今度会う時までには歩けるようになって、一緒に散歩をしたり映画を観に行こうと約束してきました。今度はいつ会えるかわからないので、Hug をして、頬ずりをして、腕や肩をたくさんさすってスキンシップをして、See you sometime ! (いつかまた会おう)と言って別れました。

今、こちらの時間で夜中の11時半を過ぎていますが、洗濯室で最後の汚れ物の洗濯をしています。それが済んだら、スーツケースに荷物を詰め込んで、後は明日の朝6時半頃見送りに来てくれる友人と一緒にモーテルを出発し、途中でレンタカーを返して空港に向かいます。レンタカーの走行距離計は約2千マイル(3,200Km)を示していますので、アメリカがいかに広いかがわかります。オレゴン州にいる故W.C. Dauterman 先生の奥様と二人の息子さん(一人は弁護士、もう一人は医師)に会いに行き、奥様のご自宅に2泊させていただく予定です。

2010年10月3日日曜日

午前中に昔の空手の弟子のJohn and Maureen Burgess 夫妻を訪ねて、時間の経つのも忘れて2時間以上も旧交を温めてきました。夫婦とも59才で、ある時期に私の道場に通って空手の稽古をしていました。今は夫のJohn 君が前立腺がんの抗がん剤治療を受けていて、頭髪が一本もなく、痩せこけて見えましたが、強い精神力で今でも毎日稽古をして空手の型の試合に出ていると言っていました。奥さんのMaureen さんは素敵な女性で、州政府の環境関係の部署に勤務して生活を支えています。John 君はお母さん(井上みやこ、1928年9月22日生まれ)が日本人でお父さんはアメリカ人のハーフです。終戦後間もない時期に名古屋出身の当時17才だったお母さんとやはり17才でアメリカ軍兵士だったお父さんが恋愛、親(井上そういち・あさ)の反対を押し切って結婚し、John 君は1951年に生まれたとのこと。ちょっと前までは敵国だったアメリカ軍の兵士と結婚した娘は親(というよりも祖父)に勘当されたも同然で、John 君が2才の時にアメリカに帰還して以来、両親(すでに亡くなった)とも結局その後一度も日本を訪ねることはできなかったようです。今は外国人との間に生まれた子供はハーフと呼ばれますが、当時は「合いの子」と呼ばれて社会から冷たい目で見られていました。アメリカ領事館が発行した英語の出生証明書のコピーをもらいましたが、名古屋の住所が英語で書いてありますので、帰国したら探してみようと思っています。お母さんには兄弟姉妹が何人かいたとのことなので、もしかした従兄弟が見つかるかもしれません。

午後にはWashington D.C. のEPA(Environmental Protection Agency)勤務の友人Dr. P.V. Shah (インド出身)がモーテルに訪ねてきてくれました。明日からRTP (Research Triangle Park ) のEPA で2日間にわたって開かれる会議に出席するついでに寄ってくれました。Shah 博士とはノースカロライナ州立大学時代に机を並べていた研究者仲間ですが、今は農薬の毒性評価をするBranch Head をしています。EPA が約10年かけて作り上げた内分泌かく乱活性(いわゆる環境ホルモン活性)の試験方法について、CLA (Crop Life of Amarica) という農薬会社の協会との間で質疑応答の協議をする会議だそうです。
http://www.epa.gov/endo/
今から2年以内にEPA が要求している試験を実施してデータを出さなければ、リストアップされている農薬の有効成分や製剤に含まれるその他の成分は登録が取り消されるので、農薬会社の方も真剣です。一つの農薬についてだけでも要求されている試験をするのに何十億円もの費用がかかります。アメリカの良いところは、行政が決めた規則を一方的に押し付けるのではなく、企業との間で徹底的に協議をして、新たな試験をする必要がないという科学的な根拠を提出してそれが妥当と判断されれば、試験が免除されることもあり得るということです。つまり、全員問答無用で必要のない試験をさせるような無駄なことはしないということです。

夕方には、Shah 博士と、昔千葉大学園芸学部の古在豊樹教授の研究室に滞在していたことのあるインド出身のDr. Subhas Mohapatra (10年前にノースカロライナ州立大学を早期退職し、今は3.5エーカー(4千3百坪=1.42ヘクタール)の研究農場で土を使わない農業の実証研究をしている)と3人で、インド料理店に行きました。スパイスがたっぷり効いたマトン肉のカレーをライスと混ぜたり、ナン(パン)に付けたりして食べました。スパイスが効いて顔がほてりましたが、インドの人達はこんなにおいしいものを食べているのかと思いました。
Mohapatra博士の言う「土なし農業(Soil-less Agriculture) 」というのは、日本で言う水耕栽培とは違って、プラスチックシートの上に砂の層を作り、その上に枯れ枝や枯葉をチップにしたもの(無料で入手できる産業廃棄物)を重ね、栄養液をドリップ潅水するという栽培方法です。しばらくすると、ミミズが入ってきてチップを堆肥化するとのこと。背が低い野菜や花だけでなく、根が水平に広く張るので高さ3mくらいの木でも自らを支えられるという方法です。毎年インドに3ケ月くらい出かけてこの農法を指導・普及しているそうですが、土なしで食料生産ができるので、途上国の飢餓問題解決に貢献するのだと、熱っぽく語っていました。

2010年10月2日土曜日

Raleigh の辺りも急に秋らしくなり、Lake Johnson の周りをジョギングした後は長袖のシャツを着て、恩師の故W.C. Dauterman 教授のお墓参りに行ってきました。郊外の景色の良い丘の上に墓地はあり、色あせた古いお花(造花)を新しいお花と取り替えてきました。今までは1995年に63才で亡くなってからほとんど毎年来ていますが、これからはいつまで続けられるかはわかりません。

それから、入院している友人のFrank Peoples 君の奥さんのお見舞いに行きました。Rex Hospital からBlue Ridge Health Care Center (A Nursing and Rehabilitation Center) に移され、歩行練習その他のリハビリテーションの訓練を受けていました。日本でも千葉大学時代の同僚教授だったN君がリハビリセンターに入院していましたが、見舞いに行ってみたらリハビリは形だけで、人手不足のせいか実際にはほとんど歩行訓練もしてくれていませんでした。こちらもリハビリと高齢者の長期療養兼用の同様の施設ですが、リハビリ室を覗いてみたら日本と違ってまるで体育施設かと思われるほどいろいろな道具がそろっていました。友人の奥さんは今日は2時間半くらいいろいろな運動をし、補助具に掴まりながら40フィート(10m)歩いたと言っていました。アメリカの方が医療や介護はずい分進んでいるという印象を受けました。廊下の壁に看護士や介護士を対象の標語が貼ってありましたが、その中の一つは、「Never say "it is not my job" (それは自分の仕事ではないと決して言うな)」でした。

昼食後、友人達と入場料1ドル50セントの名画劇場に行き、SALT という女性スパイの映画を観ました。先日Karate Kid という映画を観たのと同じ劇場ですが、今日はよく注意をして見たら定員130名くらいの小さな劇場が13もありました。テレビやインターネットやDVDなどと競争して映画館が生き残る一つの方法として、多様な観客のために多様な映画を安い入場料で提供しているのでしょう。

映画の後は、Raleigh 近辺に在住のアメリカ人の友人達8人が近くのレストランに集まってくれ、私の送別の意味も込めて食事をしながらおしゃべりしました。

2010年10月1日金曜日

昨夜は、ノースカロライナの海岸のOuter Bankと呼ばれる細長い島(ライト兄弟が始めて飛行機を飛ばした場所がある)で数日間バケーションをとるためにサウスカロライナのGaffneyからドライブしてきたTate夫妻が、途中に位置する私のモーテルに寄ってくれて、私の部屋に一泊していきました。先日のお返しに夫妻に私のベッドを提供し、私はソファーで寝ました。間仕切りもないのでプライバシーはありませんが、家族と同じようにお互いのいびきを聞きながら一つの部屋で寝ました。日本ではお客さんの夫婦と同じ部屋で寝るというようなことは、ほとんどなくなったのではないでしょうか。

奥さんのLindaさんはアイスボックスにチッキンやスープを入れて持ってきてくれ、私の部屋の台所で料理をして食べさせてくれました。残りは私の明日のランチにと冷蔵庫に入れて置いていってくれました。今は毎日刑務所に出かけて先生をしているというので、様子を訊いてみました。軽犯罪者はAキャンプ、凶悪犯罪者はBキャンプと分かれて収容されていて、ほとんどが中学(9年課程)卒か高校中退なので、囚人の中で大学卒の人が高校に相当する教科書を使って教えるのを監督指導するのが彼女の仕事だそうです。そうやって刑務所の中で高校卒と同等の資格を取らせて、出所後に就職がし易くするのが目的だそうです。

Aキャンプの囚人は、毎日(月~金)普通の服装で外に出て働いて(鶏肉処理工場など)、稼いだお金の中から刑務所の家賃や食事代などを払い、被害者に払う弁済金(?)を差し引かれ、僅かですが残りが自分の収入になるのだそうです。Bキャンプの囚人は、刑務所内の仕事か外の道路工事などの仕事をする時は囚人服のままで、銃を持った監視がつくそうです。この人達には給料はないので、刑務所の家賃や食事代は国民の税金で賄われるのだそうです。AキャンプもBキャンプも一部屋に3~4人収容され、軍隊のような薄いマットレスの簡易ベッドに寝て、各部屋にテレビも新聞もラジオも持ち込めるそうです。家族や友人との面会は土日で、テーブルを囲んで和やかに行われるそうです。

Tate夫妻が出立した後、ノースカロライナ州立大学のErnest Hodgson教授、Mike Roe教授、Ron Kua元教授とレストランでランチを一緒に食べました。昔、農薬に関する日米科学協力事業セミナーを一緒に企画実施した時の仲間です。Hodgson教授は78才という年齢にもかかわらず、今でも毎日(週7日)精力的に仕事をされておられるとのこと、頭が下がります。最近、Foundation of Toxicology and Agromedicineという非営利目的の法人を設立されたとのことでした。アメリカでは年齢による強制的な定年は憲法違反で、年齢にかかわりなく能力や意欲が衰えた時に退職し、能力や意欲を保持している教授は何歳まででも働けるという制度です。それでも当初心配されたような若い人の就職の機会が少なくなるというようなこともなく、ちゃんと新陳代謝も行われて人事構成のバランスがとれているとのことです。

夕方にはいつものようにLake Johnsonの周りを1周(約5Km)ジョギングし、その後アメリカ人の友人達とおすし屋さんで握りずしを食べました。