2011年7月11日月曜日

7月8日に振り込まれた2名の方(15回目と2回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は186,843円、延べ337人からの合計額は3,327,428円になりました。ありがとうございました。何人かの支援者や非支援者からメールでのお便りもいただいています。ありがとうございます。

今日は午後1:35から千葉地裁で証言予定でしたが、先日電車の遅れで羽田空港からの飛行機に乗り遅れた苦い経験がありましたので早目に家を出たら、千葉中央駅に12時半ちょっと過ぎに着いてしまいました。早過ぎるので、駅に隣接したコーヒーショップでアイスコーヒーとチーズケーキを注文して時間つぶしをしました。千葉地裁は歩いて行ける距離でしたが、外は猛暑でしたので、タクシーを拾って裁判所に到着したのはちょうど1時頃でした。建物の入り口で待ち構えていたどこかの新聞社に写真を1枚撮られました。弁護団に指示された通り、エレベーターで9階に上がって刑事2部という部屋を訪ねたら待機する部屋に案内されました。そこで宣誓書その他の書類に記入・捺印し、時間がきたら2階の市橋君の公判が開かれている一番大きな法廷に案内されました。法廷の外には交代で傍聴して、報告書をパソコンで打って送信している報道関係者や、交代で傍聴している一般傍聴者がいました。今までメールのやりとりだけでお会いしたことのなかった支援者の方ともお目にかかりました。担当官に付き添われて法廷内に入り、証言台に案内されました。顔なじみの弁護団、検察側の席に座っているリンゼイさんのご両親、一般傍聴席の最前列に座っているリンゼイさんの姉妹の姿が見えました。前方の裁判官席には3人の担当裁判官の両側に裁判員が3人ずつ、その後ろに2名の補充裁判員の姿が見えました。証言台から後ろを振り返ると、傍聴席の前の位置に市橋君が両側を警護(?)に挟まれる形で座っているのが見えました。彼が千葉大学を卒業したのは2005年3月ですから、6年4ケ月振りに見る姿でした。

終始下を向いて顔をあげることはありませんでしたが、背を丸め、髪はボサボサに伸び放題で、卒業間際に最後に見た元気一杯だった時に比べて体が半分くらいに痩せて小さくなった感じで、私にはまるで生きる屍のように見えました。あまりにも変わり果てた元学生の姿にショックを受けた以上に、自分で立ち上がることさえできるのだろうかと思えるほど衰弱しきっていて、このままほっておいたら死んでしまうのではないかと心配になるくらいでした。長期間の拘留と、自分の犯した罪への悔悟と、被害者遺族との対面と、今から直面する運命への不安と、・・こういうことが重なって生きる屍のような生気のない姿になったのかもしれないと思いました。弁護団から聞いていたストイックな生活をしているというのが、こういうことだったとは想像もしていませんでした。

私への尋問は菅野弁護士が担当し、生まれて初めて証言台に立ったので途中とまどうこともありましたが、訊かれたことにありのままを答えればよいので問題はありませんでした。私自身のこと、市橋君との関係、学生時代の市橋君の印象、空手部活動のこと、事件発覚当初のマスコミの過熱報道、大学や私への取材のこと、市橋君はどうすべきだったか私の考え、Websiteで呼びかけたこと、強姦致死・殺人で起訴されていることへの私の考え、「市橋達也君の適正な裁判を支援する会」設立の趣旨、こういう活動をすることでストーカー行為を受けているかどうか、・・などについて尋問されました。裁判官から弁護士に尋問時間が予定制限時間に近いことを指摘されてからの最後の質問、「市橋被告に何を望むか」が、私にとっては最も大切な質問でした。身柄を拘束されてからは、もし接見が可能だったら、市橋君をぶん殴って「何ということをしたのだこの馬鹿者」としかりつけたかったこと。その次は、「何があったか事実を正直に話す」ように諭したかったこと。そして今は、どういう判決になるかわからないが、もし生きることが許されるなら、刑務に服しながらも今のまま年齢を重ねて朽ちるのではなく、成長し・向上し続けてほしいこと、できる範囲で社会にも貢献できることをしてほしいこと、などを説明しましたが、市橋君が今から20年か、30年か、あるいは一生刑務所で過ごす様子が胸に去来し、不覚にも胸が一杯になって言葉が途切れ途切れになってしまいました。

証言終了後、裁判所の外で待ち構えていた多くの報道陣に取材され、その後は先日学生が取材に来た関西の大学のS教授とその学生3人と近くの喫茶店に入って、さらに取材を受けました。
私の今日の証言が、裁判官・裁判員にどう受け止められたか知る由もありませんが、私としてはやるべきことはやったという気持ちです。私の証言の時に法廷内にいたある報道関係者からは、私の最後の言葉を聞きながら市橋君は涙を拭っていたと聞かされました。