2015年5月16日土曜日

義父の13回忌と義母の7回忌を兼ねた法事で、妻の実家のある山梨県北杜市(旧北巨摩郡)須玉町上津金村の海岸寺に行ってきました。山を越えればすぐ長野県の有名な清里ですが、山梨県側のこの辺りは交通の便が悪い山村で、若者がほとんどいなくなって小学校・中学校が廃校になって、校舎は三代校舎として保存され、明治時代に建てられたものは歴史資料館として、大正時代に建てられたものは大正館と呼ばれてそば打ちやほうとう(この辺りの太いうどん料理)作りの体験教室として、昭和時代に建てられたものはおいしい学校(農産物直売所やレストランや宿泊施設)として活用されています。おいしい学校には、廃校になる前の中学校で女子生徒の裁縫の時間に使ったと思われる足踏み式のミシンが飾ってありました。妻の実家の裏庭からは海岸寺方面と南アルプス方面が眺められますが(残念ながら今日は雲で隠れていました)、ほとんどの水田は牛丼(ぎゅうどん)の「吉野家」が借りて牛丼に使う国産米を生産しています。
昔はバスが通っていたのが人口減で今は廃止され、車がないと長坂や韮崎の町に出ることもできない不便な村になりました。子供は、上津金村はお嫁に来てくれる日本人の女性はいなくて、フィリッピン人の女性が生んでくれた3人と、下津金村に2人いるだけで、町の学校からマイクロバスが来て送り迎えしてくれているそうです。

海岸寺は、看板の説明によると717年に始まった由緒あるお寺で、織田信長軍に焼き払われたり、再建したものも山火事で全焼し、今あるものは1866年に再建されたもののようです。現在の住職は、元中学校の国語の教師だった88才の方で、お経を唱えた後で大変心に響く法話をしてくれました。駕籠(かご)は住職のお父さん(おじいさん?)の奥さんが嫁入りする時に乗ってきた駕籠だとのことでした。境内には杉の巨木が立っていて、百体観音や、静かな参道など、由緒のある格式高い臨済宗のお寺のようです。
浅川家の墓標を見ると、記録の残っている最初は利兵衛という人が元禄11年寅(1698年)2月25日没で、最後は妻の母みや子が平成18年(2006年)5月18日没と刻まれています。1698年というのは、江戸大火のあった年です。
帰りは義弟に車で韮崎駅まで送ってもらいました。