2015年1月9日金曜日

朝日新聞夕刊の社会面に、「名張毒ブドウ酒再審棄却への異議認めず」という見出しの記事が掲載されていました。以前から繰り返されている裁判ですが、もう一度どういう事件だったのか検索してみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%BC%B5%E6%AF%92%E3%81%B6%E3%81%A9%E3%81%86%E9%85%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6
三重県名張市で1961年に農村生活改善クラブで出されたブドウ酒を飲んだ女性5人が死亡し、奥西 勝氏(死刑囚、現在88才)が自宅にあった殺虫剤ニッカリン-T(有効成分はTEPP=tetraethyl pyrophosphate=テトラエチルピロリン酸)を混入した犯人として逮捕され、1964年の津地方裁判所の一審では無罪とされ、1969年の名古屋高等裁判所の二審では有罪で死刑判決が下され、その後延々と再審が繰り返されている事件です。
ネットを見ると http://www5a.biglobe.ne.jp/~nabari/ 奥西氏の無罪を信じて支援する会ができて活動し、検察側が提出した有罪の証拠を否定する6つの根拠を挙げています。http://www5a.biglobe.ne.jp/~nabari/mujitsu1.html

TEPPという殺虫剤は http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%85%B8%E3%83%86%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%81%E3%83%AB 1950年に我が国で有機リン殺虫剤として初めて登録された毒性の高い化合物で、1969年に登録失効しています。私が千葉大学の学生だった頃は、メタシストックスやエストックスといった毒性の高かった当時の有機リン殺虫剤と一緒に私たちの研究室にもあって、殺虫効果の検定試験などをしていました。ラットに対する急性経口毒性(LD50)は1.12mg/Kg、マウスに対しては7mg/Kgですから著しく毒性が高く、特定毒物に分類されています。自殺・他殺を含めて年間約500人の死亡事故が10年も続いた有機リン殺虫剤パラチオンのラットに対する毒性が2mg/Kg、マウス♂に対しては10mg/Kgですから、TEPPの毒性は猛毒のパラチオンとほぼ同等と言えます。
農薬は同じ有効成分でも、メーカーによって製剤に用いる原体が異なる場合があり、それによって不純物の組成が異なります。TEPPの場合、製剤としてはニッカリン‐T(日本化学工業)、テップ(日本曹達、三共、富山化学、等)、その他などがあったようです。なお、TEPPを有効成分とする殺虫剤のメーカー名と登録年と登録失効年に関する情報は、(独)農林水産消費安全技術センター(FAMIC)の登録失効農薬一覧No.1とNO.2に掲載されています。
http://www.acis.famic.go.jp/toroku/sikkou1.html
http://www.acis.famic.go.jp/toroku/sikkou2.html
これを見ると、実に多くの農薬会社がこの殺虫剤を販売していたことがわかります。製剤名にヤマトTEPP(英国製)(トモノ農薬)とヤマトTEPP(米国製)(トモノ農薬)というのがありますので、輸入元が異なる原体が使われていたのでしょう。エヌ・テップ40(日東化学)とエヌ・テップ35(日本農薬)というのもありますので、有効成分濃度の異なる製剤があったのでしょう。
また、登録失効した農薬でも、すぐには廃棄処分されなかったり、回収されずに農家の倉庫にそのまま保管されている場合もありますので、白ワインにどの製剤が混入されたかを特定するには慎重を要します。

上記の無罪の証拠とされた根拠⑤は、ニッカリン-Tは赤色の製剤なので白ブドウ酒に加えればブドウ酒の色が変わる筈だとしています。急性毒性(LD50)値1.12mg/Kgラットをそのままヒトに当てはめてみると、亡くなった女性の体重を50Kgだったと仮定して、56mg/ヒトになります。ニッカリンTの有効成分(TEPP)濃度が何%だったかは古い文献を調べてみないとわかりませんが、仮に41.9%(斎藤哲夫 http://ci.nii.ac.jp/els/110004558142.pdf?id=ART0007298465&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1420852612&cp=)だったとして試算してみます。それを白ブドウ酒に100分の1程度混入したとすると、白ワイン中のTEPP濃度は0.419%になり、56mg摂取するには白ワインを13.5mℓ飲んだことになります。1000分の1程度混入したとすると、56mg摂取するには白ワインを135mℓ飲んだことになります。私には、異臭や変な味に気付かずにそんなに大量に飲めるのだろうかという疑問が出てきます。もしニッカリンTが乳剤だったとしたら、100分の1や1000分の1程度でも水に加えると、通常は白濁するのですぐ異常に気がつく筈ですが、有効成分のTEPPは水に可溶のようですので、製剤は乳剤ではなかったのかもしれません。

無罪の証拠とされた根拠⑥は、飲み残しの白ワインの分析では製剤のニッカリンTに含まれている不純物(分解物)のトリエチルピロリン酸が検出されていないということです。当時使われた分析手法はペーパークロマトグラフィという分離能も検出感度も低い方法でしたが、最初からニッカリン‐Tだけに絞らずに、当時市販されていたTEPPを有効成分とする他のメーカーの製剤や、当時使われていたその他の農薬も比較対象として分析に供しなかったとしたら、大失敗だったと思います。あるいは、いろいろ供試した中で、分離されたスポットのRfがTEPPとだけ一致したのでそれだけを証拠として採用して発表したのかましれませんが・・。
また、現在の知識で判断すれば、ペーパークロマトグラフィでRf値がTEPPと一致したと言っても、それがTEPPだという証明にはならず、他の有機リン化合物や他の物質が同じRf値を示す可能性は大いにあり得ます。展開溶媒で展開後、どういう呈色・検出方法で分離したスポットを検出したかや、複数の展開溶媒でRf値が一致することを確認したかも興味のあるところです。
奥西氏がニッカリン-Tを所有していたということと愛人がいて個人的な問題を抱えていたということを結び付けて最初から犯人と見なし、先入観念にとらわれて必要な証拠収集をし損なったのだとしたら、初動捜査のミスでしょう。

なお、奥西氏を無罪と信じる立場からの事件とその後の経緯については以下のサイトに詳しい記述があります。
http://tamutamu2011.kuronowish.com/nabarijikenn.htm