2010年11月30日火曜日

今日は第8回の公判前整理手続の後、菅野 泰弁護士、山本宏行弁護士、三宅貞信弁護士が千葉大学園芸学部のある松戸キャンパスに来られ、市橋君が卒業論文の研究で専攻していた庭園デザイン学研究室の指導教員のお一人だったM教授と情報交換をしました。市橋君が1年生の時に提出した庭園デザインの設計図が、同期の学年のトップ8名の優秀作品に選ばれたこと(冊子に作品の写真が残っている)や、早くからデザインに熱意を持っていたことなど、私の知らなかったことも多々ありました。

その後、学内の生協の食堂に寄って、長年学生達に食事を作っていて、親元を離れて生活している下宿生達にお母さんのように慕われている生協職員のIさんの入れたコーヒーを飲みながら、当時の市橋君の印象などを聞きました。市橋君はいつも食堂が混んでいる時間が過ぎてから昼食を食べに来ていたので、よく話を交わしたけど、事件が報じられた時はあんないい子が何故と信じられなかったとのことでした。

今日の公判前整理手続では、結局12月の残り2回だけでは整理がし切れないという裁判官の判断で、3月まで整理手続を続けるように予定が組み直されたようです。ということは、公判が開かれるのはそれから約2ケ月後ですから、早くても5月20日頃以降ということになるようです。どんどん当初の見通しよりも延びてきたのには、主として検察側の主張が根拠が弱い(つまり、検察側は先に筋書きを構築したけれでも、その筋書きが正しいことの証明に苦労をしている)ということにあるのかなという印象を受けました。

検察側は、昨年12月2日に市橋君を「死体遺棄」容疑で起訴し、12月25日にはそれプラス「強姦致死」「殺人」容疑で起訴をしましたが、2回目の起訴前日の12月24日の取り調べで市橋君が事件の全容を自ら証言し検察側はその調書をとったにも拘わらず、検察側が構築した筋書きと異なるということから、それを信用できないとして証拠として提出していないことに無理があるようです。市橋君の証言に基づいた弁護側の「傷害致死」に相当との主張に対して、検察側の主張する「殺人」を裏付ける証明ができないということが問題のようです。

なお、支援者が心配しておられた暖房については、千葉刑務所は一応暖房はあるが非常に寒い状態(設定温度が低い?)とのことでした。支援者のお一人は、2週間ぐらい前に千葉刑務所で行われた矯正展に参加し、刑務官の案内と説明で塀の中の施設などを見学してきたとのことです。刑が確定後、市橋君がどういう生活をすることになるのかある程度想像ができたとのことです。

2010年11月29日月曜日

11月26日に振り込まれた2名の方(1名は5回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は116,000円、延べ192人からの合計額は2,392,565円になりました。ありがとうございました。初めて振り込まれた方からは、次のメッセージが添え書きされていました。[初めて支援させて頂きます。先日まで体調を崩していたので少し振り込みが遅くなりました。入院していて思った事があって、人は心や体が弱っている時にかけてもらった何気ない一言やちょっとした気づかいがどんなにありがたいことか、という事です。何の面識もない私のメッセージが市橋さんの心にひびいてくれるかわかりませんが、もし可能なら「ストレスのたまる毎日でしょうが、心折れる事のないように市橋さんにとって最良の判決が出るように祈っています」とお伝え下さい。本山先生もお体には気を付けて、これからも無理なさらぬように頑張って下さい。応援しています。]

私も本当にその通りだと思います。人間は、苦しい時ほど、困っている時ほど、声をかけてもらったり、助けの手を差し伸べてもらったりすると、どんなにかありがたいと感じるものだと思います。弁護団が接見する時に、皆さまからの励ましのメッセージを市橋君に伝えていただけるように、あらためてお願いするつもりです。

2010年11月28日日曜日

今年の講演や講義の予定は全部終わりましたので、久し振りにカメラを持って園芸学部キャンパスと江戸川の堤防を散歩しました。市橋君が専攻した庭園デザイン学研究室が入っているA研究棟右の桜の老木は、春には満開の花を咲かせていましたが、晩秋の今は紅葉の時期を過ぎてすでに落葉していました。A研究棟左にはヒマラヤシーダーと呼ばれる巨木が何本かありますが、その下には昔ここを訪れたことがある与謝野晶子の句碑が、市橋君の卒業後に建てられました。斉藤一雄初代教授が設計した図書館(園芸学部分館)裏の小庭園は、春には春の、秋には秋の風情があります。

江戸川の堤防を歩くと、春や夏とはまた違った景色が目に入ります。今の状態の市橋君は外の景色の移り変わりを見ることはできませんが、在学中はきっとこういう景色を見慣れていた筈です。不可能なことですが、彼にも見させてやりたいと思いました。最初の公判が開かれるまで弁護士以外の接見はできませんので、外界と隔離された人間は誰でも、特に3年近く人目を避けて逃走していた人間にとっては、どれほど孤独感で寂しい思いをするのだろうかと想像してしまいます。しかし、直接伝えることはできませんが、市橋君には、ご家族以外にも、多くの支援者が心配をして温かい目で見守っていることを知ってほしいと思います。

2010年11月27日土曜日

11月25日に振り込まれた2名の方(1名は9回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は101,000円、延べ190人からの合計額は2,377,565円になりました。ありがとうございました。お一人からは、「市橋達也さんが適正な裁判を受けられるよう祈っております。本山先生もお身体ご自愛下さい。」というメッセージも書かれていました。9回目の方は、毎月定期的に支援金を振り込んで下さっています。弁護団も毎月弁護団会議を開いて相談し、市橋君のためにベストの弁護活動を続けてくれていますので、このように支援者が関心を持ち続けて下さることは、大変ありがたいことです。

11月26日には、初めての方からメールで支援金を振り込んだとのメッセージが届きました。ありがとうございました。支援金は来週には届く筈です。

昨日の三重県津市での講演「防除の必要性と農薬の安全性について」は、一般消費者対象ではなく、三重県で実際に農薬の流通を担っている方々が主対象でしたが、食料の確保に農薬が果たしている重要な役割と、メディアの報道と違って安全性も十分確保されているという事実を再認識し、農薬の流通という仕事に従事していることに自信と誇りを持っていただけたと思います。

今朝は津からの帰途名古屋駅に途中下車し、10月にノースカロライナ州で会った昔の空手の弟子のJohn Burgess君のお母さんの出身地を探しました。当時名古屋にあったアメリカ領事館が1952年に発行した出生証明書のタイプの字はかすれていて(何回も複写もされていたので)判別困難でしたが、英語で書かれたお母さんの住所と出生証明書を書いた産婦人科医の名前と住所を日本語に訳して、昭和区役所を訪ねました。本来は区役所は土曜日は休業日ですが、ラッキーなことに、ちょうど名古屋市長と市議会の対立で市議会解散に署名した市民が署名の多くが無効と判定されたことに納得せず、署名簿の閲覧に押し掛けてきていましたので、総務課だけは開いていました。町名が両方の場所とも出生証明書に書いてあったのとは全く変わっていましたが、住居表示係の親切な職員が新旧住所対照簿で新しい町名と番地を探してくれ、地図のコピーをとってくれ、行き方まで教えてくれました。地下鉄に乗って近くの駅まで行って、地図を見ながら歩いて、両方とも見つけることができました。60年近く経っているのでお母さんが住んでいた場所の建物は全部変わって住んでいる人たちも変わっていましたが、お母さんが生前にJohn君に言った(目印)通りの場所にありました。すぐ近くの産婦人科医院も見つかり、偶然話しかけた隣の家の年輩の男性から出生証明書を書いた医師(10年くらい前に逝去)のことも聞くことができました。早速John君にメールでこのことを知らせようと思っています。次回名古屋に行く機会(多分12月か1月)に再度区役所を訪ね、今度は戸籍課でお母さんの兄弟姉妹の移転先を見つけ、John君の従兄弟・従姉妹が見つかるか調べてみるつもりです。

お母さんは終戦後間もない時期に進駐軍の空軍兵士と結婚したために勘当同然になって、John君が2歳の時にアメリカに行ったきり2度と郷里を訪ねることも家族と会うこともできずに亡くなってしまいました。お母さんは1928年(昭和3年)生まれですから、John君が生まれた1951年(昭和26年)には23歳くらいだった筈です。当時その年代だった日本人女性は、日本人男性の多くが戦争で死亡したので、結婚難だったと聞いたことがあります。娘がちょっと前まで戦争をしていた敵国の兵士と結婚することは、家族には許されないことだったのでしょうが、私はJohn君のお母さんを批判しようとは全く思いません。人それぞれの理由があったのでしょう。私はアメリカ滞在の10年間に同じような境遇の日本人女性を何人か見てきましたが、アメリカ人の夫と普通の家族と同じように幸せな生活をしていました。誰でも、幸せな生活を求める権利がある筈です。John君もすでに59歳で、自分のルーツの半分が全くわからないのでは、何となく心の中に納得できない部分があるのではと想像しますので、できるだけ調べてあげようと思っています。

2010年11月24日水曜日

22日に出発して、滋賀県彦根市で開催された日本環境動物昆虫学会年次大会に参加し、今夕帰宅しました。往きも帰りも新幹線が岐阜県羽島駅を通過する時は、市橋君の郷里の町を想像し、彼がそこを訪ねられるのは何年先になるのだろうと考えました。

11月20日に振り込まれた方(7回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は90,000円、延べ188人からの合計額は2,366,565円になりました。ありがとうございました。この方の払込取扱票には、前回紹介しましたイギリスの新聞の東京支局長と私とのやりとりの記事が気になったのかもしれませんが、次のメッセージが書かれていました。「リンゼイさんに声をかけていなくても別の女性が犠牲になっていたかもしれない、と無差別殺人鬼扱いをしている人がいますが、その考えは間違っています。素姓のわからない男性の家に自らの意思で行く女性は、生まれ育った国にずっといてもトラブルに巻き込まれていたのではと思います。公平な裁判が行われ、市橋さんが更生して社会復帰出来るよう心から願っています。」 同じように感じている支援者は、多分他にもたくさんおられるのではないでしょうか。

私のところには反対に、性的犯罪の犠牲者に対して、責任の一端があったかもしれないと言うことは、犠牲者をさらに傷つけることになるので絶対に言ってはいけないことだ、というメールも届いています。確かに日本の社会では、男性から見れば、これではまるで襲って下さいと誘惑しているとしか思えないような格好の若い女性を見かけることも事実ですが、市橋君とリンゼイさんの間に英語の個人レッスン以外の何かがあったのかどうかは、第3者にはわからないのですから、想像に基づいてリンゼイさんを責めることはするべきではないと思います。同様に、市橋君を無差別殺人鬼のような言い方をするのも、憎しみの裏返しで、理性的ではないと思います。

私が日本環境動物昆虫学会の年次大会に参加するのは初めてでしたが、特に、23日に企画されていた「琵琶湖を取り巻く人の暮らしと生物多様性」という市民公開セミナーに惹かれて足を運びました。龍谷大学の遊磨(ゆうま)正秀教授の特別講演「滋賀の生物多様性と地域文化のかかわり」と題した特別講演に続いて、滋賀県立大学浦部美佐子准教授の「琵琶湖の貝の今昔~特異な多様性の進化と現代問題~」、京都大学の向井康夫博士研究員の「田んぼの水生昆虫の多様性」、滋賀県立琵琶湖博物館の牧野厚史専門学芸員の「琵琶湖岸のくらしと生物多様性」という講演がありました。その後、多賀町立博物館の金尾滋史(かなおしげふみ)学芸員と滋賀県立琵琶湖博物館の八尋(やひろ)克郎専門学芸員も加わって、名古屋大学大学院夏原由博教授の司会によるパネルディスカッションもありました。

いずれも想像以上のすばらしい内容でしたが、向井博士の、琵琶湖周辺の田んぼで大型水生動物群について詳細な調査をした結果、多様性と有機(農薬も化学肥料も使わない)農法、減農薬農法、慣行(農薬を使う)農法との間には関係がなく、多様性はむしろ地域性や生息環境(一時的な乾田化など)が主要因として関わっているという指摘は、千葉大学時代の私たちの長年の調査結果と一致していました。過去の古い農薬が使われていた時代の記憶から、メディアを含めて多くの一般の人々は今でも農薬は生態系に悪影響を及ぼすと思い込んでいますが、現在の進歩した農薬は生態系に悪影響を及ぼしていないという実態が科学的な調査で明らかにされつつあります。

牧野専門学芸員は元々経済学部卒の博士(社会学)ですが、イエ(家)-ムラ(集落・居住地域)-ノラ(田畑)-ヤマ[葦原(よしはら)のような共同利用地]、という空間配置との関係で、湖岸地域が里山的な性格で、葦原(水質浄化機能を果たし、屋根やすだれの材料)をコモンズ(集落の共有財産)として共同管理・共同利用をしてきたことが地域の環境を保全してきたという指摘は、大変説得力がありました。

一般講演やポスター発表にも興味深い研究があり、何人かの研究者と名刺交換をしてきましたので、これから交流していけるのが楽しみです。

せっかく窓から琵琶湖が真正面に見えて、彦根城も遠くに見える景色のよいホテルに宿泊していましたが、明後日の三重県での講演の準備がまだできていないので観光をせずに真っすぐ帰ってきました。

2010年11月19日金曜日

11月16日に振り込まれた5回目の方ともう一人の方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は87,000円、延べ187人からの合計額は2,363,565円になりました。ありがとうございました。お一人からはメッセージも手書きされていました。「私は82才です。市橋君と同じ年の孫がいます。ただ普通の生活をしていた青年が、リンゼイさんが来たために人生が狂ってしまいました。・・・・、気の毒でなりません。少しでも軽い刑を願います。」

市橋君の人生が狂ってしまったのは事実ですが、何故そういうことになってしまったのか、いろいろな想像は可能ですが、第3者には事件の真相はいまだに不明のままではないでしょうか。裁判でどこまで真相が明らかにされるかわかりませんが、強姦が行われたということと(市橋君自身がそれを認めているようですので)リンゼイさんが亡くなったということは事実ですから、市橋君がその責任を問われるのは当然ではないでしょうか。元教師として、私も元学生の市橋君に更生の機会が与えられることを強く願っていますが、人生の夢が途中で絶たれたリンゼイさんとそのご家族の無念を思えば、真相が明らかにされて正当な判決が下されるべきだと思います。

イギリスの新聞 The Independent の東京支局長 Dr. David McNeill は、約束通り正確に午後1時に来られ、テープレコーダーで録音しながら30分くらいの予定で取材を始めましたが、手短に答えて下さいと言われたのを私が誤解のないように英語で長々と話しましたので、結局1時間半くらいかかってしまいました。McNeill 博士は日本滞在約10年で上智大学で講義もしておられるとのことで、日本語の会話・読み書きも堪能な方でした。昔松濤館流の空手を修行していたが、兎飛びをやらされて膝を痛めたので、今は私と同じように時々ジョギングをやっているとのことでした。

支援をする会の設立の趣旨や、どういう方が支援者かということや、支援金の最低額と最高額や、千葉大学時代の市橋君の様子などを先ず訊ねられました。私が驚いたことは、正確な情報がないからでしょうが、ネット上でやりとりされている情報が真偽の確認がされないまま、あたかも事実であるかのように報道され、イギリス国民にも伝わっているという印象を受けたことです。

例えば、リンゼイさんは市橋君のマンション(イギリス英語ではアパートメントと言います)の個室に巧妙に騙されて誘い入れられた、と信じていました。タクシーの運転手を数分待っててくれと言って待たせたことでリンゼイさんを信用させた、というのが理由のようでした。私は、その日の朝1回英語のレッスンをしただけの関係の独身男性の個室に二人だけで入ること自体が大人の女性としての配慮に欠けるし(たいがいの若い男性は、女性は自分に好意があると誤解してしまうので)、何故マンションの1階なり部屋のドアの外で待っていて授業料を受け取ろうとしなかったのか、ということを指摘しておきました。また、英語のレッスンの日程調整はメールのやりとりでしたと言われていますので、二人の間に好意の感情があったかどうかも、警察が市橋君の部屋から押収したパソコンに残っている通信記録などからいずれ明らかになるでしょうが、それまでは何が真相かわからないので私は責任のあるコメントはできないと伝えました。

市橋君は空手の黒帯(有段者)だったという流言についても、大学以前にバスケットや陸上をしてきたので運動神経は抜群(英語ではFitと言います)だったけど、空手の実力は千葉大学園芸学部の空手同好会で私の指導の下に週に1回か2回昼休み1時間弱だけの練習を1年以内しかしていないので、白帯(初心者)レベルだったと訂正しておきました。市橋君は過去にも女性を何回も襲ったことがあるという流言についても、何を根拠にそんなことが言えるのか、少なくとも私の知っている大学時代の市橋君はそんな人間ではなかったと伝えました。

もうひとつ驚いたのは、どこかのクラブかキャバクラで働いている白人女性のホステスに取材した情報で、市橋君が白人女性に対して異常な憧れ(コンプレックスの逆)を持っていたのではないかというRacism(人種差別的要素)が根底にあったとイギリス国民に伝えられているということでした。そんな情報がどこまで信用できるのか疑問ですが、少なくとも私が知っている学生時代の市橋君にはそんなことはなかったと伝えました。また、それでは何故相手がリンゼイさんだったのかという質問には、市橋君にとってリンゼイさんという女性が美しくてFriendly(親切)で魅力的だったからではないですかという私の想像を伝えました。

ネット上で流れているらしいこんな誤った情報がイギリスに伝えられて、イギリス国民やリンゼイさんのご両親の怒りを増幅しているのだとしたら、残念なことです。市橋君がリンゼイさんのご両親宛に書いた謝罪の手紙が、ご両親の代理人に受け取りを拒絶されてから、市橋君と弁護団の了解を得てイギリスの新聞に公表され、日英両国のメディアに裁判を有利にする手段と批判されたことも、そうではなく市橋君が本当にご両親に謝罪の気持を伝えたかった筈だという私の感想を伝えました。

6人の弁護団の中で3人はベテランで3人は新人だという話の中で、私が最初に法律事務所をお訪ねして菅野弁護士とお会いした時に同席していた山本宏行弁護士は、ベテラン弁護士の一人で、市橋君が身柄を拘束された当初絶食して死のうと考えていたのを説得して止めさせた方です。山本弁護士が何故市橋君がこういう馬鹿なことをして人生を棒に振ってしまったのか解明したいと思っているということに関して、市橋君と同年代の息子を持っているから同情しているからかと訊かれました。そうではなく、市橋君のようなごく普通の前途有望だった青年が何故こんなことをしたのか解明して、日本中に大勢いる青年たちが将来同じような間違いを犯すことを防ぎたいからだと、山本弁護士の真意を伝えました。

私が市橋君のご両親から以前いただいたお手紙の内容に話が及んだ時に、それを見せてくれないかと言われましたが、それは私宛の個人的な親書で、社会に公表することは想定されていない筈ですので、とお断りしました。ただし、何か書いてあったか大意だけは説明しました。

いずれ判決が出た時点で、娘を失ったリンゼイさんのご両親と息子を失ったのと同然の市橋君のご両親が会って、お互いに不幸を乗り越えるために助け合える関係になってほしいし、私がリンゼイさんのご両親が来日した時の弁護団や市橋君との対話の通訳をしてもよいと思っていることを伝えました。支局長はリンゼイさんのご両親に取材したことがあるそうですが、私には先ず冷静な判断のできるお母さんのJulia(?)さんから先に会った方がよいとアドバイスをしてくれました。

現在はリンゼイさんのご両親も取材は受け付けないし、菅野弁護士の方もメディアの取材を受け付けないということのようですし、市橋君のご両親も取材を受け付けない筈ですので、今の段階でイギリスの新聞にどういう記事が書けるのかわかりませんが、少なくともイギリス国民に誤解を与えるような真偽が確認されないネット上の流言飛語を流すのだけは改めてほしいと思いました。

2010年11月18日木曜日

イギリスの「インデペンデント」という新聞の東京支局長のDr. David McNeillという人から、市橋君の件で取材の申し込みがありました。明日、東京農業大学の研究室でお会いすることになりました。リンゼイさんのご両親には受け入れてもらえないかもしれませんが、イギリス国民に市橋君が深く反省し,後悔していることを少しでも伝えることができればと思っています。

2010年11月16日火曜日

支援者から今日は7回目の公判前整理手続が行われた筈だが、というメールをいただきました。注目を集めていたマージャン店経営者ら2人が残酷な方法で殺害された事件の公判で、死刑の判決が出たということのようですので、気になったのでしょう。私はまだ東京農大の研究室にいますが、菅野弁護士にお電話して、差し支えのない範囲で(公判前整理手続の内容は本来公表されない?)様子を伺いました。

検察側の主張の整理が行われ、それをさらに明確にするための弁護側の質問などが行われたようです。市橋君の有罪を証明するのは検察側の責任の筈ですが、死亡推定時刻が翌日の夜までにと伸びたことで、それでは朝10時過ぎに二人でマンションに入った直後に強姦した(これについては検察側と弁護側の主張に不一致はない)後、死亡するまでの間リンゼイさんと市橋君は何をしていたのかという点について、検察側は市橋君の証言は信用できないが、何をしていたのか説明はできないということになったようです。一方、裁判官から弁護側にも26日までに対応しなければならない宿題が出されたとのことです。

今日の公判前整理手続きには市橋君も出席したそうです。第8回目は11月30日に予定されていて、12月にも2回予定されているとのことです。

2010年11月14日日曜日

11月10日に振り込まれた2名(7回目と8回目)の方の支援金が届きました。これで支援金の現在高は79,000円、延べ185名からの合計額は2,350,565円になりました。7回目の方からは、「寒くなりましたが風邪などおひきになっていらっしゃらないでしょうか?市橋君のいるところは暖房ないのでしょうか?」「死刑は免れてほんとによかったですが、無期懲役も長すぎます。市橋君に人生もういちどやりなおせるように1日も早く刑が確定して市橋君が社会復帰されるのを祈っています。リンゼイさんのご家族には許されることではないかもしれませんがどうか時間がつらい日々を少しでも癒されますようにと心から願わずにはいられません。」というメッセージをいただきました。8回目の方からは、「一年が経ちました。よくがんばりましたね。一日も早く故郷へ帰れるよう毎日祈っております。メディアが市橋君を悪くし過ぎているように思います。11/4の先生のブログで、刑の年数を見て失望しました。少しでも軽くなるように願います。」というメッセージをいただきました。本当に息の長いご支援と、温かい思いやりのあるお言葉をありがとうございました。

多くの支援者の方は、市橋君が犯した罪に相当の罰を受けるのは当然でも、できることなら有期刑になって、更生のチャンスを与えてほしいと願っておられる筈です。検察側が公判前整理手続の中でリンゼイさんの死亡推定時刻を変更したことで、死刑が求刑される可能性は小さくなったものの、公判では無期懲役か30年以下の有期刑かが争点になる可能性があるという厳しい現実に戸惑っておられるのでしょう。ある支援者は、無期懲役でも20年~30年で仮釈放のチャンスがあって50代で出所して人生をやり直せるかもしれないと期待しておられたようですが、ご自分で調べた結果、実際は無期の場合は仮釈放される場合は稀で、刑務所の中で死を迎えることになるということを知ってショックを受けておられました。法律の知識のない私には何が無期と有期をわけるのかはわかりませんが、一番大事なことは、市橋君自身が自分のしたことがどれだけリンゼイさんとそのご家族にとって残酷で、不幸をもたらしたかを自覚し心の底から反省と謝罪をすることではないでしょうか。
多くの支援者は、市橋君とは個人的には何の接点もないにも関わらず、そういうお気持ちで支援をして下さっているのだと思います。

11月9日の福島県いわき市勿来(なこそ)と、11日の千葉県君津市での講演は無事終わり、両方とも参加者との交流を通して私も大変勉強になりました。次は26日に三重県津市での講演がありますので、そろそろ準備を始めなければなりません。      

2010年11月8日月曜日

日本学術会議講堂で開催された公開シンポジウム「稲作と植物保護を展望する」を聴講してきました。5題の話題提供と1題の特別講演がありました。

東京大学の田付貞洋名誉教授はイネ害虫特にニカメイチュウの問題について、神戸大学の土佐幸雄教授はイネいもち病問題について、茨城大学の佐合隆一教授は水田雑草の問題について、近畿大学の松田一彦教授は殺虫剤の受容体における選択性の分子基盤について、理化学研究所の仲下英雄博士は誘導抵抗性による病害防除の問題について講演し、筑波大学の鎌田 博教授は植物保護とGMO(遺伝子組換え作物)について特別講演をしました。

いずれも各々の分野で長年研究に従事されている第1人者の講演でしたので、大変勉強になりました。鎌田教授の講演の中で、アフラトキシンに代表されるカビ毒は安全な食の生産の重要問題であることの指摘に続いて、トウモロコシでは害虫(アワノメイガ)の食害で発生するカビ毒の発生頻度・汚染濃度は有機・無農薬栽培>農薬を使った通常栽培>害虫抵抗性GMO(殺虫活性のあるBtたんぱく質発現)の順に高いという情報は、よく有機農業を推進している人たちが主張しているように、虫が食っている農産物は安全という宣伝は間違いだということを再認識させました。

防除をしなければ、病害虫・雑草による被害(減収率)は40%にも上り、それは世界人口24億人分の食料が失われることに相当するという指摘も、植物保護の重要性を再認識させました。

2010年11月7日日曜日

暦上は立冬だそうですが、秋晴れで爽やかな日和でしたので、散歩がてらに千葉大学園芸学部祭(戸定祭)を覗いてみました。例年通り模擬店や農産物の販売は活気を呈し、市民が大勢訪れていました。研究室の展示発表では、果樹研究室の柑橘展は日本全国からいろいろな柑橘類を集めて展示し、解説も力が入っていました。年によってテーマを変えて、輸入果物や柿や異なる果物を展示しています。市橋君が所属していた緑地環境学科関係では、戸定ケ丘キャンパスのデザインコンペの作品が合同講義室に展示されていて、制作者によって全く異なるイメージのキャンパス像ができていておもしろいなと思いました。

松戸市の緑の回廊として園芸学部とつながっている、隣接の戸定邸と戸定歴史博物館にも寄ってみました。大政奉還後の旧水戸藩主徳川昭武(徳川慶喜の弟)の別邸がきちんと保存されていて、無料のガイドが親切に説明をしてくれました。私は江戸時代に水戸と江戸を参勤交代で行き来する時に使った別邸と誤解していましたが、実際には明治になってから建てられたもので、よく徳川慶喜も訪れていたとのことでした。和風の建物も庭も資料が展示されている博物館も見ごたえがありました。

私は今週火曜には福島県勿来(なこそ)で、木曜には千葉県君津で講演があります。いつもは、間に合わなくて移動の新幹線の中や飛行機の中で構想を練ることもあるのですが、今回は比較的早く準備ができたので余裕です。

2010年11月4日木曜日

菅野弁護士から連絡があり、市橋君が卒業論文の研究で専攻した研究室のM教授とお会いする日程が決まったとのことでした。弁護団が3~4人で松戸の研究室を訪問予定ですが、私も当日は都合がつきますので同席させていただく予定です。先日報告しましたように、検察側がリンゼイさんの死亡推定時刻を変更することに同意したことで、死刑を求刑する可能性は小さくなったようですが、裁判では無期懲役(30年以上)が相当か、有期刑(上限30年)が相当かで審議が行われることになるのでしょうか。

東京農業大学世田谷キャンパスでは、10月28日から収獲祭(大学祭)が開催され、11月1日は厚木キャンパスの学生も参加した体育祭の予定でしたが、荒天のため順延になり、一昨日11月2日に行われました。グランドでは、学科対抗の応援合戦で、普段から練習をしてきた演舞を披露していました。チアリーディング部のスタイルのいい女子学生のまるで組み体操のようなピチピチした演技も見事でした。各々工夫を凝らした衣装や化粧で、若者たちがエネルギーを思い切り発散するのを見ながら感激しました。50年近く前に同じようなことをしていた自分の姿と重ね合わせ、こういう経済や生産とは縁のない無駄なことに熱中できることこそが若者の特権だなと思いました。若者はこういう経験を通して、友情が育まれ、仲間との連帯感が生まれ、共に成長していくのでしょう。
夕方暗くなりかかった中で、実行委員会(?)の学生諸君がてきぱきと後片付けをしているのも印象に残りました。教室の中の勉強とは違いますが、自主的なこういう活動を通して若者の責任感やリーダーシップが培われるのでしょう。

千葉大学園芸学部では、今年は明日11月5日が体育祭で、6日~7日が戸定(とじょう)祭(学部祭)のようです。研究室の展示発表や模擬店に加えて、野菜や花や果物のような農場生産物の販売もあるので、毎年市民が大勢足を運んでくれて好評です。

2010年11月1日月曜日

10月29日に振り込まれた方からの支援金が届きました。これで支援金の現在高は59,000円、延べ183名からの合計額は2,330,565円になりました。ありがとうございました。この方の払込取扱票には次のような心温まるメッセージが添え書きされていました。「年金生活ですので少しですが、足しにして下さい。リンゼイさんも大人で、わかっていて市橋君の部屋へ行ったはずです。イギリスのご両親も少しでも市橋君を許してあげてほしいと願っております。私には、男の子の孫がおります。」

何故リンゼイさんが一度英語のレッスンをしただけの独身男性の個室に二人だけで入ったのかということは、私たちの世代の人間にとってはいろいろな憶測が可能ですが、リンゼイさんはすでに亡くなっていますので真実を確かめることはできません。市橋君自身は、リンゼイさんにも非があったかもしれないというようなことは決して口にせず、弁護団との話し合いの中では自分が悪いとだけ言っているようです。加害者の側から許しを乞うことはできませんが、私も願わくばリンゼイさんのご両親が悲しみと憎しみを越えて、市橋君に生きて罪を償う機会を与えてほしいと祈っています。

注目していた耳かき店員とその祖母の殺人事件は今日判決が言い渡され、無期懲役だったと報道されました。遺族は検察に上訴を望んでいるとのことですのでまだわかりませんが、この事件の被告人に生きて罪を償う機会が与えられたことに何故かホッとしました。