夜中に非通知設定の携帯電話からNTTドコモを通してコレクトコールをかけさせて、私に拒否しますと言わせる迷惑電話や、夜中に非通知設定からワンギリ電話を連続してかけてくる嫌がらせ電話に煩わされないように、夜はいつも携帯電話はマナーモードに設定して充電することにしています。今朝はマナーモードを解除する時間が少し遅くなったら、アメリカの空手の弟子/友人のBill Oakley 君からHappy Birthday の留守電が入っていました。すぐこちらからかけ直して、Bill 君と久し振りに話をしました。
支援者からも私の誕生日を祝うメールが届いています。ありがとうございました。
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ご無沙汰しております。先生、お元気なご様子何よりです。最近の私は先生のブログを読んでから就寝するのが日課になってしまいました。
今日26日は先生の70歳のお誕生日ですね(先日のブログで知りました。) 心からお祝い申し上げます。いつも公私にわたり一生懸命活きておいでになる先生はイキイキとされていて、実年齢より若々しくお見受けします。これからもお元気でご活躍されますようお祈りしております。
素敵なBirthdayになりますように。(本山:妻が夕飯のご馳走にフライドチッキンを買ってきてくれ、娘や孫たちがHappy Birthday の歌を歌ってくれました。ケーキは太るからいらないと言ってあったのですが、デザート用に娘が内緒で大きなアップルパイを買ってきて、70才の代りに7の数字の飾りを立ててロウソクを灯してくれました。7才の孫娘のAika(愛夏)ちゃんが、Grandpa は私と同じ年齢と言っていました。)
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本山先生、お誕生日おめでとうございます。いつまでもお元気でいて下さい。
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お誕生日おめでとうございます!! いつまでも元気でパワフルな先生でいて下さい。お孫さんも一緒で、楽しいお誕生日が過ごせますね。
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私はちょうど70年前の今日、1942年(昭和17年)6月26日に、当時は日本の植民地だった朝鮮のピョンヤン(平壌)で生まれました。代議士の家に書生として住み込んで早稲田大学で法律の勉強をしていた福岡県桂川(けいせん)町の農家出身の祖父穂坂秀一(母の父)はキリスト教者内村鑑三の弟子でしたが、朝鮮に渡り、黄海道黄州(こうしゅう=ふあんじゅ)で大きな(2千町歩と聞きました)リンゴ園をやっていて、家族は皆向こうに住んでいました。1945年(昭和20年)の終戦の時は3才だった私を連れて、ソ連軍とアメリカ軍が対峙(たいじ)していた38度線を越えて日本に引き揚げるのは家族にとってどんなにか大変なことだったろうと思います。もう少しで私も残留孤児になるところでした。
引き揚げてから私が小学3年生(9才)になるまでは、宮崎県小林市に住みましたが、当初はキリスト教会の2階(屋根裏部屋)に居候(いそうろう)させてもらっていました。当時の日本の国土は荒廃し、海外からの引揚げ者も大勢で、衛生状態は悪く、食料も不足し、傷痍軍人が施しを求めて街角に立ち、日本全体が貧しい生活のどん底にありました。父は林野庁から払下げてもらった須木村(すきそん)の山を開墾してサツマイモを作り、母は永久津(ながぐつ)中学校の教師をしていました。国民は悲惨な戦争が終わったことを喜び、学校では戦争の残酷さと非人間性を教えられ、平和の尊さを教えられ、食べる物も着る物も住むところも貧しかったけれども、子供たちは親の愛情に守られ、これから平和で豊かな日本の国を築くのだという夢と希望に溢れていました。今考えてみると、経済的に貧乏なことが人を不幸にするのではなく、夢と希望があることが人を幸せにするのではと思います。
私の考え方の根底には、終戦後のこの時代に子供の頃を過ごしたという経験があるような気がします。
今日も東京農業大学の周囲を6Km ゆっくり走りました。
孫娘のAika(愛夏)ちゃんが、昨日買ってもらったシールと折り紙とクレヨンを使って作ってくれた私の70才の誕生日のお祝いのカードです。Grandpa を模した大きな金色の魚 の周りに家族一人一人を模した小さな魚が泳いでいます。小学1年生の自由な空想力には感心させられます。