2015年2月1日日曜日

今日も風が強い一日でしたが、江戸川堤防の代わりに国道6号を越えて南部市場の場所を探しながら町の中を1時間40分ぐらい歩き回りました。南部市場はすぐ見つかりました。青果物市場、水産物市場の他に食堂や文房具店や、いろいろな商店がありましたが、日曜だったからか午前中で終わったのか全部閉っていました。
場所がわかりましたので、今度いつか妻と一緒にどんなものを売っているか、値段はスーパーで買うより安いかどうか、散歩がてら見に行けます。

町の中の耳鼻咽喉科の看板に、外国人にも分かるようにするためか単に恰好をつけるためか英語が書いてありましたが、「耳」の英語がEARではなくERA(時代)になっていました。人の注意を惹くためにわざとそうしたのかもしれませんが・・。
再び国道6号を越えて岩瀬の方に戻ったら垣根に囲まれた古そうな墓地があり、すぐ横に欅(ケヤキ)の大木が2本立っていて、地上部に露出した太い根が癒合していました。根は元々は地面の下にあったのが地上に露出してきたのでしょうが、本当に癒合したのか、それとも左側の大きい方の木の根が伸びてそこから幹が発生して右側の木になったのか、おもしろいなと思いました。木の後側には石仏か庚申塔(下部に猿が3頭彫ってあるので)がいくつかありましたが、その中の一つには延宝3年(1675年)と書いてありましたので、ネットで調べたら関ヶ原の戦い後75年目または1682年の江戸大火(八百屋お七の火事)から7年目に建立されたもののようでした。今から340年も前に建立された歴史的遺産にしては、あまり手入れがされずに粗末に置いてありました。

松戸市役所は丘の上に位置するコンクリート製の近代的なビルですが、正面の階段のすぐ横に小さな神社がありました。小根本の神明神社と書いてあり、石段の下にはりっぱな社務所もありましたが、宮司は不在らしく、神社の壁に連絡先として松戸神社の電話番号が掲示されていました。社務所の前の祠(ほこら)を見たら、1つには天保15年(1844年)と彫ってありましたので天保の大飢饉(1833~1839年)から5年後に、もう1つには宝永5年(1708年)と彫ってありましたので宝永東海・南海地震(M8.4~8.7)や富士山噴火があった宝永4年(1707年)から1年後に奉納されたもののようでした。大きな木の切り株も少しは残っていましたので当時は辺りは山で森に囲まれていたのでしょうが、今はすっかり孤立して高層ビルに囲まれていました。神社の周りに木がないというのは、裸と同じで、神秘な雰囲気はなくなっていました。こちらも1708年というのは307年前という歴史的遺産の筈ですから、木を植えて大事に保全したいものです。