ジャカルタから羽田空港には朝の7時に到着しました。すぐ松戸の自宅に帰って、シャワーを浴びてひげを剃って洋服を着替えて、自然保護協会主催のシンポジウム「ネオニコチノイド系農薬の生態系影響」が開催される東京大学弥生講堂に向かいました。講演予定者と主催者が一緒に昼食を食べながら、事前打ち合わせをすることになっていました。講演予定者の国立環境研究所の五箇公一博士とは以前から面識がありましたが、外国人のDr. Maarten Bijleveld van Lexmond(マーテン・ビジュレベルド)、Dr. Michael Norton(マイク・ノートン)、産業技術総合研究所の二橋 亮博士とは初対面でしたので、名刺交換をして挨拶しました。外国人とは、お互いにマーテン、マイク、ナオキ、とファーストネームで呼び合うことで了承しました。
自己紹介の時に、このシンポジウムの主催者と私以外の講演者は恐らく反農薬の立場でしょうが、私は農水省の農業資材審議会の農薬分科会長を10年近く務めてきたので農薬については異なる立場にありますと述べましたら、早速マイクから、自分が所属しているEASAC(European Academies Science Advisory Council)は反農薬でも農薬賛成でもなく、科学的な事実に基づいて助言をする中立の立場だとの訂正がありました。マイクからは、EASAC policy report 26 "Ecosystem services, agriculture and neonicotinoids"と題した61ページのりっぱな小冊子(2015年4月発行)が配布されました。同じ内容が
http://www.interacademies.net/File.aspx?id=27071 でも見られるようですが、じっくり目を通してみようと思っています。
講演者やスライドの中で興味深いと思ったものを何枚か写真に撮りましたが、後で主催者から肖像権や著作権に抵触するからか、写真は個人の利用に限定して下さいとの注意がありましたので、ここでは差し障りがないものだけ載せます。
基調講演をしたマーテンの出だしのスライドは、「科学者はこの20~30年の間に世界中で昆虫密度の劇的な減少が見られることに気がついて、何が原因かどういう現象なのかについて調査研究を始めた」というイントロダクションから始めました。当初ネオニコチノイドが原因と疑われたCCD(Colony Collapse Disorder 蜂群崩壊症候群)によるミツバチのコロニー数の減少を念頭に置いての発言だと思いますが、その後の研究によって実はミツバチの飼養コロニー数の減少が見られたのはヨーロッパだけで、ネオニコチノイドの登場後にアメリカでもカナダでも日本でも中国でもミツバチの飼養コロニー数は減少していないだけでなく、アジアを中心にむしろ飼養コロニー数は増加傾向にあるということが明らかになっていますので、ヨーロッパが世界を代表するようなマーテンのイントロダクションそのものが刷り込まれた偏見に基づいていて、科学的ではありませんでした。
マイクの講演は、上記の文献に詳しく載っているので繰り返しませんが、Ecosystem(生態系)が農業だけでなく、人類全体にいかに多くの利益をもたらせているかを再認識すべきという主張は当然でした。ただ、ネオニコチノイドとミツバチの関係については公表されている多くの論文を検証していますが、影響があるとする論文と現実にミツバチは減少していないという事実とのギャップは残りました。
二橋博士の講演は、彼が少年だった頃から父親の影響で赤トンボの観察記録をつけていたことの紹介と、観察した赤トンボ数が20頭以上か20頭以下かのように記録の付け方がアバウトだったことによる精度の問題をきちんと指摘した上で、全体としては減少しているとの考察と、減少が見られた時期はネオニコチノイドが登場した時期と概(おおむ)ね重なるとしながらもネオニコチノイドが原因とは断定しなかったことは、彼の科学者としての良心と、風潮に流されないしっかりした資質を表していました。
五箇博士は、私も何回か見せてもらったことのある国立環境研究所の敷地内にあるコンクリート製の模擬水田(メソコスム)を使ったネオニコチノイドとフィプロニルの試験でトンボその他の生物に影響があるという結果を紹介しつつも、実際の野外ではこれらの殺虫剤がトンボの密度減少の原因になっている可能性はあるが証明はしきれていないという印象の考察だったと思います。日本では、農薬の環境への影響を判断する登録保留基準は環境省の所管で、鳥類やミチバチや蚕や天敵生物への影響試験のデータも要求されていますが、主として水系生態系への影響評価として魚類、甲殻類、藻類への影響試験の結果からPEC(予測される環境中濃度)とAEC(急性影響濃度)の比較が行われています。甲殻類の代表として試験に使いやすい外国産のオオミジンコを使っていますが、オオミジンコには影響がなくても他の甲殻類には大きな影響がある場合も当然あり、五箇博士はそこの矛盾を実例で示していました。しかし、甲殻類に限らず、環境中に無数に存在する生物種全てを対象に試験をすることは不可能ですので、環境省所管の研究所に勤務しながら現在の方式に代わる代替案を出せないところがつらいところかなと想像しました。
私は与えられた20分という短い時間の中で、前半は農薬が食料生産に果たしている重要な役割の説明をし、後半は実際の野外環境で私たちが何年にもわたって実施してきた農薬の生態影響の調査結果の一部を紹介しました。連続した野外の環境下では生態系の回復力は強く、農薬の種類によっては特定の生物種に一時的な影響はあっても、それは回復可能な変化であり、農薬のもたらす利益を考えれば受け入れ可能だということ。さらに、ネオニコチノイドは殺虫剤の開発の歴史の中で最新の技術であり、代替案なしにその規制を主張することは無責任だということ。水田は農家にとっては米を生産して家族を支える収入を得る食料生産工場であって、トンボやメダカやホタルを飼育する場ではないので、生物多様性や生態系を保全するには、生息環境を改善・保全することが必要、という意見を述べました。
私の意見はこのシンポジウムの主催者の期待からは外れていたかもしれませんが、少なくとも異なる意見もあるというメッセージだけは伝えられた筈です。
当然、会場からは反発があり、無農薬米を生産している農家が立ちあがって、自分の商品の宣伝をしていましたが、自然保護を自分のビジネスに利用しようとしている人たちが、科学的な自然保護活動をむしろ妨げているのではないかという気がしてきました。
もう一つ興味深かった会場からの質問・意見は、日本ではある特定の作物のネオニコチノイドの残留基準値は外国に比べて異常に高く設定されているのは何故かという、タイやインドネシアの人たちが残留基準値について理解していなかったのと同様の質問でした。反農薬活動をしている人たちは、特定の作物の残留基準値だけを取り上げて危険という主張をしているようですが、残留基準値というのは、日本人の食生活(食品係数)を考慮して、全ての食品から体内に取り込まれるその農薬のトータルな摂取量がADI(一日摂取許容量)の80%以下になるように設定されているので、一つの作物の残基準値だけを取り上げて高いとか低いとかの心配をする必要はないという説明をしておきました。
懇親会には1時間ぐらい顔を出しましたが、意見の異なる私がいれば会話がし難いかもしれないという配慮と、昨夜は夜行の飛行機でほとんど睡眠がとれていませんでしたので、途中で退席しました。
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