2012年10月31日水曜日

上野発10:30 の長野新幹線あさま515号に乗って、長野駅に11:51 に着きました。現地の方が車で待っていてくれて、宿泊予定の安曇野(アズミノ)市明科(アカしな)のホテル(ビレッジ安曇野)に行くのに時間に余裕があるので、途中更埴(コウショク)市姨捨(オバステ)山のレストエリアに寄って昼食を食べ、さらに大峰高原の7色大カエデを見に行くことにしました。

姨捨山から千曲川方面を見下ろす夜景は、世界の3大夜景の一つと言われているそうですが、すぐ手前にはリンゴ園があり、昼間でも全体が見渡せるパノラマのような見事な景色でした。
大峰高原の7色大カエデはちょうど見ごろで、正に7色の紅葉が楽しめました。看板の説明によると、昭和22年に大峰開拓団(昭和20年が終戦ですから、海外からの引揚げ者もたくさんいた筈で、食べるためにこんな高いところにも入植して開墾したのでしょう)によって発見されたとのことです。

ビレッジ安曇野の入り口にあった木彫りの彫刻は、女性の像でしたが、貧しさの悲惨さを表現しているのか、何故か10月にワシントンDCのフランクリン・ルーズベルトモニュメントで見た貧しい男と女の像と似たような印象を受けました。ホテルの入り口に何故このような像があるのだろうかと、ちょっと不思議な気がしました。
明日の研修会の参加者は当初の約100名という予想をはるかに超えて150名を超えるとのことでしたが、夕方6時からはホテルの大広間で懇親会がありました。松枯れ問題について、行政担当者とも情報交換ができて大変有意義でした。




2012年10月30日火曜日

午前10:40からの講義に間に合うように十分ゆとりを持って自宅を出たのですが、松戸駅に着いたらいつも利用する地下鉄千代田線の隣の駅の金町で電車の窓が割れるという事故があったらしく、千代田線は超ノロノロ運転なのでお急ぎの方はJR常磐線で北千住に行って乗り換えて下さいというアナウンスがありました。多くの通勤客がそうしたので、超満員になりましたが、東京農業大学にはほぼちょうどの時間に着きました。
今日は面白いことに気が付きました。講義の途中で、学生がちゃんと理解してくれているかどうかを確認するために何か質問はありますかと訊いても誰も手を挙げません。そこで前の方で熱心に聴いてくれている学生を指名して個別に質問をしてみると、やはり肩をすぼめる仕草をするだけで何も言いません。
ところが、時間がきて出席カードを教壇のところに提出するように指示すると、大勢の学生が私の周りに集まって次から次に質問をしてきます。結局、人の前でちゃんとした日本語で質問をするのは苦手でできないけれど、個人的に普段の言葉で1対1で話すのだったら、言いたいことがいっぱいあるということのようです。アメリカでは、小さい子供の時から自分の意見をきちんと言葉で表現する訓練を受けていますが、日本では(特に最近は)パソコンの画面や携帯やスマートフォンの画面を眺める時間は多くても、人の前でちゃんとした日本語で自分の意見を表現する訓練を受けていないので、大学生になっても教室全体の中で質問をすることができないということではないかと思いました。

午後から大学の周りを6Km ジョギングして、学会誌に外国から投稿された論文の校閲(査読)をしました。元はと言えば、追い詰められないと集中できない私の性格のせいですが、これでひとまず絶対絶命の危機は脱しました。

自宅に帰ったら、先日会食をした社長から郵便のお手紙が届いていて、人形作家のお父様が日展に出品した創作人形の絵葉書と、国立新美術館(港区六本木7-22-2)で11月2日~12月9日に開催される第44回日展の案内状(2名まで入れる招待券)が同封されていました。「友情の人形は海をこえて」の本は出版社に連絡をして注文をされたようですが、その話を91才のお父様にしたら、青い目の人形使節に対する答礼人形の一つは自分の父親「野口明豊」(明治26年~昭和53年)が作ったものだと一喝されたとのことでした。お母様が人形作家だった市橋君の支援者と、たまたまノースカロライナの博物館で答礼人形を見た私と、農薬関係会社の社長と、そのお父様とそのまたお父様と、人形がきっかけで不思議なご縁ができました。

アメリカの東部海岸は「サンディ」と名付けられた強大なハリケーンが上陸して被害がでているとテレビのニュースが伝えていましたので、ノースカロライナのウィルミントンという海岸の町に住んでいる空手の弟子/友人のユージン・サンチェス君に電話をしてみました。彼はフロリダ大学工学部卒で、電力会社にエンジニアとして勤務しているので、ハリケーンで電柱が倒れたり電線が切れて停電になると、いつも修理に飛び回ります。留守電になっていたので、今回も電気を回復するのに飛び回っているのかもしれません。ノースカロライナ訪問中にお世話になったマージーさんにも電話をしてみましたが、ここも留守電設定になっていました。どの程度の被害がでているのか・・気になります。

2012年10月29日月曜日

東京農業大学の研究室で明日の講義の配布資料を作成して、世話をして下さっている教員に送信しました。受講生の人数分コピーをとって教室に届けていただける予定です。その後、11月1日に長野県安曇野市で開催される森林病虫獣害防除研修会での講演で使うスライドの原稿を作成して、長野県の世話人に宅ファイル便で送信しました。こちらも当日までに配布資料として準備をしていただけるとのことです。
午後3時には予定していた来客があり、研究室でしばらく松枯れ対策について情報交換後、駅まで帰る途中の宮崎産鶏肉料理店で会食しました。

今日が締め切りの学会誌の論文校閲がまだできていないので、明日の午前中の講義が済んだら最優先であたらないと、絶対絶命です。

2012年10月28日日曜日

(スリランカ訪問中の10月18日~21日の記事にさらに写真を追加しました。)

今日ははスリランカで撮った写真を整理して、ブログの記事に追加しました。昨日走れなかったので、雨の降りだす前に江戸川堤防に行って10Km をジョギングしてきました。
支援者の皆様からいただいたお便りに返事を差し上げるのが遅れていて、申し訳ありません。中国や、アメリカや、スリランカでお世話になった方々へのお礼の手紙もまだできていなくて失礼をしています。

1997年に日米科学協力事業として農薬に関するセミナーを私と一緒に企画実施した時のアメリカ側代表だったDr. Ron Kuhr が急死したとのメール連絡が届きました。身体障害者(小児麻痺)の30才くらいの息子さんがおられたので心配で、ご家族について問い合わせてみましたら、ご家族は奥様と息子2人、娘1人がおられるとのことでしたので安心しました。Dr. Kuhr はノースカロライナ州立大学で昆虫学科長もされ、カーバメイト系殺虫剤についてりっぱな本を書かれた研究者で、殺虫剤の研究者は誰でも知っている人でした。私とほとんど同年代だった筈ですが、今年は前立腺がんで車椅子生活をしているという情報だけで、会うことはできませんでした。急逝の原因は多分脳梗塞だろうとのことでした。一昨年、ノースカロライナを訪ねて一緒にランチを食べた時に、身体障害者の息子さんを連れて来られてお世話をしていた頃の元気な姿を思い出します。まだまだ仕事ができる状態だったのに、家族と一緒の時間を過ごしたいとおっしゃって職を辞して、息子さんのお世話をしておられたのに、ご自分が先に旅立ってしまいました。車椅子生活になってからは、奥様がしっかりお世話をしておられたとのことですので、亡くなるまでご家族との幸せな時間を過ごされたと想像しています。人の一生の充実感は、寿命の長短ではなく、どういう生き方をするかで決まるのだという思いが強くします。

2012年10月27日土曜日

支援者から以下のお便りが届きました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今晩は。スリランカの写真拝見致しました。反日デモで騒がれていた中国、本山先生の古巣のノースカロライナ州、異国情緒あふれたスリランカ、それぞれ異なった国での文化や生活が伝わって来ました。
ブログで支援者の方々のメッセージ(ご意見)も拝見させて頂きました。私は、先日お伝えしました通り、市橋達也さんの為に残して頂くことを希望致します。支援金の残金処理方法として3つ案の提案があった際も迷わず2案を希望しました。しかしその思いとは別に保管方法が問題ですね。どなたか名案を提案して下さることを期待したいですが、難しいのではないかと思います。
8月に本山先生とお会いした時は、2案の保管方法について検討し、ご両親にご相談や、もしくは直接送金されても受け取って下さるのではないか…もし受け入れて頂けなかった場合は、領置金の没収の可能性がある10年間は、塀の外で保管し、直ぐに決めなくても、状況により検討して行けばと言うようなお話になりました。
しかしその後、菅野弁護士さんからご連絡により状況が変わり、本山先生のお考えも変わられたか気になります。私は、以前お話されたように、進めて頂けることを強く望んでいます。市橋達也さんの裁判が結審し受刑者となった今、マスコミが取り上げることもなくなり、ご両親も静かな時を過ごし始めていらっしゃると思います。そのような時に、ご連絡をされるのも気が引けますし、本山先生にご負担をお掛けすることになり恐縮ですが、支援者の思いを届けて欲しいです。
『市橋達也君の適正な裁判を支援する会』が終了後、時間が掛かっても慎重に検討し決められればと思っていましたが、菅野弁護士さんへのお返事は、そろそろされないとならないでしょうか?訴訟についても、支援金の全額or一部?もう少し詳細を知りたいです。
支援者の様々な意見があり、本山先生も決断されるのも難しいと思いまが、よろしくお願い致します。
来年開催される館山若潮マラソン大会に参加されるのですね。しばらく日本から離れてハードスケジュールに追われ、帰国後もお忙しいようですが、体調を崩さないように、ジョギング頑張って下さい。

本山:ご意見をありがとうございました。多くの方が、支援金は一般的な被疑者/被告人と弁護人との関係の問題点を改善するためでなく、市橋君という特定の個人の裁判を支援するために振り込んだので、あくまで市橋君のために使ってほしいというご意見だということがわかりました。来週にでも一度菅野弁護士に電話をして、皆様のこういうご意見をお伝えするとともに、千葉刑務所の弁護活動妨害行為に対して国を相手に告訴して被疑者/被告人の権利を守るというお考えについてもう少し詳しく伺おうと思っています。場合によっては、現在ある支援金の残金とは別に、菅野弁護士が起こそうとしておられる活動を支援するための募金を新たに開始することも考えられるかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は西千葉キャンパスのけやき会館レセプションホールで千葉大学名誉教授懇談会があり、各学部出身の約40名の名誉教授が出席しましたが、私も園芸学部出身の4人の名誉教授とともに出席しました。学長挨拶に続いて、各部局長等による部局の近況報告があり、その後大ホールに移って2題の講演がありました。①「千葉からアジアへ、アジアからアフリカへ-結核疫学調査と医療・対策の進展-」小野崎郁史(世界保健機構STOP結核部メディカルオフィサー) ②「長嶋学の創造-長嶋vs.野村-学生はどちらを求めるか」明石要一(千葉大学教育学部教授)
小野崎先生は千葉大学医学部の卒業ですが、長年スイスのジュネーブにある国連のWHOに勤務しておられ、結核は今でも世界で600万人の患者がいて、年間100万人以上が死亡しているという事実を話されました。私は日本ではもう結核は過去の病気かと思っていましたが、日本にも23万人以上の患者がいるとのことでした。WHO のDOTS(Directly Observed Therapy, Short Course)(患者が支給された薬をきちんと飲むかどうかを観察する)活動によって、支給された薬を生活のために売ってしまったり、途中で中途半端に飲むのを止めてしまうことを防いでかなりの治療実績をあげたようです。しかし最近は低品質の薬が出回ったり、多剤耐性結核の脅威が増しているとのことでした。カンボジアは結核患者の多い国で、患者がわざわざ遠くの町の病院に行くのは困難でしたが、日本の援助で地域健康センターを約60ケ所から約1000ケ所に増やすことで地元で診察・治療を受けることが容易になり、目覚ましい効果をあげたことがWHO の2012年10月の報告 http://www.who.int/features/2012/tb_cambodia/en/index.html に掲載されているそうです。
明石先生のお話しは、ご自身が長嶋茂雄ファンということもあって、主観が入るのではないかと思いましたが、学生を対象にアンケート調査を実施して真面目に長嶋茂雄と野村克也の比較をして、日本の文化の2つの流れ(海洋民族=長嶋型、農耕民族=野村型)について論じておられました。
在校生によるアトラクションとして、千葉大学合唱団が4曲歌った後、会場も一緒になって校歌を歌い、その後は学内の生協食堂で懇親会が行われました。

 
 

2012年10月26日金曜日

今日は東京農業大学の研究室に行って、来週の講義や長野県での講演の準備をしました。昼休みは大学の周囲を6Km ジョギングしました。昨日の江戸川での14Km 走の疲れがちょっと残っていたので、今日は少なめにして昨日との平均で一日10Km にしました。
11月初めの収穫祭が近いので、学内はその準備で活気に溢れていました。

2012年10月25日木曜日

以下のご意見が届きました。ありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先生、ご舞沙汰しております。私も市橋さんが仮釈放されたときのためにお金を残して欲しいです。身元引受人の人が居ればいいんですが、居ない場合もあるので残して欲しいです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もし市橋君のために残すとすれば、前にも書きましたが現在70才の私は30年後まで支援金の残金を管理することはできませんので、多くの支援者の方々に納得していただける管理方法について、どなたか名案があればご提案下さい。

スリランカ出張中は、毎日ご馳走を食べるだけ食べて運動はほとんどできませんでしたので、体調は最悪になりました。来年1月27日に開催される館山若潮マラソン大会に参加しようかどうか少し迷いましたが、千葉大学走友会メンバーの大会参加報告などに刺激をされて、決心しました。今日、フルマラソン男子70才以上の部に参加申し込みをしました。今から3ケ月かけてトレーニングをして900Km くらい走り込んで、体重を9Kg 減らす計画です。先ずは制限時間の6時間以内の完走が目標ですが、昨年度大会(今年の1月)は5時間11分でしたので、あわよくばもう少し頑張って4時間台を目指したいと思っています。
早速今日は江戸川堤防に行って14Km 走ってきました。この距離を走るのは久し振りでした。ノースカロライナ州のJohnson 湖の周りを走るのとは景色が異なり、見慣れた江戸川の悠々とした流れと、空と、堤防の下に広がる家々や田畑を眺めながら走るのは、何となく安心感がありました。

アメリカ滞在中に、本を保管している貸倉庫の鍵が壊されたという電話連絡がありましたので、今日は新しい鍵を買って、管理会社が臨時に付けてくれていた鍵と交換してきました。鍵を壊されたのはこれで2回目ですが、倉庫には本しか入っていないので盗まれたものは何もありませんでした。

2012年10月24日水曜日

支援者から以下のお便りが届きました。ありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ご無沙汰しております。先生のブログ、正直言いますと、最近はまとめて読ませていただいています(すみません)。2日前に久しぶりに開きますと、K子さんのことや菅野弁護士からの要請のことに触れて書かれてありました。以前から、私自身すっきりしていないことが出てきた感じで、また想いを馳せております。k子さんは、市橋君から「面会したい人がいるので来てもらってほしい」というようなことを弁護士を通じて言ってきた女性でしょうか(本山:いいえ違います。)
      
-----

あの上告をするかしないか考える期間、始めは市橋君も上告したい気持ちがあったけど、弁護士は上告しない方向だったし、現実に上告しても「勝てる」可能性がないので、市橋君はあきらめに変わり、最後は支援者も本山先生も上告を薦めたけど、市橋君の上告しない気持ちは頑なでしたよね。あの時期、弁護団と本山先生を含む支援者と市橋君自身の気持ちが、意思疎通が図れず、バラバラな感じがして、何とも歯がゆかったのを覚えています。現実にはK子さんが市橋君の気持ちに寄り添い、弁護団はどうしてもビジネス意識での関係・・市橋君にとって「僕の気持ちはわかってくれない」相手になってしまっていたということでしょうか。不運にも弁護士が薦めた「手記」が、一審であのような判断をされたことは、弁護士にとっても市橋君にとっても大きなマイナスでした(儲けたのは出版社だけ)。(本山:弁護団に裁判の厳しい見通しを言い渡された市橋君が、例え根拠がなくても甘い言葉を告げられれば、一種のマインドコントロールされた状態になって藁にもすがる思いになったことは容易に想像できます。)
私は、まだ若い市橋君が、現在K子さんとは面会することをささやかな喜びとしながら一生懸命服役しているのなら、その方が嬉しいです。ただ、どこでどう間違って、市橋君、彼女、弁護団や支援グループが良い連携を作れなかったか、残念に思います。K子さんと連絡をとって、市橋君の様子を聞くことはできないのでしょうか(本山:市橋君自身が誰にも知られずに服役したいと考えている限り、市橋君の服役している刑務所や現在の様子を探索することは避けたいと思います。)
私は10年以上前、冤罪請求で話題の「無実の死刑囚 袴田巌プロボクサー」の弁護に関わる弁護士事務所で働いていたことがあります。やはり彼女だったか婚約者だったかの女性がいて、その女性が弁護士や外部の人との連絡役にもなり、袴田被告から弁護士事務所にも手紙が届くし、46年も前の事件だけど、一昨年には政治家も救援支援会を結成したようです。市橋君は実際に罪を犯したので、冤罪とは違いますし、また、市橋君の性格上多くの人に心を開くタイプではなさそうですが、それでももっと有益な支援環境を作れないものかと思います(本山:市橋君自身が求めるなら、「市橋君の更生を支援する会」を立ち上げて支援活動をしてもよいというか、積極的にそうしたいと考えています。)
被告への理不尽な扱いや、検察と裁判長の癒着など、今も問題があるのは事実でしょうから、今の市橋君に関係することならば菅野弁護士に支援金を使って頂いても良いと思いますが、何となく支援者の皆様の考えとズレがある気がします。間に立って下さってる本山先生に、またストレスになってはいけませんし、全額ではないのでしょうから、私は本山先生に判断を委ねます。そのうち、市橋君の居場所がわかって、遠い場合は、本山先生には交通費とか必要になりますから、その時はまた支援金募ってください。
     -----
寒くなってきましたので、ご自愛くださいませ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日はある農薬関係会社の社長と東京で夕方5時に待ち合わせ、会食をしました。私ももう70才だからそろそろ農薬問題からも松くい虫問題からも卒業して、何か国際親善や人類の平和に役に立つような仕事をしたいと思っていると話して、支援者から送っていただいた「友情の人形は海を越えて」をお見せし、この本を英訳して出版して答礼人形を保存しているアメリカ側の博物館に送ってあげたいんだという私の気持ちを伝えました。社長は本を手に取って眺めた後で、実は自分の祖父は人形作家で、父(91才)も芸大卒で彫刻と人形を組み合わせた新しいジャンルの芸術作品を創った人間だと話されました。父もこの本に興味を示すかもしれないとおっしゃって、本のタイトルや出版社をメモされました。たかが人形、されど人形で、よくできた人形はまるで魂が入っているみたいで、見る人に温かさを感じさせてくれます。

2012年10月23日火曜日

東京農業大学に久し振りに顔を出しましたら、事務室にたくさんの郵便物がたまっていました。その中に、市橋君に関するものと、答礼人形に関するものがありましたので、ここで紹介させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本山先生、毎日お忙しそうですが体調は大丈夫ですか。以前手紙を出させて頂いた〇〇〇〇と申します。先日(11日)のブログを読ませて頂きました。久し振りに市橋君の名前を見つけ、少し期待して読み進んだのですが・・・。こちらの「想い」がそのままの形で相手に届かないというのは、もどかしいものですね。市橋君の事を家族の様に心配していた方々は淋しい思いをしているのではないでしょうか。K子さんが、どういう考えで市橋君と関わってみえるのかは判りませんが、全て市橋君の為を思っての行動であり、市橋君の未来に良い結果をもたらしてくれると信じたいです。それでもこの先万が一、市橋君の気持ちに変化があって、本山先生に会いたくなった時には、余計なことは何も考えずに素直に甘えてくれる事を願っています。
支援金の件はほとんどお役に立っていない身ですからずうずうしいと思いつつも、菅野弁護士のお気持ちは解る様な気がします。世間の目に触れる事のない特別な場所で、権限を利用して行われている差別やいじめ、それによってまじめに罪を償おうとしている人達が傷ついたり心をかき乱されたり、また、本来与えられている権利が認められなかったり・・・。そういう現状を改善する為に使われるのであればとても有意義なことだと思います。もっともっと他の方々のお気持ちも知りたいと思いました。私としては、これからも市橋君を見守っていきたいと思っておりますので、また何かがあればこの先もブログで教えて頂けるとうれしいです。
呉々もお体を大切になさって下さい。 平成24年10月13日 この手紙がいつか無事にお手元に届きますように・・・
本山:ありがとうございました。しばらく大学に来なかったので、お手紙を拝見するのが遅くなって失礼しました。顔を表に出して活動をすれば当然予想されることではありますが、今でも時々馬鹿げた嫌がらせがありますので、自宅は公表しないことにしています。そのために、郵便物を手にするのが遅くなってしまいます。K子さんは当初支援金を送って下さり、私とのメールのやりとりもありました。確か当時のブログで書いたと思いますが、ご本人のお考えとこの支援する会の目指していた趣旨とは違うと感じられて(自分はお金を騙し取られたのですねとおっしゃって)離れた方です。個人情報ですのでこれ以上は申し上げられません。市橋君との関係がどうなっているかも、菅野弁護士からお聞きしたこと以上は私にもわかりませんし、市橋君自身から連絡がない限りそのままにしておこうと思っています。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本山直樹先生
昨年に続き2回目の「ミス香川」青い目の友情交流についてのブログを拝見し、なつかしくなりお便りさせていただきます。
私の母は昨年の暮に85才で天に召されましたが、日本人形を作る一方、青い目の友情交流には深く関わっており、ギューリック三世御一家とも親しく交わらさせていただいておりました。長崎県出身ということもあり長崎たま子の修復や各地の小学校の青い目の人形の修復にもたずさわってきました。昨年、先生のブログでノースカロライナの博物館にミス香川が所蔵されている記事を拝見した時は、母は大動脈瘤の手術後で、この話しを伝えることはしませんでした。
ミス香川は吉徳さんが修復され、おそらく地下に保存されていた市松人形やヒナ人形は、吉徳さんか、久月の現代ものだと思います。1998年に発見され、日本で修復され1999年にノースカロライナに帰されたようです。
同封の絵本は青い目の人形について丹念に調べこの話題を日本にあらためて紹介された、武田英子先生が描かれた一冊です。(数冊残っていましたので・・・) 武田先生は母より数年前に亡くなられましたが、戦時中におこった出来事を記憶にとどめている人達がいるうちに語りつぎたいと、パネル展示を見つかった人形と共にできるよう子供達に向けて尽力されました。昭和を生きた戦中、戦後世代の方々は、今の若い世代とはあきらかに違う歴史観を持って過しておられると思います。ギューリック一世が願った「平和への思いは幼い頃から養われなくては育たない」という思いを、民間レベルで、人形を交換するという行為によって、今の時代にも伝える力を持っていることに感動します。
母の回顧展を11月14日から横浜人形の家でいたします。300体以上創作した作品は国際交流の親善人形としても海を渡っています。一応ご案内を入れさせていただきます。
先生も一時として休みなく動いておられるご様子の中、広く窓口を開いておられますので、不必要な情報も一方的に来ることと思います。私も余計なお世話の一人かも知れませんが、お許し下さいませ。                 God bless you! 2012.10.16 〇〇〇〇〇
本山:素晴らしい情報と、素晴らしい絵本「友情の人形は海をこえて」文:武田英子、絵:うすい しゅん、ドメス出版(1997年)をありがとうございました。ページをめくりながら、胸が詰まりました。青い目の人形と答礼人形にはこんなに深い歴史と、日米両方で関わってこられた方々の努力と思いがあったのですね。私はたまたまノースカロライナの博物館でミス香川に出会って、あまりの愛くるしさに興味を惹かれただけですが、いつか時間ができた時にこの本を英訳してノースカロライナの博物館に渡してあげたいという気がしてきました。お母様が亡くなられる前に一度お目にかかって、お話を伺えればよかったなあと悔やまれます。横浜人形の家での11月14日からの回顧展は是非鑑賞させていただこうと思っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東京農業大学での講義は1年ぶりで、受講生は151人でした。最初はパソコンとパワーポイントプロジェクターの接続がうまくいかなくてスライドを映写できなかったり、途中でマイクの電池が切れて使えなくなったりのアクシデントはありましたが、若い学生諸君を前に、熱がこもりました。

2012年10月22日月曜日

昨夜は何かのトラブルでコロンボ空港での出発時間が1時間半くらい遅れましたが、正味8時間半くらいの飛行時間で無事成田空港に着きました。京成電鉄の空港駅で電車を待っていたら、大きなスーツケースを持って、ジーパンの両方の腿や脛の前側部分がズタズタに切れている(多分、ファッション?)若い女性がしきりに時刻表の案内板を見て首をかしげていたので、"Do you need any help?" (何か助けが必要ですか)と言って話しかけました。カナダ在住の中国人で、友人を訪ねに浅草まで行くのだけどどの電車(成田スカイライナーか空港アクセス線か)に乗ったらいいのかわからない、とのことでした。たまたま私の乗る空港アクセス線の電車が羽田空港まで直行する電車だったので、私は新鎌ヶ谷駅で降りて乗り換えるけど、あなたはそのまま乗っていれば目的の駅まで行くからと教えてあげました。非常に喜んで、一緒に座ったら私の名前を訊くので名刺をあげて、日本滞在中に何か困ったことがあったら携帯に電話をするようにと言ってあげました。今年の反日デモの最中に北京にいたことや、私には台湾にも中国にも親しい友人や教え子がいることなどの話をしました。

自宅に着いてから、早速明日の講義の時間や教室や受講生人数などについて東京農業大学の世話人教員に電話をして確かめました。151人も受講生がいるそうなので、配布資料の印刷時間を考えると、自宅を朝8時には出る必要がありそうです。
昨年の講義資料があるので、それほど大変ではありませんが、今から頭をスリランカから日本に切り換えてその準備をします。

2012年10月21日日曜日

支援者からお便りが届いています。ありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本山先生
ご無沙汰しております。(アメリカから)お帰りなさい。
さて支援金の件ですが、昨日先生宛に手紙をだしました。市橋君に渡ってもらいたいと願います。お忙しいとは思いますがスリランカよりお帰りになり、ご都合がおつきでしたら、一度お目にかかりたいと思っております。またご連絡頂けたら有難いです。詳しい事は手紙に書きましたので宜しくお願いします。くれぐれもお身体には気をつけてください。

(以下は郵便で届いた支援者お二人の連名のお便りです)
先生、ご無沙汰いたしております。そしてお帰りなさい。
さて、支援金のことですが、支援者が優しい気持ちで市橋君のために送ったお金です。どんな事があっても市橋君の手に渡ってほしいと願います。13日のブログの三人目の支援者のお気持ちと全く同じでございます。K子さんの事は確認もとらないまま、ただ憶測だけで大切な支援金を使ってほしくありません。無期とはいえ、30年後とは限りません。市橋君は印税と所持金全てを寄付してしまいました。この支援金だけは市橋君のためにどうしても残して下さい。そのためには、先生にはいろいろご苦労をおかけする事と思いますが、どうぞよろしくお願い致します。13日の初めてメールをしたという支援者の文章を読み、同じ気持ちで涙が出てきました。
いつも市橋君の元へお花を届け、熱心に刑務所見学などされ、市橋君と面会をされた方とお会いすることは可能でしょうか?もし可能でしたら、先生とご一緒にお話しできたらと思います。スリランカから戻られ、ご都合がつく日をお知らせいただけたらありがたく思います。忙しさと季節の変わり目、御身大切になさって下さいませ。
本山:日本には22日の午後帰国予定です。帰国後しばらくはいろいろな予定に追われる筈ですが、少し落ち着いて時間のゆとりができたらお会いできる日時についてご相談致します。市橋君と面会したことのある支援者もこのブログを見ておられる筈ですが、他の支援者とお会いするかどうか今度伺ってみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今晩は。アメリカでの生活、ブログで楽しみに拝見していました。自然に囲まれた景色の写真も良かったです。
支援金の残金ですが、市橋達也さんの仮釈放後の為に残して頂くことを希望致します。
K子さんの養子縁組・婚姻や身元保証人のお話は可能性であり、事実を確認することも出来ませんし、この先のことも分かりませんので、K子さんの状況とは関わらず、決められた方がよろしいかと思います。私も多数の支援者の方が望まれた彼の仮釈放後の為に保管出来るように検討して頂きたいです。本山先生にご負担をお掛けすることになり、申し訳ございませんが、よろしくお願い致します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お疲れ様です。〇〇県の〇〇〇〇です。アメリカ、スリランカとご多忙なので帰国されてからお便り差し上げようか迷いましたが、他の支援者の方からたくさんのお便りを頂いているそうなので、私もこのタイミングにすることにしました。大変お忙しければ、大変申し訳ないです。
k子さんの件につきましては大変驚きましたが、先生が以前おっしゃったように、今回の裁判に対していい影響を与えたとは決して思えません。先生のおっしゃったように、市橋さんを振り回したという印象が大変強いです。k子さんが弁護士や法医学者を知っていると言っても、結局市橋さんに紹介できなかったからです。k子さんとは一体何者なのでしょうか?どういう方なのか良くわかりませんし、信用できません。k子さんの年齢、k子さんと市橋さんが連絡を取られているかどうか、K子さんの養子縁組・婚姻や身元保証人の話はあくまでも可能性であり、事実を確認することも出来ませんし、この先のことも、他の支援者の方々のおっしゃるとおり、分かりませんので、K子さんの状況とは関わらず、決められた方が良いと思います。永山死刑囚の場合は獄中結婚が数年で離婚したと聞いていますし。私も他の支援者の方々と考えは同じです。支援金は市橋さんに無事届いて欲しいと思っております。
お忙しいところですが、くれぐれも体調にはお気をつけください。それでは。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日はやっと少し時間のゆとりができたので、午前中ホテルの部屋でメモに基づいてブログの記事の更新をしました。帰国の飛行機はコロンボ空港から夜中の11時半に出発の予定ですが、午後にはCropLife Sri Lanka の会員会社のどなたかから電話があることになっていて、午後からのコロンボ市内の見学や夜の空港まで(車で約1時間)のトランスポーテイションの指示がある筈でした。
なかなか電話がこないので不安になってこちらから電話をしてみたら、夜遅い便なので夕方8時頃ホテルを出発すればよいと考えていたようでした。ホテルのチェックアウト時間を特別夕方5時まで延長してもらっていることを話したら、打ち合わせをしたらしくMonsanto India Limited という会社のBusiness Manager のSaman Premalal氏 が来てくれました。空港に行っても待ち時間があり過ぎるので、市内のレストランで一緒に早目の夕食をしながら時間をつぶしました。8時頃になって、Premalal氏が手配してくれたタクシーで空港に向かいました。

中国、アメリカ、スリランカと連続してしまったので厳しい日程でしたが、無理を押してこちらに来て良かったと思います。シンポジウムでの講演を、半分お世辞かもしれませんが、スリランカに大変役に立つ講演をありがとうございましたと言われたのも嬉しい気がしましたが、私的な面でこの国の景色や人々の姿を直接見ることができたことはもっと良かったと思います。
コロンボのように30階建ての高層ビルが並んで活気に溢れている都会と、シンポジウムが行われたPeradeniya の周辺の田舎町や農村と、まるで現代と古代が混在している印象でした。日本の昔の屋台のような小さな小屋で果物や野菜や雑貨を売っている店が道路にたくさん並んでいましたが、電気がないので暗くなるとローソクを灯していました。村人にはこれしか生計を立てる方法がないのでしょうが、一日でいくらの稼ぎになるのだろうと思ってしまいました。縄文時代の竪穴式住居と比べるのは大げさ過ぎますが、それとあまり変わらないようなただ壁を立てて屋根をのせただけの掘っ立て小屋のような小さな家に住んでいる人たちもたくさんいました。本当は、日本の若者たちに世界のこういう状況を見せたい気がしました。何のために勉強するのか、どういう生き方をしたいのか、おのずから見えてくると思うのですが・・。シナモンホテルにあったりっぱな石の仏像と、シギリヤ村で散歩した時に見つけた巨木に掲げた木製の手作りの仏像と、仏様への信仰心には変わりはないと思うのですが・・。
一番良かったのは、子供たちの純真で明るい表情でした。16才未満は労働禁止で、公立学校と医療費は無料で、子供の人権が守られているそうですが、クリケットに興じて走り回っていたり、公立学校の子供たちが国から支給される真っ白の制服を着て通学している姿が爽やかで何とも言えません。この子供たちが学校を卒業して大人になる時に、それぞれの夢を実現できる社会が待っていてくれたらいいなあと願ってしまします。

コロンボの高級ホテルに泊まって、バッフェースタイルのレストランでは美味しいご馳走も果物もデザートのケーキも食べ放題で、私は少し罪悪感がしました。でも、私がここに泊まって美味しいご馳走を食べることで、人々の仕事が生まれ、経済が活性化する一助になるのだという言い訳を考えて自分を納得させました。



 
 

2012年10月20日土曜日


今日は朝食の前に宿泊しているヴィレッジの周囲をカメラを持って散歩してきました。この辺り一体が文字通り熱帯植物園のような感じで、樹齢何百年かわからないような巨大な樹木や珍しい植物だらけです。熱帯植物の花はどうしてこんなに派手なのか、多分進化の上で説明があるのでしょうが不思議な気がしました。野鳥の鳴き声も何となくけたたましく聞こえますし、モンスーンシーズン(雨季)が始まって嬉しそうに鳴いている蛙の声も日本のとは違う感じがします。ちょっとした岩の上にカメレオンがいたり、小型のワニのような動物が草むらを横切ったのですぐカメラを向けてシャッターを切りましたが、多分イグアナという大型のトカゲの一種だと思います。
途中、村人がたむろしている場所を通ったら、年配(老人に見えましたが実際はそれほどでもないのかもしれません)の男性が一緒に歩き出し、いろいろ説明をし始めました。最初のうちは相槌を打つ程度で無視をしていましたが、どこまでも着いてきて勝手にあれやこれや説明をして、象のいるサファリまで案内すると言い出しました。ポケットから公式のツアーガイドの身分証明証を出して見せたので、ははーんガイド料を稼ぎたいのだなとわかりました。私は自分で散歩をしているだけだからガイドは要らないと言ったのですが、勝手に説明をしながら付いてきました。30分くらい散歩をして元の場所に戻ってきた時に少しだけでもチップをあげようと思って財布を出して100ルピー紙幣を23枚取り出したら、駄目だ少な過ぎる、23千ルピーだといわれました。コロンボの空港で2万円をルピーに換えてきただけで、1ドルが何ルピーかもチェックしなかったし、チップの相場がどれくらいかも調べていなかったので、言われるまま2千ルピーを渡しました。後で、人に訊いたら、1ドルが130ルピーくらいで、正式のガイド料としては23千ルピーは妥当なところだということでした。あちこちで、私に近づいてきて日本語で話しかけてくる人がたくさんいますが、ガイドをしてお金を稼ぎたいということのようです。
散歩で汗びっしょりになったのでコテージでシャワーを浴びてロビー兼食堂に朝食を食べに行って、外の景色が見えるように外側のテーブルに座ったら、屋根の下の梁(はり)からネズミのような動物が食卓を見下ろしていました。よく見たらリスでした。サルも頻繁に見ますが、木から木へと身軽に動き回っています。
私をコロンボ市まで車で連れて行ってくれることになっているCropLife Sri Lanka の会員のHayleys Agricultureという農業資材・農機具の会社のGeneral Maneger (総支配人)のSiriweera Gamage 氏がが昼頃来たので、昨日は時間が遅くてSigiriya(シギリヤ)の巨大な岩山の上に上れなかったけど、今日コロンボに帰る前に寄って上る時間があるかと訊いたらOKだということだったので、行ってみました。ここでも、車を駐車して歩き始めたら、すぐ一人の若い男性が一緒に歩き出していろいろ説明を始めました。3千ルピーで案内すると言いましたが、マイペースでゆっくり上りたいのでガイドは要らないと断りました。それでも一緒に付いてきていろいろ説明をしてくれました。ほとんど垂直に近い角度でそそり立っている高さ200mの岩山の壁面に沿って、狭い階段が設置してあり、転落しないように設置してある柵やロープに掴まりながら上りました。途中の広い場所には岩をくり抜いたプールがあったり、頂上には宮殿の遺跡(土台)があり、ここがKing(王様)の部屋でここが妃(きさき)たちの部屋だったと説明をされました。こんな高いところでどうやって水を確保したのかいまだに謎だとのことですが、紀元5世紀頃の宮殿だそうですが、灌漑施設や岩山の途中の壁に描かれた妃(きさき)たちの壁画など、信じられないような技術が当時あったことを物語っています。往復2時間くらいの崖道の上り下りで、全身汗だくになりましたが、それだけの価値は十分ありました。体力的には、普段ジョギングで鍛えていてよかったなと思いました。若い男性にはお礼に4千ルピーを差し上げました。Gamage 氏によると、若い男性が最初ガイドをしたいとスリランカ語で言っきたので、私の今朝の経験を話して、ガイドをしてもお金の請求はしないように、私が満足すれば黙っていてもお金を払ってくれる筈だからと言ってっやったのだそうです。そうしたら、私が請求されなくても相場より高い4千ルピーを払ったのを見ていて、ガイドも大喜びしている筈だと言っていました。ちょっとした心配りで、私個人だけでなく、日本人としての評価につながりますので、4千ルピーをあげてよかったと思いました。成田空港にはスリランカルピーはなかったので、コロンボ空港で少しだけ円をルピーに交換したら、1円=1.5728ルピーでしたから、4千ルピーは約6千3百円に相当します。
コロンボへの途中、豪雨の中を走る場所があり、目の前で交通事故も2件目撃しました。Gamage 氏によると、今年は旱魃(かんばつ)で何週間も田植えができなかったのでこの雨は恵みの雨で農家がやっと田んぼを起こして田植えができるので、大喜びしている筈だとのこと。自分もそうなれば農薬が売れるので、大雨の中に出て踊りだしたいくらい嬉しい気持だと言っていました。日本の農薬会社とも取引があって何回か日本に行ったことがあるが、営業相手の日本人社員に毎晩のようにお酒を飲みに連れて行かれてカラオケで歌ったと言っていました。接待の意味だったのでしょうが、日本の悪い文化を強要されて申し訳なかったと、私が謝っておきました。この方は日本の仏教(何派かは聞き取れませんでしたが南無阿弥陀仏ではなく南無妙法蓮華経を唱えるとおっしゃっていたので日蓮宗の一派でしょうか)の信者で、日本から高僧(導師と言うのでしょうか)がスリランカにも来てすばらしい説教をしてくれるとのことでした。
コロンボ市の前と同じCinnamon Grand Hotel Colombo に着いたのは真っ暗になってからでした。5時間くらいのドライブを途中1回休憩しただけで彼が一人で運転してくれましたが、途中でコロンボ市に住んでいるご家族(奥さんと3人の息子さんたち)から何回も電話がありました。事故がないように心配をした電話で、そういう点では日本人もスリランカ人も全く同じだなと思いました。車でこれだけ遠出をすれば、私の妻も心配してそうするよと言ってあげました。
ホテルでは今夜の宿泊代と今夜の夕食、明日の朝食、昼食代を全部払ってくれました。全部で280ドルくらいでしたが、部屋に行ってみたら大統領が泊まるような特等室でした。彼には借りができたので、今度日本に来る時はお返しをしたいので必ず連絡をするように伝えました。




 





2012年10月19日金曜日

午前中に反農薬活動をしているNGOの人達と会って討論をするという予定になっていたのが、どういうわけかキャンセルになったので私もProf. Bridgesも自由になりました。Prof. Bridges 夫妻はすぐ帰国する必要があるとのことで、Dr. Patilと一緒に朝10時半に車で出発してコロンボ空港に向かいました。私はせっかく来たので少し見学をしたいということで、CropLife Sri Lanka の会員のLankem Ceylon PLC という会社のDistrict Manager(地域総支配人)のRahitha Seneviratne 氏の案内で車でKandy District の周辺を回りました。
公立学校の子供たちは皆政府から支給される真っ白の制服を着て通学していました。授業の始まる前に早めに学校に着いた子供たちは、羽子板を大きくしたような形の板を野球のバットのように構えて投げられたボールを打って走り回っていました。これが多分クリケットというスポーツなのでしょう。子供たちの純真な笑顔を見ると、国籍や人種は関係なく癒されます。
金色の大きな大仏像も見に行きましたが、奈良の大仏や鎌倉の大仏と似ている感じがしましたが、日本のは青銅色で渋い落ち着いた趣きがあるのに対して、スリランカのは金色で周りの建物の飾りなども極彩色で派手なところが違っています。それでも、あちこちにもっと小さい大仏の設置してある小さな建物や中には大仏の絵だけが掲げてある小屋もあり、人々が手を合わせて祈っている姿を見ると、仏教が宗教として生きているという感じがしました。
地区によってはヒンズー教徒が集中して住んでいるところもあり、りっぱな寺院があったので許可を得て中に入ってみました。靴を脱いで大きな建物に入ると、あちこちに違った神が祀(まつ)ってあり、その前で人々が祈りを捧げていました。
農業資材の卸商(農機具、肥料、農薬、種子などを扱っている)と、小売店にも寄って、どうやって農薬を販売しているのか見せてもらいました。一番面白かったのは、スリランカは人口の大多数を占めるシンハリ人と少数派のタミル人から構成されているので、農薬のラベルの説明は全てシンハリ語とタミル語と英語の3ケ国語で書かなければいけない規則になっていることでした。他民族国家はこうしてお互いを尊重して協力し合って生活しているのだなということが実感できました。
それからSigiriya という町に移動しました。エジプトのピラミッドや中国の万里の長城などのような世界の7不思議に加えてもらう申請をしたという巨大な岩山の頂上の宮殿跡地に行って、頂上まで上るつもり(往復で2時間くらいかかるそうです)でしたが、到着時間が遅かったので今日はもう駄目だと言われてしまいました。紀元5世紀頃に、高さが200mくらいはある急峻な岩山の頂上にどうやって宮殿やプールを造ったのかいまだに謎なのだそうです。
今日宿泊するホテルは、岩山の麓に位置していて、コテージのような平屋建てが2軒ずつつながって配置されていました。比較的近くには野生の象の生息地と象を放し飼いして管理しているサファリとがあります。毎年100人くらいの人間が野生の象に襲われるとのことなので、車を留めて道に出たらいきなり目の前に巨大な象が現れた時は一瞬驚きましたが、これは人間が管理しているサファリの象でちょうど餌を食べに行くところでした。



 





 
 
(スリランカのコロンボ市のホテルに着いたのは16日の夜中の1時半で、それから徹夜で講演のスライドを仕上げました。今は車で約5時間かかって北上した別の町にきていますが、忙しくて記事の更新ができません。熱帯ですので、珍しい写真もたくさん撮っていますが、後で時間ができてから報告します。すぐ近くに野生の象の生息地があって、年に100人以上の人間が襲われているそうですが、今日は目の前に急に象が出てきたのには驚きました。今夜宿泊するコテージのドアには、猿にバナナをやらないようにという注意書きがありますが、猿もそこら中にいます。明日はまた車で5時間かけて夜にはコロンボ市に戻る予定です。
とりあえず、無事でいることだけをお知らせしておきます。)






 

2012年10月18日木曜日

今日のシンポジウムは、Plant Genetic Resources Center (植物遺伝資源センター)という日本(のJICA)が協力して作ったりっぱな研究所・遺伝資源保存施設の講堂(約200人収容)で行われました。開会時には、海外からの中立的・科学的立場での専門家として英国からDr. Bridges と日本から私が参加していることが紹介されました。シンポジウムは次の3つのセッションで構成されていました。
Session One
“Relationship between exposure to heavy metals & chronic kidney disease and other adverse health effects”
by Prof. Jim Bridges (University of Surrey, UK)
Session Two
“Clinical fetures of CKDu”
by Dr. Thilak Abeysekera (Teaching Hospital, Kandy)
“Risk factors of CKDu”
     by Dr. Kamani Wanigasuriya (Faculty of Medical Sciences, University of Sri Jayawdenepura, Nugegoda)
“Environmental Factors in CKDu”
     by Prof. Dhammika M. Dissanayake (Faculty of Medicine, University of Peradeeniya)
Session Three
“Global perspectives of pesticides regulation”
     by Prof. Naoki Motoyama (Tokyo University of Agriculture)
“Crop protection products: Global perspectives”
     by Dr. Vasant Patil (CropLife Asia)

国歌の演奏とCropLife Sri Lanka 代表の挨拶から始まりましたが、肝心の政府の高官の到着が遅れているとのことで、予定より少し遅れて開会されました。いずれも大変素晴らしい講演でしたが、特にSession Twoは腎臓病の専門医と医学部の先生たちの講演でしたが、いわゆるEnvironmentalist(反農薬活動家)たちが主張しているように、輸入農薬から極微量の重金属(特にヒ素)が検出されたことから農薬がCKDuの原因であることを示す科学的根拠はないという点で一致していました。スリランカの農業にとって農薬が重要な資材であるという認識も共通していると感じました。
昼食の休憩時間にSession Oneの座長をされたUniversity of Peradeniya の化学科教授のDr. Oliver A. Ileperumaに話しかけられましたが、反農薬活動家たちが分析機関に委託して検出したとする微量の重金属の分析結果が再現性があるのか、どれだけの精度の値なのかという点について、スリランカでも独自に分析してみたいが残念ながらそれに必要な機器が国には1台もないので、私を通して日本(多分JICAを意識して)の協力が得られればありがたいとのことでした。
このことは、シンポジウム閉会後、宿泊しているホテルで行われた二次会にもスリランカ政府で農薬登録の総責任者(Registrar of Pesticides)の地位にある高官 Dr. Anura Wijesekera からも相談をされ、スリランカのCKDuの問題解決のために、今後日本との協力関係を築きたいので後日メールで連絡をすると言われました。
Session Twoの座長も2番目と3番目の講演者も女性の学科長・研究者・教授でしたが、大変りっぱな仕事をしておられて、スリランカでの女性の活躍の一端を見る思いでした。確か独立後、国名をセイロンからスリランカに変えたのも女性の首相か大統領かの時だったような気がします。
私も何とか務めを果たして気が楽になりましたので、二次会で入国して初めてビールを口にしてぐっすり眠りました。

 
 

 

2012年10月17日水曜日

バッフェースタイルの朝食を食べて、ロビーに行ってみたらDr. Patil の方から私を見つけて声をかけてくれました。彼も私も1978年にノースカロライナ州立大学を離れて以来ですから、34年振りの再会でした。
コロンボ市での会議はすでに15日に行われて、イギリス人の重金属の毒性に詳しいDr. Jim Bridges (私と同じように名誉教授)とDr. Patil が講演したとのことでした。今日はスリランカ政府の厚生省所管のMedical Research Institute (国立医学研究所)のDirector (所長)のDr. Anil Samaranayake と面会する約束ができているとのことで、Dr. PatilDr. Bridges、私、それにCropLife Sri Lanka の人とで出かけました。所長によると、国立医学研究所でもスリランカの北中央部の辺りで特異的に多発している原因不明の慢性腎臓障害(Chronic Kidney Disease of unknown etiology を略してCKDuと言う)については原因究明の研究に取り組んでおり、問題の地域の井戸水を長期間実験動物(ラット)に投与する実験をしたところ、慢性腎臓障害の症状を再現できたとのことでした。その研究はすでに学会誌に投稿して掲載済みなので、別刷りをいただけるとのことだったのですが、残念ながら実験を担当した人が留守なので、後ほど送ってくれるということになりました。しかし、Dr. Bridges によると、慢性腎臓障害と重金属の関係については徹底的に文献検索をしてきたがそういう論文は見つからなかったとのことなので、まだ掲載はされていないのかもしれません。もし所長の言ったことが事実だとしたら、住民の飲んでいる地下水(井戸水)に関係があるということなので、原因の解明はできそうな気がするのですが・・。
国立医学研究所の所長ともなると非常に多忙らしく、研究者の研究内容を必ずしも性格に把握していないのかもしれないし、本人は若い時にスウェーデンの大学で医学の教育を受けたと話していましたので非常に優秀な方なのでしょうが、話し方が若干官僚や政治家的な感じがしました。Dr. Samaranayake と は約束の約2時間ほど意見交換をして、研究所を後にしました。
翌日の会議はコロンボ市内ではなく、車で5時間くらいかかる北部のParadeniya(パラデニヤ)地区のPlant Genetic Resources Center (植物遺伝資源センター)の講堂で行われるとのことなので、午後からはDr. Patil、私、Prof. Bridges 夫妻はトヨタ製のミニバスに乗ってそちらに移動しました。2車線しかない狭い道路を、車とバスと小型の3輪自動車とオートバイと人が混在して、昔東京オリンピックの時に日本のタクシーは狭くて混雑している道路をすごいスピードで走りぬけることから神風タクシーと呼ばれた時期がありましたが、前にいる車を次々に抜き去って走る様子はそれ以上の神業のようでした。Dr. Bridges の奥さん(後で自分の奥さんは栄養学が専門でロシア人だと教えてくれましたが、素敵な女性でした)は後部座席で目をつぶっていたようです。CropLife Sri Lanka の二人は別の車で出発し、途中打ち合わせてあった休憩所兼レストランで落ち合って一緒に食事をしました。Lanken Ceylon PLC という総合会社の農業部門のGeneral Manager(総支配人)のNishantha Jayamanne 氏と、Arista LifeScience という日本の会社のスリランカの総支配人のRanjan T. Gunasekara 氏です。

2012年10月16日火曜日

結局昨夜は自宅に着いて、シャワーを浴びて、夕食をして、眠くならないようにコーヒーを飲んでから講演の準備をしていたら、朝になってしまいました。朝食を食べてスーツケースに必要なものを詰めて(妻がほとんどやってくれた)、電車で成田空港に向かいました。今日は成田からスリランカのコロンボまでの直行便がない日なので、マレーシアのクアラルンプールまで飛んで、4時間くらいの時間待ちをしてからコロンボ行きの飛行機に乗り換えました。空港には大体予定通り夜中の1155分頃着いたのですが、チェックインしたスーツケースが出てくるのに1時間くらいかかってしまいました。ロビーでホテルの人が私の名前を書いたプラカードを持って待っていてくれる筈だったのですが、見つからずにウロウロしているうちに声をかけてきた人がいて、事情を話したら車でホテルまで連れていってくれました。空港は市内から離れたところにあるので、ホテルに着いたのは夜中の2時を過ぎていました。それからまた講演のスライドの最終仕上げをしたら、また朝になってしまいました。CropLife Asia Dr. Vasant Patil が朝10時半にロビーで待ち合わせて出発するというメモをフロントに預けておいてくれたので、朝その時間になったらロビーに行って彼を探すことにしました。

2012年10月15日月曜日

今夕(日本時間で15日)ワシントンDC経由で無事成田空港に着きました。往く時に車を使わずに(駐車料金を節約するために)電車で行ったので、復りも京成電車を乗り継いで松戸まで帰ってきました。大きなスーツケースはクロネコヤマトで託送するつもりで予約して行ったのですが、明日の朝はスリランカに出かけることになってスーツケースと衣類がすぐ必要になったので、キャンセル(宅配だと翌日配達)して自分で引っ張ってくるのはちょっと大変でした。

妻が明日からの旅行の準備は全部してくれていましたが、私自身の講演の準備の仕上げをするのにまだ何時間かかかりそうです。支援者の方々からお便りが届いていますが、今は時間がないのでスリランカのホテルでインターネットアクセスができるようだったら、時間を見て向こうで対応します。

2012年10月13日土曜日

日本からメールが届いています。ありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
初めてメールさせていただきます。市橋達也さんの支援の会、以前よりブログを、拝見させていただいていました。
市橋さんが逮捕されて、随分時間も経ち、テレビなどで報道されることもなくなりましたが、先生のブログを日々拝見させていただき、今も心配な気持ちになります。元々は、市橋さんが指名手配され、ポスターを街で見た時に、私の弟とすごく顔が似ていて、たまたま歳も同じでちょっと不思議な気持ちで事件に興味を持っていました。そのうち、自分の家族がこういう立場にたったら私はどうするだろうと、とても人ごとと思えず、いろいろと考えるようになりました。逮捕された時の映像、捕まるまでの逃げ続けた長い日々、裁判の事、いつも苦しい気持ちになりました。
市橋さんがした事は、とても許される事ではないけれど、何か人間には紙一重な所もあって、誰もがもしかしたらとっさの感情で、起こしてしまう可能性もあるんじゃないかと人の弱さの悲しさを思います。市橋さんの裁判は、3回行きましたが、全部抽選で外れてしまいました。
周りの人には、なかなか言えなかったので、いつも先生や支援者の方の文章を読んで、こうやって見守り心配してる方がいらっしゃるのに、私もほっとしていました。
今は、先生も面会に行けなくなり、苦しい気持ちもあると思いますが、いつか先生に市橋さんから連絡がきっときますように私もお祈りしています。
お体に気をつけて元気でいらして下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○○県の○○です。ご無沙汰を致しております。市橋さんの受刑生活が始まってから後も先生のブログは毎日楽しみに読ませて頂いております。日本にはない写真での景色が見ていて楽しいです。今日メールさせて頂いたのは弁護士さんの言われている告訴ですが、私個人の思いとしましては、今は市橋さんも受刑生活に入られて償いをされ市橋さんのご家族にされましても少しづつ静かな生活を取り戻されている事ではないかと想像します。そんな時にまた告訴をする事で市橋さんの名前をメディアが取り上げて、辛い思いをされるのではないか?と気になります。私たち支援者は静かに市橋さんの受刑生活が静かにむかえられる様見守る事が一番なのではないかと思っています。これから寒くなってまいりますが風邪などひかれないようにお身体ご自愛下さい。
本山:菅野弁護士は、千葉県で被疑者取調べの段階から弁護人をつけて、事実と異なる自白を強要されて冤罪が起こらないようにする制度を立ち上げた方です。今回考えておられる告訴も、刑務所という閉鎖社会で被疑者や被告人に対する弁護活動が妨害されないようにすることを目指したもので、市橋君の事件とは関係はないと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ご無沙汰しております。先生、お元気そうなご様子何よりです。今日は日曜日ですので、このメールを読まれるのは日本に帰国されてからかもしれませんね。
ところで市橋さんへの支援金についてのブログ拝見いたしました。私たち支援者が市橋さんの事を考え想い少しずつ送らせて頂いていた支援金。何とか市橋さんのお手元に届けたいと先生が色々と悩み試行錯誤しながら動いてくださった事、以前のブログで理解しております。
私も先生へメールで「遺言という形ででも市橋さんへ届けて頂きたい」と書きました。その想いは今も変わらず日々何とか市橋さんに届くように祈っております。今回K子さんが出所後の身元保証人になって下さる可能性があるとのお話ですが、それも確定ではないのですよね?あくまでも可能性があるという事ですよね。市橋さんが出所される時という先の長いお話なので、失礼ですが、ひょっとしてK子さんもどのようになっておられるか誰にも判断がつきません。そう考えると私としては、やはり市橋さんのお手元に届けて頂きたい気持ちでいっぱいです。
この私の意見(考え)は先生を悩ませ困らせる事になるのかもしれませんが、私は晩年の市橋さんに届けたいです。彼が長い間頑張って服役して出所した後の生活を助けたい、その想いだけは変えたくありません。他の支援者の方々はどう判断されるのか判りませんが、私は市橋さんに使って頂きたいと思います。頑なな私で申し訳ありません。
宜しくお願い致します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブログに載せないでほしいと書いてあった支援者の方のご意見の要点:支援金は「私の考えで使ってよい」でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は土曜でモーテルの朝食はない日ですので、部屋でコーヒーを沸かして、茶色の食パンのトーストと冷蔵庫に残っていたブドウを食べました。朝のうちに秋晴れの爽やかな空気を吸いに、近くのRegency パークの池の周りを1時間くらい散歩してきてから、スリランカで講演に使うスライドの準備の続きをしました。80~90%できたので、後は15日に日本に到着してから自宅のパソコンに入っているスライドを追加したり、3時間くらいかければ出来上がると思います。

昼頃、Margie さんとシャーロット市(車で3時間くらいかかる)からDon Proffer 君が来てくれたので、部屋で一緒にサンドイッチを食べてから映画館に行きました。Frank 君・JoAnn さん夫妻、Bill 君、Danny 君と娘のGina さんも来て、ARGO という映画を観ました。日本でも上映しているかもしれませんが、イランのアメリカ大使館が反米デモの群集に襲われた時に脱出してカナダ大使館に逃げ込んだ6人のアメリカ人を救出するというストーリーでした。アメリカ人は、コカコーラを飲みながら大きなポプコーンの容器を抱えながら、面白い場面では声を出して笑ったりして、映画を楽しみます。非常によくできた映画だというのが、皆の一致した意見でした。

映画が終わってから、イタリアレストランに行って、夕食を食べました。私は帆立貝と海老のグリルで焼いたものと、野菜としてブロッコリを食べました。2時間くらい8人で食べたりおしゃべりをしたりして、何人かは帰りましたが、Margie さんとBill 君とDon 君(今夜はこのモーテルに泊まります)がモーテルの私の部屋に来て、残っていたビールと赤ワインを飲みながら夜の10時半までいて最後の夜の時間を一緒に過ごしてくれました。
明日は午前10時25分発の飛行機ですので、朝7時半にモーテルを出て、途中でレンタカーを返して、空港に向かいます。