2018年11月17日土曜日

私は埼玉県立浦和高校を卒業後、1年浪人して千葉大学園芸学部に入学し、途中で家族の半分が移住したブラジルに行くことを止めて科学者になることを決めてからは、昭和41年(1966年)に名古屋大学大学院に進学しました。当時は新制大学にはどこにも大学院はなく、大学院に行きたい者はいわゆる旧制大学(昔の帝国大学)のどこかに行かざるを得ない状況でした。それまで愛知県安城市にあった農学部の古い木造の校舎で入学試験を受けましたが、実際に4月から通ったのは名古屋市の東山に移転したばかりのピカピカの鉄筋コンクリート造りの校舎でした。研究室(講座)には名古屋大学の学部から上がってきた大学院生と私のように全国の新制大学から入ってきた大学院生とが混在して、切磋琢磨して非常に活気が溢れていました。修士課程を修了し、迷うことなく博士課程に進学しましたが、当時全国的に吹き荒れた大学紛争の影響で名古屋大学でも連日のように大衆団交だとか学長交渉だとかに明け暮れて殆ど勉強ができない状態になり、結局私は博士課程の2年次の途中で諦めて、アメリカのノースカロライナ州立大学のPh.D課程に入り直すことにしました。それでも、昭和43年に修士課程だけは修了しているので、一応名古屋大学農学部の同窓会員にはなっています。

第21回名古屋大学農学部同窓会関東支部総会が東京千代田区の学士会館であり、私も35名の参加者の一人として参加してきました。参加者名簿の卒業・修了年次で見ると私は上から4番目でした。本年3月卒業の新入会員も2名参加していました。
支部長の昭和56年博士課程修了(食品化学)の石川靖文博士の挨拶に続いて、会計報告と監査報告、規則改正提案、次期役員の承認があり、その後3題の講演がありました。
1題目は、昭和36年修士課程修了(畜産学)の木村健一博士(81才?)による「福島県の海産魚介類への放射能の影響および水産業の現状」という演題で、長年放射線医学総合研究所(放医研)環境衛生研究部に勤務した実績から、東京電力福島第一原発事故後に福島県が実施した魚介類検査の方法や結果について詳しく紹介しました。毎週約200検体を検査し、2018年7月現在で208種類の海産魚介類、約5万4千検体の放射能モニタリングを行ったとのことでした。放射性セシウムによる汚染は、飼育試験から餌からの取り込みは大きくなく、海水(飲水)からの汚染が主だと分かったそうです。現在は海水の放射性セシウム濃度(134Cs+137Cs)は、第一原発から5km以上では事故前の水準に近づきつつあり、5km以内でも0.1Bq/L程度まで低下しているとのことでした。魚介類の放射性セシウム濃度も低下し、最多44魚種で出荷制限等の指示があったものが2018年9月現在で7魚種にまで減少したとのことでした。結論として、事故から7年が経過し、海水の放射能はほぼ事故前の水準に回復し、海産魚介類の放射能は世代交代や成長による濃度の希釈、体外への排出によってほぼ不検出となったということでした。一度放射能汚染が起こると、消費者にとっては「安全でも安心できない」という、食品残留農薬と同じような問題があるなと感じました。
2題目は、平成2年に博士課程修了(林産化学)の福島一彦教授による「木の新しい価値をつくる~木質バイオマスのこれから~」と題した講演でした。福島先生は名古屋大学大学院森林・環境資源学専攻森林化学研究室の教授で、(一社)日本木材学会の学会長でもあります。研究分野としては学生時代から今日まで一貫してリグニン研究に従事しているとのことでした。講演は、(1)地球温暖化とパリ協定・SDGs、(2)林業の低迷、(3)木質とは何か? セルロース・ヘミセルロース・リグニン、(4)木質由来の新材料、についてで、大変興味深い内容でした。特に最後の話題のセルロースナノファイバーや、CLT(Cross Laminated Timber 繊維方向が互いに直交するように積層接着したパネル)や、改質リグニンから製造される高付加価値製品などの話題は、木には再生産可能な資源として大きな将来の発展性があることを予感させました。
3題目は、元名古屋大学ワンゲル部員の宮木建雄氏(昭和42年農学科卒)と岡田常義氏(昭和42年工学部合成化学科卒)による「ザックを担いでイザベラ・バードを辿る」と題した旅行報告でした。イザベラ・バードという人は、ビクトリア女王が君臨した大英帝国最盛期の1878年(明治11年)に来日し、横浜港から北海道のアイヌ居住地平取までを探検旅行した女性とのことでした。明治維新間もない時期に、江戸時代そのままの街道を通り、旅籠に泊まり、大変な冒険旅行だったことが想像できます。今は高齢者になった元ワンゲル部員10数名が5年間をかけてイザベラ・バードと同じ道を辿ったとのことでした。イザベラ・バードは新潟での日本人に対する印象として、(1)日本人は嘘つきで猥らであり、(2)わたしがこれまであった中で最も無宗教な人々であり、(3)物質主義者である、と悪いことばかり書いているそうですが、(1)は多分次の村への道を訊いても関わりたくないので知らないと言ったり、旅行をしたのが7月の暑い時期なので男は褌(ふんどし)姿で、女は上半身裸で、お風呂も混浴だったからではないか、(2)はイザベラ・バードがキリスト教を布教しようとしても村人が相手にしなかったり、(3)は貧しい村人は生活することに精いっぱいで精神的なことに関心を示す余裕などなかったのではないか、というのが岡田氏の推察でした。別のところでは、日本(人)に対する印象として逆にいいことばかり書いているそうです。いずれにしても、明治11年という明治維新間もない時期に、英国の女性が単身(日本人の通訳1人を連れて)で当時の日本を旅行するというのは相当な危険を伴った筈ですから、大したものだなと思いました。あるいは、当時の日本は現在の日本よりも治安がよくて安全だったのでしょうか・・。
休憩時間(リラックスタイム)には、昭和47年農学科卒)の森中定治氏がプッチーニ:オペラ西部の娘から「やがて来る自由の日」を独唱しました。
学生歌「若き我ら等」を全員で斉唱後、記念写真撮影をし、その後懇親会がありました。