2015年3月11日水曜日

昨年11月に受診した人間ドックの眼の検査で、動脈硬化性眼底と診断され要精密眼底検査という判定でしたので、今日市内の眼科医院に行って検査を受けてきました。その結果、全く異状はないと言われましたので先ずは一安心です。

昨日ネットに載っていた美容院(パーマ屋)で男の散髪をするのは本来違法だという記事をプリントして、私がいつも散髪をしてもらう理髪店(床屋)に持って行って手渡してきました。そのついでに、順番待ちの間にお客さんが読むように置いてある本の中から前から目を付けていた、「写真集 子らに語りつぐふるさとの歴史 松戸の昭和史」という一冊の本を2~3日という約束で借りてきました。

古い白黒写真がたくさん集めてあり、昔の松戸の様子がわかる貴重な資料ですが、14ページには昭和10年(1935年)に発行された文集「待土」第5号に掲載された近藤新一という高1生徒の「肥揚げ」と題した小文と、それに合わせて下肥(しもごえ)(人糞)を運搬する船の写真3枚が載っていました。著者の生徒が住んでいた下矢切は矢切ネギの産地ですが、当時東京で購入してきた下肥を江戸川を船で運搬して、今の矢切の渡しの辺りで陸に揚げ、肥槽(肥桶)に汲んでリヤカーや牛車で畑の中の溜乾(ためぼし)(肥溜め)まで運ぶと書いてあります。2枚の写真は昭和7年(1932年)に撮影されていますので、私が生まれた昭和17年(1942年)より10年も前です。終戦後の私が小学生の頃は農家が下肥を使うのは当たり前で、よく畑や田んぼの側には下肥を貯蔵して腐熟させる肥溜めがありました。埼玉県に住んでいた我が家にも(当時は今の様な水洗式トイレは普及していなくて、ほとんどの家のトイレは汲み取り式でした)、農家が肥桶一杯何円かで定期的に下肥を買いにきていました。私が一浪して千葉大学園芸学部に入学したのは昭和37年(1962年)ですが、大学農場でもそのちょっと前までは学生に農場実習で肥桶を担がせて下肥を使っていたと聞きました。つまり、化学肥料がなかった時代、あるいは高価で買えなかった時代はそれしか方法がなかったということです。その代わり、回虫のような寄生虫が下肥-野菜-人体と循環し、正に有機農業しかできなかった時代でした。当時の目標は、日本もこれからは化学肥料を使う「清浄野菜」を目指そうということだったとのことです。

今は、化学肥料と農薬のお蔭で、誰でもが清浄で安全で美味しい野菜が食べられるありがたい時代になりました。