2015年1月12日月曜日

成人の日の祭日だったので、のんびり過ごしました。中学(埼玉県浦和市立木崎中学校)時代に同級生だった友人の女性は息子がまだ小さい時に離婚したので、私が時々お正月に訪ねて、父親の代わりに息子にお年玉をあげてきました。その息子も成長して、大学を卒業して、結婚して、5才の双子の孫息子の父親になりました。今日は何年振りかに訪ねて、双子の孫息子にお年玉をあげてきました。二人の孫息子とも元気のいい声で、「お年玉をありがとう」と言ってくれました。

せっかく浦和まで行ったので、帰りは私が子供の頃(小学3~4年生)住んでいた領家(りょうけ)の辺りを歩いてみました。昔はお世話になった星野ます先生(昔私の母が名古屋の金城女子専門学校生だった時に体育科の教師で、その後浦和市議会議員)の屋敷の向こう側には田んぼがあって、田んぼの横の小さな道は正面に富士山がくっきり見えていましたが、今は田んぼは全部埋め立てられて住宅地に変わって、当時の面影はありませんでした。当時の星野家は大地主で星野ます先生には子供がいなかったので養女をもらって、その養女が婿養子をもらって、いまは多分その孫ぐらいの世代かもしれませんが、屋敷のあった場所にはモダンな邸宅が建っていて、「星野」の表札がかかっていました。
近所の子供たちと缶蹴りやかくれんぼをして遊んだ路地も、その周囲の見覚えのある家は一軒も残っていなくて、全部新しい住宅に変わっていました。私の家族が宮崎県小林市からここに引っ越してきて住んでいた時から60年以上経ったのですから、海中の竜宮城から地上に戻ってきた浦島太郎と同じで景色がすっかり変わっていて当然です。
妻の実家の山梨県北巨摩郡津金村(現在の北杜市)のように、何十年経っても変化がなく消滅しそうな典型的な過疎村になっているところがある一方で、浦和の領家のようにただ住宅に埋め尽くされて昔の面影が全くなくなってしまったところがあるのは、経済効果のために一極集中を推進してきた政治の結果で、東京近郊の宿命なのでしょう。
それでも、その場所に立って目をつぶれば心の中に当時の様子はしっかり残っていて、一緒に遊んだ子供たちのことや景色を思い浮かべることができます。

私の出身校の浦和高校にも寄ってみましたが、古い校舎や建物は全く残っていなくて、新しい校舎や、りっぱな体育館や、弓道場や、プールや、同窓会館が建っていました。それらを眺めながら、昔のことを思い出しました。天皇陛下の手術の執刀をして一躍有名になった順天堂大学医学部教授で外科医の天野 篤先生も、アジア人として初めてISS(国際宇宙ステーション)の船長になった宇宙飛行士の若田光一氏も、高校時代はここで過ごした後輩になります。私にとっても、ここで過ごした3年間はその後の私を形成する基礎の一つになりました。