2012年12月25日火曜日

今日は私が注目したニュースが2件ありました。1つは、法務省の調査では服役中に性犯罪者向けの抑止講座を受けた性犯罪者が出所後に再び性犯罪を犯す割合が2割低下したというニュースです。新聞報道(朝日新聞12月25日夕刊)によると、「プログラムは2004年に起きた奈良女児殺害事件をきっかけに、欧米の実践例を参考にして06年から導入。刑務所では3~8ケ月聞かせて、性犯罪者同士の話し合いを通じて感情をコントロールする方法などを身につけさせる内容だ。」 リンゼイさんの事件が起こったのと同じ頃、千葉大学園芸学部の女子学生が殺害されるというもう一つの事件がありましたが、この犯人も性犯罪を繰り返して仮出所したばかりの男性でした。「文藝春秋」の記事がきっかけで、服役している北海道の刑務所から私に手紙をくれた男性もインターネットで調べてみたら性犯罪を繰り返している人で、結局自分は一種の病気だということに気がついて、精神的な治療の必要性を訴えていました。
被害者の感情を考えると難しい面もあるでしょうが、アメリカでも日本でも犯罪者の再犯率が高いということは、服役させることで自由を奪って苦しみを与えて罪を償わせる以外に、出所後に普通の生活に戻れるようにきちんとした治療や教育を受けさせることの重要性を示しているのではないでしょうか。

もう1つは、広島での被爆体験を元にした漫画「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんが肺がんのために73才で亡くなったというニュースです。この漫画は10ケ国語以上に翻訳され、世界の多くの人々に原子爆弾の悲惨さを伝えました。私のアメリカ人の空手の弟子/友人のMargie さんが来日した時も、英訳された「はだしのゲン」を見たことがきっかけで広島を見たいと言ったので、原爆ドームと平和記念資料館につれて行きました。戦争体験者がだんだん少なくなっていく中で、私たちはいつか来た道に再び戻ることがないように、勇気をもって発言したいものです。

「女性自身」という週刊誌の1月1日号の表紙には、『「発達障害児」急増!の裏には農薬汚染食品が・・・』という見出しが載っていましたので一冊買ってみました。この記事の内容には全く科学的根拠がなく、いくら販売部数を増やすためとはいえ、よくこんな無責任な記事が書けるものだとこの雑誌の良識を疑いました。せっかく買ったのでついでにページをめくってみたら、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(90才)の、今の政治状況は太平洋戦争へと突き進んでいった戦前の日本の政治状況とそっくりで危険を感じるという趣旨の談話が載っていました。そんな大事な発言をしても、政治家の勇ましい発言や俳優やタレントやスポーツ選手のゴシップ記事にばかり気をとられて、ほとんど社会の注目を集めないところが怖い状況だなと感じました。

2012年12月22日土曜日

今日も支援者の一人から、支援金の残金の処理方法についてお便りが届きましたが、ブログには紹介しないでほしいとのことでしたので紹介はしません。私が12月18日のブログで書いた記事をまだご覧になっていない支援者は、ご覧になってご意見を寄せていただけると助かります。

2012年12月21日金曜日

支援者から以下のお便りが届きました。ありがとうございました。
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本山先生
すっかりご無沙汰いたしております。お元気でご活躍のご様子、ブログで拝見しております。
寒さが増すにつれ、市橋さんの現状が気になっておりましたが、まったくの「孤独」というわけではなかったことに半ば安心し、また一方では「K子さんとは、いったいどんな方なのだろう?」と、不安も感じております。
身近に相談相手さえいない・考える気力さえ損なわれるような状況にいると、手近で耳障りのよい言葉・目先の優しさにすがりついてしまうのが人間なのかなと思ったりしております。そう思いますと、周囲に誰かがいる(面会に来たり、差し入れしてくれる誰かがいる)ということだけで「孤独ではない」といえるものではないのかも知れません。特定個人以外の人の言葉が耳に入らないことが、本当の「孤独」なのかも知れません。
支援金の件でございますが、本当にありがとうございます。私は、市橋さんのご両親に依頼することが一番よいのではないかと思っております。ただ・・・おそらくお断りされるかもという不安は、かなり強くあります。・・・かといって、ご両親抜きに考えることはできないかと思っております。一度お願いしてみて、断られたら次の対策を考えるというのではいかがでしょうか? 「無駄足覚悟の一寸逃れ」的方法ですが、(出所まで、十分に)時間はありますので、焦る必要はないと思います。
また、私個人の愚痴ですが、私は、一度くらいはご両親が面会に行ってくださるか、裁判で証言してくださるものと信じていました。市橋さんの起こしたことは、最低最悪のことで、世間の人は許さないかも知れません。でも、ご両親にとってはかわいいわが子であり、本当の・いつもの市橋さんの人柄も十分わかっているはずです。世間への遠慮等々おありでしょう。でも、それでもせめてご両親くらいは赦し励まし、ともに生きていってあげていただきたい。支援金のお願いをすることで、ご両親の気持ちが動かされる一助ともなれば(もちろん、それだけでは無理でしょうが、いろいろな要因が積み重なれば、またご両親のお考え・気持ちも変わるかもしれません)、という期待もございます。
本当にいろいろとお手数をおかけいたしますが、ご検討くださいますようお願い申し上げます。間もなく一年が終わります。どうぞよいお年をお迎えくださいますよう、心よりお祈り申し上げます。
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本山直樹先生
ご無沙汰しております。今年も残すところ10日ほどになりました。月日の流れるのは本当に早く、「光陰、矢のごとし」を実感する日々です。先生のお元気そうなご様子はブログで拝見させていただいています。ただ私の仕事柄、今のシーズンは大変忙しく先生のブログを読みながら寝落ちしてしまい支援金についてのメールも遅くなってしまいました。本当に申し訳ありません。
市橋さんへの支援金についてですが、私たち支援者が市橋さんの事を考え、想い、少しずつ送らせて頂いていた支援金です。何とか市橋さんのお手元に届けたいと先生も色々と悩み試行錯誤して頂きながら動いてくださっていた支援金です。市橋さんに届く事が私の願いです。
市橋さんのご両親様に管理して頂きたい気持ちは有りますが、人の感情は大変難しくご両親様もお困りになるのではないか・・・と思います。
ですから,この際、K子さんについての私の余計な感情は省かせて頂き「市橋さんに届けたい!」という願いだけを優先的に考えて、①の山本弁護士の開設した口座に移してK子さんに管理していただく。という選択を私はしたいと思います。(山本弁護士様が間におられる事が救いです。)
このまま良い案を探すことで保留にしておく事は本山先生に沢山のご負担をおかけしてしまいますし、やはり決断しどきなのかもしれません。私は毎日市橋さんの事を案じておりました。無事に支援金が届くようにとも祈っておりました。一生懸命、服役された後は彼に元気で生き直して欲しいと思います。
本山先生、又また子離れできない母親のようで申し訳ありませんが心配で心配で仕方ありません。ほかの支援者の方々はどのようにお考えなのかは判りませんが皆様、市橋さんに無事に届いて欲しいという願いは同じだと思います。長々と勝手申しまして本当に申し訳ありませんが宜しくお願い致します。

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2012年12月20日木曜日

一昨日私がブログで書いた支援金の残金の処理方法について、今日も支援者の一人からメールが届きました。支援者の方々も以前ほど頻繁にこのブログをチェックしていないと思われますので、まだご覧になっていない方は12月18日の記事をご覧になってご意見をお寄せ下さい。

2012年12月19日水曜日

早速、支援者の一人から昨日のブログで問いかけたことについてメールが届きました。ありがとうございました。しかし、メールの内容はブログには紹介しないでほしいということでしたので紹介はしません。

千葉大学時代の元同僚教授の息子さんで音楽家(バイオリニスト)になった人のコンサートがあったので、妻と一緒に聴きに行ってきました。上野公園の一角にある旧東京音楽学校奏楽堂と呼ばれる古い由緒ある建物で、ソプラノ歌手3名、サクソフォーン奏者1名と、彼との共演コンサートでした。音楽については全く無知の私でも、それぞれ素晴らしいなあと感じました。それぞれにピアノの伴奏がついていましたが、伴奏のピアノも素晴らしいと感じました。
子供の時からよく知っている息子さんが、音楽の道を選んでよかったと思いました。演奏中は録音も写真撮影も禁止と貼り紙がしてあったので、始まる前に会場のステージの写真だけ1枚撮ってきました。この建物は近日中に取り壊されることが決まっているそうですが、なかなか趣のある建物でした。

2012年12月18日火曜日

「週刊文春」のI記者が訪ねてこられる前に、菅野弁護士に電話をして、支援金の残金約120万円の処理方法について支援者の希望をお伝えしました。少数の方は私の考えるように(千葉県弁護士会に寄付をして弁護人のいない被疑者や被告人の弁護に使っていただくか、菅野弁護士から打診のあった千葉刑務所の弁護活動妨害行為を告訴する費用に使っていただくか)処理してよいとのご意見でしたが、多数の方は市橋君のために振り込んだお金なのであくまで市橋君のために使ってほしい(約30年後に仮出所する機会が与えられるまで保管してほしい)というのが希望でしたとお伝えしました。
問題は、現在70才の私はそれまで生きていられるかどうかわからないし、もっと年齢の若い支援者に管理をお願いして皆様にその方のお名前を公表するとその方が嫌がらせ行為の目標にされる危険性があるということです。そこで、市橋君のご両親に管理していただいて、30年後に市橋君が出所した時に必ず市橋君の手に渡るように遺言して残していただけないかお願いすることも考えていることをお伝えしました。

今日菅野弁護士を通してわかった状況は、市橋君は山本弁護士とは連絡をとったらしく、弁護団の中で山本弁護士だけは市橋君がどこで服役しているかご存知だということ、以前ブログで言及した元支援者でその後は支援する会からは離れて独自に熱心に支援活動をしてこられたK子さんが現在も熱心に支援活動をしておられて(刑が確定後は、市橋君と養子縁組をするか婚姻届を出すかして親族という立場になられた可能性があるようです)面会にも行っておられること、また市橋君の方も彼女の(彼女だけの)支援に依存しているということのようです。マインドコントロールという言葉が適切かどうかはわかりませんが、東京高裁に上告してから、そういう状態になって市橋君と弁護団との信頼関係には齟齬(そご)が生じてしまったようです。市橋君自身が、弁護団よりも、ご両親よりも、私を含めた支援する会の支援者よりも、K子さんを信頼し、これからはK子さんに依存するという選択をしたのでしょう。個人情報ですから、K子さんについてこれ以上のことはここでは申し上げられません。

手記の出版から得た印税の約900万円は、当初リンゼイさんのご遺族に被害者弁償金として提供する申し入れをしたけれど受け取りを拒否され、すでに寄付をして残ってはいませんが、その後手記が増刷された分の印税として出版社からさらに約200万円が支払われたとのことです。このお金は山本弁護士が開設した口座に移され、K子さんが管理をしておられるようです。以前、市橋君の事件を主題にした映画を製作する計画がありましたが、すでに映画は完成して試写会も行われたとのことですので、その中にどこかの映画館で上映されるようになるかもしれません。そうすると市橋君にも何らかのお金(一定金額)が支払われることになったり、それがきっかけで社会の関心が高まればまた手記が増刷され印税が支払われるということもあり得るようです。そういう将来の収入についても、山本弁護士が開設した口座に移され、K子さんが管理をするということになっているようです。
そこで、支援する会の支援金の残金約120万円についても(現在は菅野弁護士の口座に保管されたままです)、山本弁護士が開設したその口座に振り込んでK子さんに管理して頂くというのも一案ということです。K子さんは以前被害者弁償金が必要なら1億円用意できると弁護団におっしゃった方です。K子さんは2010年3月から何回か支援する会に支援金を振り込んで下さり、私とはメールのやりとりもされた方ですが、途中から考え方(目的)が異なるとおっしゃって支援する会から離脱されました。当時、何故そんなに熱心に支援されるのですかとお訊きした時は、そのことについてはお構いなくとおっしゃって答えてくれませんでした。ですから、私には今でも何故K子さんが市橋君の支援にそんなに熱心なのかはわかりません。

こういう状況ですので、支援金を振り込んで下さった支援者の皆様のご意見(支援金の残金約120万円を、①山本弁護士の開設した口座に移してK子さんに管理していただくか、②市橋君のご両親に管理していただいて約30年後に仮出所した時に彼の手に渡るようにお願いしてみるか-断られる場合もあり得ますが、③その他何かよい方法があればご提案下さい)をお寄せ下さい。

なお、「週刊文春」は今年起こった大きな事件(市橋君の裁判が結審したこともその中に入るそうです)について振り返る記事を特集する企画があるらしく、多分来週号あたりに掲載するのかもしれません。弁護団とK子さん以外では、私が最も頻繁に(2011年7月から2012年4月まで約10ケ月)面会に行って市橋君に接してきたということで、何故市橋君があのような事件を起こしたと思うかと質問されましたが、事件そのものについては彼がまだ語れる心境になっていなかったので(その話題に近づくと下を向いて涙をポロポロこぼして沈黙しました)、もっと時間が経ってから彼自身が語るしかないのではと答えておきました。

2012年12月14日金曜日


東京農業大学総合研究所研究会農薬部会の第88回セミナーが「食と農の博物館」であり、今回は2題の講演がありました。
1.「ピリフルキナゾン(コルト®)の創製について」上原正浩氏(日本農薬株式会社総合研究所)
2.「農薬の内分泌かく乱作用に関する諸問題と科学的対応」青山博昭氏(一般財団法人残留農薬研究所毒性部)

上原氏は、大学院時代は天然物化学が専門だったのを、会社に入ってから合成を担当するようになり、ピリフルキナゾンという殺虫剤をどういう発想の過程を経て発明するに至ったかを、たくみな話術で話されました。普段から、異分野の学会に顔を出して自分の基礎を広げる努力をしてきたことと、上司にもう見込みがないから止めろと言われても止めずに頑張り通したことが成功につながったと話されました。
青山氏は、内分泌かく乱活性(いわゆる環境ホルモン)をどうやって検定して確認するか、特に低用量で影響を確認したとされる事例が実は実験動物の遺伝的多形による誤差を拾っただけの場合があると話されました。
お二人の講演ともすばらしい内容で、非常によい勉強になりました。

 

2012年12月13日木曜日

JONA(JAPAN ORGANIC & NATURAL FOODS ASSOCIATION 日本オーガニック&ナチュラルフーズ協会)に勤めている千葉大学園芸学部の卒業生E君が東京農業大学の研究室に訪ねて来てくれました。久し振りだったので、2時間くらいお互いに近況を話しました。有機農業を認証する団体ですが、最近は中国や台湾や韓国からも認証依頼があるらしく、外国にも出かけるとのことでした。
帰りに、途中のアジアレストランに寄って、生ビールを飲んで、辛いタイの料理を食べました。I君は学生時代はアメリカンフットボールをやっていたということを今日初めて知りました。どうりで体格がいいだけでなく、仕事にも馬力がある筈です。こうやって昔の卒業生が訪ねてきてくれるのは、嬉しいものです。

2012年12月12日水曜日

リハビリセンターに長期入院している元同僚教授のN君をお見舞いに行ってきました。前回と同じ4人部屋ですが、ベッドの位置が窓際に移動してあり、隣には80才代の男性の新しい患者のベッドがありました。付き添っておられた奥様とお話したら、何とかいう難病でだんだん体の自由が失われて、今では言葉も失われたとのこと。それでも甲斐甲斐しくお世話をしておられました。つい1年半くらい前には元気で一緒に旅行もしたのに、今はご主人の病気をどうすることもできなくて残念だとのことでした。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授の発見(iPS細胞=人工多能性幹細胞)が実用化されるしか治療方法はない病気だけど、自分の主人には年齢的に間に合わないとのことでした。いくら話しかけても、返事をしてくれないのはN君も同じです。

私が月刊誌「文藝春秋」12月号に載った同級生交歓の写真のページのコピーを見せながら、高校時代の仲間だぞと言って一人一人の説明をしたり、今年の6月に新潟県胎内市でヘリコプターで松林に薬剤が散布された時に飛散調査をして、今その結果を論文にする仕事をしていることなどを話しました。彼は私が目の前に差し出した写真を目で追いながら、言葉は何も言ってくれませんでした。君は現役教授の時は、ほうれん草の硝酸還元酵素の研究をしていて、実験でよい結果が得られた時は、「よし、これは世界で初めてだ!」と言って私にどうだと自慢していたけど、ヘリコプターで散布された薬剤の飛散問題については今では私が一番データを持っていて日本で一番の専門家だぞと言って自慢したら、急に笑顔になってニコニコ笑い出しました。やっぱり、私の言うことは聞こえていたのです。昔から親友であると同時に研究者としてよきライバルだったので、少し刺激したらやはり反応をしてくれました。

それを見ていた隣の患者の奥様は、いつも無表情のN君しか見たことがなかったのに、初めて笑顔を見たと言って驚いていました。N君は言葉で自分の気持ちを表すことはできなくなっているけど、こちらの言うことはちゃんと聞こえているのだと思いますと言ったら、自分の主人も同じだと思いますとおっしゃいました。ご主人も誤嚥(ごえん)で肺炎になるのを避けるために流動食をストローで吸って飲み込んでいるそうですが、時々お茶碗をかかえてお箸で食べる格好をしてご飯を食べたいという表情をされるのだそうです。
私がN君の昔の研究自慢の話をしたらニコニコ笑い出したことは、後でN君の奥様に電話でお伝えしようと思います。

夜、週刊誌「週刊文春」のI記者から電話があり、年末にいろいろな事件を振り返って総括する記事を企画していて、市橋君のことについても取り上げたいとのことで、来週火曜に取材に来られることになりました。私は市橋君がどこで服役しているかも知らないし、何も新しい情報はないことは伝えたのですが、書いていいことと書いてはいけないことがあるだろうから、相談に来たいとのことでした。I氏とは月刊誌「文藝春秋」の担当だった時からのお付き合いですが、良心的な記者という印象を持っています。

2012年12月11日火曜日

今日は東京農業大学に行って昼過ぎに大学の周囲をジョギングしていたら、正門近くの世田谷通りの歩道で元日本を代表するマラソンランナーだった谷口浩美氏とすれ違いました。どうしてこんなところを歩いておられるのだろうと思って、自宅に帰ってネット http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E6%B5%A9%E7%BE%8E で調べてみたら、何と2011年4月1日から我が東京農業大学の陸上部助監督に就任しておられるということがわかりました。靴が脱げるというアクシデントがあったオリンピックの後は旭化成の駅伝部におられたところまでは覚えていましたが、その後いろいろなところで指導者として活躍され、現在は東京農業大学の陸上部助監督をしておられたとは驚きました。これで、新春の箱根駅伝での東京農業大学チームの活躍が益々楽しみになりました。

カリフォルニア大学デービス校(UC Davis)の教授だった松村文夫(Fumio Matsumura)先生が12月6日に肺炎(a complication of pneumonia)でお亡くなりになったという訃報が届きました。松村先生は私より10年くらい年長ですが、大阪大学、東京大学を経てずい分初期の頃にアメリカに留学された方です。以来、殺虫剤の毒性機構解明その他の分野で世界をリードする研究をされ、私たちの憧れの対象であり、自分もああなりたいという目標の人物でした。多くの原著論文の他に、単著として執筆された「Insecticide Toxicology」(殺虫剤毒性学)という本は、多くの研究者に教科書的に利用されました。日本の多くの研究者を受け入れて指導し、私自身も一度カリフォルニアにお訪ねした時にご自宅に泊めていただいたこともありました。幸い、奥様をはじめご家族に見守られて穏やかに息を引き取られたとの奥様からのお便りがあったとのことで、ホッとしました。

2012年12月10日月曜日

私の千葉大学勤務時代に、文部科学省の国費留学生として来日して私の研究室で研究をして博士号を取得したHenry(ヘンリー) O-Sintim さんからメールが届きました。ガーナに帰国して大学の教員をしていますが、学会誌に投稿して発表した論文(私も共著者になっている)が、同様にパキスタンから国費留学生として私の研究室に来て博士号を取得して帰国したTariq(タリク) Mohamood さんの目に留まったらしく、私のメールアドレスを知りたいという問い合わせが届いたとのことでした。

私もTariq さんの消息を知りたいと思っていたところでしたので、早速こちらの近況を書いてメールを送ったら、すぐ返事がきました。彼はパキスタンに帰国して、NARC(National Agricultural Research Center 国立農業研究センター)の研究者になり、現在はIPM(Integrated Pest Management 総合的有害生物管理)プロジェクトのリーダーをしているとのことでした。現在55才になり、子供は娘4人と息子2人だが、長女はすでに結婚して夫と一緒にBahrain(バーレーン:ペルシャ湾の国)に住んでいるとのこと。2018年には60才で退職予定と書いてありましたので、パキスタンの国立研究所では日本と同じで一定の年齢に達したら強制的に定年退職させられるのかもしれません。

Tariq さんは私が受け入れた初めてのイスラム教徒の留学生でしたので、いろいろ初体験することがたくさんあった当時を思い出します。実験室で一定の時間になると毎日何回か床に絨毯(じゅうたん)を敷いて頭を床に付けてお祈りをする時は、どう対応していいか戸惑いました。インド人の著者が書いたイスラム教を冒涜する本を日本語に翻訳した筑波大学の先生が暗殺された時は、犯人が残した靴跡から中国の北京で売っている靴と同定され、Tariq さんは北京経由で一時帰国したことがあったので、犯人の可能性はないかと疑われて刑事が私の研究室に訪ねてきたこともありました。よく報道写真で見たアフガニスタンのタリバーン兵士のようにモジャモジャのあごひげを生やし、独特の帽子を被って、白い布でできたマントみたいな衣服を着て、大学近くの一間だけの安アパートに住んで、4年間くらいわき目も振らずに研究に専念していました。電気生理学的な手法を使って、当時日本で発見されて間もなかったチャバネゴキブリとイエバエのピレスロイド剤(殺虫剤)抵抗性は、作用点である神経の感受性の低下が主要メカニズムであることを明らかにするという素晴らしい研究をしました。私が大学教員として研究指導した百何十名かの学生の中で、人間的にも研究者としても最も優秀な一人でした。
こういうよい思い出を残してくれた元学生たちに出会えたことが、私の大学教員としての人生に充実感・満足感を与えてくれています。

あれから確か25年くらいが経った筈ですが、こうして再び偶然お互いの消息がわかり、連絡が取り合えるようになったことは嬉しいことです。まるで、予期していなかったクリスマスプレゼントが届いたような気分です。

2012年12月9日日曜日

しばらく忙しくてブログの記事の更新ができませんでした。面白いことに、私に嫌がらせ行為をしている人もブログをチェックしているらしく、以前は何故記事を更新しないのだというメールが届いたことがありました。今回は久し振りに非通知設定の番号からコレクトコール(着信払い)の電話が2回かかりましたので(もちろん着信を拒否しましたが)、早く更新してほしいという催促なのかもしれません。そんなことで人にかまって(振り向いて)もらおうとしたり、ストレスのはけ口にしたり、幼児のままごと遊びのような情けないことをせずに、人と直接対面して話をしたり、まともなコミュニケーションをできるようになればいいのにと思ってしまいます。

12月29日の千葉大学走友会の練習会と忘年会に参加できるように、少しでも体調を整えておこうと思って久し振りに江戸川堤防を約2時間歩いたり走ったりしてきました。葛飾橋を渡って川の向こう側(東京都の金町と埼玉県の三郷)の堤防を上流に向かって、上葛飾橋を渡って川のこちら側(千葉県の松戸)に戻ってきました。葛飾橋の上からは松戸市の中心街が見渡せ、三郷側の堤防の途中には樋ノ口(ひのくち)の渡し跡の説明をした標識が建っていました。今から約300年前に江戸川を掘削して作った時に、村が2分されたので舟で行き来するために設置された渡しだそうです。住宅の間に遠くの筑波山の山影も見えました。こういう景色を眺めながら歩いたり走ったりするのは、楽しいものです。
園芸学部構内や、「緑の回廊」でつながっている松戸市歴史公園(徳川昭武の別邸だった戸定邸がある)の裏門の辺りでは紅葉が鮮やかでした。もう初冬の筈なのに、今年は遅くまで気温が高かったのでしょうか。






2012年12月2日日曜日

カリフォルニア在住の娘の子供たち(私たちには孫)から電話があり、「お父さんをお世話してくれてありがとう」とAikaが言いました。義理の息子が日本のバーバ(妻のこと)とグランドパ(私のこと)からの孫たちへのお土産を持って帰ったので、大喜びした筈です。毎週土曜日に通っている現地の日本語学校のタレントショーで歌った歌を電話の向こうでかわりばんこに歌って聞かせてくれました。Aikaはこの夏日本に来ていた時にやっていたNHKテレビの朝ドラ「梅ちゃん先生」の主題歌を上手に歌いました。Colinは日本の童謡を歌い、Aidenはフルートでクリスマスの歌を吹いてくれました。

私は今日も忙しかったですが、昨日と同じように思い切って江戸川堤防を6Km だけ走ったり歩いたりして汗をかいてきました。

2012年12月1日土曜日

早くも12月になりました。アメリカ人の義理の息子は、日本滞在中に義理の母親になる私の妻にご馳走を作ってもらって、洗濯をしてもらって、取り引きのある日本のテレビ局の人達とも会って、全ての目的を果たして今日の午後の飛行機でカリフォルニアに向かいました。午後から寒波が下りてきたので、成田空港から初雪を見たと電話をかけてきました。わずか1週間の滞在でしたが、本当の息子と同居しているようでした。
向こうに着いたら時差ボケを治す間もなく、子供のサッカーの練習試合に付き添うようです。私が、仕事と家族サービスと大変だなと言ったら、家族と過ごす時間は大変じゃなくて楽しいよと答えていました。

2012年11月30日金曜日

しばらくブログの記事の更新ができなかったら、体調が悪いのかと心配して下さったメールが届きました。忙しくて時間がなかっただけですので、大丈夫です。ご心配いただきありがとうございました。

カリフォルニア在住のアメリカ人の義理の息子が24日に来日し、私たちの家に滞在して仕事の取引のある日本のテレビ局を訪問しています。昨日はNHKテレビの人達と東京で夜遅くまで会食して夜の12時半ころ帰宅しました。今日は民放も含めてテレビ関係者全体のパーティーがあるらしく、帰りは夜の11時半くらいになるからと言って出かけていきました。仕事をとるためにも、年に一度の顔合わせは大事なのでしょう。明日は家族が待っているアメリカに帰ります。

28日には千葉県山武(さんむ)市にある千葉県森林研究所での研修会で、「松くい虫防除薬剤の散布後の林内及び周辺地域の気中濃度と落下量について-住民への健康被害は本当にあるのか?-」という演題で講演してきました。JR総武本線日向(ひゅうが)駅に早目に着いて、途中山武(さんぶ)杉の林(約1ha)を見学しました。若い杉の木に混ざって樹齢200年くらいの見事な杉の大木もたくさんありました。何年か前には、1本1千万円くらい(今は4百万円くらい?)の価値があったそうです。
森林研究所内も少し見学させてもらいましたが、松枯れの木が何本もあり、松くい虫防除の研究をしている研究所で松が枯れているのは恥ずかしいですねとからかってきました。比較的大きな木ばかりが枯れていたのは、樹高が高くて薬剤散布ができなかったからだと説明していました。





2012年11月23日金曜日

気仙沼、一関、仙台を経て、宮城県名取市に移動しました。駅前でタクシーを拾って被害のひどかった閖上湊(ゆりあげみなと)地区と仙台空港周辺を視察しました。
閖上湊町は壊滅状態で、中学校の亡くなった生徒たちの慰霊碑には胸が詰まりました。神社やお寺も破壊され、墓地も土台だけが残ってお骨が散乱していました。
松については、海岸線と並行に植栽されたものはなぎ倒されて、直角に植栽されたものは生き残っているように見えましたが、つなみが斜め方向から押し寄せたという証言もあるようですので、今後造林学の専門家による検証が必要かもしれません。
まだ仮設住宅に住んでいる方々もおられ、これから人々の生活再建も含めて街をどう復興していくのか、大変な課題だなあと思いました。それにしても、災害発生後1年8ケ月も経ってまだこの状態では、難しい問題とはいえ、行政的な復興事業が機能しているのか疑問も感じました。







2012年11月22日木曜日

東京駅から東北新幹線「はやて」で岩手県一関駅に行き、そこから大船渡線で気仙沼駅まで行きました。駅前でレンタカーを借りる予定でしたが、予約してなかったので車を手配するのに1時間もかかるということでしたので、タクシーを使って陸前高田市に向かいました。タクシーを利用した被災地視察のコースができていて、運転手さんはまるでツアーガイドのように私が興味のあるところを案内してくれました。

目的の陸前高田市の広田湾に面した高田松原はつなみによって壊滅し、地震による地盤沈下で砂浜自体が跡形もなくなっていました。つなみに耐えて生き残った「奇跡の一本松」は努力の甲斐なく枯れてしまいましたが、保存のための加工処理中で、切り株だけが現地に残っていました。

学校を含めて多くの建物が倒壊したり、土台だけ残して押し流されたり、340トンもある大きな漁船が陸に押し流されて住宅地の道路に乗り上げていました。視察のコースに入っているらしく、倒れないように鉄の板の支えが溶接されていました。テレビで見た光景を実際に自分の目で見て、つなみの恐ろしい破壊力を感じました。



2012年11月21日水曜日

上尾ハーフマラソン大会で快走してきた千葉大学走友会の仲間のI先生に好成績を祝福するメールを送るついでにいくつか質問をしたら、以下の返信が届きました。総合1位は駒澤大学の学生だったとのこと、1時間2分とはもしかしたら箱根駅伝を走った選手かなと想像しました。
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上尾での総合1位は,駒澤大学の学生さんで1時間02分46秒でした。特別招待選手の川内優輝さんが,1時間04分13秒だったそうです。もっとも,川内選手は12月の福岡が照準でしょうから,あえてトップを狙ってはいなかったのではないかと思います。なお,私の部門別(40歳代男子)順位は4位でした。40歳代のトップは1時間11分19秒,5分も速いなんてとても追いつけません。
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I先生は50才代ではなく40才代とのことですが、それでもハーフを1時間16分で走るというのはたいしたものです。I先生も1月末の館山若潮マラソンにエントリーしていますので、フルマラソンでどういう記録を出すか楽しみです。

今日は全国農薬協同組合の総会と情報交換会が東京の日本海運クラブで開催されて、私も招待されましたので情報交換会にだけ参加してきました。来年は6月18日に神戸で、6月20日に福井で予定されている消費者対象の農薬ゼミに出演を依頼されました。

明日から一泊二日で、岩手県の陸前高田市の高田松原をはじめ、東北大震災時のつなみで破壊された海岸保安林を視察に行ってきます。何百年に一度しか起こらない歴史的災害ですので、松くい虫による松枯れとは違いますが、私も自分自身の目で見ておきたいと思います。

2012年11月20日火曜日

千葉大学走友会メンバーの工学部教員のI先生(若く見えるけど50才代?)から、共通メールアドレス宛に11月18日(日)に埼玉県上尾市で開催されたハーフマラソンに出場してきた報告が届きました。
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5km 18:06
10km 36:02(17:56)
15km 54:24(18:22)
20km 1:12:26(18:02)
ゴール 1:16:17(3:51)

学連登録の大学生がわんさか出場するこの大会,このタイムでも総合だと469位でした。特別招待の川内優輝選手や,トップグループの選手たちの走りはやはり異次元でした。

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5Kmを18分前後のイーブンペースで21Kmちょっとを走ったのですから、私のような3流の市民ランナー(ちなみに私の5Kmのベストタイムは、50代の時にどこかの駅伝大会で出した19分43秒だった筈です)からすれば、夢のような記録です。それでも総合順位は469位だったということは、5Kmを14分~16分くらいで走るランナーがたくさんいたということでしょう。

来年1月27日(日)の館山若潮マラソンに参加費4000円を払って参加申し込みをしましたが、このところほとんど走り込みができていないのでピンチです。体重も減っていませんし、参加費を無駄にするのは悔しいけれど、このままではフルマラソンを走るのは無理なので棄権(不戦敗)せざるを得ないかもしれません。

今日は東京農業大学で最後の講義をしてきました。講義ができるのは70才までというのが東京農業大学の規則ですが、客員教授としては少なくとも来年の3月までは大学にいるので、何か相談したいことがあればいつでも研究室にくるようにと言って受講生に私への連絡方法を教えてきました。こういう若い学生諸君に、私の専門の農薬に関する話をし、アメリカでの生活を含めて私が実際に経験してきたことを伝え、彼らがこれからの人生を前向きに生きる上で何らかの影響を与えることができたとしたら嬉しいことです。
キャンパスでは野球部員がグランド整備をしたり、機械から投げ出されるボールに対して黙々とバッティング練習をしていました。駅伝部(今年も箱根駅伝に出場します)は重心の高い格好いいフォームでトラックを何周も走り続け、陸上部は練習の前に落ち葉を掃いていました。生協の横には音楽サークルの演奏会の看板が掲げてありました。若者たちのこういう元気な姿は、明るい将来を想像させ、何故か私までもが幸せな気持ちになります。


2012年11月18日日曜日

日本環境動物昆虫学会第24回大会は、17日は名古屋大学東山キャンパスの環境総合館で、18日は東山キャンパスの停電のため予定を変更して大幸キャンパスの医学部保健学科本館で行われました。大幸キャンパスは、野球の中日ドラゴンズの本拠地名古屋ドームのすぐ近くにありました。この学会は元々は今から24年前にシロアリのような家屋害虫の生態や防除のような生活環境の動物・昆虫の研究分野を中心に関西で発足した小さな学会ですが、現在では範囲が広がり、自然環境や生物多様性の保全のような研究分野も含まれるようになりました。

発表件数が少ない割に、私にとっては興味深い研究発表がいくつかありました。吉村 剛教授(京大生存研)の「インドネシア・西カリマンタン州のいくつかのランドスケープにおけるシロアリ相」は、シロアリに関する学問の奥の深さを認識させられました。シロアリというのは木造家屋を倒壊させる害虫としか考えていませんでしたが、実は食性について木材食性、菌食性(養菌性)、土壌食性があって、森林の生態系にとって重要な役割を果たしているとのこと。インドネシアのカリマンタン州では、経済価値のあるオイルパーム(油ヤシ)の植林の進行に伴ってシロアリの種構成の単純化が起こりつつあるとのことで、ブラジルのアマゾンの開発も同じですが、そこに住んでいる人々にとって重要な経済的発展は生態系のバランスを崩壊させて生物多様性の貧弱化をもたらすという矛盾を抱えているということを考えさせられました。

「どうつなげる生物多様性」というテーマのシンポジウムでの石井 実教授(大阪府立大学)の基調講演「人がかかわってきた自然:私たちの課題と願望」はさすがでしたが、矢部 隆教授(愛知学泉大学)の「カメから見た水辺の生物多様性」も話術の巧みさもあって惹きこまれました。両方とも生物多様性が失われる要因の一つとして水質の悪化を挙げていましたが、今まで水質悪化の主な原因として検証なしに当然のように言われ続けてきた化学肥料や農薬汚染については、最近は改善されているという認識で共通していました。

プログラムには載っていなかった佐藤勝彦氏(愛知県猟友会会長)の講演は異色でしたが、愛知県における昭和38年(1963年)から平成22年(2010年)までの有害鳥獣捕獲・駆除数の年次統計の資料を配布されました。それを見ると、昭和38年のイノシシ、シカ、ニホンザルの捕獲・駆除数は各々723頭、20頭、0頭だったのが、平成22年には8,713頭、1,470頭、269頭に激増していることを示しています。人間の生活圏が野生生物の生息域に接近してきたこと以外に、捕食者の欠如など生態系のバランスが崩れていることもこれらの動物の増え過ぎによる害獣化に貢献しているのでしょう。佐藤氏は猟友会員の高齢化と会員数の極端な減少によって、将来有害鳥獣の駆除が困難になる可能性があると指摘していました。
ちなみに、捕獲・駆除した動物はどう処分するのかという私の質問に対しては、シカの肉はいつ獲ったものでも食べられるが、イノシシの場合は11月以降に獲ったものは美味しいが、夏場に獲ったものはまずくて食べられないので生ごみになってしまうとのことでした。





2012年11月16日金曜日

11月28日には千葉県森林研究所で研修会が予定されていて、私にも講演が依頼されていますので、その準備を進めています。千葉県の海岸の松林が短期間(2008年以降)に何故松くい虫被害で壊滅に近い状態になったのか、第3者の立場でみた客観的な意見を述べてこようと思っています。

明日17日~18日は、日本環境動物昆虫学会大会が開催される名古屋に行きます。朝9:30からの評議員会に間に合うように、自宅を5:30頃出発します。当初は東山キャンパスの環境総合館が予定されていたのですが、日曜にキャンパス全体が工事で停電になるらしく、急遽医学部保健学科がある大幸キャンパスに変更になりました。一般講演に加えて18日午後には市民公開シンポジウム「どうつなげる生物多様性」という企画もあり、楽しみです。停電で学内の宿泊施設が利用できないので、一般のホテルを予約しました。

今日は東京農業大学から帰宅したら、留守電が2件入っていました。1件は東京の姉からで、本屋で今販売中の月刊誌「文藝春秋」12月号をめくったら私の写真が載っていたので一冊買ってきたというメッセージでした。
もう1件はカリフォルニア在住の娘からで、先日EMS便で送った本「友情の人形は海をこえて」が届いたというメッセージでした。英語への翻訳を引き受けてくれるといいのですが・・。アメリカの人達にも、1927年に日本の子供たちに贈られた青い目の人形が、心ある人たちによって戦争中も守られて、今も大事にされていることを是非知ってほしいと思います。

2012年11月15日木曜日

朝から夕方5 時頃まで東京の秋葉原コンベンションホールA というところで、(独)農業生物資源研究所主催、(独)農業・食品産業技術総合研究機構中央農業総合研究センター共催による、「ポストゲノム時代の害虫防除研究のあり方」第5回-殺虫剤抵抗性問題の最前線-があり、私も聴講してきました。千葉大学時代に私の研究室を専攻した元学生の一人が現在は国立感染症研究所でリサーチレジデント(博士研究員)として勤務していますが、彼も「シトクロムP450による薬剤抵抗性機構」という演題で講演をしました。私が1960年代や1970年代にこういう研究テーマに取り組んでいた頃に比べて、前半の抵抗性遺伝子に関する基礎的研究はずい分進歩しましたが、後半のそれを農家か実際に抵抗性対策として使える技術にするという応用面ではあまり進歩していないなという印象を受けました。

総合討論で閉会後は、近くの秋葉原UDXビルで交流会がありました。7時過ぎに私は会場を後にしましたが、駅前の辺りはいろいろなライティング/イルミネーション(照明)が設置されてクリスマスの雰囲気を作り出していました。秋葉原の駅の周辺は、昔は青果物市場があって農家がトラックなどで収穫物を運んできたりして賑わっていましたが、今は高層ビルが立ち並び、近代的なおしゃれな街に生まれ変わっていました。



2012年11月14日水曜日

以前、岐阜県での農薬ゼミでの私の基調講演を聴きに来て下さった東海地方にお住いのN子さんから、横浜の人形の家で今日から開催される(11月14日~11月21日)武(たけ)文桜(ぶんおう)回顧展の案内をいただいていましたので、楽しみに出かけました。横浜駅からみなと・みらい線の地下鉄に乗って終点元町・中華街駅で降りると、徒歩3分くらいのところに横浜人形の家はありました。ちょうど黄葉真っ盛りのイチョウ並木の前にあって、建物自体がガラス張りの芸術的建築でした。

創作日本人形作家の故武 文桜(本名武 文子)(1925年-2011年)さんはN子さんのお母様で、先日送っていただいた絵本「友情の人形は海をこえて」の著者故武田英子さんたちと一緒に日米友情の人形交流に携わってこられた方です。芸術の事は何もわからない私が見ても本当に素晴らしい作品ばかりでした。今日は会場に来ておられた武さんの妹さんお二人とお弟子さんと娘のN子さんともお会いできました。

2階と3階にある常設展の方にも行ってみましたが、日本各地の人形や世界各地の人形が展示されていて、こちらも大変見ごたえがありました。青い目の人形もありました。国が違って人形の形が違っても、人形が子供たちに夢を与えたり、遊び友達であったり、情緒を育むという役割は共通なのだなと思いました。ドールハウス(人形の家、ままごと遊びの家)も含めて、人形は子供たちだけでなく、大人が見ても心を和(なご)ませてくれるものだなと感じました。
私はN子さんからお知らせをいただくまで、近くに住んでいても今まで横浜人形の家の存在すら知りませんでした。まだ行ったことのない方は一度訪ねてみる価値はあると思います。http://www.yokohama-doll-museum.com 
私が展示を観終わったら、N子さんは会場から席を外して近くの喫茶店で私とお話しする時間を作ってくれましたので、市橋君の適正な裁判を支援する会の今後のことなどについて私が考えていることなどを少しお話ししました。

駅まで帰る前に、一人ですぐ近くの山下公園に足を延ばして港の景色を眺めてきました。湾内を巡(めぐ)る観光船や、大きな貨物船や、船内を見学できる氷川丸(1930年竣工の当時の豪華客船)が停泊していました。昔ブラジルへの移民船が横浜港から出航する時に、ブラジル在住の家族に届けてもらう荷物を移住する日本人に託して、よく母と一緒に見送りに来たことを思い出しました。今は海外といっても飛行機で簡単に行き来できますが、昔は移住する人に甲板から投げてもらったテープの端を持って、船が岸壁からだんだん遠ざかるにつれて届かなくなったテープが切れて、それが一生の別れのような気がしていたのを思い出しました。

         (写真はクリックすると拡大できます)





2012年11月13日火曜日

午前中は東京農業大学で3回目の講義をしました。今日は、2008年にヘリコプターで松くい虫防除の薬剤散布が行われた日に学童・生徒たちから健康被害(目のかゆみ)の訴えがだされた島根県出雲市の事例をとりあげ、その後の私たちの現地調査で実際には通学路に繁茂していたイネ科雑草の花粉による花粉症だった可能性が高いことを紹介しました。パソコンの設定などの準備をして下さった先生は学生の後の席で聴講されたようで、後からメールが届き、この先生は島根大学で博士号を取得し、出雲農林高校に勤務していた時には私たちが花粉の調査をした通学路のすぐ近くに住んでおられたとのことでした。私がスライドで示した現地の写真が懐かしかったとのことでしたが、偶然の一致とは言え、不思議な気がしました。

午後からは浅草(あさくさ)の浅草(せんそう)寺で行われた虫供養(むしくよう)に参加をしました。農薬の研究では、薬効の検定などで多くの生物(動物、昆虫、微生物、雑草など)を犠牲にしますので、1年に1回関係者が集まって供養をして感謝の気持ちを捧げています。
その後場所を変えて行われた参加者の集いでは、久し振りにお会いする方々と近況報告や情報交換ができて、楽しいひと時でした。

2012年11月12日月曜日

今日も自宅で報告書の作成に集中しました。午後から雨が止んで晴れ間もでてきたので、愛用のカメラを持って江戸川堤防に行って10Km 走ったり歩いたりしてきました。いつも壮観だなあと思っている堤防下の農家の鈴なりの柿の写真を撮りました。
5時少し前になったら西の地平線に太陽が沈みましたが、その直前に富士山の陰影と東京スカイツリーの陰が見えました。



 
 
大洗原子力研究開発センターの松については、2008年まではある防除業者が入って年に2回薬剤散布をして松くい虫防除をしていたので松はきちんと守られていたとのことです。その後の3年間はどういう理由かはわかりませんが、防除が実施されなかったために被害が甚大になり、今年2012年になって入札で選定された地元の業者が薬剤散布を実施したという経緯のようです。今年は散布をしたといっても、昨日の視察では今年枯れた被害木が多数ありましたので、マツノマダラカミキリの密度が高くなり過ぎて防除効果が不十分だったのか、あるいは入札制度で安い見積もりを出す業者が選定されますので、松くい虫防除方法について十分理解していない業者が選定され、散布方法が不適切だった可能性も考えられます。実際に散布をしたのは、元請け→下請け→孫請けの流れで、孫請けの業者だったようです。

2012年11月11日日曜日

常磐線の石岡駅に8:15に着き、待っていてくれた樹木医のY.A.氏の車で涸沼(ヒヌマ)の景色を見ながら大洗海岸に行きました。あらかじめ独立行政法人原子力研究開発機構大洗研究開発センターの辺りの松枯れが激しいという情報が入っていたので行ってみたら、確かに正門から構内の松がたくさん枯れているのが見えたので写真をとろうとしたら、いきなり「写真撮影は禁止です」というアナウンスがスピーカーから流れました。驚いて周りをみたら、監視カメラがついていて警備室で監視をされていたようでした。用事があるならインターホンで話をするようにと言われたので、身分を名乗って、松くい虫被害の視察に来た旨を伝えたら、あらかじめ申請手続きをしていないと許可できませんと言われてしまいました。普段からこういう厳しい警備をしているのか、原子力発電所の事故以来、反原発の動きが高まっているので特別警戒をしているのかはわかりませんでしたが、仕方がないので裏に回ってみました。もしかしたら、昨年3月の原発事故以来、予算が縮小されて昨年と今年の2年間松くい虫対策をする余裕がなくなったせいか(誰かに確認する必要があります)、ずい分松枯れが目立ちました。伐倒駆除をせずに枯損木をこのまま残しておくと、来年はそれが発生源になって今年生き残った松も相当枯れるなということが予想されました。

周辺を回ってみたら、与利幾(何と読むのかわかりません)神社の周りには大きな松林がありましたが、やはり相当数が枯れていました。枯れて玉切りにされた松の年輪を数えてみたら、ざっと50年くらい経っている松だということがわかりました。こんな大木を多くの本数伐倒する予算(1本20~30万円かかるそうです)はないでしょうから、多分このまま放置されると来年は被害が激増しそうだなと思われました。

一方、大洗海岸公園の松林は樹高の低い松が斜面に密植されていましたが、ほとんど松枯れがなくよく守られていました。
さらに、大洗町営の「幕末と明治の博物館」[明治維新後活躍した高知県出身の田中光顕(みつあき)伯爵が昭和4年に創立した旧常陽明治記念館] http://www.bakumatsu-meiji.com/ に行ってみたら、巨大な松林が見事に管理されていましたが、1本だけは殺センチュウ剤が今年の2月に樹幹注入されたことを示すラベルがホッチキス留めされていたにもかかわらず枯れていました。殺センチュウ剤がその1本の松にだけは防除効果を発揮できなかった何らかの理由がある筈ですので、調べてみれば面白い研究テーマだなと思いました。

さらに海岸沿いに北上してみたら、松がボロボロに枯れて骸骨のように立っているところがあり、再生した松にも今年発生した松枯れが見られましたが、その下部からトベラのような常緑落葉樹が生えてきているところがありました。自然に遷移したのか植樹したのかは関係者に確認してみないとわかりませんが、樹種の置換が可能ならそれはそれでいいのではという気がしました。ただ、飛砂防止効果という点で松のような針葉樹と広葉樹で違うのかどうかは誰かに訊いてみないとわかりません。




2012年11月10日土曜日

しばらくブログの記事の更新ができなかったので、支援者から心配したお便りが届きました。心配していただきありがとうございました。今年の6月に新潟県胎内市で松くい虫防除でヘリコプターで薬剤が散布された時に飛散調査をしましたが、その時に採取した気中濃度と落下量の分析値の計算と報告書作成に集中していました。もう少しのところまできましたので、近々ブログの記事の更新とジョギングの再開ができる筈です。胎内市では、来年度の松くい虫防除の薬剤散布を継続するかどうか判断する上で、私たちの調査結果が重要な意味を持ちますので、最優先で報告書の作成をしたいと思います。

本日発売の月刊誌「文藝春秋」12月号の同級生交換というコラムに、埼玉県立浦和高校を昭和36年(1961年)卒の仲間5人の写真が掲載されている筈でしたので、駅前の本屋に行って一冊購入してきました。この写真を撮影するために母校の校門前に集まった機会に校長室に寄ったら、「尚文昌武」と書いた額が掲げてありました。普通は「文武両道」と言うのでしょうが、男子校(現在でも)だった浦和高校では勉強も運動も奨励していました。写真の中の私を含めた二人は「武」の方で、残りの三人は「文」の方だったなあという話になりました。「武」の一人は千葉大園芸学部(空手部)に、もう一人は慶応大経済学部(サッカー部)に進学し、「文」の三人は東大法学部、東大工学部、千葉大医学部に進学しました。全員70才の男たちですが、まだそれぞれの道で元気に活動しています。

明日は朝早く出発して、茨城県大洗海岸の松枯れ状況を視察に行く予定です。

2012年11月6日火曜日

朝からかなり強い雨が降っていましたが、人と会う約束がありましたので東京農業大学に出かけました。昨日で収穫祭が終わって、学生たちが雨の中を後片付けをしていました。
研究室での話が終わって、経堂駅までの帰り道の途中で最近できたアジアレストランに寄って、軽く一杯飲みながらスパイスの効いたインド料理を食べて、家に着いたのは夜の11時半でした。

2012年11月5日月曜日

江戸川堤防を6Km ジョギングしてから、腎臓透析と脳梗塞のリハビリで長期入院している千葉大学時代の元同僚教授/友人をお見舞いに行きました。最後にお見舞いに行ったのは8月ですから、約3ケ月振りでした。いつものように受付で手続きをして、手の消毒をして、病室に行き、「おいN君、本山だぞ、元気だったか」と声をかけたら、目を大きく開けて私をじっと見てくれましたが、声を出した言葉は返ってきませんでした。反応はできなくても、私の言うことは聞こえている筈だからと思って、9月下旬から中国、アメリカ、スリランカに連続して行ってきたことや、昨日までは千葉大学園芸学部で大学祭が行われていたことや、妻と一緒に国立新美術館に行ってきたことや、美術の素養が全くない私にも素晴らしい作品ばかりで圧倒されたことなどを、一方的に話しました。N君は病気で倒れるまではよく油絵を描いていたので、「君にもあの素晴らしい作品を見せたかったなあ」と言ってやりましたが、反応はありませんでした。

ラッキーなことに、そうこうしている中に奥様が来られたので、久し振りに奥様とも話ができました。N君は、アルツハイマー型認知症(アメリカのレーガン元大統領が罹ったのと同じ)の症状が進行中だとのことでした。先日、車椅子を押して戸外に散歩に出た時に、「今日の気分は、いいの悪いの?」と奥様が話しかけたら、「最高だ」と声を出して答えてくれたのでびっくりして、嬉しかったとのこと。やはり、普段は反応はできなくても、こちらの言うことは聞こえているのだと思いました。
食事も、今は嚥下(エンゲ)力が弱くなったので肺炎にならないようにストローで流動食を摂っているのだが、嫌がって口を開けないのだそうです。奥様が病院に内緒で小さなタッパウェアーに小さく切ったリンゴ片を入れてきて、N君の口に入れて「30回噛んでから飲み込むのよ」と言って食べさせていました。N君はおいしそうにサクサク音を立ててリンゴ片を噛んでから飲み込んでいました。

2012年11月4日日曜日

白木 誠氏は、2012年4月15日のブログでミャンマーの子供たちの笑顔の写真とともにM.S.氏として紹介した人ですが、この度 Bridges Across Asia (BAA) というNPO を立ち上げるにあたって、設立趣意書を添付して(クリックして開いて、拡大すると読み易くなります)、以下の支援要請の手紙が届きました。元々は、ある農薬会社の開発部長をしていた時(約20年前)からのお付き合いですが、私自身がやりたいと思っていることを先取りして実際に実行に移そうとしておられるようですので、私もできる範囲で応援しようと思っています。
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各位
秋も深まってまいりました。
皆様には益々ご健勝にて様々な場面にてご活躍の事と拝察いたします。
さて、かねてより計画はしておりましたもののなかなか実行に移せませんでしたがこの度、東南アジアにおける農村地域の開発促進を支援するための任意非営利団体Bridges Across Asia "BAA"を設立しましたのでご案内申し上げます。
去る9月下旬に急に思い立って半年振りにミャンマーを訪問しかつての任地でかつての部下、旧知の人たちと再会しました。
報道では何かとミャンマーの民主化、開発支援、企業進出などが大きく取り上げられていますが、地方の状況は小生の見る限りではほとんど変化はありませんでした。
地方自治の制度も採り入れられていますが、人材、経験、予算などの極端な不足でほとんど実効は上がっていません。農村の実態も全く変化がありませんでした。むしろ都市部との格差が拡大している感じを持ちました。政府は貧困改善の一環としてMicro Financeや協同組合などを奨励、補助金支給などをしていますが、なかなか思うように行っていないのが実情のようでした。かつての任地の人達からは小生に戻ってきて農村の発展に手を貸して欲しいという要望があちこちで出てきました。
現時点では小生一人の団体(?)ですが、今後賛同者を募り、正会員が一定数以上になった時点ではNPO法人登録をも検討し、資金調達を進め本格的な活動を可及的速やかに開始したいと存じます。
取り敢えず、小生は来年1月にはミャンマーのシャン州に入り、先に訪問した折に依頼された事案の一つである、「土着菌堆肥」のマスプロダクションProjectの支援をしようと考えております。「土着菌堆肥」とはご存知の方も多いかと存じますが、その地域の微生物を使用してより短期間で製造する堆肥の事で循環型農業には欠かせない要素の一つです。小生も3年間農家に製法、使用法などの普及に努めましたがなかなか普及しません。当方が実施するデモなどで有効な肥料だと分っていても”面倒”、”材料集めが大変”、”臭い” などが主な理由で普及しませんでした。それを一手に製造して安価で農家に供給するというProjectです。
当団体の設立趣意書を添付いたしました。もし、趣旨にご賛同いただける場合[正会員]あるいは[賛助会員]としてご登録いただければ幸甚です。
年会費は正会員:3,000円、賛助会員:1,000円を考えております。
ご登録いただいた方には後日振込用紙をお送りします。
なお、登録は下記項目を明記のうえ本メールへの返信にてお願いします。
会員の種類、
氏名
年齢
住所
電話番号
性別

宜しくお願い申し上げます。

NPO Bridges Across Asia:BAA
設立代表者: 白木 誠 
E-mail: makotoshiraki396@gmail.com
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今日は妻と二人で東京に出かけ、ある大学の大学祭を見物した後、国立新美術館を訪ねました。美術館は地下鉄千代田線の乃木坂駅の6番出口から直結した便利な場所にありました。大変大きなモダンな建物で、10月30日のブログで言及しました第44回日展が開催中でした。いただいた招待状を入場券に代えてもらって、日本画、洋画、工芸、彫刻とジャンル別に展示してある部屋を回って鑑賞してきました。いずれも素晴らしい作品ばかりで、普段あまり美術鑑賞をしたことがないものですから、妻ともども圧倒されてさすが一流作品はすごいと感心しました。
招待状を送って下さった知人のお父様である野口晴郎氏の作品は、母親と子供をデザインした独特の人形で、工芸の部屋に展示してありました。

2012年11月3日土曜日

あちこちの大学で大学祭が行われていますが、東京農業大学では収穫祭、千葉大学園芸学部では戸定(トジョウ)祭が行われていて、松戸市民が販売されている野菜や果物や花などを買って帰る姿をみます。

千葉大学を定年退職して5年目ですので、私を知っている学生はほとんどいなくなりましたが、それでも販売物を押し売りされないように学内を通るのを避けて、江戸川にジョギングに行きました。秋晴れの空の下を10Km ゆっくり走ったり歩いたりしてきました。流水路(ふれあい川)に沿って河川敷では河童祭りののぼりが立って、食べ物や衣類やおもちゃなどを売っている露天商の屋台が並んでいました。堤防の反対側の農家の柿の木には柿が鈴なりになって、すっかり秋の景色でした。


2012年11月2日金曜日

刑事裁判の通訳も多くこなしているというスペイン語通訳をしておられる方からメールが届き、市橋君の公判時に法廷通訳によって法廷でのやり取りが被害者両親に通訳されたことに関して質問に回答してもらえるかという打診でした。「日本における司法通訳翻訳の現状と課題について」という研究テーマの博士論文作成上の資料にしたいとのことでした。元教師としての本能で、できるだけ協力したいという気持ちになり、すぐ了承しました。しかし、送られてきた質問票を見ますと、内容的には裁判所が回答すべき内容の質問がほとんどで(例えば、法廷通訳の選出方法とか、支払われた報酬の負担人は誰かとか)、弁護側証人として1回出廷しただけの私が回答できる立場ではないということがわかりました。

私の記憶も薄れていますので、あらためて当時のブログをチェックしてみましたら、私は2011年7月11日に出廷して証言をしていました。当日裁判員の一人から、「私自身は支援する会にいくら振り込んだのか」という、市橋君の犯した罪の判断には何の関係もない、単なる好奇心本位の質問に不愉快な思いをしたことを思い出しました。2011年7月26日のブログでは、担当した通訳が私の専門の農薬毒性学(Pesticide Toxicology)の農薬(Pesticide)を肥料(Fertilizer)と誤訳したことや、2011年7月21日付けの英字新聞 The Japan Times にその他にも誤訳が具体的に指摘されていると書いてありました。また、2011年7月31日のブログでは、支援者から寄せられた通訳の問題点に関する詳しい情報を紹介してありました。

加害者や被害者が外国人の場合、通訳の仕方によっては裁判員の判断に不適切な影響を及ぼす可能性もありますので、法廷通訳が一人だけでいいのか(市橋君の裁判の時は、裁判所が登録されている英語通訳の中から選出し、複数必要ではないのかという弁護団の指摘に対して、通訳本人が自分一人で十分できると主張して一人になったという経緯のようですが)、という問題も含めて制度的に考えてみる必要があるのかもしれません。

2012年11月1日木曜日

朝6時に目覚ましをかけて、シャワーを浴びて目を覚ましてから、昨日の夕方下見をしておいたホテル周辺を1時間くらい散歩してきました。北アルプスの頂上は雲に隠れて少ししか見えませんでしたが、太陽が昇るにつれて手前の山が上の方から少しずつ明るくなっていく様子は感動的でした。夏用から冬用の衣服に着替えてきたのですが、それでも寒いくらいで手がかじかんだのでズボンのポケットに入れてしのぎました。つい先週までは熱帯のスリランカにいたのとは大変な違いでしたが、都会の喧騒とは違う田舎の落ち着いた景色や雰囲気には共通のものを感じました。朝7時頃には子供たちが自転車で学校に向かう姿が見えました。この辺りは、以前私が農林水産省の農業資材審議会農薬分科会長の任にあってマイナー作物の農薬登録問題を検討していた時に、ワサビ(ワサビにも害虫が発生しますが、当時ワサビに登録のある農薬は皆無でした)の現場での栽培状況を見学に来た頃は穂高町と呼ばれていましたが、今は安曇野(アズミノ)市に合併して安曇野市明科(アカシナ)になっていました。

散歩に出る直前にアメリカの空手の弟子/友人のユージン・サンチェス君から電話がありました。先日アメリカ東部海岸を襲ったハリケーン"Sandy"の被害見舞いの留守電を入れておいたことに対するお礼の電話でした。最も大きな被害を受けたのはニューヨーク州やニュージャージー州で、今回はノースカロライナ州の被害はそれほどでもなかったとのことでした。従って、ウィルミントンという海岸の町にある彼の家にも被害はなかったとのこと。しかし、停電の復旧工事の手が足らないので、電力会社に勤めている彼自身も北部の州に復旧応援要員として派遣されるだろうとのことでした。

長野県森林病虫獣害防除検討会は、長野県林業薬剤防除協会/長野県森林保全対策協会/長野県林業職員協会/長野県森林組合連合会/安曇野市/松本市の主催、多くの諸団体の共催で、林野庁中部森林管理局/長野県/長野県市長会/長野県町村会の後援を受けて、安曇野市明科公民館で10:00 から開催されました。
主催者・来賓の挨拶に続いて、私が「松林に散布された薬剤の飛散実態と健康影響の可能性」という演題で講演をしました。参加者は長野県下の市町村職員が大半でしたが、松枯れの激害化が進行していて対応を迫られているという状況下で、一部一般市民も参加して、事実を知りたいという真剣な雰囲気が伝わってきました。ヘリコプターによる薬剤散布が、2008年の上田市における保育園児の喉の痛み症状の訴え騒動以来、実施し難くなっていますが、今まで薬剤散布による健康影響の訴えがなされたほとんどの場合、実際には健康影響が起こるような周辺環境への飛散は起こっていないし、健康影響の可能性は著しく低い(=実質的にない)という私たちの過去9年間にわたる全国各地での科学的調査結果に基づく見解に熱心に耳を傾けてくれました。それでも、科学的事実とは別に、農薬反対活動家グループがメディアを使って農薬による健康被害を大きな声で訴えれば、政治的に考慮せざるを得ないというところが行政担当者のつらいところです。
その後、ヤンマーヘリ&アグリ(株)の斉藤次男氏による「無人ヘリについて」の講演がありました。

昼食後、無人ヘリコプターによる薬剤散布(水で代用)の実地研修のために、各自の車で安曇野市明科押野山に移動しました。この地域は松枯れの激害発生地で、松くい虫で大量の松が枯損し、見るも無残な状況でした。
無人ヘリコプターによる薬剤散布は、通常早朝の凪(なぎ)の時に、風速が毎秒3m以下の時だけに実施しますが、今日は時間的に午後になったこともあってかなりの強風が吹いていましたので、ヘリコプターを松林の上までは飛ばさずに、地上から数m飛び立たせて水を散布するデモンストレーション飛行をしました。

帰りは上田市から参加していた方の車に同乗させていただいて、上田駅から長野新幹線に乗りましたが、上田駅までのドライブの途中の山の景色を堪能しました。