2015年2月21日土曜日

昨日の夕方のテレビニュースでは、日本赤軍メンバー城崎 勉容疑者(67才)が服役していたアメリカの刑務所から釈放されて日本に送還され、到着した成田空港タ-ミナルで逮捕されたと伝えていました。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150220/t10015619201000.html
大学紛争の時に暴れまくった全共闘の一人で、東大の安田講堂での機動隊との攻防で大学紛争が終息した後もテロ活動を続けた人物です。

ちょうど今発売中の中央公論3月号に、特集「全共闘とはなんだったのか-あさま山荘事件から振り返る」という記事が載っていましたので、早速買ってきて読みました。いわゆる団塊の世代(1947~49年生まれ)が大学生だった1965年から1972年にかけて、日本全国で大学を破壊する暴力活動が行われました。私は将来研究者になって科学の発展に貢献したいと思って、名古屋大学大学院に進学して勉学に励んでいた時でした。ヘルメットをかぶってタオルでマスクをして、角材や鉄パイプで武装した全共闘の学生たちがワッショイ・ワッショイとスクラムを組んで大挙して大学に押しかけて大衆団交を要求したり、大学や研究室を封鎖したり、学長や学部長を監禁したりした時代で、大学はその対応に追われて、静かに大学本来の目的である教育研究ができる状況ではなくなってしまいました。私が1969年にアメリカに留学し、ノースカロライナ州立大学のPh.D課程に入り直したのは、そんな状況に嫌気がさしたのも一つの理由でした。
中央公論の特集はバランスをとって3つの記事から構成されていました。1つ目は、保坂正康氏(1939年生まれ、ノンフィクション作家)と佐々淳行氏(1930年生まれ、元内閣安全保障室長)の対談「無節操な破壊願望が日本をダメにした」。2つ目は、松原隆一郎氏(1956年生まれ、東京大学大学院教授)の「いまこそ「総括」せよ 団塊世代への五つの宿題」。3つ目は、三田誠広氏(1948年生まれ、作家・武蔵野大学教授)の「小説「僕って何」で描いたあの頃 白、赤、青・・・・・・セクトごとに色の違うヘルメットが闘っていた」。つまり、団塊の世代より10年以上古い世代、10年ぐらい若い世代、それと正に団塊の世代です。

1つ目の対談には,当時全共闘による破壊活動を目の当たりにした私には、共感できるところが多々ありました。特に、彼らの無責任体質の指摘は、全くその通りだと思います。
2つ目の松原氏は大学紛争を自らは経験していない世代で、大学の研究者として総括をしていますが、一点だけ完全に間違っているところがありました。全共闘が東大の安田講堂での警察機動隊との攻防で潰された後、一部の学生はそれまでの主張と矛盾して臆面もなく一流企業に就職したり公務員になって官僚の道に転向しましたが、一部の学生は自然農法・有機農業を推進する活動を新たな生き甲斐にし始めました。それを評価しているのは、松原氏の農業の実態についての理解がきわめて浅薄なことを表しています。
3つ目の三田氏は正に大学紛争の真っただ中にいてそこに自ら参加していただけに、当時のセクトの主導権争いなどを正確に紹介していますが、「・・自分たちの学生時代は充実していて楽しかったという実感をもっている。」というところに他人事のような、当事者としての反省や責任感のなさを感じます。
団塊の世代もほとんどは定年の年齢になったことですし、あんな馬鹿げた非生産的な騒動が二度と起こらないように本当は今だからこそ当時の活動の本質と功罪を当事者達に総括してほしいものです。

昼休みの運動は、松戸ー市川のバス道路から健康増進センターを過ぎて、矢切小学校近くの庚申塚を見てから、斜面林を下りてネギ畑を通って江戸川堤防にでました。今日は土曜日ということもあって、時間を気にせずに3時間半ぐらい歩きました。矢切の庚申塚は以前も寄りましたが、最近(平成23年)建立された穂賀裸佳(ほがらか)地蔵の説明の石碑に目が留まりました。今ではブランド品になっている矢切ネギは、明治末年(1911年?)に千葉大学園芸学部の前身の「千葉高等園芸学校大島 亮教授の指導により合柄系太く甘い冬葱をつくり、全国に名声を挙げた」と記載されていました。同窓会名簿の教員覧を調べてみたら、大島正徳という名前はありましたが、大島 亮という名前は見つかりませんでした。名前を変えたのか、今度蔬菜園芸学研究室の現職教員に訊いてみようと思います。
ネギ畑は収穫の終わりに近い時期でした。収穫後の畑に珍しくヒバリが来ていました。鳴き声は聞きませんが、繁殖の時期に雄が縄張りを主張して鳴くとのことですから、まだその時期ではないのかもしれません。。ピンクの小さな花も咲いていて、いよいよ春が近いことを感じさせてくれました。