2017年7月22日土曜日

宮崎市内の宿泊したホテルの窓から、昨夜はライトだけしか見えなかった大淀川の景色が今朝はよく見えました。朝食後宮崎駅前でレンターを借りて、夕方宮崎空港で羽田行きの飛行機の出発時間の1時間ぐらい前に返却することにしました。終戦後、私の家族は私が3才の時に朝鮮から引き揚げてきて、私が小学校3年の途中まで小林市に暮らしていました。子供の頃の印象と大人になってからの印象は違って当然でしょうが、私の記憶に残っているところを一人でドライブしてゆっくり回りました。
引き揚げてきてすぐは日本基督教団の教会の2階に住まわせてもらって、その後小林高校のすぐ前にできた引き揚げ者用の住宅に住んでいました。私は山の中にあった緑ヶ丘小学校に3年生の途中まで通っていましたが、そこは緑ヶ丘公園になっていて、緑ヶ丘小学校は町の中に移転して南小学校になったと聞きました。小林高校も校庭の樹に登って遊んだ場所を思い出そうとしましたが、すっかり景色が変わっていて記憶と一致するところは見つかりませんでした。あるいは、記憶は昔のままで、学校の方が建物や植栽の配置が変わったのかもしれません。





















当時、父が営林署から払下げてもらった山を開墾していた場所は確か猫坂から沢伝いに登って行った須木村というところだと思って行ってみましたが、登る道がどこだったかはわかりませんでした。当時、営林署のトラックが切り出した丸太を製材所に運び出していました。同じ営林署かどうかはわかりませんが、今でも赤木製材所というのが一軒ありました。












引き揚げ者用の住宅のあった場所のすぐ近くには小林市役所ができていました。当時は母が永久津(ながくつ)中学校の教員をしていて、末っ子で幼児だった私を毎日連れて中学校に行き、用務員室に預けていましたので、カーナビで永久津中学校を探して行ってみました。小林高校から片道ちょうど4kmの道程でした。永久津中学校は今も田舎の山の上にありました。当時の通学路の急勾配の坂道はもう使われなくなって別の道ができていましたが、木造平屋建てだった校舎は鉄筋2階建てになり、りっぱな体育館もプールもできていました。
土曜日でしたが、体育館で部活の指導をしていた40才代ぐらいの女性の先生が話かけてこられ、生徒数が1年生から3年生まで全学年を合わせて31人しかいないので、今後学校の存続がどうなるかわからないと話していました。









 
 





宮崎空港には計画した通りに着きました。宮崎空港は南国らしい景色でした。農薬シンポジウムの後、一泊したお蔭で私の気になっていた場所をあちこち一人でゆっくり回ることができました。