2012年2月2日木曜日

1月31日に振り込まれた2名の方(6回目、20回目)の支援金が届きました。これで支援金の現在高は194,000円、延べ460人からの合計額は4,294,928円になりました。ありがとうございました。20回目の方はメールアドレスが分かりませんので、個別の礼状は差し上げませんがご了承下さい。

今日は午後一番に面会の受付で申請ができるように、千葉刑務所に行ってきました。1時10分前に着いたら、すでに一人が受付の前で窓口業務が開くのを待っていて、私が午後の2番目でした。申請書に記入をしていたら3番目にロシア人らしい女性二人が来ましたが、受付の人との会話から大使館員らしく、順番を待たずにすぐ面会室に入りました。外交官については何か特別扱いの合意があるのかもしれません。申請書を提出していつものように待合室で番号が呼ばれるのを待っていたら、一番の人は現在入浴中なのでしばらくお待ち下さいという放送があり、結局私が先に呼ばれました。

小さい面会室の仕切り板の向こう側に市橋君と刑務官が、こちら側に私がほとんど同時に入りました。私が先に椅子に腰かけるのを待ってから市橋君も腰かけました。
私が、懲罰を受けたそうだが一体何をしたんだと訊いたら、刑務官に苦情を言って口論になりましたと答えました。肩を押したとか、体に触れたのではないだろうなと言ったら、そんなことはしていませんと答えました。もう懲罰期間は終わったのかと確認したら、はいと答え、懲罰が終わるのと同時に2年以上も続いていた私物の保管禁止が解除されたのでよかったですと言いました。私は、市橋君が自殺の恐れがある被疑者・被告人という扱いが解除された時に私物の保管もできるようになったとばかり思っていましたので、どういう意味かと訊き返しました。例えば、売店で購入した白い紙とサインペンでスケッチをすることは認められていたのではないかと訊いたら、ボールペンと便箋やお箸などもいちいち要望した時にだけ独居房に入れてくれて、使い終わったら取り上げられていたようです。それが洗面用具とか皆様が差し入れて下さった本などもそういう扱いだったのかどうかはわかりませんが、そういう私物を手元に保管することをいつまでも禁止されていることに対して強く苦情を言って、口論になったと言っていました。

もうすぐ控訴審が開かれて結審すれば、今度は被疑者・被告人としてではなく、受刑者として長期間生活しなければならないのだし、今までのような自由はなくなるのでそろそろその心構えをしなければならないなと言ってやりました。服役した経験があって、今は作家をしておられる本間 龍氏を知っているかと訊いたら、はいと答えました。本間氏が支援する会に加わって、受刑者としての刑務所内の生活がどうなるかについて、いろいろ情報を提供して下さっていることを伝え、高齢者や認知症の受刑者のお世話をする用務者という仕事があるそうなので、君のような才能のある人間にとっては単純作業の繰り返しよりも他の人の役に立つ仕事は生き甲斐になるのではないかと思うと伝えました。そうしたら、自分は単純作業でも大丈夫ですと答えていました。今度、本間氏が栃木県の黒羽刑務所での経験を書いた本を私から差し入れするからと伝えました。

前に要望された玄制流の空手の本はマラソンの練習に追われて貸倉庫から見つける時間がなかったけど、忘れていないからと言ったら、それは大丈夫です、先生に習った正拳突きの稽古をやっていますからと答えました。空手では強い武器を作るために握った拳で巻き藁を突いたりサンドバックを叩いたりしますが、それらがない場合は拳を握って相手に当てる中指と人差し指のナックル部分で腕立て伏せをして、握りを強くしたり、相手に当てた時に反動に耐えられるように手首や肘を強くしたり、脇を締める稽古をします。市橋君は独居房の中で、巻き藁の代わりに畳を突いたり畳の上で腕立て伏せをしていると言いたかったのかもしれません。

本については、市橋君の方から「百万回生きたねこ」はどうなりましたかと訊いてきました。もう〇〇さんに伝えて、本も入手したので君の懲罰期間が終わったら差し入れすると言っていたよと言ったら、〇〇さんにありがとうございましたとお伝え下さいと言いました。もしかしてすでに差し入れしたのに、刑務官に保留されているといけないと思って先ほど電話で確認しましたら、明日千葉刑務所に行って差し入れてくる予定ですとのことでした。
この本については、何人かの支援者から読んで涙がこぼれたと言ってきたし、私も君が差し入れてほしいと言った本がどんな内容なのか知りたかったので自分でも一冊購入したよと伝えました。

この間の日曜は館山若潮マラソンだったので、3ケ月ちょっとで950Km くらい走り込んでトレーニングをして、5時間11分で完走したぞと言ったら、毎日10Km 走ったということですかと尊敬の眼差しで訊き返しました。君は高校時代の陸上部では長距離だったのか短距離だったのかと訊いたら(前にも同じこと訊いた筈ですが忘れていましたので)、短距離で110m ハードルと400m でしたと答えました。こういう会話をしている時の市橋君は生き生きしていると感じました。

昨日の時点で延べ458人の支援者が合計約430万円の支援金を振り込んでくれて、皆君が心安らかに生活できるようにと願っているよと伝えたら、実数で何人くらいですかと訊き返しました。多分150人くらいだけど、中には25回とか33回とか繰り返し毎月振り込んで下さる方がいて、君のお母さんと近い年齢でご自分の息子さんや娘さんをお持ちの方々だよと教えてやりました。前回一度支援者名簿を差し入れましたが、あれからずい分支援金が増えましたので、近いうちにもう一度加筆訂正して差し入れしようと思っています。
支援者の方々に何か伝えたいことがあるかと訊いたら、ありがとうございますとお伝え下さいと答えました。

東京に移されるのはいつか聞いているかと訊いたら、昨年は10月頃かと言われていましたが、今は自分は全くわかりませんと答えました。お父さん・お母さんから何か連絡はあるかと訊いたら、ありませんと答えました。

もっと、西日本は何十年ぶりの大雪だということや、新潟県の松枯れ調査のことや、宅下げされた本のことなど話をしたかったのですが、8分間はあっという間に過ぎ刑務官のストップウオッチのベルが鳴りましたので、立ち上がって元気でなと言って部屋を出ました。彼はいつものように立ち上がってお辞儀をして見送ってくれました。今日の市橋君は、少なくとも私には、自分の運命を受け入れて覚悟を決めて生きていこうとしているように見えました。

面会から自宅に帰ってきたらすでに午後3時半を過ぎていましたが、寒いし遅いし風邪をひくからと言って妻が反対するのを無視して江戸川堤防を10Km 走ってきました。今日は時々西からの冷たい突風で体が吹き飛ばされそうになる中でしたが、10月17日から1月31日までの106日間(3ケ月半)にマラソンで走った距離も含めて1,014Km 走った余勢が十分残っていて、夕日が関東平野の地平線に沈みかけるのを眺めながらビュンビュン走って、気分は爽快でした。

先月末が締め切りだった論文原稿は、2月8日までに延ばしていただきましたので、これから最優先でこの仕事を完成させなければなりません。いつも原稿執筆はギリギリになることが多く、我ながら情けない限りです。私の性格上、多くのことに興味があって、欲張って同時進行でやろうとするからこういうことになってしまいます。