2018年5月4日金曜日

私の義兄(東京在住の姉の夫)は東京大学医学部卒の医師で、私が高校時代に運動のやり過ぎで急性腎炎(その後慢性腎炎になって、その後消失)になって国立相模原病院に3ケ月間入院した時は内科医として勤務していました。
91才になった義兄は昨年12月に脳梗塞を発症して救急車で近所の病院に運ばれましたが、歩行不能になり認知症も発症したので最近川崎市多摩区にある介護付き有料老人ホームに入所しました。
今日は姉と、姉の長女夫妻と、私の妻の5人でお見舞いに行ってきました。
多摩川の近くの田舎に位置するこの施設は、元々は東芝の社員寮だったのを介護付き有料老人ホームを全国的に経営している会社が購入して改造したとのことで、食堂や広い娯楽室もあり、素晴らしい施設でした。
義兄は個室に入居していましたが、個室にはベッド、洗面台、トイレの他にクローゼットと引き出しが壁の中に埋め込んでありました。
義兄は介護士が車椅子を押して食堂に連れてきてくれ、大きなテーブルを囲んで皆で会話をしました。義兄は91才という年齢と脳梗塞発症後の割には顔色がよく、元気そうでした。長年医師をしてきたという矜持のためか、認知症になっても威厳のあるりっぱな表情をしていました。姉が、前の病院では「〇〇さん」と名前を呼ばれても無視していたが「〇〇先生」と呼ばれるとすぐ振り向いて返事をしたという話をしてくれました。長年医師として働いていた時の習慣が残っているのでしょう。
千葉大学時代の同僚教授だった故中川弘毅君が、定年退職後脳梗塞と腎臓透析で入院していた時とちょっと似た症状で、一部の記憶が失われて、一部の記憶は生きている様で、連続した会話は難しい状態でした。
私が椅子に腰かけて話をしている間に、Gパンのお尻のポケットに入れてあった財布が滑り出て床に落ちたのに気が付かなかったら、ありがたいことに義兄が気が付いて、言葉は発しませんでしたが椅子の下を指さして知らせてくれました。脳梗塞の後遺症で言葉はしゃべれなくなっても、脳のそれ以外の機能は損なわれていないということを知らせてくれました。
身内がこういう状態になった時に、家族はどう向き合ったらよいのか難しい問題だなあと思いました。故中川弘毅君の場合は段々症状が進行し、結局3回の脳梗塞を経て、最後は全く言葉を発することができなくなり、寝返りもうてなくなり、栄養液を注入するようになり、私が最後にお見舞いに行って「中川君もうがんばらなくてもいいよ」と言った翌日になくなったという電話が奥さんからありました。
姉のこれからの苦労(精神的、経済的)を想像すると心が痛みます。