2012年4月22日日曜日

支援者から以下の文が届きました。新聞か雑誌に投稿することを想定して書かれているようです。確かに、市橋君にできる最大限の謝罪方法として土下座して被害者遺族に謝ったことをパフォーマンスと決めつけて悔恨(反省)していない根拠と見なし、手記の出版で印税を得るしか被害者弁償金を払うことのできない市橋君がそうしたことも刑を軽くすることを目的としていたと決めつけてこれも悔恨していない根拠と見なし、判決をより厳しくする判断材料にされたということは、検察側の主張、被害者遺族の意見書に全面的に同調したものであり、一方的だったように思われます。
私は明日23日(月)の午後と明後日24日(火)の終日は予定が入っていますので、明日23日(月)の午前中か明々後日25日(水)の午前中に市橋君に面会に行く予定です。
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「謝罪」

最近ある裁判の2審判決が気になりました。
拘置中の被告が、手記を出して得た印税約1000万円を遺族に送ろうとしたことが、反省も悔恨の念も無いとし、無期懲役の判決理由の一つになっていたからです。
その印税額を遺族が受け取らないのは当然でしょうけど、出版社が弁護士を通じて、印税の使途も含めて持ちかけた話に被告がのり、出版できたわけです。
ですが、それが被告にとっては量刑の負の判断材料となっている一方で、出版社は何千万円もの利益を得て、ビジネスとして成り立っていることに違和感を覚えました。
司法が企業への利益提供の場になっている構図です。
犯罪内容そのものはよくわかりませんが、災害や事件に、補償金や見舞金の話は付き物ですし、被告個人の謝罪の気持ちを、国家権力でばっさり「否」としたことが不思議でした。

そもそもこの裁判の一審の時、泣きながら土下座謝罪をした被告を「パフォーマンスをして反省が全くない」と言い切った判決に、私は首をかしげました。
土下座という漢字がよくないけど、wikipediaには「日本の礼式のひとつで、本来は極度 に尊崇高貴な対象に恭儉の意を示したり、深い謝罪や請願の意を表す場合に行われる」ともあります。
今や一般人のイメージでは、土下座は政治家のパフォーマンス、になってしまいましたが、茶道でいえば「行の礼」ではなく「真の礼」に近いです。
日本人は、本当に心からの謝罪をする場合は、立ったままでもなく、三つ指でもなく、床に直に座り、手のひらを全部床につける形のお辞儀に自然になるのではないかと思うのです。
これこそ日本の最も丁寧な礼として、国際的に知ってもらうべき程のものだと思います。
もちろん、これとて、遺族にとっては見たくもないでしょう。
けれども、国家権力で裁判長自ら、その謝罪の姿を冷ややかに切り捨ててしまっては、私達は小さい頃から「悪いことをした時は謝りなさい」と教えられているのに、大人の世界では「本当に悪いことをした時は謝るのはみじめになるだけ」「取り返しがつかないことをした時は、かえって謝らないほうが良い」と学習してしまいます。
日本の文化は時代劇ではなく、アニメとして世界に認められるようになった昨今ですが、日本の作法が日常で奇異に映らないように、残っていってほしいと思うのです。

でなければ、謝罪や謝罪の気持ちを表す努力をしないどころか、悪いことを上手にわからないようにして、悪びれもせず、普通に生活をする「真の悪人」が増えてしまうのではないかと、恐ろしいです。
             東京都在住  教師  〇〇〇〇  
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来週の月曜30日の横浜駅伝大会まで約1週間しか残っていないのに、走り込みが全く不十分で少し焦ってきました。今年もまた、渡されたタスキをただゴールまで運ぶだけの走りしかできそうもありません。予報されていた雨が降り始める前にと思ってジョギングに出かけたのですが、学内で地図を片手に散歩をしている中年の女性にイギリス式庭園というのはどこですかと訊かれました。千葉大学理学部の生物学科の卒業生で、走友会の元会長で定年退職後の今もよく走っていてフルマラソン大会に出場している仲間の名誉教授の研究室を専攻した方だということがわかりましたので、フランス式庭園はここですよ、イタリア式庭園はここですよとついいろいろお話をしてしまいました。その中雨が降り始めましたので、結局2Km だけ走って止めてしまいました。学内では、八重桜が満開で、シダレカツラと呼ばれる木の新葉の緑が鮮やかでした。