2011年9月21日水曜日

 以下の本を差し入れたというメールが届きました。独居房の中の市橋君の心が少しでも癒されるようにとのご配慮、ありがとうございます。

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どうもはじめまして。○○県の○○といいます。
いわさきちひろさんの絵を見ていると心が癒されますので、私は幼いときから、いわさきちひろさんの絵本をよく読みました。大人になってからは画集を集めています。
○ちひろBOX
○ちひろ花の画集
○サトウハチロー、いわさきちひろ詩画集~おかあさん
以上の三点を市橋さんに送りましたので、よろしければ見ていただきたく思います。
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次の本についても、差し入れしたとのメールをいただきました。ありがとうございました。
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こち亀の小説を送ったという方がおられたのを知りまして、こち亀サポートの七月、八月、九月を千葉刑務所に、お送りさせてもらいました。こち亀サポートは読みきりの漫画です。毎月出ています。こち亀は面白いですね。みなさまの送られた小説の数々も大変良いものばかりですが、こち亀を読んで、少しは楽しい気持ちになって下さるといいなと思いまして、Amazonで購入しました。私もこち亀は小さな頃から好きです。拘置所の暮らしに楽しい気持ちとか不謹慎かも知れないですけれども、息のつまるような生活や、滅入る気分から、少しでも、一瞬でも解放されたらと思いました。私は支援の会には、振り込みはしていません。私の母が振り込みしたことがあります。(もう一年くらい前になるらしいです)
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私にお便りを下さる場合は、お名前も書いていただけると助かります。皆様のお名前を私が公表することは絶対にありません。支援者(支援金を振り込まれた方)は入金記録簿ですぐわかりますが、非支援者で本を差し入れされる方の場合、特に記録簿は作っていませんので、携帯のメールアドレスだけだとどなたか判断するのが困難ですし、過去のメール受信記録と照合するのは大変時間がかかりますので。

以下のメールも届きました。
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はじめまして。突然のメールすいません。○○○○といいます。大学生です。うちの父は、仏教徒ではないのですが、ダライ・ラマの本をよく読んでいます。父が、この支援の会の存在を会社の同僚から聞いたらしくて、先日、父が先生のブログを見たそうです。すると、みなさんが本を千葉刑務所に送っておられるのを知って、父がダライ・ラマの本を送ってあげたい。迷惑なら捨ててもらってもかまわない。とのことで、さっそくダライ・ラマの本を買って来てしまいました。
・ダライ・ラマ自伝
・抱くことば ダライ・ラマ
・ゆるす言葉 ダライ・ラマ
たくさんの人たちが、いろんな本を用意されてるのに、市橋被告に迷惑にならないか?と父に話したけど、父が以前仕事のことで、つまずいたり、大きな悩みを抱えた時にダライ・ラマの本を読んだら、大変な勉強になったから、良かったら読んでもらいたいし、迷惑だったら捨ててもらってもかまわないとうるさいのです。ご迷惑かも知れませんが、うちの父の気持ち受け取ってやって下さい。読むような気持ちになれないなら、遠慮なく処分して下さいと市橋被告にお伝え下さい。佐川急便で送ったそうだから、明日(23日)には届くと父が言ってます。
父は、パソコン操作も携帯操作も苦手なので、メールを代筆してくれと言われました。父の名前は○○○○といいます。○○○○名義で荷物は届きます。
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高校生と名乗る方から次の本を郵送で差し入れたというメールが届きました。高校野球の漫画だそうです。
○「おおきく振りかぶって」1~3巻

ローリー市は、昔は州都Capital を中心に政治、経済、文化活動が行われていましたが、ある時期から白人の富裕層が郊外に脱出する動きがでてきて、中心部は日本で言うシャッター街のように寂れてきました。その後、中心部を再活性化する施策がとられて徐々に活気を取り戻しつつあるようです。今日は久し振りにローリー市の中心部の辺りを車で訪ねてみました。Capital の正面には南北戦争で亡くなった南軍Confederate 兵士を追悼する像が建っていて、当時の大砲が飾ってあります。

ノースカロライナ州立大学の本部キャンパス(今は少し離れたところに広大な100周年記念キャンパスが別にあります)を訪ねて歩いてみました。私が1969年に短期間住んでいた学生寮は今もありましたが、キャンパス中に新しい建物がたくさんできていて、オープンスペースが少なくなった気がしました。

私が学生寮を出てから、間借りをしていた家の辺りや、翌年家族が合流してから自分の家を買うまで住んでいた借家の辺りをゆっくり車で回ってみましたが、昔と同じ落ち着いた雰囲気が保たれていました。一番下の写真の白い大きな木造の家は、私と同年代のアメリカ人の教授夫妻が古くてガタがきていた家を購入して手入れをして今のような美しい家にしたものです。

夕方は早めにLake Johnson の1周5Km をジョギングして、昔友人の家にカザフスタン(当時はソ連?)からホームステイに来ていた当時16才の娘Asel (アセル) Besekulova ちゃんと近くのアジアレストランで待ち合わせをして食事をしました。母親はウクライナ人で父親はカザフスタン人(カザフスタン語は言語的にはトルコ語に近いそうですが、写真で見た風貌は横綱白鵬のようなりっぱな体格で切れ目でモンゴル人に似ていました)ですが、初めて会った時は栗色の長い髪をポニーテールにして、服装も雰囲気も騎馬民族コサックの娘の感じでした。その後ノースカロライナ州立大学で二重専攻Double Major をして5年間で電気工学とコンピューターサイエンスの2つの学士号を取得して卒業し、今は製薬会社で、医薬品の製造工程の適正管理Validation の仕事をしているとのこと。いつの間にか32才になっていて、髪を金髪にして短くして、アメリカ人の優秀なビジネスウーマンの雰囲気に変わっていました。前の勤務地ボストンにボーイフレンドがいて、いずれこちらに引っ越してきて結婚する予定のようでした。16才だった外国出身の娘がこんなにりっぱになって(その間には本人の大変な努力があったのですが)、自分の娘のように嬉しく思いました。私の食事代も否応(いやおう)なく、Asel ちゃんが払ってくれました。

彼女が現在勤務しているプラントでは、他のプラントで製造したジェネリック医薬品(例えばモルヒネとかヘパリンなど)の原料をバルクで入手し、それを正確に秤量して、使い捨て注射筒に入れ、包装して出荷するそうですが、1分間に400本~600本の速度で、1日2交代制で製造しても需要に間に合わないくらいだとのこと。アメリカ国内の病院だけでなく、カナダやイギリスなど世界中に輸出もしているそうです。病院では一人の看護師が大勢の患者に注射をするので、薬品のビンからその都度注射器で吸い取るとどうしても量を間違えたり、違う薬品を吸い取る可能性があるので、それを防ぐためにあらかじめ注射筒に薬品を入れてラベルをして供給すれば、すぐ針を付けて間違えることなく注射ができるというアイデアのようです。社会のニーズを先取りして実行に移せば、大きなビジネスチャンスになるという実例でしょうか。