2012年5月4日金曜日

以下の短いけど、心のこもったお便りをいただきました。ありがとうございます。多くの支援者が同じ考えだと思います。本間 龍氏の助言にありましたように、市橋君自身が塀の外との交流を求める心境になるまで数年かかるかもしれないということですので、焦らずに待ちましょう。
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先生に市橋さんからどこの刑務所にいるか、手紙が届くことを祈っています。市橋さんがまた先生と面会したいって思うときが来る事願ってます。
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今日は34年振りにインド人の友人からのメールが届きました。1970年代半ば頃、アメリカのNorth Carolina State University(NCSU、ノースカロライナ州立大学)の毒性学プログラムの博士(Ph.D)課程に留学していたV.L.Patil 博士です。2月にローマのFAO本部で開催された国際会議で私が講演に使ったスライドを入手したらしく、そこに書いてあった私のメールアドレスを見つけたとのことでした。メールによると、彼は1978年にインドに帰国し、短期間大学に勤務後、1979年から2009年までの30年間はインド国内で農薬の国際企業で働いて、その中の最後の10年間は中国とマレーシアに駐在したようです。今は、シンガポールにあるCropLife ASIA(世界農薬工業会アジア支部)に勤務しているそうです。私と話がしたいので、電話番号を知らせてくれとのことでした。NCSU時代は私とは別の研究室にいましたが、懐かしい旧友ですので、日本とシンガポールの時差を調べて電話をしようと思っています。

私が名古屋大学の大学院で学んでいた頃は、いわゆる新制大学にはまだ大学院はありませんでしたので、大学院に行きたい人はいわゆる旧制7大学(東大、京大、北大、東北大、名大、阪大、九大)の大学院に行くしかありませんでした。従って、名古屋大学の大学院にも全国の新制大学出身者が集まって切磋琢磨(せっさたくま)していましたが、アメリカの大学に行ったら、もっと広く世界中から人が集まって切磋琢磨していました。まだ1ドル=360円の時代で、外貨の国外持ち出しも確か一人1,000ドルまでという制限がありました。貧乏学生だった私には、アメリカまでの片道航空運賃500ドルが大金で工面するのが大変だったのを覚えています。その当時、日本も含めて、エジプトやリビヤやイランや南米諸国やインドや台湾(中国とはまだ国交がありませんでした)や韓国やタイやフィリッピンなど、途上国からアメリカに留学するのは経済的に大変で、何らかの奨学金をもらわなければほとんど不可能でした。エジプトから来たある留学生は、到着した時に10ドルしか持参していなかったので、最初の奨学金が支給されるまでアメリカ人の教授がポケットマネーで食費を貸してあげていました。
しかし、今振り返ってみると、私が1969年に大学紛争で落ち着いて勉学できる環境ではなくなった日本を脱出して、思い切ってアメリカに渡って良かったと思います。世界中から集まった人たちと交流でき、世界にはいろいろな文化があり、違った視点があるということを体験できたからです。当時知り合った世界の友人たちと、40年以上経った今でも交流できるのは、素晴らしいことです。

日本の若者は最近内向きになっているという話を聞きますが、あまり目先のことだけに右往左往せずに思い切って外に出てみれば、若者が力を発揮できる想像以上の世界が広がっているのが見えてくるのにと思ってしまいます。

雨が降り出す前に江戸川を8Km 走ってきました。江戸川は、一昨日上流域で大雨が降った影響で水かさが増して、河川敷の野球場やサッカーグランドが水没して川との境界がわからなくなっていました。珍しいので、携行した携帯電話のカメラで写真を撮りました。