私たちの家族は第二次世界大戦後、朝鮮から引き揚げ船で山口県の仙崎港に到着後、汽車で父の郷里の鹿児島に行ったり、その後宮崎県小林市の日本キリスト教団の教会の屋根裏部屋に居候させてもらったりしましたが、小林高校のすぐ近くに引き揚げ者用の住宅が建設されてくじに当たって入居できるようになり、しばらくそこで暮らしました。
その後、母が名古屋の金城女子専門学校時代に体育の教師だった星野ます先生(埼玉県浦和市領家の大地主)が浦和の市会議員をしていて、そのお世話で浦和に引っ越してきました。その縁で私は小学校途中からと中学校は浦和で過ごし、高校も浦和でした。私の姉もその当時住んでいた浦和の家から歩いて15分くらいの市立高校に通っていました。その後、私の家族は蕨(川口市芝)に家を建てて引っ越し、私も姉もそこから大学に通いました。姉に、昔過ごした蕨と浦和に行ってどうなっているか見に行こうかと誘ったら、行きたいというので電車で行ってきました。
最初川口駅で降りて、駅前にある川口市役所行政センターに寄って、2年前にブラジルで亡くなった兄の除籍の相談をしましたが、あいかわらず硬直化した対応で埒(らち)があきませんでした。
その後蕨の駅で降りて、昔住んでいた家の辺りを歩いてみたら、田んぼを埋め立てて造った狭い道はそのままで住宅や商店が無計画なまま建てられてひしめき合っていました。昔は農道を少し広げて銀座通りと名前を付けていたのが、今は銀座商店街となって面影を残していました。
次に北浦和駅で降りて、80才で足の弱っている姉には長い距離を歩くのは無理なので、タクシーに頼んで私が通っていた浦和高校の前を通って、昔星野ます先生の屋敷があったところに行ってもらいました。星野先生は子供がいなかったので親戚から養女をもらって、その養女に婿をとっていましたが、今は多分その子供の世代でしょうが、星野という表札のかかった近代的な屋敷が同じ場所にありました。昔はすぐ前は水田や畑で、水田の隅には肥溜めも掘ってありましたが、今は全く面影がなくなって住宅地に変わっていました。
その後、市立高校まで行ってもらって、しばらく正門の前に止まって木造からコンクリート建てに変わった校舎を眺めてから北浦和の駅に戻ってもらいました。
人は二度と郷里に帰れないという小説を思い出しましたが、自分が過ごした昔の景色は心の中にはいつまでも残っていますが、実際には世の中はどんどん変わって、現実には存在しなくなっていることを改めて感じさせられました。私の姉も、そういう現在の姿を見て、思い残すことなくブラジルの生活に戻ることでしょう。
約束通り新宿駅西口に5時ちょっと前に着いたら、息子とブラジル人の友人が待っていてくれました。少し歩いて、新宿野村ビル49階にある「響」という和食レストランで5人で英語と日本語とポルトガル語で会話をしながら夕食を食べました。晴れた日の夕方には富士山の背に沈む太陽が見えるとのことでしたが、今日はあいにく曇っていて見えませんでした。ブラジル人の友人と息子は来年の8月頃ブラジルに行く予定らしく、姉の息子と現地で会おうと相談していました。
姉と姉の長男が品川駅前のグランドプリンスホテル新高輪に帰れるように、山手線のホームまで見送ってから、私が松戸の自宅に帰ったのは夜の9時半頃でした。