2011年8月18日木曜日

8月15日に振り込まれた方(初回)と8月16日に振り込まれた方(10回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は200,000円、延べ380人からの合計額は3,717,428円になりました。ありがとうございました。

支援者のお一人が送って下さった「囚人狂時代」見沢知廉(みさわちれん)著、平成10年発行、という本が届きましたので、時間をみて少しずつ読んでみようと思っています。政治的信条が左から右に振れた著者のようですが、過激な破壊活動で懲役12年の刑を受けた経験から、千葉刑務所を含めて受刑者の生活について記した本のようです。今後市橋君が刑務所内でどういう生活をするようになるのか、ある程度想像できるかもしれません。

NHK BS3テレビでは、5:00-7:00pmに「証言・シベリア抑留」をやっていたので、妻と一緒に見ました。戦争末期の1945年8月に、ドイツ軍の降伏によってヨーロッパ戦線から自由になったソ連軍が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻し、戦争終結で降伏した日本軍と民間人57万人をシベリアに移送して抑留し、まるで奴隷のような劣悪な条件下でシベリア開発の強制労働に従事させ、11年後の1956年12月にナホトカ港から帰還船で最後の兵士を日本に送り返すまでに5万5千人以上が死に追いやられたという歴史的事実を振り返っていました。当時の残酷な状況は、これが20世紀の人類のやることかと、あらためて信じられない思いに駆られます。当時19才だった兵士はすでに85才、24才だった兵士は90才になっていましたが、「死んでたまるかどんなことがあっても郷里で待っている人(母親)のところに帰るんだ」と歯を食いしばってがんばったことや、帰国後も「自分たちだけが帰ってきて、死んだ同胞にすまない」という気持ちに苦しんだことなどを証言していました。なお番組では、シベリア抑留については、1993年に当時のエリツイン大統領が正式に謝罪をしたことにも言及していました。(一方で、日本もアジア諸国の人々に多大な苦しみを与えた加害者であったことも忘れてはいけませんが・・)

2003年に92才で亡くなった妻の父は、山梨県の山村の農家の一人息子でしたが、徴兵されて家族を残して戦地に送られました。残っている軍服姿の写真を見ると防寒帽をかぶっているので、満州の関東軍に配属されていたのかもしれません。しかし終戦で帰国した時はマラリアに感染していて生死の境を彷徨(さまよ)いましたので、その後満州から戦況が悪化していた南方の戦地に移動させられたのかもしれません。もう義父から直接戦争の体験を聞くことはできませんが、妻が覚えている唯一の証言は、戦争中は敵を殺すとか何とかよりも、とにかく何が何でも生き延びて家族の元に帰るんだという一心だったということだそうです。まだ若かった義母が乳幼児3人を抱えて、姑(しゅうとめ)と一緒に自分の帰りを待っていることを考えると、どうしても生きて帰らなければと いう思いで必死だったのでしょう。戦地では勇猛果敢な英雄ではなかったかもしれないけれども、私はそういう義父を人間としてりっぱだと思っています。