2014年12月30日火曜日

昼休みに、運動着に着替えずにいつもの普段着のジーパンと運動靴で出かけ、デパートの文房具売り場に寄って来年の手帳を買ってから町の中を通って江戸川堤防に行きました。途中市立図書館の前を通ったら、ガラス窓に児童虐待に関するポスターが貼ってあり、相談の電話番号が書いてあったので手帳にメモをし写真を撮ってきました。

実は先週の月曜(22日)にA氏に面会するために土浦拘置支所に行き、面会者待合所で自分の番号を呼ばれるまで待っていた時に、若いお母さん(16~17才くらいに見えた)と2才の女の子がいましたが、非常に気になったことがありました。お母さんは自分の順番を呼ばれるまでの長い待ち時間の間ベンチに腰かけてずっと俯(うつむ)いて手で髪の毛を触っていましたが、子供はお母さんの隣に腰かけてじっとしていました。そのうちにもそもそと動き出して、ベンチから降りたり上ったりし始めました。手に持っていた何か小さなおもちゃみたいなものを床に落としたら、お母さんがとても女性とは思えない口汚い言葉で子供を叱り飛ばしました。子供は怯(おび)えてお母さんに見放されないように抱きついていきましたが、もしかしたら家では虐待されているのではないかと心配になりました。この頃、時々若いお母さんやお父さんが小さい子供を虐待して殺してしまったという信じられないような事件が報道されますので。
自分自身が大人に成長する前の年齢で母親になってしまって、もしかしたら面会にきた相手が子供の父親で、何か悪いことをして拘置所に入れられて生活が滅茶苦茶になってしまったのではないだろうかと想像して、これから先この小さな子供は大丈夫だろうかと心配になり、胸が痛みました。
たまたま面会者待合所で同席しただけの他人なので余計なおせっかいをしてはいけないと思いましたが、2才の小さな子供がちゃんと温かい家庭で育っているかどうか、自分の3人の孫のことを思いながらその後ずっと気になっていました。
どの親の子供として生まれるかによって、子供には責任はないにもかかわらず、育てられる環境に大きな違いができてきます。金持ちか貧乏かではなく、全ての子供が少なくとも両親に愛されて温かい家庭で育ってほしいものです。

松戸駅西口から江戸川に向っている道を真っ直ぐ行くと堤防に上るちょっと右手前に浄土宗のお寺がありますが、その前に立っているお地蔵様が全員可愛らしいおそろいの赤い頭巾をかぶっていました。お正月に向けてのプレゼントでしょうか。
昨日の冷たい雨とは打って変わって、今日は気温も高く青空が広がっていましたが、東京方面の空だけは師走の東京を忙しく走る車の排気ガスのせいかスモッグがかかって視界が悪く、まるでどんよりしている中国の北京の空のようで、いつもはよく見える東京スカイツリーが目を凝らしてやっと霞んで見えるか見えないかの程度でした。
まだ筋肉痛が少し残っていましたので、江戸川堤防からの景色を眺めながら、野外の空気を吸って、太陽の陽射しを浴びて、風に当って、ちょうど2時間ぐらいゆっくりウォーキングしてきました。

NHKテレビのBSプレミアム(チャンネル3)で朝7時半からやっていた「ぐるっとブラジル・6000キロ舟の旅後編」(再放送)を観ました。再放送なのでもしかしたら以前も観たことがあるかもしれませんが、改めて感慨深いものがありました。私の家族は1945年の終戦(敗戦)で朝鮮から日本に引き揚げてきて、しばらく宮崎県の須木(すき)村の山を開墾した父は、その後母が名古屋の金城女子専門学校に在学中の体育の教師だった星野ます先生(当時浦和市議会議員)の援助で埼玉県の浦和市に引っ越し、その後川口市(蕨)に家を建てて引っ越しましたが、私が小学6年生で12才だった1954年にブラジルに移住しました。父は1903年(明治36年)生まれですから、51才だった筈です。当時は国策として各県の県庁がブラジル移民を奨励していた時代でした。その後数年して私の兄(今年2月に80才で亡くなった)が渡伯して父に合流してポルトガル人の女性と結婚し、その数年後に次姉が渡伯して日本人と結婚し、私も千葉大学園芸学部を卒業して農業技術を身に着けたら移住してアマゾンを開拓するつもりでした。私の母は1909年(明治42年)の生まれですが、よく埼玉県庁に行って担当者からブラジル移住者を紹介してもらって、移民船(さんとす丸?)が出航する度に港に父に届けてほしい荷物を持って行って託していました。私も何回も母と一緒に横浜港に行って、出航の時に船の上から別れのテープを投げてもらって船が岸壁を離れてちぎれるまで握っていたのを思い出します。その後の状況の変化や、私自身の心変わりから、ブラジル移住は止めて大学の研究者になってしまい、こうして老後は日本で暮らすことになりましたが、映像に映っていたアマゾン川流域で暮らす人々の生活の様子や、日本人移民の生活の様子や、コショウで栄えたトメアスやゴムで栄えたマナウスの様子は、他人事とは思えませんでした。
日本政府がいつからブラジル移住を奨励する政策を中止したのか正確なところは調べてみなければわかりませんが、今この年齢になって考えてみれば、行かなくてよかったとも思いますし、行っていれば行っていたで今頃は現地に適応した別の生き方をしていたのではないかとも思います。