2013年9月6日金曜日

朝食は7時半ということだったので、朝6時に目覚ましをかけてすぐ近くの中洞(なかほら)牧場を訪ねました。代表取締役・所長の中洞氏は東京農業大学の卒業生ですが、30年くらい前に入植して、山の上に50ha の酪農の牧場をやっています。この辺り一帯は電気もない未開の過疎地で、大変な苦労があったのでしょうが、今は株式会社山地(やまち)酪農研究所という会社組織になって、りっぱな研修施設もできていました。http://nakahora-bokujou.jp/  放牧している牛は見慣れたホルスタインではなく、痩せて見えましたが、こういう厳しい条件に適した品種のようでした。
集会場に戻ったら龍泉洞黒豚ファームのご家族と農大の研修生が来ていて、朝食後養豚場を見に行きました。代表取締役の高橋氏も農大卒業生ですが、やはり30年くらい前に電気もなかった山の中の4ha の土地に奥さんと二人で入植し、苦労を重ねて、今では母豚100頭のりっぱな養豚場をやっていました。私たちが訪ねるというので、静岡大学教育学部に行っている息子さん夫婦が小さな孫二人を連れて帰省してくれました。
それから全員で車で1時間の距離の田野畑山地(やまち)酪農牛乳の牧場を訪ねました。http://yamachi.jp/  代表取締役の吉塚(よしづか)氏も農大卒業生で、約30年前に奥さんと二人で電気もなかった20ha の山に入植し、苦労を重ねた末に今はりっぱな牧場をやっていました。ここではよく見慣れた乳牛のホルスタインを放牧していました。
入植した当時の町長は農大卒業生で、町の発展のために開拓を奨励したのだそうですが、よそ者ということで最初はなかなか地元の人達に受け入れてもらえなかったとのこと。東京農業大学の創立者は明治維新の時の函館戦争に幕府軍として参戦した榎本武揚(たけあき)ですが、農大や農大卒業生には今でも開拓者精神が引き継がれていてたいしたものです。
ただそれでも時代の流れには勝てず、岩泉町の人口は3万人から1万人に減少し、集会場の隣りの分教場(小学校の分校)も10何年前に最後の一人の生徒が卒業して閉鎖され、30年前に入植した人々の中にもあきらめて出て行った人が少なくないとのことでした。

帰りは車で山の中の国道455号を走って三陸海岸にでて、津波で壊滅状態の田老(たろう)を通って宮古に出てから、国道106号で盛岡に戻りました。田老には万里の長城を思わせるりっぱな防潮堤があったのですが、つなみに破壊され、乗り越えられて、町が壊滅したとのことで、住宅跡地は草ぼうぼうの状態でした。防潮堤に上る石段の下には子供の犠牲者を弔うお供えがありました。大きなホテルの残骸跡には、観光バスが来ていました。商店もなくなったのか、いわて生協の移動店舗が来ていました。

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