2012年3月28日水曜日

一昨日(26日)に差し入れに行かれた支援者から以下のお便りが届きました。
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今晩は。昨日東京拘置所に伺いました。売店で、お菓子、パン、お弁当、お花を差し入れました。先週、新幹線で来られた支援者の方もお花の差し入れされたと伺いましたので、日にちをあけて週末に届くようにして頂きました。
それから、桜と京都の庭園のPostCardを数枚と現金を差し入れました。刑の確定後に、市橋達也さんはどちらの刑務所に収監されるか分かりませんが…刑務所の施設見学をした際に、千葉刑務所の運動場の周りには、桜の木が並んでいました。もしかしたら、来年は桜が見れるかも知れないですね。

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このところ走れない日が続いていたので、今日は天気予報が予告していた雨が降る前にと思って昼に江戸川堤防をゆっくり18Km 走ってきました。ウィンドブレーカーのポケットに愛用のデジタルカメラを入れて走りながら、途中で寄り道をして写真を撮りました。江戸川周辺の景色もすっかり春らしくなって、あちこちにいろいろな花が咲いていました。市橋君はもうこういう春の景色を直接見ることはできませんが、上記の支援者が差し入れて下さった絵葉書を見て、彼の記憶にある春の景色を思い出して見ているのかもしれません。私たちは普段は毎日の生活に追われて忘れていますが、ちょっと立ち止まって見れば、こういう自然を通して季節の変化を肌で感じられるということは、実は大変恵まれていて幸せなことだということに気付かされます。幸せというのは、よく言われるように物質の豊かさではなく、心の持ちようなのでしょう。



今日はある古い書類を見つける必要があってパソコンに保存してあるファイルを調べていたら、5年前に千葉大学空手部創立50周年記念号の部誌に投稿した原稿と、4年前に投稿した原稿が見つかりました。前の原稿は部長(顧問教員)として部の在り方について論じた挨拶文で実際に掲載され、後の原稿はちょうど4年前の私の定年の直前に部の歴史を残しておこうと思って書いたものですが、現在の空手部の指導陣によって差し障りがあるということで却下されて掲載されなかったものです。学生時代(今から約50年前で20才くらいだった筈)に新入生が入学してくる前に私の提案で空手部有志で大学中の旧式のトイレの落書きを消して掃除をしたことや、これらの原稿では触れていませんが、アメリカ滞在中はアメリカから空手をオリンピック種目にしようとして各流派の指導者を説得して武道連盟を作って努力したことなど、若い時の怖いもの知らずの自分が懐かしくなりました。市橋君の支援活動とは直接の関係はありませんが、興味のある方のために紹介しておきます。こういう経験を経て、現在の私があるということです。
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千葉大学空手部部誌(昇龍)15/五十周年記念号2007年930日発行 掲載挨拶文

創部50周年に際して-千葉大学空手部のあるべき姿とは?
千葉大学空手部部長 本山直樹(第10代主将)

 千葉大学空手部の歩みを見ると、昭和32年(1955年)1月に福士和夫先輩が同好会を結成し、同年4月に正式の空手部が創設されて高橋洋一先輩が初代の主将に就任している。高橋先輩は、元々松涛館流空手の有段者だったのに玄制流創始者の祝嶺(しゅくみね)制献先生の門下生になり、埼玉大学に空手部を創設後千葉大学に空手部を創設するために転学してきたと聞いた。空手の歴史をたどれば遠くインドに源流があるとされ、仏教とともに中国に伝えられ、それが当時独立国であった沖縄に伝えられ独自の発達を遂げたとされている。沖縄から日本に伝えられたのは1900年代初期とされているので、たかだか100年くらい前のことである。関東を中心に松涛館流を広めた富名腰(船越)義珍、関西を中心に剛柔流を広めた宮城長順、・・・祝嶺先生はもっと最近になってからであるが、やはり沖縄から日本に来て空手を広めた一人である。従って、長い歴史のある柔道や剣道と異なり、日本での空手の歴史は浅く、未だに流派ごとに型も練習方法も異なり、試合のルールさえ統一されていない。そういう状態の武道は、いきおい各流派が「俺が」「俺が」と自己優越性を主張し、勢力を拡大しようとする。大学空手部はいったん流派が入り込めば、毎年新しい部員が入ってきて毎年経験を積んだ部員が卒業していくので、その流派にとっては勢力拡大の絶好の場所になる。当初、高橋先輩が千葉大学に転学してきたのも、祝嶺先生の使徒として玄制流を広めようという使命を帯びていたのかもしれない。
 一方、大学・学生の立場からすれば、空手部に入るということは教育の一環としての課外活動に参加することに過ぎない。一般に日本では私立大学の運動部は、箱根駅伝で見られるように、大学の宣伝も兼ねて優勝するような強いチームであることが求められている。国立大学でも、体育学部のある筑波大学のようなところは別としても、ある時期の京都大学のアメフト部がそうであったように、指導者と部員に恵まれれば目覚しい活躍をする場合もある。どの運動部も優勝を目指して練習に励み、それが実現した時には達成感に酔い、大学や社会やOB会からはよくやったと褒められる。しかし勘違いしてはいけない。基本的には、私立・国立を問わず大学の学生にとっては各専門分野の勉強をすることが主であり、それが大学に入学してきた目的であり、空手の練習をすることは従である。選手になって必死に練習して大会で優勝しようと思う学生もいれば、許される(勉強の障害にならない程度の)時間内でほどほどに練習してほどほどに強くなればよいという学生もいる。運動神経は普通以下でも、仲間の部員と一緒に汗を流したり、練習後の時間を一緒に過ごすことによって、得られる友情を大切と思う学生もいる。千葉大学空手部は、それら全ての学生を受け入れられる空手部であってほしいし、今まで50年間実際にそうであったと思う。選手になって大会で華々しい活躍をした部員もいれば、違う場面で著しい貢献をした部員もいる。それでいいのだ。空手のように大学に入って初めて習い始める学生がほとんどのスポーツでは、上級生やOB会や流派の師範の指導なしにはまともな練習も上達もおぼつかないが、全員で空手の技の習得と大会での優勝を目指して練習を重ね、また自分達で部を運営することを通して、専門分野の勉強とは別の、課外活動の本当の目的-人間としての成長-を達成できるのだ。大会の成績だけで部を評価してはいけない。日本の空手界がいまだに流派単位で動いている現状は残念だ。その分だけ、OB会が団結して後輩に技術的、精神的、経済的な支援をしてほしい。福士先輩と高橋先輩が50年前に蒔いた種をしっかり育て、次の50年の世代に引き継ぎたいものである。
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千葉大学空手部部誌(昇龍)16号原稿 20083月提出 掲載却下された挨拶文

部長退任にあたって-私の過ごした時代の空手部
空手部部長 本山直樹(第10代主将)

1.はじめに
 昨年は創部50周年の記念祝賀会が盛大に開催され、久し振りに顔を合わせた昔の仲間達と楽しい一時を過ごした。これから次の50年に向けて一歩を踏み出したわけだが、私自身は本年3月末をもって千葉大学を定年退職するので、顧問教員としての空手部部長も退任することになる。この機会に、部誌15号で紙数の都合で掲載されなかった拙著原稿の前半部分「私の過ごした時代の空手部」を、部がたどってきたある時代の足跡として残しておきたい。歴史を後輩に伝えるという意味だけでなく、将来部のあり方について迷いが生じた時に考える上の一助になれば幸いである。

2.昭和37年~41年(1962年~1966年)
 私が入学した昭和37年(1962年)当時の千葉大学は、新制大学の多くがそうであったように典型的な「タコ足大学」のひとつであり、文理学部は稲毛に、薬学部、看護学部、医学部は亥鼻に、教育学部附属学校は四街道に、工学部、園芸学部は松戸にキャンパスがあった。入学後最初の2年間は教養課程で、どの学部の学生も全員稲毛で過ごし(文理学部の先生方が教養科目を担当していたので)、その後各学部に分かれて専門の教育を受けるという仕組みであった。特に園芸学部と工学部の学生にとっては、教養の単位を落すと、3年生、4年生になってから松戸から稲毛まで通って単位を取り直さなければならず、時間的に大変であった。その後、西千葉の東京大学第2工学部の跡地に統合キャンパスができ、先に移転していた教育学部に続いて、文理学部(後に文学部、法経学部、理学部に発展)も工学部も薬学部も移転して集まってきた。
 入学時の空手部の道場は稲毛にあったプレハブの建物で、剣道部が半分、空手部が半分使っていた。部長は五味淵(ごみぶち)正詞教授、主将は教育学部の宮澤(現鈴木)幸辰先輩、師範は玄制流創始者の祝嶺制献先生であった。私が1年生後半-2年生前半時代の主将は文理学部で心理学を専攻していた鈴木和男先輩で、師範は来司(くるす)節三先生に変わった。時々は、千葉大学空手部の創設に関わった高橋洋一先輩が指導に来てくれていた。この辺の事情は当時をよく知っている誰かが書いてくれるかもしれないが、祝嶺先生と高橋さんの関係が不仲になり、高橋さんと来司先生とは祝嶺先生門下の兄弟弟子の関係であった。元々高橋さんが指導をして、関東甲信越学生空手選手権大会団体戦2年連続優勝をはじめ千葉大学空手部全盛期を築いていたのを、高橋さんの先生にあたる祝嶺先生が直接指導にこられるようになったとのことであった。指導者の問題がこじれたり、部が困難に直面した時には、常に当時高校教師をしていた鈴木卓先輩が指導にきてくれて部をまとめてくれた。私が2年生後半-3年生前半時代の主将は文理学部の早澤健夫先輩で、その後を私が継いだ。名簿を見ると、同じ学年で主将を交代した年代が2つあるので、私が第10代目の主将ということになる。
 当時の練習は月曜から土曜まで毎日あり、金曜と土曜は2年生以上は各専門学部で授業を受けていたので、園芸学部生は松戸の道場(といっても、校舎新築後取り壊さずに残っていた古い木造校舎の教室を事務に許可をもらって床の修理をしたり、割れている窓ガラスを入れ替えたりして道場に転換したもの)で練習をした。月曜~木曜は、朝早めに登校して稲毛キャンパスの校庭に立ててあった巻きわらを30分くらい叩くことから始まり、昼休みは部員全員グランドに出て追い突き・逆突き・前蹴りなどの基本練習を約1時間、放課後は道場で2時間くらいの基本・型・組み手の練習、その後1時間くらい居残って個人練習、・・・といった日課であった。当時私は埼玉県の蕨から片道約2時間かけて電車通学していたが、帰りは疲れて居眠りし、よく秋葉原駅で乗り換えができなかったり、蕨駅で乗り過ごしてしまったことを思い出す。先日久し振りにOB総会に出席した帰り、渡辺新一先輩と一緒に西千葉の学内を歩いていたら、あちこちにペットボトルやゴミが散乱しているのを見て、「空手部はランニングしながらこういうのを片付けて回れば他の学生達の尊敬を集め部員も増えるのに」とつぶやいておられた。本当にその通りだと思う。私達が教養課程の学生だった頃、千葉大学はまだ木造の古い校舎と汲み取り式の汚らしい便所を使っていたが、1年生から2年生になる時の春合宿中に空手部で稲毛キャンパス中の便所の落書き消しと掃除をして回ったことを思い出した。1年後輩の栗林洋君に最近借りた部誌2号(昭和39年発行)にも、私の「空手と自分」という小文の中でそのことについて書いているのを偶然見つけた。私が過ごした4年間当時の空手部は千葉大学の全体育会系サークルの中で、最も活躍し、最も活発な、最も尊敬されていたサークルであった(少なくとも部員は皆そう思っていた)。しかし、私自身は主将の任にありながらあまりにも空手に時間とエネルギーを費やした反動として、そのような学生生活の過ごし方に疑問を抱くようになり、夏の関甲信大会後から翌年の関甲信大会後までという任期を全うせずに4年の途中で主将を辞めることになった。その辺の心境は、部誌3号(昭和40年発行)に書いた「空手の位置」に吐露しているが、辞めることができたのは、私自身の苦しみと、そんな主将の下で号令をかけられる後輩を救おうという配慮で、同期の池田貞雄君が「本山、主将を辞めろよ」と言ってくれたお陰である。それにしても、当時の文章を見ると、いくら若かったとはいえ何と思いつめたゆとりのない考え方をしていたことか! 若さゆえの融通のきかない視野の狭さを表していると同時に、純粋に思いつめることのできた若さゆえの特権をも表しているのだろう。
 結局、私が主将に就任して間もない昭和39年10月の関甲信大会では千葉大学空手部は惨敗(記録を見ると、個人戦ではHH級で浜田紘生先輩が優勝しているが)し、3年連続して団体戦優勝を逃した。それがきっかけになり、OB会から指導者責任が追求され、来司先生の解任が決まった。次の指導者選びが始まったが、まだ4年生はいたもののすでに現役を引退していたので、その選択は私達3年生の現役幹部の肩にかかることになった。私にとっては非常につらい時期であった。当時、祝嶺先生と高橋さんの関係は最悪の状態になっていて、高橋さんは埼玉大学OBの岩谷忠也さんや青木孝影さんや石川正夫さん達と一緒に日本空手道玄和会という新しい組織を立ち上げ、祝嶺先生は千葉大学空手部OBの境一成先輩、池田正喜先輩、横田弘先輩、加藤満雄先輩らに囲まれて、千葉大学を玄制流空手発展の基幹道場にしようという計画を持っていた。現役幹部は何回も集まって相談をし、4年生の意見も訊き、卒業した先輩達にも会って話を聞き、結局最後は高橋さんに玄和会会長としてではなく、一人のOBとして指導を委ねることにした。心を鬼にして境先輩らにその決定を伝えに行った時のつらかったこと・・・。予想に反した回答に唖然とした境先輩の表情を今でも覚えている。私達は、大学空手部は教育の一貫としての課外活動の一つとして存在するのであり、いくら玄制流の創始者といえども大学空手部が一流派の支部組織になったり、その発展のための基幹道場として位置づけされるのは学生が構成員の大学空手部にとって正しくない、と考えたのだった。従って、私と池田貞雄君の二人は個人的に玄和会に入会するが、千葉大学空手部は独立して存在し玄和会支部にはならない、という約束を高橋さんと交わした。千葉大学空手部にはすでに昇龍会というりっぱなOB会があったので、流派に依存しなくてもOB会の支援があれば独立してやっていけると思ったからだ。それ以前からすでに、昇級・昇段審査もOB会が実施し、免状は千葉大学空手審査委員会(五味淵正詞空手部部長)の名前で発行していた。審査料はOB会に入り、それは全て現役の空手部の支援に使われていた。
 その後、祝嶺先生の周りにも、高橋先輩の周りにもいろいろなことがあって、現在の状況につながっている。関甲信大会にも自由組手部門が加わり、防具組手部門はむしろ少数派になった。しかし、いかなる時にも大学空手部として忘れてならないことは、学生は流派や組織の勢力拡大のための道具ではないということ。今や祝嶺先生も高橋先輩も視界から去り、現在は横田先輩を中心に空手部は動いている。これは、OB会と現役諸君が選択した道であり、横田先輩がひっぱってくれている限り、千葉大学空手部を正しい方向に導いてくれると信じている。いや、玄制流の流れを継承し、師範として千葉大学空手部を指導してくれている横田さんを、OB会は過去のわだかまりを捨てて一丸となって応援し、サポートしていこうと言うべきかもしれない。

3.おわりに
 私自身のその後の経験については、部誌15号で「卒業後の私の空手活動」としてすでに掲載されたので繰り返さない。定年退職後は時間的にゆとりができる筈なので、ジョギングを再開して再びフルマラソンを走れるようになりたいし、自然の中でフィッシングもやりたいし、空手の稽古にももっと時間が割けるのが楽しみである。これから本当に自分がやりたいことをやれるという期待で胸がわくわくしている。多分、日本とノースカロライナ(USA)との間を行ったり来たりという生活になるだろう。空手の世界にも千葉大学空手部にもこれからいろいろ変化があるだろうが、新部長、横田師範、安藤監督、OB会の指導によって、入部してくる学生諸君に素晴らしい経験を与える場にしていってほしい。
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