2017年12月22日金曜日

この頃は、東京に電車で出かけて松戸駅に帰ってきた時は、自宅に近い東口ではなく、西口に降りてわざわざ遠回りして坂川沿いの道や江戸川堤防を歩いて自宅に帰るようにしています。
比較的小さいサクラの木で、陽当たりがいい場所なのかまだ黄葉を付けている木がありました。同じ1枚の葉でも、よく見ると緑色が残っている部分もあり、面白いなと思いました。葉色の変化については、多分植物生理学の専門の研究者がすでに全課程を生化学的に解明している筈ですが、緑色の部分は次のステップに進む何かの条件が欠如していたか阻害されていたのかもしれないなと想像しました。




今朝は東京在住の長姉(87才)から電話があり、夫(私とっては義兄)が倒れて赤坂見附駅近くの前田病院に入院しているとの知らせでした。義兄(90才)は東京大学医学部卒の内科医で、アレルギー・喘息の専門医でしたが、今から約60年前に私が高校1年生当時慢性腎炎で国立相模原病院に3ケ月入院していた時に主治医で世話になりました。幸い慢性腎炎は、3ケ月以上休学して落第したくなかった私が自己退院して、気にせずに運動に明け暮れている間に完治しました。
そんな義兄も医師を辞めて、自宅で悠々自適の生活をして何年にもなりますが、脳梗塞で倒れて救急車で病院に運ばれたようです。会話ができる状態かどうかもわかりませんでしたが、幸い今日はスケジュールが空いていましたのでお見舞いに行ってきました。
義兄は病床で点滴を受けていました。会話はしっかりできましたが、以前千葉大学時代に同僚教授だった故中川弘毅君の入院中と同様に、一部記憶がなくなっていました。私は75才になりましたが兄さんは何才になりましたかという問いかけには答えられませんでしたが、生まれたのは昭和何年ですかという問いかけにはちゃんと昭和2年と答えていました。
この病院に入院を続けることはできないようで、これからどこかリハビリができる病院を探して移ることになるようです。



ネットで探した前田病院の地図をプリントして持参し、お見舞いの後で付近を少し歩いてみました。外堀通り沿いに外堀(弁慶濠)が少しだけ残っていて、ボートハウスや釣り堀になっていて、その他は埋め立てられて運動場になっていました。近くにはホテルニューオータニ関連の高層ビルがあったり、皇室の赤坂御用地がありました。
外堀通り沿いにはユリノキの大木が植栽されていたり、赤坂御用地を囲む塀沿いにはクロマツやプラタナスの大木が植栽されていたり、塀を這うツタ(蔦)の紅葉が綺麗でした。


















松戸に帰ってきたら夕暮れになり、園芸学部の上空には三日月が出ていました。
昔、義兄がフランスに留学する時に、まるで従軍兵士が出征する時に家族が万歳をして見送ったように、親族で羽田空港に見送りに行って万歳をしたことや、国立相模原病院の官舎に住んでいた姉の家を訪ねた時に、義兄が私を「直ちゃん」と呼んで可愛がってくれたことを思い出しました。