2012年5月3日木曜日

私がWebsite http://sites.google.com/site/naokimotoyama/old/2009/20091108 に初めて逃走中の市橋君宛に以下の文を書いたのは2009年11月8日でした。もう自殺して生きていないと思っていた市橋君が生きていることがわかったので、自ら出頭させて、Dead End(行き止まり)の惨めな生活から救い出したいと思ったからです。千葉大学園芸学部と道場の写真は、彼に母校を思い出して判断力を回復してほしいと思って載せました。
その後、2009年12月8日に2回目の記事を書きました。http://sites.google.com/site/naokimotoyama/old/2009/20091208

できることなら、短い年数でも社会復帰して人生をやり直せる道を残してあげたいと思っていました。無期懲役という刑が確定しましたが、少なくとも一生怯えながら逃げ回る惨めな生活から解放され、落ち着いて罪を償う生活ができるようになったことはよかったと思っています。これからは、受刑しながらも、彼の優れた能力を生かして、他の人に役に立つ仕事をして生き甲斐を感じられる生き方をしてほしいと思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

#9 市橋達也君に告ぐ (2009年11月8日)


君が整形手術の予約をインターネットでしたと新聞に載っていたので、もしかしたら本サイトを見てくれる機会があるかもしれないと思って、これを書くことにしました。数えてみれば、事件が起こってから3年近く、君が大学を卒業してからもう5年近くが経っていることに、時の流れの速さを感じます。私は昨年3月に千葉大学を定年退職し、今は東京農業大学の客員教授になってまだ農薬の研究を続けています。

市橋君、君はいったいどうしてしまったのだ。君と私の接点は、私の研究室で卒業論文の研究をしたのでもなく、私の授業を受けたのでもなく、ただ園芸学部の道場で一緒に空手の稽古に汗を流しただけだったけど、そのことを私は今でも大変なつかしく思っています。同好会のような小さなクラブ(確か君がいた時代の部員数は5~10名程度だった筈)で、週2回、昼休みだけの稽古だったけど、皆で稽古の前には必ず道場の床の雑巾がけをし、稽古の後はシャワー室でシャワーを浴びて、研究室や教室に戻る前に更衣室で着替えながら雑談をするという何気ない活動が1年ちょっとくらい続いただろうか。卒業の少し前に、卒業後はどうする予定なのかと君に訊いたら、緑地環境学科で庭園デザイン学を勉強した君は、市川か浦安の辺りに住んで設計事務所でアルバイトをしながらさらにデザインの実務経験を身につけると言ったのを覚えています。英語を習っていたのは、将来海外に留学することも君の計画にはあったのだろうか。

それ以来君とは一度も会っていないので、卒業後何があったのか全くわからないが、報道されているような事件を犯したのだとしたら、彼女との間によっぽど君の尊厳が傷つけられるような何かがあったのだろう。この頃、毎日のように新聞やテレビに出る君の昔の顔と今の顔を見ると、本当に君はいったいどうしてしまったのだろうと思ってしまいます。逃げ切れるものではないし、例え逃げ切れたとしてもそんな逃亡生活の惨めさはすでに君自身が十分経験している筈です。彼女との間にどんな問題があったにせよ、君が今やるべきことは自ら出頭することです。そして、彼女のご家族に心から謝罪して、犯した罪の償いをきちんとして、その上で君はまだ若いのだから残りの人生をしっかりやり直すことです。そうすることが、君を育ててくれたご家族の名誉を回復し、君の友人たちの名誉を回復し、何よりも君自身の名誉を回復することになります。責任を回避して逃げ回ることは、君らしくない、人間として恥ずかしいことです。今の君が何に影響されているのかわからないけれど、自分自身の心をとりもどして下さい。

つい先日、園芸学部は創立100周年記念事業をやりました。その少し前には、天皇・皇后両陛下が戸定歴史館と園芸学部を訪問されました。そのためにキャンパス内や周辺環境の整備がすすんで、以前とは見違えるほどきれいになりました。最近のキャンパスの写真を何枚か貼付します。ちょうどA棟前のサンクガーデンや生協前広場のサルビアの鮮やかな赤い花が最盛期です。正門の上の猫は野良猫で、近所に餌をやる人がいるものだから、何匹も住みついて困っています。道場では今でも時々汗を流しています。このサイトには私への連絡方法(メールアドレス)も書いてあるので、もし君がこれを見る機会があったら、連絡して下さい。君と是非話をしたいと思っています。



#10 市橋達也君の件で (2009年12月8日)


もう自殺して生きてはいないだろうと思っていた市橋君が生きていることがわかったので、元教師としては、元学生を逃げ回る悲惨な状況から何とか救いだしたいという思いから、彼の目に留まる可能性は例え1億分の1以下しかないにしても、自主的に出頭するように呼びかける記事(#9)を本サイトに書いた(11月8日)。

NHKテレビが11月9日に研究室に取材に来て、夕方6時10分からの首都圏ネットというニュース番組で私の書いた記事を紹介してくれた影響で、その後私のところには連日テレビ各社や新聞各社の取材が殺到することになった。また、翌11月10日には本サイトに2万件を超えるアクセスがあったらしく、一時的にサーバーダウン状態になった。

私のメッセージが届く前に市橋君は身柄を拘束され、残念ながら自主的に出頭する機会は失われてしまった。しかし、これでもう元学生が逃げ場を失って自殺に追い込まれる心配はないという意味では、逆に安堵感を覚えた。恐らく彼のご家族も同じ思いだったのではないだろうか。

私の記事を読まれた多くの方々からメールをいただいたので、現在の所感を書いておきたい。メールの大半は子供を持つ母親からであった。恐らく、自分の子供が市橋君の立場だったらと仮想して、その苦しさを追体験され、いたたまれなくなったうえでのことだったのかもしれない。身柄を拘束された時に、頭から上着を被せられ、取材陣に取り囲まれてもみくちゃにされて連行される映像がテレビで放送されたことは、多くの視聴者に彼に対する同情心を芽生えさせたようだ。また、苦しい逃亡生活中も悪の世界に入らずに建設現場でしっかり働いていたという事実が明らかにされたことによって、彼はメディアが作りつつあった異常性格者・社会的な不適応者というイメージとは違って、本当は芯の強い真面目な性格の人間だったのかもしれない、という印象を与えた。私も内心ホッとして、市橋君よくこれまでがんばって生きてきたなという気持になったし、お母さんが「これが私達の知っている達也です」と述べていた心境も理解できた。

12月2日に死体遺棄容疑の勾留期限切れを迎えて、今度は強姦致死・殺人容疑に切り替えられ、さらに20日間の勾留が認められ取り調べが行われている。彼女の遺体から採取された体液のDNAが市橋君のものと一致したとの報道があったが、私にはそれだけでいきなり強姦致死となるのだろうか、という疑問が湧いた。当時22歳だった彼女と27歳だった彼との間にお互いへの好意が芽生えたとしても不思議はないし、彼女が自らの意思で彼のマンションの個室に入ったということは、合意の上での男女の行為が行われたとしても不思議はない。遺体の解剖所見では死因は首を絞められたことによる窒息死とのことなので、彼がその実行犯とみなされるのは自然である。その点は、最近話題になっている男性俳優のO氏と合成麻薬MDMAを一緒に使っていて過敏反応で突然死した女性の場合とは異なる。問題は、何が普段は冷静な市橋君をそういう行動に駆り立てたのかということだろう。

彼女はすでに亡くなっているので、真相を知るのは市橋君だけである。彼に非があるのだとしたら、元学生だったからといって私は彼をかばおうとは思っていないし、彼への罰を軽くするために奔走しようとも思っていない。亡くなった方の悔しさ、そのご家族の無念さを思えば、犯した罪に相当の償いをするべきである。もし彼女にも非があったのだとしたら、市橋君は真相をちゃんと語るべきである。それでも、彼女が亡くなったという事実は消せないし、その責任は負わなければならないが・・・。

元教師として元学生に望むことは、黙秘を続けることではなく、事実を明らかにして罪をきちんと償うこと。その上で、残された人生をしっかりやり直してほしいということ。市橋君にとっては、これから長い年月をかけて贖罪する日々が続くのだろう。千葉大学を定年退職して年齢的にすでに高齢期の私にどこまで見届けられるかはわからないが、生きている限りは元学生の更生を見守り、精神的な支援をしていきたいと思っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・