2016年1月2日土曜日

恒例の関東大学対抗の箱根駅伝のテレビ中継を観て、往路優勝の青山学院大学の監督と選手のインタビューが終わってから、千葉大学時代の元同僚教授/親友のN君を見舞いに行きました。

12月に行った時は、すでに肺に水が貯まっていて呼吸が苦しそうな状態でしたので、クリスマスまで生きられるか新年まで生きられるか難しいなと感じました。
リハビリセンターの2階に上がって、いつもの廊下を行ったり来たりして彼の名札がかかっている病室を探しましたが見つかりませんでした。
ナースセンターで尋ねたら、N君はすでに奥さんと一緒に家に帰りましたと言われました。もしかしたら、最後を自宅で過ごさせて看取るために退院させたのかもしれないと思って駐車場から奥さんに電話をしてみたら、一昨昨日(12月30日)の明け方に亡くなって、現在は遺体を斎場に預かってもらっているけど、誰にも知らせないようにという生前のN君の意思で、誰にも知らせていないとのことでした。長い闘病生活(千葉大学教授を定年退職してから約8年間のほとんどの期間)の後ですので、残された家族に負担をかけたくないというN君の配慮だと思います。リハビリセンターから容体急変の電話があって、長男とタクシーで駆けつけた時はまだ体温があって、二人に看取られて安らかな表情で息を引き取ったとのことでした。
次男は現在の勤務地が名古屋で仕事の都合で帰ってこれないとのことで、正月が明けた4日に斎場で奥さんと長男だけが見守る中で火葬をする予定とのことでした。それなら、N君の意思を尊重して私も参列をしませんと伝えたら、私だけは最後に顔を見に来て下さいと言われましたので、火葬をする前に顔を見てお別れをしてくることにしました。
入院して以来、ほぼ月に1回の割合で見舞いに行ってきましたが、最初の頃はちゃんと会話ができていたのが、入院中に2回目の脳梗塞が起こってからは会話ができなくなり、3回目の脳梗塞の後は自分で顔の向きを変えることも視線の方向を変えることもできなくなっていました。おまけに呼吸も苦しくなっていたので、つい私もそんな状態のN君を見るのが可哀そうになって、「おいN君、君はもう十分頑張ったからこれ以上頑張らなくてもいいぞ」と言ってしまいました。ご家族も同じ心境だったのではと想像します。これでやっとN君も長かった闘病生活から自由になって、安らかな眠りにつけますので、よかったと思いました。
N君は私と同じ年齢ですから、享年73才ということになります。

N君が前の病院から移って6年近く入院していたこのリハビリセンターの玄関前にはお正月の門松が飾ってあり、クリスマスのイルミネーションが飾ってあった小さなガーデンには綺麗なパンジーが植えてありました。松戸の私の自宅から車で30分~1時間の距離でしたが、これでもう私がこのリハビリセンターを訪ねることはないでしょう。
東京に確保してあるという今風の施設に納骨をしてから、ご家族にとってはN君のいなくなった新しい生活が始まりますので、私にできるだけの精神的支援がしてあげられればと思っています。