2011年8月17日水曜日

(このブログに新規投稿ができなくなって困ったので、こういうことに詳しくて共同管理をしてくれている元学生にアドバイスを求めたら、あちこちで同じトラブルが起こっているとのことでした。とりあえず、「以前のエディタ」に設定し直して、やっと記事の更新ができるようになりました。)

第3回目の接見に行ってきました。前回は午後遅い時間ギリギリに行ったので受付番号が60番で私の後に待っているのは2人くらいしかいませんでしたが、今回は午後の早い時間だったので受付番号は38番でした。今日は少し要領がよくなって、短い8分の間に市橋君に話すべきことを2つの項目に分けて箇条書きしたメモをパソコンで打って持っていきました。それを透明の仕切り板越しに見せながら会話ができました。彼もそこに書かれている支援者の名前や本の名前などを見ながら答えてくれました。1.個別の支援者からの手紙と差し入れ品(本)が届いているかどうかの確認 2.質問する事項

私に連絡を下さった方々の手紙は全部届いていました。本も届いていました。
〇「ライ麦畑でつかまえて」の原本「The Catcher in the Rye」
〇「人間になる/ジャン・バニエ」
〇少年野球マンガ「ダイヤのA」26巻の中の一部
〇「カトリックの聖書(旧約聖書と新約聖書)」
不要なものがあれば処分して下さいというメッセージもあったよと言ったら、とんでもない、ありがたいことですと答えていました。市橋君にとっては、独居房の中にいてこれらの本を読んで、考えることができ、勉強できるのですから、この言葉は本心だろうと思いました。
私が送った手紙と支援者一覧表も届いていました。これで、差し入れ申請があった場合、市橋君はどこの都道府県の支援者からか判断できます。今日差し入れを確認した方と、近く差し入れをすると連絡を下さった方については、私が知っている範囲でどういう方だということを口頭で説明しました。

今日は黒いTシャツ(半袖)を着ていました。本人も健康状態、精神状態は問題ないと答えていましたが、何よりも目つきが落ち着いて、静かないい目をしていました。指名手配中に公開された整形手術後の間の抜けた顔の写真と違って、市橋君本来の頬(ほほ)が引き締まったいい顔をしていました。下着その他差し入れてほしいものはないかと訊いたら、ありませんと答えたので、本でもなんでも差し入れてほしいものがあれば私への手紙で書いてくれれば、全国の支援者がすぐ対応してくれる筈だからと伝えました。公判直後と違って、今は弁護団と私以外からの接見申し込みはないとのこと。情報収集を狙った報道関係者からの支援者を装った手紙や、反支援者からの嫌がらせの手紙などは届いていないとのこと。支援者一覧表の中の長期的に繰り返し支援をして下さっている男性支援者と女性支援者の中に、市橋君の知人や友人はいないということ。独居房は狭くて多くの本が差し入れされると保管場所に困るだろうという質問には、弁護団に宅下げ?してもらいますとのこと。そういえば、差し入れされて領置しきれないものが菅野弁護士の事務所に保管されていると以前伺ったことがあります。どんどん蓄積していくと問題でしょうから、そうなった場合は古本屋その他で処分して東日本大震災の被害者支援などに使っていただければありがたいという趣旨のことを言っていました。この点については、いずれ弁護団とこの近辺に在住の支援者の一部と相談したいと思っています。

千葉大学を卒業する前に、市川に住んでいるのだったら近いから時々は道場にも顔を出して一緒に汗を流そうと言ったのに、一度も来てくれなかったな。研究室にも顔を出さなかったのか。大学を卒業してからの2年間何をしていたのだ。その時に仲間との交流がなくなって隔離された状態になったことが、こういう問題を起こすことにつながったのではないのかという質問をしたら、市橋君の目から涙がポロポロこぼれました。声をつまらせて、勉強をしていましたが就職はしていませんでした。大学の研究室にも道場にも行けませんでしたと答えました。まだそこのところは話せる状態ではないなと思いました。
支援者全員に伝えたいことがあればブログに書けば全員に伝わるよと言ったら、しばらく考えて、申し訳ありませんでしたと答えました。自分の犯した愚かな行動のために、支援者の皆さんにご心配・ご迷惑をおかけして申し訳ありませんと言いたいのだなと感じました。

全ての会話を横で聞いている刑務官に8分が過ぎたことを告げられたので、これからも週に1回くらい来るからなと言って接見室を出ようとしたら、ありがとうございましたと言って、頭を深々と下げていました。