2016年2月29日月曜日

空港への道路の渋滞を予測して、バンコク市内の繁華街近くにあるホテルを朝早く出発しました。空港には国王の長寿を祈る巨大な肖像が掲げてありました。
ロビーには、タイの神話(?)を再現したものと思われる模型が展示してありました。説明文がありましたが、日本の古代の建国神話と似ているような気がしました。今度、松戸にあるタイ料理店に行って写真を見せて、どんな神話なのか訊いてみようと思います。
これで4泊5日の楽しかったタイ訪問は終わりました。期待通りの経験や、日本とは違う国でしかし日本と歴史的に関わりのあった国をビルマとの国境近くまで車で回って、見聞を広めるができました。








2016年2月28日日曜日

昨夜(3日目)留まったホテルは、朝食後に散歩をしてみたら、大きな川に面したいかにも熱帯らしい珍しい植物を植栽してあるホテルでした。

今日は、先ず台湾からきた2世が農場主をしている大規模な野菜畑に連れて行ってくれました。ケール、白菜、ミツバなどを栽培していましたが、ちょうど労務者が収穫作業をしていました。多くの場合、農場主と契約が成立したブローカーみたいな人が小型トラックで労務者(賃金がタイ人より安くてすむミャンマー人を使うこともあるとのこと)を連れてきて、収穫物をどこかの市場に持って行って卸し売りするのだそうです。

ムアン・シン歴史公園に寄って、レンガ積みでない石を積んで造った寺院を見てから、戦争中に日本軍が戦争捕虜を使って建設させた泰緬(タイ・ビルマ)鉄道の中の、Hellfire Pass(地獄の火の隘路)と呼ばれる難所に連れて行ってくれました。記念博物館があって、説明の展示の他に、10分足らずの短い動画も上映していましたが、戦争捕虜や駆り集められたアジア人労務者の悲惨な様子が描かれていました。
これらを見れば、日本軍が捕虜をいかに残酷に扱ったか、それによって終戦後もいかに反日感情が強く残っているかがわかります。
しかし、それは日本人が特に残虐だったということではなく、戦争が人間を弱肉強食の動物に変えてしまうということだと思います。それは、イギリス人やフランス人やスペイン人やポトガル人やオランダ人が、いかにアフリカやアジアやオーストラリアや南北アメリカなど世界中で原住民に対して残虐なことをして植民地化してきたか、歴史が示していると思います。
鉄道建設で亡くなった多くの戦争捕虜たちにも、徴兵されて戦地に送られて亡くなった日本兵たちにも、皆それぞれの親がいて、家族がいて、息子たちの安全と無事の帰還を祈っていた筈です。それにもかかわらず、こんな故国を遠く離れた地で、人生を全うすることなく死を迎えざるを得なかった無念さを思うと胸が痛みます。
やはり私たちは、地震やつなみの被害の恐怖を後世に伝えなければならないのと同じように、戦争の教訓を風化させないように子孫に伝え続けなければいけないのだと思います。

夕方遅くバンコクに戻り、私に同行してくれた4人のタイの方々にお礼を言って別れました。せっかくなので、今夜のホテルは繁華街の近くにとってくれていましたので、近くの夜の街を一人で少し歩いてみました。日本語の看板を出した店がいくつもあったということは、日本人客が多いということなのでしょう。
今日見てきた戦争中の泰緬鉄道建設現場の地獄のような景色が信じられないような、全く異なる景色です。

私を案内してくれたタイの人が、元気がでると言って飲んでいた燕の巣のドリンクを、私もどんな味がするのか試しに1本飲んでみました。日本人が、アリナミンやリポビタンDやポカリスエットや青汁のようないわゆる健康飲料を飲むのと同じようなものかなと思いました。

     (写真はクリックすると拡大できます)