2018年3月24日土曜日

浦和高校卓球部の現役対OB対抗戦と交流会がありました。私が浦和高校の生徒だったのは多分60年ぐらい前で、成績は400人中375番ぐらいでペケに近かったと思いますが、非常に楽しかったという思いがあります。
北浦和駅東口から県道65号を徒歩15分ぐらいで浦和高校正門に着きます。北浦和に行く時はいつも、見覚えのある建物や商店があるか観察しながら歩きます。
浦和高校卓球部が現役(といっても1年生と2年生)が25名ぐらいと、OB(といっても今春卒業した元3年生を含む)が25名ぐらい参加して試合をし、OB37勝、現役47勝でした。
OB会会長の田端 毅先生は、浦和高校の卒業生で教員でもありましたが、最近定年退職(60才で)したばかりで、生徒たちのサークル活動を支援したいということでOB会会長に就任した人です。昨今は、高校の職員会議でも、教員が県の教育委員会を忖度(そんたく)して事なかれ主義の風潮があって、生徒たち一人一人の成長に本気で取り組む教員が少ないとのことでした。教育委員会は文部科学省を忖度しているのでしょう。それは国立大学でも同じ状況で、評議員会の上に理事会ができて予算も人事もコントールされて、私には大学教員が委縮している状況のように見えますと答えておきました。
埼玉県の教員は60才定年で、場合によっては他高校で同じ仕事をしながら給料半分で再雇用する道もあるようですが、年金支給年齢が65才にもかかわらず、しかも人口減少で労働力不足もある中で、ベテランの教員を活用しない馬鹿げた政策です。











浦和高校の構内や周辺を回った後、学校の裏側に沿っている北宿通りを20~30分歩いて昔通っていた木崎中学に行ってみました。
この辺りには昔から「武笠」「武藤」「星野」という名前の家が多かったのを覚えていますが、木崎中学時代に同級生だった女子生徒の武笠さんの住んでいた家のりっぱな長屋門がまだ保存されていました。今は多分武笠さんの兄さんが家を継いでいるのでしょう。ちょっと庭を覗いたら生い茂っている木々の間に農家の納屋みたいな建物が見えました。
瀬ケ崎の辺りは農村地帯だった昔とすっかり変わって、高層マンションなども建っていましたが、1ケ所だけ廃屋が残っていました。解体・有効利用ができずに取り残されたのは、法的相続者が全国に散らばって不明で解体・整地をする同意が得られなかったのかなと想像しました。昔はこの辺りまで海が入り込んでいたらしく、「浦和」「白幡」「岸」「常盤」「木崎」「瀬ケ崎」など、海に関わる地名がたくさん残っています。
木崎中学は横断幕に創立70周年と書いてありました。私が通っていた頃は木造の校舎でしたが、今は校舎も体育館も屋内プールもりっぱな施設になっていました。運動場の片隅にマツの大木が10本ぐらい残っていました。昔は周囲が松林だったのかもしれません。
















中学校のすぐ前には三島神社があり、由緒によると隣接した東泉寺から分祀されたと書いてありました。お寺と神社は別々の宗教の筈ですが、キリスト教と違って、日本人のおおらかな宗教観を表しているのでしょうか。
東泉寺の境内の板石塔婆(いたいしとば)には文明三年(1471年)と刻まれているそうで、少なくとも547年前ですから、ずい分古い時代から存在しているお寺のようです。












北宿通りを歩いて北浦和駅に戻りました。古い屋敷跡や廃屋が何軒かありました。
松戸駅に着いて、西口のイセタンに寄ってみたら、3月21日に閉店したばかりで43年間のご愛顧ありがとうございましたと書いてありました。時代の流れでビジネスとして成り立たなくなって仕方がないのでしょうが、多くの従業員は他の店舗に配置換えになったのか、失業したのか、大変だろうなと気になりました。駐車待ちの車の列の交通整理をしていた人だけでも何人もいましたので。
松戸神社の横の坂川のソメイヨシノは5分咲きぐらいに見えました。