2015年2月28日土曜日

長野県庁からの質問事項に返答をしなければなりませんので、もう一度資料を見直したり、私たちが以前実施した調査研究の結果を計算し直してみたりしています。明後日は月曜ですので、明日中には考えを整理してメールで送ろうと思っています。

昼休みはいつもの水元公園に行って2時間歩いたり走ったりして運動してきました。今日は今まで見たことがない背中に縞(市松?)模様がある小鳥が近くの木の枝から枝を飛び回っていました。写真を撮って図鑑で調べたら、キツツキの仲間のコゲラでした。水元公園には野鳥観察の小窓の開いた塀が2ケ所に立っていますので、この頃は時々寄って覗いてみます。今日は小窓のすぐ前の枯れた葦原にシジュウカラが来ていて、小合溜の浅瀬にはコサギとアオサギが来ていました。
現職の時には野鳥を観察するような気持ちの余裕はありませんでしたが、定年退職してからはいつも外に出かける時は小さなデジタルカメラ(ズーム×30)をポケットに入れて持ち歩き、野鳥の写真を撮って楽しむ余裕ができてきました。










2015年2月27日金曜日

大学に行ったついでに園芸学部付属図書館に寄って、月刊誌「現代農業」を2014年1月号からざっと目を通してみました。主に農家を対象とした雑誌だけあって、季節に応じた記事が企画されていました。どんな雑誌でも広告は経営のために重要な収入源の筈ですのでやむを得ないのでしょうが、相変わらずこれはちょっとと思うような怪しげな資材の広告も掲載されていました。
依頼された原稿の字数3000字というのは、刷り上がりで3~4ページに相当することがわかりました。見出しを大きくしたり、図表や写真を入れると4ページになるようです。多分、この雑誌を購読する農家は、新しい知識を勉強したり、他の農家の経験から学ぼうとする熱心な農家の筈ですから、私の書く記事が少しでも役に立つのでしたら、できる範囲で協力しようという気持が固まりました。
早速、その旨を編集担当者にメールで伝えました。

いつもの理容店に散髪に行った帰りに、坂川沿いに歩いたら、3月中旬に河津桜祭りがあるらしく、まだほんの一分咲き程度ですが、咲き始めた花もありました。

午後遅くなって、義理の息子から今成田空港にいるという電話がありました。今回は短期間の滞在だったので松戸まで来る余裕はありませんでしたが、予定した仕事が済んで今から帰国するからという挨拶でした。カリフォルニアで孫たちがダディの帰りを首を長くして待っている筈です。

2015年2月26日木曜日

今日は雨天だったということもあって、一歩も家の外に出ずに、一日中机に向って長野県庁から送られてきた書類に目を通して計算をやり直してみたり、返信が遅れていたメールに返信をしたりしました。

アメリカ在住の娘は毎年1年間撮り貯めた家族の写真でカレンダーを作って送ってくれますので、孫たちが成長していく様子がわかって私たち老夫婦にとっては楽しみです。昨年11才だった長男のAiden(叡伝)は、今は日本では小学6年生に相当しますが、向こうの学校制度では昨年の秋学期から中学1年生になりました。多分そのお祝いでスーツを買ってもらったようです。

2015年2月25日水曜日

月刊「現代農業」というのは、農業関係の書籍を出版している農文協(農山漁村文化協会)という一般社団法人が発行している農家向けの月刊誌です。http://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_540gennou/
毎年6月号(実際には5月1日に発行)には病害虫・雑草の防除時期ですので防除の特集記事が掲載されます。
今から約20年前の1994~5年頃は、無農薬栽培や有機栽培がブームになってきた時期で、農薬に替わる防除資材として自然農薬とか漢方農薬とか植物抽出液とか土壌改良剤とか称する怪しげな資材(今は農水省がこれらをまとめて疑義資材と呼ぶようになった)が流行し、「現代農業」は主な読者は農家なので、そういう資材の広告が掲載されたり、それとタイミングを合わせてそういう資材を奨励するような記事が特集されたりしていました。広告は雑誌にとって重要な収入源でしょうが、ちゃんとした検証もなしに怪しげな資材の宣伝・販売に手を貸すことは、結果として農家を惑わして騙すことになりますので、雑誌としてのモラルが問われます。
その中の一つ「夢草」(むそう)は、自然派ネットワークという団体が国内産の10種類の植物の抽出液を混ぜて作ったと宣伝して全国的に販売し、無農薬栽培をしている農家や無農薬管理をしているゴルフ場などで使われていました。しかし実際には、私たちの研究により「夢草」の有効成分は意図的に混入された合成ピレスロイド剤のパーメスリンで、しかもそれは異性体組成の分析から日本国内で合成されたものではないということが明らかになりました。この結果は1994年3月に札幌で開催された日本農薬学会第19回大会で口頭発表し、論文としては[本山ら:日本農薬学会誌21,73-79(1996)]に詳細を発表しました。
私たちはその後、三浦グリーンビジネスという会社が販売していた「碧露」という資材を含めて、同様の資材は農薬が混入されている偽物だということを次々に明らかにして公表しましたが、科学的な事実が明らかになった後での自然派ネットワークや三浦グリーンビジネスの対応はあきれたものでした。自ら事実を再確認して販売を中止するどころか、弁護士を雇って私に「名誉棄損と活動妨害の疑いあり」という脅迫状に近い文書を送りつけ、有効成分の化学農薬を抜いた資材を分析させて農薬は入っていないという証明書を作らせ、「現代農業」に私を中傷するような記事を掲載させました。
つまりこれらの人たちは、自然農法や有機農業をやろうとしている農家を支援する社会正義の活動家の振りをしていながら、実際は金儲けだけを目的に詐欺行為をしている確信犯だったということです。

そんなことがあってからかれこれ20年が経過して編集担当者も入れ替わったらしく、当時の私と「現代農業」との険悪な関係をご存知ない今の担当者から今年の6月号に向けて記事執筆の依頼がありました。農水省が、日本の農薬登録制度を国際基準に合わせていくという流れの一環として短期ばく露評価(ARfDの設定)をし始めたことで、従来問題なく使われてきた農薬で使えなくなるものがでてきて農家が困っているという問題について解説してほしいという内容の依頼でした。
私は最近の「現代農業」に目を通していませんので、この雑誌の編集方針が変わって私の不信感が払拭(ふっしょく)されているかどうかがわからないということと、農業資材審議会農薬分科会長の役を退いてからずい分時間が経っているので最近の情報を十分収集してからでないと責任のとれる記事は書けないということで、ちょっと躊躇(ちゅうちょ)しています。
少し考えてから依頼を受けるかどうか返事をしようと思っています。

今日は千葉大学園芸学部は入学試験の二次試験の前記日程が行われていましたので、昼休みの運動は道場には寄らずに直接水元公園に行って2時間歩いたり走ったりしてきました。この頃はどの辺りにどういう鳥がいるか大体わかるようになってきました。鳥の姿が見える時は鳴き声も覚えるようにしています。今は落葉広葉樹の枝は葉が落ちて裸ですから鳥の姿が見えますが、夏になって枝が緑の葉に囲まれて見えなくなった時は、鳴き声でどの鳥かわかるようになるかもしれません。今日はラッキーなことにヒヨドリとシジュウカラがすぐ近くの木に留まっていました。バンの若鳥らしいのが地上を歩いていました。コガモの♀もすぐ近くで観察できたので、羽の色や模様をはっきり確認できました。








2015年2月24日火曜日

第2回世界若者農業サミットの日本代表2名を選ぶ最終審査会がバイエルクロップサイエンス社の本社の会議室で行われました。最終審査会に残った7名の中、2名はサミットの開催時期に他の用事と重なってしまって応募を辞退しましたので、実質5名が残りました。その中の1名は現在タイに滞在中、1名はインドに滞在中でしたので、電話会議に似たWEBEXというシステムを利用してお互いの顔が見える状態で審査をする予定でしたが、システムがうまく機能せず、顔は見えないままでの音声だけでのプレゼンテーション(10分)と質疑応答(10分)の審査になりました。
海外の2名はあらかじめ送ってきていたスライドをプリントしたものを見ながら、会場に直接来ることができた応募者は一人づつパワーポイントスライドを映しながらのプレゼンテーションでした。
応募資格には、18才(日本国籍の場合は20才以上)~25才という年齢制限がありましたので、大学の学部生と大学院修士課程までという若い世代が対象でしたが、その年齢で"Feeding a Hungry Planet"(地球レベルでの食糧安定供給について)という難しいテーマについて、しかも英語で討論をする国際会議に応募したというだけでも、たいしたものです。日本にはこんなに元気のある若者がいることがわかり、嬉しく思いました。クラーク(William Smith Clark)博士(北海道帝国大学農学部の前身の札幌農学校の初代教頭)の有名な"Boys, be ambitious! "(少年よ、大志を抱け)という言葉を思い出しました。
審査は、先に提出されたエッセイの内容と、口頭でのプレゼンテーションと質疑応答などを慎重に判断して、2名を選びました。この2名は、ヨーロッパ、北米、中南米、アジア、オーストラリア、ニュージーランドの計39ケ国から選ばれた代表たち計100人と一緒に、今年の8月24日~28日にオーストラリアの首都キャンベラに集まって討議をする予定です。審査結果の発表は3月に入ってから世界同時に行われるようです。
それにしても、このような企画を実行するには莫大な予算がかかる筈ですが、それをサポートするバイエルクロップサイエンス社というのはさすが国際的大企業だなと思います。
http://www.cropscience.bayer.com/Media/Press-Releases/2014/Global-Youth-Ag-Summit-will-take-place-in-Australia-in-2015.aspx

審査員は審査終了後、近くのレストランに集まって6時から9時頃まで会食をしながら反省会をしました。審査会のメンバーの一人だったバイエルクロップサイエンス社の社長はドイツ人で、タイや中国や韓国など海外勤務経験の長い人ですが、会食の時に、一般論として日本人の若者を同じ年代の外国人と比較すると目的意識(いわゆるいい大学を卒業していい会社に就職したり、公務員になって安定した生活をすること以外)があまりなく精神的にちょっとひ弱なのではということが話題になりました。それは、私が46年前の1969年に初めてアメリカに留学した時にアメリカの子供たちと日本の子供たちを比較した時に感じたことと似ています。日本では、多くの子供たちは大学に入るまでは親の庇護(ひご)の下で塾通いやお稽古事や受験勉強に追われる生活をしますので、世界に目を向けたり、自分で汗水を流して働いてお金を稼いだり、人生の目的を考えたりする機会があまりないということが関わっているのかもしれません。そんな中で、今回の世界若者農業サミットに応募してチャレンジした若者には、例え日本代表として選ばれなかったとしても、彼らの今後の人生の活躍を期待してエールを送りたいと思います。

2015年2月23日月曜日

埼玉県庁から農産物安全技術専門委員会の担当職員2名が、来年度からの委員会の運営について説明に来られました。
この委員会は元々、テレビキャスターの久米 宏氏が所沢産のホウレンソウからダイオキシンが検出されたと放送したことで、埼玉県産の農産物の安全性について風評被害が起こり、平成11年(1999年)に「ダイオキシン類の野菜等に対する影響問題専門委員会」が設立されたことからスタートしました。その後、平成13年(2001年)にダイオキシン問題に限定されない「農産物安全技術専門委員会」が新たに設置されて、化学物質等による農産物への影響回避技術の開発を目的に、農林総合研究センターで行われる試験研究に対して助言・提言をするという位置づけで、年に2回の委員会が開催されてきました。
平成26年度で発足から15年が経過しましたので、埼玉県としては来年度からは委員会を休会(解散)し、今後は2~3名の委員を委嘱して、問題があればアドバイスを受けるという仕組みに変更したいとのことでした。
県庁としては限られた予算の中で、一応目的を果たした委員会を休会(解散)して、新たなニーズのあるより重要な課題に取り組むというのは当然のことだと思います。

昼休みは、大学の構内を通って水元公園に行って1時間半ぐらい運動してきました。
千葉大学園芸学部創立百周年記念で建てた戸定ケ丘ホールと緑風会館の間の林の中の小道に、犬の石像が無造作に置かれています。誰がいつ創作したのかわかりませんが、捨てるには忍びなくてそこに置いたものかもしれません。今は高層の国家公務員宿舎が何棟も立っている場所は、昔は園芸学部のC地区と呼ばれて、付属農場の果樹園と畜舎があり、警備を兼ねて犬を飼っていましたので、それをモデルに創作したのかもと想像しました。犬が昼寝をしている姿は愛らしく、なかなかよくできていますので、いつ誰が創作したのかわかればいいのにと思います。
水元公園では、不動池の手前の小さい山には水仙が全面に植えてあり、白い花が咲いていました。不動池の岸辺には今日はカルガモが2羽きて休んでいました。もう一つの池(修景池?)では、カワセミが石垣から何回も水に飛び込んで餌を獲っていました。

今日は妻の誕生日でしたので、アメリカ在住の孫たちから電話があり、かわるがわる妻に Happy Birthday! と言ってくれました。夕方は義理の息子のDon から、今東京のホテルに着いたとの電話がありました。日本のテレビ会社(TBSやNHKなど)と、今年カナダである女子サッカーのワールドカップの試合と、来年ブラジルである夏期オリンピック競技の映像を現地から人工衛星を使って日本に送る仕事の相談や打ち合わせの用事で短期間来日し、今秋の金曜にはアメリカに帰国するようです。今回は短期なので、松戸まで来ずにテレビ局の近くのホテルに宿泊するとのことでした。






2015年2月22日日曜日

第2回世界若者農業サミットの参加応募者が提出したエッセイの残りを精読する作業をしました。3回目ですが、やはり1回目・2回目とは違った面が見えてきます。

朝日新聞DIGITALに、アメリカの研究所が欧米のバイオ燃料政策に疑義と見直しを訴えているという記事が載っていました。http://digital.asahi.com/articles/ASH1Z7FXWH1ZULPT00H.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASH1Z7FXWH1ZULPT00H
いずれは枯渇することがわかっている化石燃料(石油や石炭や天然ガスなど)の代わりに、トウモロコシやダイズなどを原料とするバイオエネルギーは再生産可能なクリーンエネルギーとして欧米で推進されてきましたが、実はデメリットが大きいという指摘です。世界の人口増加に伴う食料不足にどう対応するかが問われている時に、食料をバイオエネルギーの原料として使うことには基本的な問題があるようです。木質ペレットについても、間伐材を原料にしていると言われていますが、木質ペレット生産の増大は自然の森を危機的状況に追い込んでいるとの指摘があるとのことでした。

今日は昼休みに徳川昭武公の別邸がある戸定歴史公園を訪ねてみました。今にも雨が降りそうなあいにくの天気でしたが、よく管理された梅園の梅の花が満開でした。木の枝で可愛らしい声で鳴いている野鳥がいたので写真を撮ってみたら、シジュウカラでした。


2015年2月21日土曜日

昨日の夕方のテレビニュースでは、日本赤軍メンバー城崎 勉容疑者(67才)が服役していたアメリカの刑務所から釈放されて日本に送還され、到着した成田空港タ-ミナルで逮捕されたと伝えていました。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150220/t10015619201000.html
大学紛争の時に暴れまくった全共闘の一人で、東大の安田講堂での機動隊との攻防で大学紛争が終息した後もテロ活動を続けた人物です。

ちょうど今発売中の中央公論3月号に、特集「全共闘とはなんだったのか-あさま山荘事件から振り返る」という記事が載っていましたので、早速買ってきて読みました。いわゆる団塊の世代(1947~49年生まれ)が大学生だった1965年から1972年にかけて、日本全国で大学を破壊する暴力活動が行われました。私は将来研究者になって科学の発展に貢献したいと思って、名古屋大学大学院に進学して勉学に励んでいた時でした。ヘルメットをかぶってタオルでマスクをして、角材や鉄パイプで武装した全共闘の学生たちがワッショイ・ワッショイとスクラムを組んで大挙して大学に押しかけて大衆団交を要求したり、大学や研究室を封鎖したり、学長や学部長を監禁したりした時代で、大学はその対応に追われて、静かに大学本来の目的である教育研究ができる状況ではなくなってしまいました。私が1969年にアメリカに留学し、ノースカロライナ州立大学のPh.D課程に入り直したのは、そんな状況に嫌気がさしたのも一つの理由でした。
中央公論の特集はバランスをとって3つの記事から構成されていました。1つ目は、保坂正康氏(1939年生まれ、ノンフィクション作家)と佐々淳行氏(1930年生まれ、元内閣安全保障室長)の対談「無節操な破壊願望が日本をダメにした」。2つ目は、松原隆一郎氏(1956年生まれ、東京大学大学院教授)の「いまこそ「総括」せよ 団塊世代への五つの宿題」。3つ目は、三田誠広氏(1948年生まれ、作家・武蔵野大学教授)の「小説「僕って何」で描いたあの頃 白、赤、青・・・・・・セクトごとに色の違うヘルメットが闘っていた」。つまり、団塊の世代より10年以上古い世代、10年ぐらい若い世代、それと正に団塊の世代です。

1つ目の対談には,当時全共闘による破壊活動を目の当たりにした私には、共感できるところが多々ありました。特に、彼らの無責任体質の指摘は、全くその通りだと思います。
2つ目の松原氏は大学紛争を自らは経験していない世代で、大学の研究者として総括をしていますが、一点だけ完全に間違っているところがありました。全共闘が東大の安田講堂での警察機動隊との攻防で潰された後、一部の学生はそれまでの主張と矛盾して臆面もなく一流企業に就職したり公務員になって官僚の道に転向しましたが、一部の学生は自然農法・有機農業を推進する活動を新たな生き甲斐にし始めました。それを評価しているのは、松原氏の農業の実態についての理解がきわめて浅薄なことを表しています。
3つ目の三田氏は正に大学紛争の真っただ中にいてそこに自ら参加していただけに、当時のセクトの主導権争いなどを正確に紹介していますが、「・・自分たちの学生時代は充実していて楽しかったという実感をもっている。」というところに他人事のような、当事者としての反省や責任感のなさを感じます。
団塊の世代もほとんどは定年の年齢になったことですし、あんな馬鹿げた非生産的な騒動が二度と起こらないように本当は今だからこそ当時の活動の本質と功罪を当事者達に総括してほしいものです。

昼休みの運動は、松戸ー市川のバス道路から健康増進センターを過ぎて、矢切小学校近くの庚申塚を見てから、斜面林を下りてネギ畑を通って江戸川堤防にでました。今日は土曜日ということもあって、時間を気にせずに3時間半ぐらい歩きました。矢切の庚申塚は以前も寄りましたが、最近(平成23年)建立された穂賀裸佳(ほがらか)地蔵の説明の石碑に目が留まりました。今ではブランド品になっている矢切ネギは、明治末年(1911年?)に千葉大学園芸学部の前身の「千葉高等園芸学校大島 亮教授の指導により合柄系太く甘い冬葱をつくり、全国に名声を挙げた」と記載されていました。同窓会名簿の教員覧を調べてみたら、大島正徳という名前はありましたが、大島 亮という名前は見つかりませんでした。名前を変えたのか、今度蔬菜園芸学研究室の現職教員に訊いてみようと思います。
ネギ畑は収穫の終わりに近い時期でした。収穫後の畑に珍しくヒバリが来ていました。鳴き声は聞きませんが、繁殖の時期に雄が縄張りを主張して鳴くとのことですから、まだその時期ではないのかもしれません。。ピンクの小さな花も咲いていて、いよいよ春が近いことを感じさせてくれました。











2015年2月20日金曜日

8月にオーストラリアで開催される第2回世界若者農業サミットの参加応募者の選抜審査会は来週の火曜日(24日)ですから、近づいてきました。応募者の何人かはあいにく当日は海外滞在中(ニュージーランド、タイ、インド)ですから、WEBEXという電話会議システムでお互いに顔が見える形でプレゼンテーションと質疑応答をしてもらうようです。
この企画については、「現代ビジネス」というネット誌に主催者のバイエルクロップサイエンス社の坂田耕平氏とのインタビュー記事が掲載されています。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41500

昼休みに江戸川堤防を下流に向かって左岸を2時間ちょっと歩いたり走ったりしてきました。青空の下で、春がすぐそこまで来ていることを示すように鮮やかな黄色い花が咲いていました。矢切の渡しの辺りから、ネギ畑の間の小道を矢切の斜面林に向って進むと、高台の上に伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の文学碑がありました。すぐ側には、野菊という名前の花は存在しなくて、菊の形をした複数の植物の総称だということを説明をした看板もありました。
斜面林の縁の高台からは眺めがよく、畑や住宅や江戸川堤防が見え、その向こうには東京都側の街並みが見えました。小説が書かれた時代には、今の様な住宅はなく、正に小説に書かれているように秩父から足柄箱根の山々や富士山がくっきりと見渡せた筈です。いつかよく晴れた日の夕方もう一度この場所に来て、夕焼け空を背景に富士山がどう見えるか確かめてみたいと思いました。伊藤左千夫の小説は、1906年(明治39年)1月に雑誌「ホトトギス」に発表されたとのことですので、今から100年以上も前に小説の主人公の政夫と民子がこの風景を眺めながらどう感じていたのか想像できるかもしれません。




2015年2月19日木曜日

昨日、一昨日と冷雨が降って冬に逆戻りでしたが、今日は打って変わって春を感じさせるような青空でした。いつものように昼休みに江戸川に2時間ちょっと運動に出かけました。カワズサクラ(河津桜)の花芽がどんどん膨らんできましたので、間もなく開花するでしょう。江戸川の水は空の青色を映していました。
水元公園の不動池の近くには大きなケヤキがあり、上の方の枝に野鳥が留まっていましたが、残念ながら私には名前はわかりませんでした。不動池の周りの小枝にはシラサギが留まっていましたが、これも種名は判別できませんでした。コサギかもしれませんが・・。
今日は水元公園に今まで見たことがない野鳥がいたので、写真を撮ってきて図鑑で調べてみたらショウビタキでした。