2014年12月12日金曜日

ある農薬会社に勤務している千葉大学時代の私の研究室の卒業生T君と松戸駅の改札口で12時に待ち合わせの約束をしてあったので、時間に行ってみたら向こうは4人で来ていました。すぐ駅前の軽食のレストラン/喫茶店に入って、昼食を食べながら2時間くらい私がアメリカから入手して提供したあるサンプルの試験データの説明を受けたり、今後の方針の相談をしたりしました。

今は早く暗くなるので4時頃家を出て、リハビリセンターに長期入院している元同僚教授/友人のN君を見舞いに行きました。到着したら4時半頃でしたが、他の入院患者は大きな部屋に集まって夕食中でした。N君はもう口から食事はできなくなって、頸部の血管に差した管から栄養液をポンプで注入していますので、もう一人の同じような症状の患者と部屋に残ってベッドに寝ていました。先月来た時は顎(あご)が外れないように顔の周りに巻いていた包帯みたいなものはしていませんでした。
受付で、インフルエンザが流行っているのでマスクを買ってして下さいと言われましたので、自動販売機に100円入れたら1箱(2枚入り)でてきました。マスクをして病床に行って、「おいN君、君の顔を見に来たぞ、私が誰だかわかるか」と声をかけたら、私の顔を見つめて目を大きく開けて、「馬鹿にするな、わかるさ、おー本山、よく来たな」というような表情をしました。

一昨日名古屋で講演をしたついでに、八事(やごと)にあるお墓参りをしてきた話をしました。一昨日のブログで紹介した水掛地蔵様の写真と石碑の写真を見せ、石碑に書いてある文章を読んであげました。第二次世界大戦中にサイパン島に食料や水や弾薬の補給もなく取り残された(見捨てられたと言ってもいい状態)5万人以上の日本の兵士(その一人一人は父であり、夫であり、息子であり、日本で必死に無事を祈っている家族がいる普通の人間だった筈)が、敵機の猛爆や火炎放射器で全滅したことと、それを国(政府)は玉砕という言葉で隠蔽したと書いてあることを話しました。N君はその間、目をくちゃくちゃにして「う-っ」とか、「お-っ」とかいう大きなうなり声を出していたので、また顎が外れないかちょっと心配になりました。

ちょうど今朝、NHKテレビの BSプレミアム(3チャンネル)で、朝ドラの「マッサン」とその後の火野正平がやっている「こころ旅」の短縮版を見た後で、8時から1時間放送された「英雄(再放送)昭和名演説」という番組で、第二次世界大戦中の1940(昭和15)年2月2日に帝国議会衆議院本会議で立憲民政党の斎藤隆生衆議院議員が行った名演説について、数人の学者が評論している番組をやっていて、釘付けになりました。軍部が台頭し、政治家も議会もマスコミも戦争を批判することができなくなった状況下で、よくあんな演説ができたと驚きました。演説の後、斎藤隆生は軍部の逆鱗(げきりん)に触れ衆議院議員を除名されてしまいました。しかしその後の日本はまさに演説で斎藤隆生が警告した通りの結果になって、全国民が悲惨を極める経験をすることになってしまったわけです。斎藤隆生というのはどんな人物だったのかと思ってネットで調べてみたら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%BB%8D%E6%BC%94%E8%AA%AC に詳しい情報が載っていて、http://pandora32.blog.fc2.com/blog-entry-5282.html?sp には実際の演説の一部が動画で載っていました。もう私もN君も高齢でそんなに将来があるわけではないので日本が再び戦争に巻き込まれても大したことはないけど、子供たちや孫たちの世代のことを考えると、今の日本の社会の状況は心配だなあと話をしてあげました。N君が口がきければ、きっと同意する筈です。

それから11月29日のブログで紹介した日没直後の江戸川の写真を見せ、東京スカイツリーと富士山の両方が写っていると話をしました。江戸川はN君がまだ元気だった頃、よく昼休みに大学から散歩に来ていたところですので、写真にじい-っと見入っていました。

30分ぐらい話しかけた後、メモを書いてベッドサイドの小机の上に残して、N君にまた来るからなと言ってリハビリセンターを後にしました。夕方5時を過ぎるともう外は真っ暗で、玄関の前の木にはクリスマスのイルミネーションが飾りつけてありました。N君はもう車椅子に乗ることもできませんので、このイルミネーションを見ることもできません。肉眼では病室のベッドの上の天井(てんじょう)しか見えなくても、心の中では彼の人生で元気だった頃に家族と一緒に見てきた景色を好きなだけ自由に見ている筈です。家族全員でカナダの大学で1年間研究生活をしていた頃のことや、奥様と毎年登ったと言っていた高尾山のことなどを思い出しているのでしょうか・・。帰路の途中運転中に奥様から携帯に電話があり、少し遅れて病室に到着して私のメモを見たとのことでした。私がいつまでもN君のことを忘れずに見舞いに行くことを感謝されました。