2012年3月21日水曜日

東京駅の新幹線ホームに少し早目に行って待っていたら、支援者(50才代の母親)が乗っている筈の「のぞみ118号」が予定通り到着しました。あらかじめ連絡をいただいていた乗車車両の両方の出口から降りてくる乗客を見ていたら、支援者の方から先に私を見つけて声をかけてくれました。

一緒に上野駅まで行き、地下鉄日比谷線に乗り換えて小菅駅で降りました。駅員に東京拘置所への道順を訊いて、徒歩10分くらいで面会・差し入れの受付窓口の入り口に着きました。支援者は差し入れの申請をし、私は面会の申請をして前回と同じようにエレベーターで10階に上がりました。鞄(かばん)や携帯電話は1階のロッカーに入れて、ノートと支援者リスト(今朝プリントしたA4版84ページの入金記録簿最終版)と祝嶺制献箸の玄制流の「新空手道教範」だけを持っていきました。金属探知機のゲートをくぐる時に持参物もチェックされましたが、何も文句を言われずにパスしました。
午後の一番を目指して行ったのですが、3人くらい待たされて番号を呼ばれ、面会室に入りました。

刑務官と一緒に仕切り板の向こう側に入ってきた市橋君の顔色は、前回(2月29日)の面会の時の元気そうだった様子と違って、明らかに血の気が引いたように青ざめていましたので、顔色が悪いな大丈夫かと声をかけたら、大丈夫ですと答えました。控訴審は先週15日に行われましたが、取り返しのつかない悪いことをしたのだから罪を償わなければいけないとわかってはいても、無期懲役になるか有期刑になるかを決める裁判に臨んで、第3者が想像する以上に大きな精神的負担になったのでしょう。
今日は〇〇県の西の端から支援者がわざわざ差し入れに来られたので、東京駅に迎えに行って一緒に来たことを伝えました。何時間くらいかかったのですかと訊いたので、多分片道5時間くらいの筈だと答えました。支援金の額に関わりなく、支援者は皆大変ありがたい存在ですが、この方は1万円ずつ26回も振込んで下さった方で、いい加減な気持ちではなく、真剣に市橋君に前向きに生きてほしいからそれを君に知ってほしくてわざわざ来たとおっしゃったメッセージを伝えました。市橋君が神戸で働いていた時に工事現場の前をよく通って見ていたけど、あんな厳しい労働を真面目に黙々とこなしていた市橋君は本当に反省して、罪を償っている気持ちがあったのではないかと感じているとの言葉を伝えました。市橋君はこの方のお名前を以前差し入れた支援者リストで記憶していましたが、働いていた場所というのは河川敷の工事現場のことですねと答えました。
その他の支援者からの、気持ちを強く持ってがんばるように、支援者はいつも市橋君を支援しているからというメッセージも伝えました。

以前私が郵送した千葉大学時代に空手部と研究室で一緒だった友人のメッセージと写真は届いたかと訊いたら、届きました、ありがとうございました、これは宝物として手元に一生持っていますと答えました。ただ、刑が確定してどこかの刑務所に移る時に私物を持っていくことが許されるかどうか、新しい刑務所で私物を手元に置くことが許されるかどうかはわかりませんが・・、と言いました。彼にとっては、学生時代の純粋な気持ちを思い出させ、前向きに生きる力を与えてくれるおまじないのような意味があるのでしょう。ただ、友人には絶対に迷惑がかからないようにして下さいと念を押されました。
この友人とは気が合って、卒業する前に、将来研究室に恩返しができるようにしようと話し合ったのに、自分は研究室にとんでもない迷惑をかけてしまいましたと、今にも泣き出しそうな目をして言いました。それから、支援者の誰かが差し入れたお手紙で私が支援活動をしていることで嫌がらせを受けていることを知らされたのか、先生の奥様にも大変迷惑をおかけしているので申し訳ありませんと謝っておいて下さいと言いました。

刑が確定後はご両親は会いに来てくれるだろうかと尋ねたら、首を横に振って、リンゼイさんのご両親も二度とリンゼイさんに会うことはできませんので、と言いました。市橋君のご両親は会いに来てはくれないし、自分もこれだけ迷惑をかけてしまった両親とは二度と会わないことを覚悟して生きていくつもりですと言っているように感じました。
刑が確定して服役するようになれば、面会も手紙の受発信も制限が厳しくなるだろうけど、私は月に一度くらいは面会にくるつもりだから、その時に私にしてほしいことがあれば言ってくれればいいからと伝えました。
私の子供の話になって、娘はアメリカ人と結婚してアメリカに住んでいると話したら、それじゃお孫さんはハーフですかと目を輝かして訊いてきたので、そうだよ、3人いるけど可愛いよ、今度写真を差し入れして見せようかと言いました。そうしたら市橋君は興味がありそうな顔をしてからしばらく考えて、止めた方がいいです、今度刑が確定して別の刑務所に移れば他の受刑者と相部屋になるかもしれないし、大事な写真を取り上げられたり破られたりするかもしれませんからと言いました。

空手の本を見せながら、君が空手部にいた頃はどの型を教えていたかな、玄制流の型だったかな玄和会の型だったかな、今度コピーを取って差し入れするからと訊いたら、急に饒舌(じょうぜつ)になって玄制流と玄和会の関係や、自分が習っていた時はよく前蹴り・回し蹴り・後横蹴りの3連蹴りや、四方突き蹴りを稽古していましたと話し始めました。市橋君が空手部にいた期間は短かったので、基本の稽古がほとんどで、型の稽古をするところまでいかなかったようです。こういう会話をしながら、市橋君の表情は面会室に入った時の青ざめた顔から、生き生きした顔に変わりました。

今日の刑務官は最初に15分ですと言ってくれましたが、残り2分ですと親切に終了時間の予告もしてくれました。面会時間が終わって面会室を出る時は、気のせいか市橋君の顔色が少し明るくなったような気がしました。

エレベーターで1階に降りて、待合室で待っていてくれた支援者と一緒に外に出て、拘置所の前にあるお店に寄りました。今日は売店で買ったお菓子類と持参してこられた絵本とお金を少し差し入れましたとおっしゃっていましたが、外のお店でも弁当を注文して、他の支援者が差し入れに来る日と重ならない日に市橋君に届けられるように手配をしていました。拘置所内の売店でお菓子類を選ぶ時に、市橋君はどれが好きだろうと母親が息子に対するような気持ちになったとおっしゃっていました。
それから地下鉄で上野駅に戻り、駅前の喫茶店で昼食代わりにコーヒーとサンドイッチを食べていろいろお話をしていたらいつの間にか6時になってしまったので、あわてて東京駅の新幹線ホームまでお送りして別れました。しばらくしてから、多分まだ新幹線の中からだったと思いますが、これから市橋君への手紙を書きますというメールが届きました。